前回の土橋に続いて、古文書から今から約300年前の畑沢を現在と比べながら覗いてみます。今回は宗教関係の建物等について記述されているものを拾ってみます。(太字が古文書の内容です。)
畑沢村差出明細帳 正徳四年(1714年)
一、 當村ニ寺無御座候(当村(畑沢村)には、寺がございません。)
まだ、このころは徳専寺がありませんでした。この30年後ごろに徳専寺が建てられます。
一、 當村堂 二ヶ所 地蔵堂 熊野堂 別當無御座候(当村には、堂が二か所あり、地蔵堂と熊野堂です。そこには別当はいません。)
熊野神社は1655年に猶昌が建てたとの記録がありますので、熊野堂とは熊野神社であるのは間違いなさそうです。しかし地蔵堂らしきものは、上畑沢の延命地蔵堂と下畑沢の畑沢地蔵庵があります。果たして、どちらが正徳時代の地蔵堂であったのでしょう。有路源右衛門家に残っていた古文書によると、下畑沢の地蔵庵は昌昂(1651~1737)が建てたとあります。昌昂の父親は1701年まで存命でしたので、昌昂が建てたのは1701年から1737年の間と思われます。そうすると村差出明細帳が書かれた1714年には、昌昂は満63歳になっており、下畑沢の地蔵庵が既に建てられていた可能性があります。しかし、堂は村人の集会所の様な機能があります。下畑沢に熊野神社と地蔵庵の二つがあって、上畑沢に何もないというのも不自然です。また、上畑沢の地蔵堂脇の杉の大木も熊野神社の杉と同じくかなりの古さで、上畑沢の地蔵堂も熊野神社と同じくらいの年代を刻んでいると考えられないでしょうか。結局、村差出明細帳の「地蔵堂」がどちらを指しているかは分かりません。
畑沢の神社も地蔵堂も小さいものでしたので、そこの管理的立場を担う「別当」はいませんでした。荒町の八幡神社のように大きい神社は、当時から別当がいました。
一、 明神社 壱ヶ所御座候
「明」なる神社とはどんな神社でしょう。熊野神社の外の神社は畑沢には二つあり、どちらも稲荷神社です。一つは荒屋敷の稲荷様であり、もう一つは中畑沢の稲荷様です。中畑沢は当時、関嶺(寒嶺)和尚の生家と外に1、2戸しかなかったと思われますので、稲荷神社を建てることはできなかったでしょう。逆に荒屋敷は、6、7戸はあったと思われますので、現在の稲荷神社が既に当時から建てられていた可能性があります。それにしても明神社の「明」の意味が分からないのではどうしようもありません。
一、 宮無御座候、廟所四ヶ所、山つゝきニ御座候(宮と呼ぶ大きな神社はありません。墓地は四か所にあり、山続きになっています。)
「宮」と言うのは、伊勢神宮などのように特別な神を祀る神社のことです。わざわざ言わなくても、畑沢にはあるべきはずがあません。墓地は現在も二か所にあり、両方とも尾花沢市管理の共同墓地となっています。一つは上畑沢の延命地蔵堂の近くにあります。
上畑沢の墓地(共同墓地)
この場所は、恐らく縄文時代に遡れるほどに上畑沢の聖地だったようで、地蔵堂の南に墓地が作られています。板碑状の珍しい墓石が数多く見られます。
中・下畑沢の墓地(共同墓地)
江戸時代は「荒屋敷地区の奥」的な位置関係にあった南沢に墓地が作られたものとおもわれます。この墓地には、天保年間や嘉永年間に建立された墓石と石仏が見られます。この墓地の奥には、火葬場だったところもあります。ある時代以降に下畑沢から分家などの形で、中畑沢の戸数が増えましたので、中畑沢の家々もここを墓地したようです。また、向かい地区もここへ墓地を移したようです。
さて、現在残されている墓地は以上の二か所だけですが、村差出明細帳の四か所には、さらに二か所が足りません。それでは、もう二か所の墓地は何処だったのでしょうか。
まず考えられるのは、「向かい」地区の墓地です。向かい地区は西暦1600年代の半ばに有路一族が帰農した所で、荒屋敷の向かい側の奥まった田南坊沢に塊っています。独立した小さい村を新たに作ったような形です。そのため、一族の守り神として熊野神社を向かい地区を囲む山の突端に位置づけています。当然、墓地なども独立していたと思われます。その証拠には、向かい地区の奥に火葬場が設けられていたそうです。その火葬場への出入り口を六地蔵が守っています。
火葬場へ入るときには、この真ん中を通ったのでしょう。このように火葬場の跡はあるのですが、墓地そのものは見当たりません。ある時代になってから、中・下畑沢の墓地に移動したと考えられます。
しかし、昔の墓石がただ一か所見られる場所があります。それは、畑沢地蔵庵の近くにある如意輪観音の近くです。
この如意輪観音の向かって左には、二つの墓石が横たわっています。一つは禅宗の戒名が刻んである四角い墓石で、もう一つの墓石は無縫塔と呼ばれる卵を逆さにした形です。この無縫塔の墓石は、僧職にあった者の墓石に用いられるそうですので、この如意輪観音の近くにある墓石は、地蔵庵に関係した特別な墓石で、向かい地区住民の墓石もここにあったものではないと思われます。それでは、向かい地区の墓地は何処だったのでしょう。これから向かい地区の先輩たちにお聞きしていきますが、私の勝手な推測では、昔の火葬場に隣接する林の中ではなかったかと思います。
次に最後の墓地です。中畑沢から五十沢へ通じているスーパー農道の入口には、六面幢、庚申塔、青面金剛、巡礼供養塔等の石仏があり、その中に墓石が一緒に並んでいます。
中畑沢の古い墓石
独特の形をしています。「墓」の文字がかろうじて残っています。「墓」と刻んであるのですから墓石であることは間違いなさそうです。
このタイプの墓石は、古殿でもありました。中央に「墓」とだけあります。昔のある時代に流行った形なのでしょうが、かなりの古さです。
さて、村差出明細帳では、それらの四か所の墓地は同じ山側に続いていると言うのですが、上畑沢の墓地だけは山続きになっていません。他の三ケ所の墓地は、どれも畑沢の西側の山の中です。上畑沢の墓地は、どちらの山の中にも入っておらず、東西の山の真ん中です。村差出明細帳を書くときに間違ったのか、それとも上畑沢の当時の墓地は現在の位置と異なっていたのか、私には解決できませんでした。
一、 籠屋敷無御座候(籠屋敷はございません。)
そもそも「籠屋敷」の意味が分かりません。どんな意味か教えてください。
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