-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その2)

2014-02-16 16:30:11 | 歴史

---以下は、16日に投稿した内容(死亡年)に誤りがありましたので、一部、訂正しました。-----

 畑沢出身者で幕末に大きなスケールの先輩がいたことを、昨日のブログで少しだけ投稿しました。さて、専門家にはほど遠い私ですが、素人なりに豊島☆☆☆の誕生と死亡の年代を推理してみました。


 豊島☆☆☆が、明治維新の直前である1968年7月(明治維新の2か月前)に荒町の墓地(マツボ)に石仏を建立しました。石仏の内容は、「大乗妙典十六部日本廻国満願供養」です。このころ、日本は戊辰戦争の真っただ中で、東北各地は戦乱の中にありました。幸い、畑沢を含む尾花沢領は、天領であったために新政府軍との衝突はありませんでした。世の中は「騒然」たる状態でした。豊島☆☆☆は、石仏に「天下泰平」の文字も刻んで、平和の願いを込めました。

 この石仏には、豊島☆☆☆の死後に、同氏の墓碑も刻まれました。墓碑には、「明治五年十二月二十一日」と「行年七十六歳」の文字を読み取ることができます。これが正しい記録であるとすると、豊島☆☆☆は、明治五年(1872年)に死亡し、誕生は75年前の寛政9年(1797年)に生まれたことになります。1797年とは、豊島☆☆☆の大先輩にあたる古瀬吉右衛門が天明の飢饉のときに窮民救済をした後で天明8年(1788年)に「石橋数箇所造立供養」の石仏を建立してから9年後のことです。古瀬吉右衛門が上畑沢の延命地蔵堂に大きな石仏「湯殿山・象頭山」を建立した文化8年(1811年)の時は、豊島☆☆☆は14歳ごろになります。豊島☆☆☆がどこで生まれたかによって、14歳ごろに畑沢にいたかどうかが変わりますが、その後もしばらくは、古瀬吉右衛門が御存命だったと思われますので、豊島☆☆☆が多感なりし頃に、古瀬吉右衛門の心意気に感銘を受けた可能性は十分に考えられます。

 昨日、紹介した、ある研究者による「(豊島☆☆☆が)文化14年(1817年)畑沢に生まれ、明治17年(1884年)に死亡した人物」と言うのは、豊島☆☆☆の後継者を誤ったものと思われます。誕生した年代には20年の開きがあります。昔は家の後を継ぐと、先代の名前も継ぎます。研究者泣かせなところがあります。ところで、豊島☆☆☆に係る石仏は、全てこの研究者から教えていただいたものです。私の師匠にあたる方です。私を常に上手に指導してくれています。

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