天気がよさそうなので上田まで出かけることにした。
お供はS4。
今日の旅は真田のふるさとを巡るのが目的。
小県の真田郷には我が家からは関越で行った方が距離時間的に近いようだが、信玄初陣の海野口城跡をみたいので甲斐から北上することにした。
時間節約のため中央道を使い長坂インターで下りる。
県道141号を使って清里を抜けていく。
甲府躑躅ヶ崎館を本拠とした武田家は諏訪を手中とすると佐久を狙った。
その侵攻ルートが概ね今回の旅路。
舗装道路が整備されて風光明媚な街道であるが往時は甲斐盆地から佐久平まで結構な難路だったことだろう。
海野口城は千曲川沿いの山間の山城で甲斐と佐久の境目の城である。
駐車場の問題などあり、体力を消耗しても何なので遠望するのみとする。
海野口からさらに北上すると佐久平。
佐久は上州との結節点で東へ向かえば往時は関東管領上杉家の領地。
北条に押されて没落の上杉憲政は平井城に落ち捲土重来を図る。
佐久小県の豪族たちに頼られると援軍を出す。
この上杉勢を駆逐したことで信玄の運気は大いにあがり調子に乗って身の丈と器を越えた。
信玄は順調に佐久を落としていき小県の村上義清と対峙、二度大負けする。
板垣甘利を失う惨敗。砥石城が落ちない。
ここで暗躍するのが真田幸綱、砥石城に調略をかけて内部を切り崩し一夜にして落とした。
さて、佐久平を北へ向かうと正面に浅間山がどーんとみえる。
浅間山をどんつきに丁字路のようになっており、右手東へ向かうと上州は高崎、左手西へ向かうと信州小県。
この交通の要衝、小県を取ったことで上信が射程に入るのである。
上田市に入ってまずめざすは真田屋敷。
真田氏発祥の地である。
街道沿いに記念碑があり、真田三代の碑が立っている。
真田三代というと初代幸綱、二代昌幸、三代幸村(信繁)という解釈がまあ一般的だと思うが、世代でいえば二代に幸綱嫡男で真田家を継いだ信綱、三代に昌幸嫡男信幸(信之)を加えねばなるまい。
エンタメの世界の三代と大名家の三代とは少々異なっている。
真田家発祥の地の碑から脇道へ入っていくと真田氏館跡。
近くに真田家資料館なる施設があるが今日は休館日。
真田屋敷は城というよりは国衆の武家屋敷の造りをしており屋敷周辺に土塁を巡らせている。
正面にみえているのが砥石城。
この屋敷から北東へ数Km行ったところに真田氏本城なる松尾城があった。
少し山道を登っていくと登城口がある。
よく整備されているので歩きやすいが尾根筋の曲輪から見おろすと急峻な崖続きで攻める側としてはつらかろう。
タイトル写真のようにどの曲輪からも砥石城がみえる。
大河ドラマ「風林火山」の一シーンで真田幸綱がここ松尾城から砥石城を睨んで「あと少しで真田の里が我がものに・・・」とうなっていた。
なかなかに泣ける場面といえよう。
このように真田郷がみえ、向こうに砥石城、さらに奥は上田市街である。
こちらは地蔵峠方向。
上州へ抜ける真田街道方面。
真田資料館が閉館ということもあり、今日はここから上州沼田方面に抜けていこうと考えた。
真田氏発祥の地から北へ行く国道144号線はまさに「真田街道」。
砥石城に入った幸綱は信玄の命を受けて上州侵略を主導、国衆たちを調略し岩櫃城を落とした。
そして上杉北条で激戦たけなわの上州争奪戦に横からチャチャを入れ、箕輪城を落とし橋頭堡を築いていく。
昌幸の代になると本拠小県の他に上州沼田城が所領となりこのふたつをつなぐ連絡路が真田街道である。
その街道を東へ向かい鳥居峠を越えると上州、嬬恋を抜け一頃話題となった八ッ場ダム、川が東へ向かうようになり岩櫃城がやおら現れる。
岩櫃城は2016年の大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像でも登場する岩肌荒々しい山城である。
こちら側からは到底攻められないことはみればわかる。
城址には街道から岩山の向こう側に回り込んでいく。
樹木が生い茂り、空堀など埋まってしまっているが、まあ素人ながら難攻不落の山城である。
ここの特徴は長大な竪堀であり上からみるとその痕跡がわかる。
本丸址に至り、満足。
陽が落ちかけてきたので撤収、東へ山を降りていくと中之条町、連れ合いの家はここが在所である。
中ノ岳の北側を回って行くと沼田である。
南側を吾妻川沿いに行くと利根川に行き当たり合流地が渋川の町。
越後の謙信が関東に出てくるのがこの場所となる。
真田ゆかりの地としてはこの後、名胡桃城、沼田城とたどっていくことになろうがそこは訪問済。
今日は岩櫃城で終わりとして伊香保温泉に寄って一服。
深夜の国道を真田三代の野望を回想しながら帰った。
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