扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行六日目① 入来麓の武家屋敷

2019年05月29日 | 街道・史跡

六日目は出水に行った後、人吉まで出る。

 

朝8時にホテルを出ると隣の山が入来麓の清色城城山だった。

反対側に回ると武家屋敷群。

まずここを見ることにした。

入来院を中世に治めたのが渋谷氏系入来院氏。

渋谷氏とは坂東平氏の一流で相模国渋谷荘を与えられていたが、宝治合戦に功あり薩摩国の地頭に任じられると長男を相模に残して一族の兄弟5人を下向させ、彼等は土着した。 

薩摩川内の東隣が入来院、川内川の北に西から高城、東郷、鶴田、祁答院の渋谷五族である。

彼等は薩摩の国衆として鎌倉時代、南北朝時代を過ごし入来院は清色城を築いた。

戦国時代に守護家、薩州家、相州家の各島津氏が相争う中で次第に消耗し、最後は元亀元年に入来院氏が島津義久に降伏してその歴史を閉じた。

 

清色城は東に流れる桶脇川と城山の間の平地に武家の居住区を設けたコンパクトな城下町を持っている。

国の史跡に指定されており、知覧のように洗練されている訳ではないがたたずまいが実にいい。

屋敷の石垣は丸い川原石を積み上げたもので知覧のものとはずいぶん違って感じられる。

 

 

 

清色城は現在小学校になっているところが仮屋、つまり江戸期の外城制度における役所があったところである。

シラス台地を削って曲輪を独立させた山城で、堀切などは壮大である。

予定が詰まっているので城見物はやめておいて旧増田家住宅に寄る。

最近になって整備されたらしい住宅は重要文化財に指定されている。

増田家の当主はお医者さんだったといい、元はお寺だった屋敷を改装したものが伝わっている。

蔵が資料室になっていたのでビデオなどみていると母屋で掃除機をかける音がしてきた。

ボランティアの方が掃除をしていてしばらく話し相手になっていただいた。

 

母屋は薩摩の武家屋敷の様式を踏襲しているといい、外から見ると寄棟の屋根を持った四角の家屋がふたつくっついた形をしている。

ひとつが接客スペースである「おもて」、もうひとつが生活空間である「なかえ」。

くっついている部分は樋が渡っている。

 

 

 

おもては天井が貼ってある座敷があり、床の間に西郷隆盛の書(複製)が掛けてあった。

官を辞した西郷どんは犬を連れて温泉などに出かけたようでこの町にも寄ったらしい。

 

ガイドさんは地元の人であるが次男は東京に出て行ったらしい。

鹿児島県人は人当たりが柔らかでしかも奥が深そうな話の仕方をする。

 

入来院から次の目的地、出水麓に向けて出発。

 

道は舗装されていて快適であるが緑が濃く天が狭い山々の間を縫っていく様子はどこを走っても同じで、特徴に乏しい。

 

 

 


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