扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

大和散策 #2 金峯山寺

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

吉野には往時の景観はない。
度々焼失し主要な伽藍は再建されたものの寂びているといえるだろう。

金峯山寺に向かって歩いて行くと黒門が現れた。金峯山の入口である。
さらに行くと「銅の鳥居」がある。
銅製の鳥居として最古であって、宮島の木製鳥居、四天王寺の石造鳥居と並んで日本三大鳥居とされるものである。
扁額は「発心門」とあり空海の筆と伝わる。

続いて仁王門が聳え立つ。康正年間の建造というが定かではないらしい。京では足利義政が将軍、応仁の乱前夜である。
高さ20メートルを超える重層入母屋の門である。東大寺の南大門に次ぐ大きさという。
東大寺のような平地に建てるのと違い、細い山道の道幅一杯に石垣を積み、堂宇を建てることの難しさを考える。
この地は吉野杉の産地であるから廻りからいくらでも切り出してこられようが、丸太を割り、板を切り出しという作業は容易ではなかろう。
こういう山岳建築は執念なくして成り立たない。
また、足元を固める石垣は城のそれのように扇の勾配がついている。
城でいえば大手門にみえてくる。

門に収められた仁王もなかなかのものである。
寺伝によれば南北朝の仏師の作というが鎌倉期作といっても通用するだろう。
筋骨隆々として面構えもいい。

仁王門をくぐって行くと視界が開け、本堂・蔵王堂がある。
仁王門と共に国宝である。
36メートル四方で大きい。
蔵王堂を寄進したのは豊臣家である。

天正20年(1592)の造営であるから秀吉はまだ存命、しかし鶴松は世にない。

この年、秀吉は朝鮮出兵を開始した。
蔵王堂が落成した後、秀吉は吉野に花見に来た。
落成間もないこの蔵王堂を見たことであろう。

参詣者の目で蔵王堂までの道を考える。
北から吉野山を登って来たものは黒門をくぐり尾根道を細々と来、銅鳥居を見、仁王門に圧倒され山内に入る。

しばらくするとおもむろに広場が現れ振り返ると蔵王堂が出現する。
南から来るものは熊野から峰峰を駆け山に伏し、大自然と闘った後、少しの階段を登ると全面に蔵王堂が迎えてくれる。
神社仏閣はふつう南門から入り、金堂は南面している。
吉野の場合、大和から南下してくるため、黒門は北面し、仁王門も北から入る。
蔵王堂は南面しているため、北から来る人は振り返って蔵王堂をみることになるのである。
行者の視点でみる方が感動は深まるだろうか。

蔵王堂の屋根は檜皮葺である。
金峯山寺は南都の仏教寺院でも鎌倉新仏教の寺でもない。
修験道の道場として建てられているのであるから本堂はどうも仏教色がない。
金峯山寺が「寺」として体裁を整えたのは空海の孫弟子で真言密教を継いだ聖宝による。
よって台密と真密に二分された密教・修験道界では真言宗に近い。

これは高野山にほど近いことも影響しているかもしれない。
ただ、徳川家康のブレーンとして権勢を振るった天海が管領となったことで天台の寺として江戸時代を過ごした。
この背景には大坂の陣がある。
秀頼が吉野に逃げ込んでやっかいなことにならぬよう吉野を徳川支配下に置きたかったのであろう。
天海との縁が深い寛永寺の桜は吉野桜の輸入らしい。

寺らしくないかといって神社らしいかというこれも微妙である。
檜皮葺の屋根からすれば神社らしくもあるが拝殿・本殿にこういう建て方はない。
楼門ならありうるが。

そのようなことを考え、蔵王堂周辺の観音堂・愛染堂など眺めながら気息を整える。

いよいよ蔵王権現に会うのである。


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黒門、造りは高麗門

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銅の鳥居

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国宝仁王門
 
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阿吽の仁王像

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蔵王堂

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蔵王堂の風鐸




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