扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

九州探訪七日目 大分#8 中津のこと

2010年03月30日 | 街道・史跡

宇佐を出てすぐに闇になった。
時刻は19:00を過ぎた。3月のこの時期で18:00まで陽があるというあたり東京から比べれば随分西にいるなと日本の幅を感じる。

宇佐から関門海峡へは一般道を行く。
宇佐の隣町が中津である。
城も何も閉まっているから通るだけだが、中津という町もおもしろい。
とはいってもここを治め、駆け抜けていった者たちの話である。

大友家の支配の後、豊前中津は黒田孝高如水がもらった。
関ヶ原の時、野心を起こして兵を集め西軍諸将を攻め、臼杵城を落としたりしたことは臼杵で考えた。
中央では倅の長政が大活躍しその功で福岡に50万石余という大身になった。

黒田家が去って後、同じく関ヶ原で功抜群の細川忠興が豊前をもらって入り中津から小倉に主城を移した。

小倉藩となった細川家は加藤清正の倅が改易された後、肥後熊本に行き、その後は小笠原家である。
中津の方には小笠原の分家が立藩し、5代続いた。
そして国替えで享保年間にやってくるのが奥平家である。

奥平の先祖は長篠で家運を開いた。
三河の国人のひとつである奥平家は戦国時代、駿河・遠江から西を狙う今川と織田・徳川といった勢力の間で苦労した。
徳川当主の才覚は隔世遺伝があり、時に興り時にしぼんだ。
武田信玄が西上を開始したとき当主奥平貞能とその子貞昌は武田方にいた。
信玄が没するのが三河国、野田城を囲んでいるときであった。
武田軍団は甲斐に還りしばし山に籠もる。
家康と信長は武田の衰退を見、信濃から三河の入口、奥平を誘い貞昌は徳川に賭け長篠城に入った。

奥平の離反に怒った気の短い勝頼は長篠城を攻める。
こうして長篠城攻防戦が勃発し設楽原で武田軍団が壊滅する。
武田を跳ね返したことで東方の脅威を除くことができ、中国・四国・北陸攻略を進めていくのである。
奥平親子は長篠城を死守したことで絶賛され、戦前の約束通り家康の長女を正室にする。
事実上家康が初めて娘をつかった最初の政略結婚といっていい。
奥平家の位置づけと功がよくわかる。
さらに貞昌は「信」をもらって信昌になる。信長にも認められたわけだ。
信昌は家康に重用され関東で大名になり関ヶ原では戦勝後の京都所司代を務め美濃で10万石をもらって出世する。
ここで信昌は隠居し家督を子に譲る。
美濃の方は断絶し、関東宇都宮の方で血統を継いだ奥平家が享保年間に移ったのが中津である。

中津藩は中央の政界にはほとんど登場しないが学問の方では人材を輩出した。
「解体新書」を著した前野良沢は中津藩に重用された藩医であるし、福沢諭吉は中津藩士、中津藩で脈々と受け継がれた蘭学研究の系譜を継いで明治の大思想家になった。
見ようによっては長篠城に籠もった先祖が残した遺産は福沢諭吉を出すために使われたようなものである。
慶應大学など長篠の血でできたものかもしれない。

なお、中津藩の9代藩主は薩摩藩の蘭癖大名島津重豪の次男、9代藩主昌邁は宇和島の賢候、伊達宗城の4男、まあ蘭学好き同士の政略結婚といえるだろう。昌邁は旧家臣、福沢諭吉のススメで米国に留学している。

長篠城を見たとき、資料館に中津にいった奥平家の事跡があったが通っていくだけでも三河と中津の関係を思い出し感慨深く余計なことを書いてみた。




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