-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その3)

2014-02-18 12:15:22 | 歴史

 豊島☆☆☆に関する歴史の記述に出てくるものは、最初の時期は天保11年(1828年)です。「尾花沢市史の研究」(昭和35年尾花沢市史料調査委員会発行)には、次の旨のことが書いてあります。


――――――――――――――――――
 元々、畑沢や延沢を含む尾花沢領は、徳川幕府が直轄していた所謂、天領でした。幕末になると、天領の変更が全国的に盛んに行われ、文政元年(1818年)ごろに尾花沢領から次の三か村が柴橋代官領に移されました。


松橋村(現在の船形村内)


荒町村

(畑沢の隣の荒町は延沢村に含まれるはずなので、どこの荒町かが分からない。)


工藤小路(現在の河北町内)


 ただ単に移されただけの場合は、何ら問題はないのですが、尾花沢領が減らされても尾花沢領全体における諸々の負担の量が変わらない仕組みだったようです。そうなると、当然、残された村人の負担が大きくなってしまいました。そこで、10年経った文政11年(1828年)に尾花沢領の村々48か村が立ち上がって、尾花沢領から減らされた三か村を元に戻すよう尾花沢領の代官へ必死に嘆願書を出しました。原文は次のとおりです。

 

前畧 私共郡中村高相減シ素より辺鄙困窮の土地柄而郡中村々之儀定例仕来り候而村用其外共壱村限り相弁シ候儀は格別郡中一統エ相拘り候儀は諸色入用共則郡中ニ而割合取斗来候間村々引請割合入用高自然与相嵩ニ次第ニ罷成必至与難儀仕候間依之村々一統評議之上得与勘弁仕候 後畧

 

 私には、まだ直訳する力が不足していますので、「尾花沢市史の研究」の解説を元にして説明します。書いてあることは、要するに、「尾花沢領から三村が減らされたために、残った村々が負担する役務が多くなってしまった。そして、辺鄙(へんぴ)な地域なので元々、苦しい所です。どうか御勘弁下さい」ということのようです。この嘆願書を提出した結果、7年後の天保6年(1835年)に工藤小路と松橋村が尾花沢領に戻ってきました。嘆願の一部が叶えられました。

 この嘆願書を出した48か村の代表が豊島☆☆☆でした。即ち、豊島☆☆☆は、このころ既に尾花沢地域全体のリーダーになっていたのです。当然、経済的に豊かだったと思いますが、決して畑沢の狭い耕地面積での富農は考えられないので、延沢村で多くの土地を所有していたのでしょう。当時の豊島☆☆☆の年齢は、推定31歳ごろかと思われます。実に若きリーダーが登場しました。この人物の活躍は、こんな程度では終わりません。


 ところで、豊島☆☆☆は天保7年(1836年)39歳のときに、荒町の八幡様(金剛院)に石仏「白山大権現」を建立しました。嘆願書の一件が決着した翌年にあたります。この石仏は、よく見ると「権現」の文字が消されています。尾花沢市教育委員会の専門家(私の師匠)によると、明治の廃仏毀釈によるものだそうです。実は、この背景には、出羽三山が明治以降に仏教である密教から神道に変わったことと深く関わっていると思われます。出羽三山の廃仏毀釈は凄まじいものがあったようです。金剛院は江戸時代まで、太平洋側からの湯殿山参りの人達を世話する立場にあったようです。湯殿山が神道になったので、金剛院もその流れにあったかと思います。

  豊島☆☆☆が建立した石仏「白山大権現」

 



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