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Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

歴史秘話ヒストリア“さよなら愛しの故郷~長崎・グラバー邸” 2010年7月22日

2010-07-22 15:13:19 | 日記・エッセイ・コラム

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少し前まで“黒田あゆみ”の名でNHKに出ていたが、いつの間にか“渡邊あゆみ”(50歳)に姓が変わっていた、いつも、どぎついメイクの姐御肌風着物姿でスタジオから届けられていたが、昨日の“歴史秘話ヒストリア”はスタジオから飛び出し、薄紫でシックなドレス姿の“あゆみアナ”はロケ現場となる長崎のグラバー邸に来ていた、あゆみアナに何があったのだろうか?結婚したのだろうか?はたまた離婚したのだろうか?そんなことはどうでもいいことだが(^^ゞ・・・

あゆみアナがグラバー園からレポートする・・・海が直ぐ目の前です、その海から渡る風が大変爽やかです、かつてはこの湾には多くの外国船がひしめいていたそうです、ようこそ歴史秘話ヒストリアへ!今日は異国情緒漂う長崎に来ております、長崎と言えば観光の名所“クラバー園”です、このグラバー園には江戸時代終わりから明治時代までの洋館が保存されています、このクラバー園の名の由来となったのが、こちら文久3年(1863年)に建てられたグラバー邸です・・・

あ~、わたくし、グラバー邸は初めてなんですけど、あ~、オシャレな洋館ですよ!凝ってますね!造りが!アーチ状のひさし、そして瓦ぶきの屋根が特徴的ですね、西洋風と日本風が見事にマッチしています、現存する木造西洋風住宅では国内最古で国の重要文化財に指定されています、館(やかた)の主(あるじ)はこちらの方、トーマス・ブレイク・グラバー(1838~1911年)、イギリス・スコットランドのビジネスマンです、そこには立派なグラバーの銅像があった・・・

クラバー商会を設立し、主に大きなものでは軍艦、大砲、鉄砲などの武器を輸入していたグラバーは坂本龍馬や有力な藩にそれらを売り渡すことで、江戸幕府を倒す影の立役者となりました、今日はこの洋館の主だった親子二代に渡る秘話“グラバーとその息子・倉場富三郎が辿った幕末、明治、昭和までの知られざる物語”をエピソード1から3に別けてお届けします、始まり!始まり~~~!・・・

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“歴史”、それは絶え間なく流れる大河!その中の“一滴”を“秘話”と呼ぶ、グラバー邸の主、トーマス・グラバーは幕末動乱の中、幕府に対抗する勢力を陰で支えた貿易商である、ある時は“武器商人”、またある時は“友好の使者”、敵か見方か?日本をビジネスで動かした男の流儀とは?和服に西洋風の顔立ちの坊やは?長崎の日本人女性・ツルとの間に生まれたクラバーの息子、倉場富三郎(1871~1945年)である!・・・

およそ70通の富三郎の手紙から浮かび上がる父への愛情と葛藤を明治の世を生きた親子の心の内に迫る、イカ、、海老、鯛、など鮮やかな写生図は富三郎の宝物☆富三郎は故郷・長崎の海を愛し続けた、そこに忍び寄る戦争の影!巨大戦艦の登場と原爆投下!長崎を襲う過酷な運命に富三郎も飲み込まれていった!父、トーマス・グラバーと息子、富三郎!長崎クラバー邸の主が見つめた近代日本の物語である・・・

明治40年頃グラバーが69歳の時、幕末に何をしていたか?取材を受けた、「ミスター・クラバー、かの御一新(明治維新)の折に憶えていらっしゃること、その時、貴君がなされたこと、それら全てを在りのままにお聞かせ願いたいのですが?」、『うふふふ、何をバカなことを!私は何も致しませんでした!その世の私の歴史というものは一つもありません!どうか、私の名前を出さぬようにお願いします!』・・・

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最初、口が重かったグラバーはやがて自分がビジネスマンとして実現させた幕末の大転換の裏舞台を明らかにしていった、異国の地で己の腕一つで活躍した男のたくましい生き方の証言だった!ここからEpisode 1 “グラバー自らを語る幕末・大転換の裏舞台”が明かされて行く・・・

1838年、幕末動乱が訪れる十数年前、イギリス北部、スコットランドのとある小さな漁村でグラバーは生まれた、凍(い)てつくような海と厳しい気候!若者たちはそんな故郷を飛び出し、海外で成功することを夢見ていた、グラバーも18歳の頃スコットランド人若者の合言葉“Scots buy only one-way tickets ! (スコットランド人は片道切符しか買わない)”を胸に広い世界へ旅立った・・・

グラバーは当時、貿易商人として一攫千金の夢が広がり始めた東アジアに目をつけた、中国・上海で仕事を学んだのち、安政6(1859)年、グラバー21歳の時、長崎にやって来た、グラバーはその日1859年9月19日をはっきり憶えていた、国際貿易港としてにぎわっていた長崎!港の南の丘の上にとても目立つ1本大きな松の木があった、グラバーはこれは看板代わりになると目を付け、文久3(1863)年グラバー25歳の時一本松の横に館(やかた)を建てここをビジネスの拠点“クラバー商会”とした、一本松屋敷の始まりである・・・

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ペリーの黒船来航以来、当時の日本は幕府の政治が混乱・激動の中にあった、戦争の始まりを想定して多くの藩が近代的西洋の武器を手に入れようとしていた、ここに巨大なビジネスチャンスを見出したグラバーは武器の輸入取引に手を伸ばしていった、一本松屋敷の見晴らしのよい場所に大砲や銃を展示し、訪れた武士達が気分よく取引に応じてくれるように配慮した、こうした工夫が功を奏してグラバーの元には船や武器の注文が相次いだ☆・・・

有力な藩、長州・薩摩や顧客に龍馬の亀山社中も顧客になり、グラバーのビジネスは成長していった、慶応2(1866)年2月27歳になったグラバーは薩摩から日本の政治を大きく変える計画に係わっていった!それは薩摩の実権を握る島津久光とイギリス公使、ハリー・パークスとの会談を仲介して欲しいというものだった、当時、幕府に対抗する姿勢を見せていた薩摩は政治的・軍事的力を高めるためイギリスと手を結ぼうとしていた・・・

薩摩と言う大事な顧客の要望にグラバーはすぐさま行動を開始した・・・長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授がこの件に関してコメントを述べた、“イギリスと薩摩が仲良くすることが自分の貿易の利益に繋がると、貿易をするための基本的な信頼関係を築くことがグラバーの狙いだった”と・・・、クラバーは江戸に出向きイギリス公使館にパークスを訪ね、薩摩と手を結ぶよう説得した・・・

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『ミスター・ミニスター!近頃、薩摩など南の大名達が日本の実権を握ろうとしています、今や日本の将来は彼等に懸かっています!公使殿!どうか薩摩候とお会いください!』、ところがパークスからは意外な返事が返ってきた!「その大名たちは外国人を敵視している!今、幕府が日本の国政を担っているのだから、これを助けるべきじゃないのか?」とパークスは薩摩に対して大きな不信感を抱いていた・・・

その3年前、イギリスと薩摩は戦争していた、きっかけは薩摩武士によるイギリス人を殺傷した“生麦事件”だった、故にイギリス人にとって薩摩は危険な存在だった、またグラバーがその直前、薩摩にイギリスの最新兵器を売り渡していた、そのグラバーの行動にイギリス領事館は反発しグラバーは母国を裏切った人物として疑われ、行動をマークされる存在だった・・・

“薩摩は長崎に諜報員を長崎に置き、居留地(きょりゅうち)の外国人と提携を進めている、特に注意すべきはトーマス・グラバーである!”と言う内容がイギリス領事書簡に残されている、しかし薩摩とイギリスとの仲介は不可能!?の壁にぶつかったグラバーのなかには薩摩と言う大事な取引先からの依頼を果たさねば信頼を失ってしまう!これは絶対避けなけねばならない!故郷を捨て、片道切符できたグラバーには諦める訳には行かなかった新興商人の意地が芽生えていた・・・

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そこでグラバーはまずイギリス公使館員を自分の味方に抱き込もうと計らった、その公使館員はアレクサンダー・シーボルトと言う以外な人物だった、かつて最新の医学を日本に伝えたシーボルトの息子だった、うぬ!1823年(文政6年)長崎出島のオランダ商館医師として来日したフィリップ・シーボルトだろうか?彼ならオランダ人かドイツ人でなかっただろうか?まぁ!歴史秘話ミステリアを信じよう・・・シーボルトは公使館の中で最も薩摩を危険視していた、グラバーは一番厄介な人物から攻略しようとしたのである・・・

ある日グラバーは強引にシーボルトを誘い出した、シーボルトが連れて行かれた先はなんと危険な薩摩藩屋敷だった!そこで待ち受けていたのは薩摩による、旨いもん食わして!飲ませる!“接待攻撃”!手を結びたい相手に好意を持ってもらうには歓迎の気持ちを表すのが一番!クラバーは日本のビジネスマンがよく使うやり方で、最も難しい人物の攻略に成功していった☆・・・

薩摩に敵意がないことを実感したシーボルトは薩摩との提携をパークスに薦めた、これでイギリス公使館の薩摩に対する見方が一変した!慶応2(1866)年6月16日イギリス公使パークスの一行が薩摩を訪問するに至った!パークスは島津久光と会談し、イギリスは薩摩と本格的な提携を始めていった、グラバーはこうして上得意先・薩摩の要望に見事答えたのだった!・・・

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それから1年半後、慶応4年(1868年)1月3日鳥羽伏見の戦いで、イギリスの支持を受けた薩摩達の倒幕勢力が幕府側を打ち破った!「ハリー・パークスと薩摩との壁を壊したのが、わたしの一番の手柄でしょう!幕府に対する叛逆人の中でも自分が最大の叛逆人ではないだろうか!」とグラバーは誇らしく語った!・・・

でもグラバーさん!ちっくと待ってつかわさい!長崎歴史文化博物館に残されている、ロンドンからグラバー邸に発送された商品明細の記録によれば、同じ頃に最新式アームストロング砲の注文を幕府から受けその取引を成立させていた!・・・「クラバーさん!貴方は何と!したたかなんでしょう!幕府の対抗勢力に肩入れしている最中に、その幕府とも二股かけて武器の取引をしていたなんて!何と商魂たくましいビジネスマンなんでしょう!」・・・

クラバー邸は建てられた当初文久3年(1863年)頃、ビジネスのお客を招く迎賓館として使用されていた、広さ20畳以上、天井の高さ3m余りもある応接間が商談の場として使われていた、窓も多く開放的な空間であった、テーブルには美味しい酒と豪勢な料理でもてなしを受ければ、買い付けに来た武士達はもてなしに乗せられて、ついつい買い過ぎてしまったのではないだろうか?・・・

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ところがその後、明治20年(1887年)頃、食堂などが建て増しされ、部屋数が当初の倍以上になった、建て増しの理由は簡単!明治3年(1870年)32歳の時、グラバーが談川ツル(1851~1899年)と言う日本女性を見初め結婚した、二人の間に長女ハナと倉場富三郎と名付けられた長男を授かった☆家族が出来て暮らしのための部屋が必要になったためだった、そこにはグラバーの期待を背負ったあと取り息子・富三郎のために10畳位の勉強部屋が増設されていた・・・

富三郎は諫早にあるカブリー英和学校(のちの鎮西学院高校の前身)を経て、東京に出て宮内省所轄の官立学校・学習院を卒業後、アメリカに留学しペンシルベニア大学で好きな魚達の学問“生物学”を学んで帰国した、グラバー商会の子会社ホームリンガー商会(門司)で勤めた後、長崎汽船漁業会社を起業して、父と同じ実業家の道を歩んだ☆妻には富三郎と同じ境遇を共にしてくれる、日英混血の中野ワカをめとった、のちに魚好きが高じて長崎魚市場から収集した魚君たちの精巧な写生図を編纂して『クラバー図譜』を完成させたことは有名らしい・・・

父のトーマス・グラバーは精力的に実業家の道を突き進んだ、1868年肥前藩と契約して佐賀高島に“高島炭鉱”を興(おこ)し後に官営会社となったとき実質経営者となった、1870年麒麟麦酒の前身スプリングバレー・ブルワリーの基礎も築いた、1881年高島炭鉱は官営事業払い下げとなり岩崎弥太郎に買収されたが、その後も所長に留まり経営に携わっていった、1885年以降は弥太郎の三菱財閥の相談役としても活躍している・・・

1908年外国人として初めて、薫二等旭日重光章(くんにとうきょくじつじゅうこうしよう)が授与された☆トーマス・グラバーは晩年東京で73歳の生涯を送ったが、富三郎は74歳で亡くなるまで長崎で過ごした、グラバーと富三郎が美しい館・グラバー邸を巡って父と子の愛情を育んだ心の故郷・長崎の丘・・・二人の魂は坂本国際墓地に仲良く並んで永遠に眠り、長崎の海を眺めているだろう・・・後半少し走(はしょ)ってしまったが、めんごめんごで~す・・・

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