扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

甲斐国主の館2 100名城No.25-甲府城址

2010年07月02日 | 城・城址・古戦場

躑躅ヶ崎館から甲府城址に行く。
館址から南へまっすぐ道が伸びている。今日武田通りと呼ばれるこの道は武田神社への参道のようでもある。途中に山梨大学のキャンパスがあり学生が盛んに横断していく。
道をどんどん降りていくと甲府城に行き当たる。

甲府城はJR甲府駅に隣接している。

順序としては武田氏が築いた城下町がまずありそれを取り込む形で甲府城を築き、明治に入って旧城を役所として使用、交通に便利なように鉄道を引き駅前が開発された。
山梨県の政治経済の中心として整備された甲府城付近は県庁舎や商業施設が取り囲み城は埋れた。
近くから見てもその埋もれぶりは小倉城と遜色ない。

甲府城は戦国の城を前身としない。
小田原という天下無双の堅城を持ったがために関東から膨張することを放棄した北条氏とは対照的に、籠城という専守防衛思想を持たなかった信玄は攻撃は最大の防御とばかり他国への侵略を繰り返した。
「人は城」の思想である。
その分、いったん前線が崩壊し人心が離れると武田は弱かった。
信玄が死に、勝頼が長篠で叩きのめされると武田氏は分裂し家臣団は空中分解した。
甲斐は武田氏を滅ぼした信長勢力圏に入って安定するかと思いきや、信長がすぐに本能寺で斃れ再び信濃から甲斐は草刈り場となって荒れた。
天正壬午の乱と呼ばれる動乱である。
大将信長が世から消えるとここぞとばかり国人やら武田の旧臣やらが野から群がり起こり滝川一益はじめ織田勢力は甲信北関東から叩き出されてしまう。
主不在となった甲信争奪戦の主役は北条氏政と徳川家康であった。
結果的に関東の外にさほど執着しない北条は関東に属する上野を取り、三河から駿河を本拠とし甲信に利害の大きい徳川が甲信を抑えた。
その余波として家康は武田の遺臣を召し抱え軍事力を増し、土豪を懐柔する課程で調略という手段を覚えて狡猾さを身につけ、家康が狸爺化する。
また真田昌幸が北条・上杉・徳川に挟まれて腹芸を駆使して生き延びるのもこの時の話である。

その間、西方では秀吉が中央を抑え、四国九州を平定した後、小田原攻めを行って天下を獲る。
やっとのことで甲信を抑えた家康は関東へ移封され甲斐は秀吉という新しい主人を迎える。

しかし秀吉時代も短命であった。甲斐は落ち着かない。
腰を据えて領国経営に精を出す者はおらず武田氏以降の甲斐は政争の舞台にはならない。
関ヶ原の時の甲府城主は浅野長政・幸長親子であり、この家は和歌山に栄転した。

さて江戸時代になり江戸が首都となると甲斐の重要性は高まる。
かつて信玄が小仏峠を越えて侵入したように甲府は関東侵攻の前線基地にうってつけである。
箱根や宇都宮を始め関東への外敵侵入口には家康もその子孫も入念に配慮した。
小田原が江戸の大手口なら甲府は搦手口といえる。
家康は甲斐を実子義直に、秀忠は次男忠長に与えたことがある。

そして家光は三男綱重にと一門の中でも将軍に近い者が甲府城を預かった。
綱重は5代将軍綱吉の兄にあたるが綱吉に子がなかったため綱重の子が養子となって将軍家を継いだ。
将軍家に入った甲府藩主の後を襲ったのが柳沢吉保である。犬公方綱吉の側用人として頭角を表しついに大名になり戦略的に重要な甲府藩15万石を任されるまでになる。
いつの時代でもトップに依怙贔屓された者は主人が消えると意趣返しに合う。綱吉が死に、吉保も死んだ後、将軍吉宗が享保の改革という綱吉政治の反動を始めると甲府は天領となって柳沢家は大和郡山に去る。

戦も無く、泰平であった江戸時代にあって甲府は甲州街道という五街道のひとつが通るものの軍事道路としては中山道の方が重要であった。
もしも幕末、江戸城攻撃が実現するようなことでもあれば甲府という江戸城の詰めの城ともいうべき地が有効活用されたのであろうが、勝安房守があっさり無血開城してしまい、江戸へ八王子から侵入する必要がなくなりむしろ上野や奥州の方に軍事力は振り分けられた。

甲府城、というものを考える時、戦国時代にはその城はなく、江戸期にもさしたるエピソードはない。
よって今、こうして甲府城を眺めていても何を感じていいやら悩ましいのであるが、救いに「新選組」というものがあることに気がついた。
そういえば、近藤勇は「甲府城をやる」と勝に踊らされて甲州街道を西に向かったのだった。
近藤勇の生家は拙宅の近所にある。甲州街道を行けば土方歳三の里、日野がある。
軍資金と大筒をもらって意気揚々とした新選組の残党はすぐに甲府まで行けば数日とはいえ城持ちの気分にもなれたかもしれないが故郷に錦を飾って緩み小仏峠のあたりで甲府に官軍が入ったことを知って祝い酒の酔いが冷める。
甲府城を攻めることさえできず勝沼の野戦で新選組の残党は一蹴されてしまう。

甲府城は打込接の石垣も立派で縄張りも近世城郭にふさわしいものになっている。これには多少驚いた。さすがに江戸の前線基地である。
かつては松本城に匹敵するような大天守があげられていたようで城域は小田原城より広いらしい。
ところがいくつかの門や櫓は復元され、線路の向こう側には歴史公園も整備されてはいるもののおそらく二の丸と三の丸の間に中央線が貫通しているため全貌を想像しにくいし興ざめがはなはだしい。
地元民や観光客の求心力はあくまで武田信玄であって、駅前には信玄の銅像が鎮座している。

英雄の出にくい江戸期にあってさらに天領という条件では信玄という傑出した英雄に並び立つほどの魅力を甲府城に持たせるのは難しかろう。

天守台に立つと甲斐を囲む山々が360度見渡せる。
この風景も甲府城主や城番の気分というよりはそれらの山々を超えんとした信玄の気概を思ってみるほうがふさわしい。
甲府城とはつくづく不幸な城なのではあるまいか。

夏のこととて日は長く、帰りは中央道で小仏トンネルを超えても日があった。
近藤勇のことといい武田三代のことといい甲斐には落日の方が似合うのではないかと思ったりした。

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甲府城縄張
 

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内松蔭門
 

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天守台、石垣は江戸初期のものには珍しい野面積
 

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二の丸からの遠望、遠くの山は要害山方面、武田館の方向



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