Okanagan's Twilight Days

人生の黄昏を迎え、日々の出来事を徒然のままに綴っています(*^_^*)

母の日に寄せて 2007年5月20日

2007-05-20 19:42:56 | 日記・エッセイ・コラム

このところブログのネタなど周りにゴロゴロしているにもかかわらず、気付かぬままに、て云うか気付こうとせぬままに日々の流れに押し流されている無気力な自分がいるが、どうにもならない、性根がたらん!!鬼嫁に内緒で先日“ツール起業”佐伯 和氏の『ツールで稼ぐ片手間副業術』をdownload購入した(^^♪

ホームページ・ブログ・メルマガ・mixiすら一切使わないで稼ぐ方法!!日本語が理解出来て、クリックが出来て、一日3分PCに向き会える行動力があればいいとのこと!!これならPCに疎い小生にも出来るかも☆現在PDF(Portable Document Format)のテキストを少しずつ熟読最中であるが・・・甘い話ではあるが、やって見る価値は有りそうだ(^^ゞ

昨日はエイサー踊りの練習日だったが頭から飛んでいた!!ガ~~~ン!!それにしても労音事務所からのFaxの連絡が無い!!まっちゃん、またFaxナンバー失くしたな~~~???練習場所は後日連絡のはずだったのだ!!今日の総会で本番があるはずだか・・・今日は辞めとこ、タイミング外すと行く気を喪失するのは小生だけだろうか???27日に沖縄・園田会門下・協同病院エイサー青年隊の来姫(姫路に来ること)講習会には行くことにしょうっと・・・

先週土曜日ワークホーム食堂であの笑顔の岡本としよちゃん(32才)がやって来て「おっちゃん、明日わたしの誕生日やねん☆お母さんがケーキ買ってくれるねん☆ケーキ屋さんで買ったら高いから、スーパーで買ってくれるねん☆わたしの誕生日、『母の日』と同じやねん(^0_0^)」 秋川雅史ばりに声を張って、“Happy Birthday 、としよちゃん♪”を歌って上げると、照れくさそうに喜んでくれた☆☆

小生の母は1995年(平成7年)1月17日阪神淡路大震災の前日に85年の波乱万丈の生涯を終えて息を引き取った、小生の色あせていく記憶を辿れば、戦時中植民地時代、母は元山高等女学校を卒業後、看護士としてある病院に勤めていた、そこに入院して来た慶州北道の警察署・副署長の父と知り合ってらしい、小生の記憶にもハッキリ残るタイキュウの山の手にある警察豪邸官舎には下男下女がいて“お坊ちゃま”ともてはやされて、なに不自由の無い生活を送ったが・・・

戦況が不利になり、反日排斥運動が激しくなった、ある夜もあけやらぬ時起こされ、防空頭巾にスッポリ包まれ、校長をしていた伯父の教え子らに助けられて命からがら釜山港に停泊する引き揚げ船にたどり着いた、そこで見た空襲で半分沈没しかけた何隻かの巨大船舶の光景は忘れられない!!門司港を経て神戸港に上陸して目覚めると父の背中におんぶされて瓦礫(がれき)の山のなか、神戸駅に向かっていた・・・

着の身着のままで引き揚げてきた我等家族父・母・幼い弟と小生の波乱万丈の生活が始まった、母屋と父のすぐ上の伯父の家にしばらく身を寄せたあと、村の知り合いの空き家を借りた、父がその近くに土地を買い一戸建てを構えるまで、家族は暮らした、小生は20歳で家を出て神戸の白星社というクリーニング会社の寮住まいをしながら夜学を卒業した、そして・・・

新天地を目指して日本を脱出しアメリカに父・母・弟・日本で生まれた妹を捨てて狭くて窒息しそうな現実から逃避して行った、そしてカナダへ移民した・・・一度妹の結婚式で帰ったものの、もう二度と日本へ帰るものかカナダで骨を埋める覚悟は出来ていた、5年がたって市民権の申請も終わった頃、母危篤のような知らせが入った・・・

取り急ぎ帰郷すると母はピンピンしていた☆騙された!!ガ~~~ン!!

母はすぐ引き返そうとする小生に泣き付いた・・・それ以来カナダに帰ることはなかった・・・就職し結婚して、子供が2人授けられ日本の生活に馴染んで行った・・・

歳月が過ぎてゆき、父が交通事故がもとで入院している間に心臓発作を起こして、74歳で他界した!!母を一人っきりにしたまま1年が経った、その間徐々に“痴呆”という病魔が忍び寄っていた!!妹の家と我が家の間自分で電車に乗り継いで駅から歩いて行き来していたが、次第に迷子になるようになった・・・

そこから母の転落の人生が加速して行った、我が鬼嫁のいびりが激しくなり、家庭崩壊の危機を感じた、妹の離婚再婚が輪をかけた・・・仕方なく近くの白寿苑と幸生病院の入所生活を余儀なくされた・・・不運にも入所中に転倒し寝たっきりの日々か゛2ヶ月近く続いただろうか、その間脳血栓が広がり生きる気迫が薄らいでいった・・・

戦後何もない頃、母はよくお玉でカルメラ焼きを造ってくれた、ザラメ砂糖を水で溶かし火にかけ卵白を加えて膨らす簡単に出来るお菓子だ、母は作りだめしていてくれた、実に美味かった☆☆母が作る料理は何でも美味しかった☆運動会には重箱にいっぱい巻き寿司や手料理を積めて持ってきてくれた☆☆青いみかんも☆☆

なのになのに時に母には嫌味を言ったり、怒りを爆発してしまったこともある、あんなに温厚で朗らかで明るい母に・・・後悔ばかりが残る・・・なぜなぜ母が生存中に言えなかったのだろうか・・・『おかん、心配かけてすまん!!おかんが作ってくれるものは何でも美味い!!生んでくれて育ててくれて・・・ありがとう・・・ありがとう・・・ありがとう、おかん☆☆』

音楽好きでよく学校に迎えに来て、あちこちのラジオ歌謡番組予選会に連れて行ってくれて、ありがとう☆☆小生は予選で落ちていたが、おふくろはきちっと本番に残って歌っていたね☆☆水泳とスケートが得意で小生達と行きたがっていたが・・・もっともっと連れて行ってあげればよかった・・・すまん、おふくろ(ーー;)

今でも伊達政宗に仕える重臣の士族の家系を継ぐ末えいの母、仙台小町3姉妹と呼ばれたおふくろを誇りにしています・・・おふくろ、本当にありがとう☆☆☆

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