扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

長州探訪 #6 鄙の革命弾薬庫、萩城址

2010年03月31日 | 日本100名城・続100名城

萩城は実戦に使われることはなかった。
というよりも歴史上萩の街に戦火があったことはなく、わずかに明治初期、維新についてゆけなかった不正士族が起こした萩の乱という小競り合いが城外であったのみである。

萩の街に来るとどうしても幕末のことのみを思ってしまう。
萩城で湧いてくる感慨を探せば、年賀で家老が「殿、今年はいかに」と述べ藩主が「まだ早い」と返す儀式があったという。
あるいは、吉田松陰が弱冠11才にして毛利敬親に講義した場所である。

要するに萩城とは「議事堂」である。
長州藩ほど政権交代に明け暮れた藩はない。
保守と革新、この間で幾度となく血なまぐさい政争が行われ最終的に高杉が下関で挙兵し保守政権を倒して倒幕政権を立てる。
壮絶なのはそうした政権交代が、攘夷のお礼参りに来襲した連合艦隊に叩かれ、四方を幕府の征討軍に囲まれる最悪の状況下で行われたことであろう。
いわば家の近所で火の手が上がりそろそろ表門に飛び火しそうな中で座敷では政論をわいわいやっているようなものであって、そうした土壇場の根性は実に見上げたものである。

古写真にみる萩城は指月山を借景としなかなかに優美であるが、今の萩城には石垣とわずかな建物しかない。

ところで長州藩とはいわば俗称であって幕府の名簿に長州藩も長州藩主も正式にはない。
毛利本家の当主が治める萩藩とは別に長府藩(下関)、徳山藩があった。さらに長府藩の下に清末藩という孫藩まであった。
藩として幕府に認められているからには参勤交代もし、屋敷も別に持つ。
長州藩とは毛利一族によるグループ経営なのである。
なお、関ヶ原の際、家康に内応した吉川広家は岩国に所領をもらってはいたが毛利家からは藩扱いをされなかった。
この辺の事情は明日、岩国に行った際、確かめたい。

防長二国に押し込められた毛利家は辛かった。
120万石が30万石に身上が4分の1になるということは大リストラを行わなければならない。
毛利家と同様に関ヶ原で120万石が30万石になった大名に上杉家がある。
おもしろいことにこの毛利元就、上杉謙信という戦国最大級の覇者家中は主家の没落にあたって去ることを選ばず新天地についていこうとした。
両家とも旧臣の大半は仕官がかなわず帰農した。
長州の場合、新たな食い扶持を得るため開墾を奨励し、新たに田畑を開き、藩に献上したものは帰参が許されたりした。

長州には関ヶ原の怨みが延延と伝えられたというのだが幕末の一時期までそれが表面化することはなかった。
帰農した士分の末裔の中には奇兵隊など諸隊に参加し戊辰戦争を戦った者もいるはずである。
関ヶ原の怨みとは長州の場合、萩城の中にあったというよりも土の中に埋蔵されたのではないかと私は思っている。

今ひとつ、長州が他藩と比べて卓越していたのが「商才」である。
長州藩領の特産に「防長の四白」というものがあった。
米、蝋、紙、そして塩である。
特に製塩業は三田尻で盛大に行われすぐに港から各地に積み出されていった。
江戸時代には北前船の航路が開かれ上方から関門海峡を通り蝦夷まで商船が行き交った。

航路の丁度中間点にある長州領内の港湾はそれで潤った。北前船は行きは三田尻で塩を積み日本海側の港港でそれを売りつつ荷を軽くし松前で蝦夷の海産物を積んで帰ってくる。
瀬戸内という内海から日本海に出て行く下関は特に重要であった。
長州藩は江戸中期に下関に倉庫を設け、荷を預かる倉庫業や荷を抵当にした金融業を行った。
驚くべき事に製塩事業や海運事業は藩の公庫からの出資で行われ利益は藩の特別会計として一般会計とは厳に分けて管理された。
事業を営むのは長州藩の官僚である。
この利益は莫大なもので倒幕資金にいかんなく注ぎ込まれたのである。
関ヶ原の怨みは海からも湧いてくる。

さて、萩城址を歩いている。
堀を渡ると本丸になる。
萩城に来るのは2002年の夏以来8年ぶりである。
前回は指月山にあった詰の丸まで登っていった。
眼下に萩の街が見下ろせたことを覚えている。

城址のたたずまいとしては8年前も変わらないのであろう。
水堀と石垣が美しい。
繰り返しになるが古写真にみる五層の天守は各層のバランスがよく小洒落ている。
江戸期の天守は豊臣期のものと違って端正かつ軽快なものになっていく。
残っていればさぞ絵になる観光資源になっていようものを。
背後、周囲に人口構造物が全く映らないのがまたいい。
ここまで鉄とコンクリートがない風景も珍しい。
古城を見るとき必要な脳内で余計で無粋な建物を消し去る手間がない。
天下の差配人から墜ち、遠く萩に引っ込んだ毛利家の城はいまなお社会と隔絶しているのである。

天守台に登ってみる。
登るといっても階段を少し上がるだけである。
駐車場があるあたりが二の丸であるが天守までほぼ平地である。
萩の街は三角州にあるため標高が低い。
よって眺めは効かない。
詰の丸を除けば完全な平地に築かれている。

この城を攻める場合、南方、つまり海に向かって三の丸、二の丸を落とし本丸に殺到するのであろうか。
最後の砦が詰の丸、指月山に登ってしまうともう後がない、背面は日本海の絶海である。
落ちていく先がない。

江戸時代を通じて島原の乱を除き、攻城戦は起きなかった。
長州で四境戦争と呼ばれる第二次長州征伐でもしも国境で敗北し続ければ高杉も志士達も指月山に追い詰められたのであろうか。

詰の丸まで登ろうと思い途中まで登っていった。
森が深く道は険しく途中で断念した。

萩市は人口6万人に満たない小都市である。
天守再建の予算捻出は難しいのかもしれないが地方の小都市でも住民運動や篤志家の寄付により天守再建が成った例は多い。
石垣がむなしく残る荒城に幕末維新の回転軸たる萩の街に五層白亜の天守が載る日を待ちたい。

 
Photo_2
萩城の縄張(城址内案内板より)
 

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萩城古写真(城址内案内板より)

Photo_4
二の丸跡、南門あたりの石垣、巨石を用いている

Photo_5
水堀、中央奥が天守台

Photo_6
天守台より指月山をみる


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