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-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

沼沢の「沼」を探してみました。(5 最終章 これが沼の跡)

2016-03-15 20:32:56 | 歴史

 いよいよこの「沼沢の「沼」を探してみました」のシリーズが最終の投稿となりました。今回を含めて6回の投稿でした。

 さて、小三郎から遡って、さらに平三郎を過ぎると、左岸だけでなく右岸も高い急斜面となってきました。高い両岸に挟まれて、圧迫される感じがしますし、深山に分け入っている冒険小説の主人公のような勇ましい気分にもなります。右岸が迫ってきたのは、立石山の尾根が千鳥川へ伸びている場所です。千鳥川で最も狭くなっている場所でしょうか。川底は依然として岩盤です。

 狭くなったところから急に右岸が開けて、平らな面が広がっています。杉が植林されています。川底も大きな変化が見られます。岩盤が見えなくなって、20cm程度の石が転がっています。

 一方、左岸は峠から急激に落ち込んできた急斜面が川岸まで届かず、一旦、平たんになり、その末端が千鳥川によって浸食されています。浸食面は3m程度の崖を形成しています。

 左岸の奥を見ると、25mほどの先で平たんな地面が浸食された崖が見えました。その崖も川によって浸食されたものと見えますが、浸食された時期は大分以前のことのようです。この崖は大きく半円を描いています。ん!、どこかで見たような地形です。そうです。規模こそ違え、この下流で見たばかりの地形です。峠の山の斜面が崩落した土砂が、千鳥川を堰き止めて半円形の平たん地を作ったあの地形です。

 半円形の平たん地の中に、現在の千鳥川の河道と別に「過去に流れた川の跡」がありました。この川の跡を発見したことにより、半円形の地形というものが、堰き止められた地形であることがはっきりしました。

 上記の内容を整理して、下手な図にまとめてみました。じっと眺めれば眺めるほど、「下手だなあ」と思いますが、そこは閲覧者の優れた理解力で私の言わんとしていることを汲み取って下さい。

 さらに縦断面図なるものも描いてみました。本当に性懲りもなく下手くそな図を皆さんの前に晒します。少しでもイメージしやすくなればという心づかいのつもりですが、お分かりいただけるでしょうか。

 この浸食された崖の上端が昔の水面だった可能性があります。もし、そうだとすれば現在の川面よりも約10m上までに堰き止められていたことになります。しかし、この半円形の地形は私が目で確認した範囲内のことです。実は現地調査後に航空写真を見たところ、私が確認した半円形の地形のさらに外周にも一回り大きい半円形の地形が見えます。もしかしたら、私が確認していないもっと大きく堰き止められた地形があるかもしれません。まだ雪が高く積もっていますので、雪が融けたらすぐにでも確認したいと思っています。

 

 この場所が堰き止められた地形であり、堰止湖(沼)があったことは間違いないと思いますが、どのように出来たか、又はどのように作られたのかが謎のままです。下の写真を見てください。浸食されている崖です。下層部には角がとれた丸い比較的小さい石が見えますが、その上にはより大きい角がある石があります。下層部の石は川の流れで流されてきた石が、流れのままに積み重なっていますので、自然に堆積したと思えます。しかし、その上の土砂は、川の流れで上に重なったものではありません。その原因は二つ考えられます。一つは峠の山の急斜面から何らかの理由で落ちてきたものです。その場合、これほどの土砂が斜面に存在していたかという問題があります。斜面がかなり高いのであれば可能性がありますが、さほどの高さがありません。もう一つの理由は人によって運ばれたものです。その場合も問題があります。それだけの土砂をどこから運んだかということです。楯の曲輪を作っているときに生じた土砂を運び込んだか、それとももっと遠くから運んだかです。大胆な発想ですが、三の切の南側に尾根の上部がなくなっている不思議な地形が二か所あります。一つはゴローという石切り場、もう一つは名前が分かりませんが見事に尾根が消えています。二か所とも堰き止められている場所からはかなりの距離がありますし、適当な運搬経路を探せません。結局、正直言いまして、堰止湖(沼)の成因は分かりません。

 

 いろいろと、自分でも分からなくなるようなことを呟いても仕方ありません。以下に簡潔にまとめます。

1 平三郎と一の切りの間に、高く堰き止められた跡があり、ここに堰止湖があった。ただし、いつごろにできた堰止湖であるかわからないので、「沼」と言われたものであったかは分からない。

2 堰止湖は自然現象によって斜面が崩落したことによるものか、それとも人為的に土砂が運び込まれたことによるものかは解明できていない。

3 もし、楯があったころに堰止湖があったとすれば、防御に最適であったと思われる。


 さて、ここで話を変えますが、もしもここに堰止湖(沼)があったときに水面になっていたはずの場所に小字名がありました。それは「カイホウ・平三朗」です。「朗」の字は「郎」と違いますが、発音は同じ「オン」です。この平三郎は千鳥川から西に入る沢の名前ですが、堰止湖に連続します。平三郎は沢と沼を担当していた野辺沢軍の侍だったかなと想像してみました。


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