扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

薩摩紀行八日目① 隼人塚

2019年06月01日 | 街道・史跡

鹿児島取材最終日。

どうやら天気は持ちそうだ。

最後にどこを回ろうか迷った。

島津家研究にはレンタカーを借りて島津氏発祥の地、都城に行くのがよかろう。

その後で空港に行ってクルマを返せばいい。

ところがどうも気が進まず、国分あたりの散策にしようと決めた。

 

まず隼人塚にホテルから歩いて行った。

とろとろと歩いているとこの一帯が海に向かって開けた平地であることがわかる。

鹿児島には貴重な「米がとれそうな土地」だったのではなかろうか。

 

天降川を渡る。

この川によって扇状地がつくられたのだろうが、川筋はかつてもっと東にあり国分の中心を通っていたらしい。

17世紀から18世紀にかけて薩摩藩が川筋を変えて用水を設け今の姿になったという。

薩摩藩は宝暦治水という木曽三川の治水工事で有名だが、治水術に長けるのはシラス地形と長年付き合ってきた苦難が培った術だろう。

江戸中期に新規に引かれた用水路を渡ると石塔がみえる。

これが隼人塚。

3つの石塔を四天王が守る形式になっている。

創建は謎に包まれている。

和銅元年(708)、大隅隼人の霊を慰めるために建てられたという伝承があるというが判然としない。

 

 

 

 

石塔、四天王像共に風化が進んでいるものの、風情があって歴史の重みを感じさせる。

後姿など妙に哀愁があり、隼人の思いを今に伝えようとしているかのようである。

 

隼人はヤマト政権にまつろわぬ部族のことであり、史料には大化改新以前から断片的に登場している。

宮中で儀礼に参加する他、武人としての役割もあったようだ。

同様な境遇は東北の蝦夷にもみられる。

養老4年(720)、大隅国司を殺害し一年以上にわたって展開された隼人の大反乱が大友旅人率いる征討軍によって鎮圧されると西日本が中央政府の律令体制に完全に入ることになる。

反乱のきっかけはどうやら「戸籍の作成」にあるらしい。

ヤマト名簿の末端に名を書かれるのがとてもいやだったのだろう。

 

隼人塚には資料館が併設されている。

伺ってみるとここにも親切なガイドさんがいた。

 

展示解説は私のような初心者に実にわかりやすく隼人の国の歴史を説いてくれる。

今回の旅のおさらいをしてくれた。

 

 


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