-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

山楯の全貌

2017-06-02 20:48:47 | 歴史

 去年から「山楯の楯跡調査をやっている」とか、「詳しい調査結果は後日」などと大した力量がないのに、勿体ぶった言い方を続けてきました。最初の調査を含めて三回ほど調査したのですが、平成29年5月3日が直近の調査でした。それでも、既に一か月以上が経っています。そのくせ、調査結果を報告していませんでした。結果をまとめるのに苦労しているようですが、実はそうではありません。単に報告することを忘れていただけです。実に私らしいことでして、珍しいことではありません。そういう訳ですから、「時間が経ったにしてはお粗末だな」などとお叱りにならないようお願いいたします。

 先ず、いっちょ前に(人並みに)、簡単に楯の跡がある場所の地名を決めておきます。下の地図には、北西から南東方向に伸びている尾根が3本あります。楯があるのは南から1番目と2番目の尾根です。国土地理院の地形図には、この尾根の名称は書いてありませんが、畑沢で呼ばれている名前に因んだ名前で呼ぶことにします。1番南の尾根は、山楯と呼ばれていますので、「山楯山」とします。けっして海苔会社に因んだものではありませんので、お断りをしておきます。でも、下から読んでも「山楯山」です。2番目の尾根は、「おしぇど山」です。頂上に伊勢神社があり、「お伊勢堂山」が訛って「おしぇど山」になったようです。やっぱり、何百年もの歴史ある名前はいいものです。初めて聞いた時は、全くその訳を推理できませんでした。

 前回に報告した時と大きく異なるのは、おしぇど山の楯跡です。

 

 おしぇど山の最高部に「おしぇ様」があり、その周囲が曲輪のようになっています。曲輪だとすれば、小さな小さな曲輪です。そこからさらに曲輪状の地形が北西方向に二段続いています。下の写真は一番上の曲輪状地形の北東側の縁(へり)です。切岸のようになっていますが、崖の高さは、せいぜい1.5m程度です。私には、切岸と曲輪の縁の違いが分かりません。専門の方々は、両者をはっきりと区別していますが、私からすれば、どちらも敵の侵攻を妨げる急斜面の崖としか見えません。確かに、急斜面の崖だけの施設もあって、それを切岸と言うのかもしれませんが、機能面を重視して、「敵の侵入を防止するために意図的に作られた急斜面の崖」として曲輪の縁と切岸を区別しない統一した名称を作ったほうがいいような気がします。素人のくせに、大胆な意見を臆面もなく口にしてしまいました。素人だからこそ言えるとも言えます。

 さて、崖の一部が欠けていて、通路のようになっているのが見えます。楯として使われていた時代に、この通路状のものが既にあったのか、それとも楯としての機能が失われてから通路を作ったのかは、私には分かりません。この崖がぐるっとおしぇ様を囲んでいます。

 上記した崖の一部である南東側は、堀切のようなものになっています。「堀切のような」との言い方をするのも、その規模の小さなことが理由です。堀切状の構造物は、深さが大人の背丈よりも低いのです。堀切の真似事のような代物です。それでも、尾根をバッサリと断ち切っているのは、堀切そのものです。下の写真は、南東からえしぇ様方向を見たもので、手前の大きな木の向こう側を堀切状のものが横切っています。実は、堀切状の溝の中にも構造的なものが見え、溝を5m間隔ごとに区切っています。一見、小田原城の障子堀のようでもありますが、小さ過ぎます。

 おしぇど山の北西端は当時の街道にぴったりと接しています。街道を上から覗き込めるような形になっています。楯岡方面から入ってくる旅人たちを監視することが目的の楯だったのでしょうか。敵に対する楯岡方面への備えは、「背中炙り峠の楯」が果たしていますので、山楯は補助的なもので間に合うとでも言いたいようです。延沢軍記によると、野辺沢薩摩守(野辺沢能登守の父親)の時代に、楯岡越え(畑沢方面)には、笹田甚五右衛門と古瀬正太が配置されたそうです。古瀬姓の家は上畑沢に沢山、ありますが、笹田姓は畑沢に一軒もありません。このことと楯と姓の位置関係から、背中炙り峠の楯は古瀬家が、山楯は笹田家が担当していたと私は考えています。畑沢荒屋敷には、「山楯の大将は、野辺沢家がなくなってから畑沢から出て行った」との伝説があります。野辺沢領内にあった要衝地の守り役の子孫は、今でもその地に住んで、その姓を受け継いでいますが、畑沢には笹田姓が残っておらず、その実態とも伝説は合致します。

 山楯山の縄張り図もかなり訂正があります。北東斜面がかなり詳しくなりました。雪が融けて地形を見やすくなったのです。しかし、その曲輪状の地形は、単なる畑として開墾したものかもしれませんが、私には判断できませんので、皆さんが勝手に考えて下さい。今回もかなり疲れました。能力以上の作業が祟(たた)っています。

 という訳で最後に残った名がない尾根は、調査いたしません。本当は、建物跡があるのですが‥‥


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