ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「聖書アラビア起源説」 カマール・サリービー

2008-03-24 12:43:00 | 
予めお断りしておくと、私には表題の本がいわゆる「トンデモ本」なのか、そうでないのかは判別できませんでした。

簡単に内容を説明しておくと、古代のユダヤ人が繁栄した古代のイスラエル国家は、現在のパレスチナの地にはなく、アラビア半島西部の山岳地帯にあったと著者は主張しているのです。

子音を中心に表記された古代ヘブライ語の翻訳のさいの誤訳と、思い込みからくる勘違い、激動の地であるオリエント社会の絶えざる戦乱とが、正しい歴史の伝承を誤らせたとの主張は、それなりに説得力は感じるものです。

ただ、如何せん、私には古代ヘブライ語はもちろん、アラム語やアラビア語の知識もなく、本のなかで詳細に述べられている著者の主張を適切に判断できません。

それにも関らず、私がこの説にそれなりに説得力を感じたのは、旧約聖書の読みにくさを思い出したからです。幼少の頃より聖書に慣れ親しんだ私ですが、旧約聖書は読みづらい。

著者が語るように、無理にパレスチナの地を舞台とするから、無理なこじつけ的翻訳がなされるのであって、アラビア半島西部に舞台を持ち込めば、すっきりとした文章になるのは、かなり説得力があった。

火山によって滅んだと思われるゴモラの町だが、パレスチナの地には休火山はもちろん、死火山さえない。しかし、アラビア半島西部には、今も火山は実在する。そこへゴモラの町をもってくることには、相当な魅力を感じる。

ご存知の方もあろうと思うが、ソドムとゴモラも勿論、有名なソロモンの宮殿も未だにパレスチナの地では発掘されていない。もし、アラビア半島西部にて大規模な発掘が行われるなら、そこで見つかる可能性はかなり高いと思われる。もし発見されれば、史上最大の発見になると思う。

思うけど・・・おそらく発掘がされることはないと思う。影響が大き過ぎる。少なくとも、イスラエルとその後見国家であるアメリカが健在な限り、発掘はまともにされることはないと予想できる。

もし仮にアラビア半島西部に、古代エルサレムの街が発掘されたら、イスラエルは移転を望むだろうか?いや、まず認めまい。そのような国家的危機を容認できるはずがない。

「トンデモ本」として笑って済ますならまだしも、現実には恐ろしすぎる。知らないほうが良かったような危険な本を読んでしまった気分です。ちなみに出版社は、先だって倒産した草思社。私が関心を持つような興味深い本を何冊も刊行している名出版社でしただけに、その倒産は残念です。
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「詩的私的ジャック」 森博嗣

2008-03-21 09:06:33 | 
俺って頭、良くないなあ~と森博嗣を読むたびに思う。

透徹した論理と、明敏な洞察力が私の遥か先の水準にあるからだ。読みながら、そのロジックの展開をアバウトにしか理解しえない自分の頭の悪さに気がついてしまう。じっくり読んで、理解するよりも、先を知りたくて読み進めてしまう。このあたりが、私の敗因らしい。

素人探偵役の犀川助教授は、おそらくは森先生自身をモデルにしていると思われる。いや、森先生がなりたかった自分なのかもしれない。犀川助教授は、いささか常識はずれだ。真面目にちょっとはずれている。おそらく常識人の森先生は、そこに憧れるのではないか。

本来、研究者として研究に打ち込みたい気持ちとは裏腹に、現実の研究者たちは様々な制約と軋轢に悩まされ、煩わされる。現実の森助教授は、教授会やら予算やらの雑事に惑わされ、なかなか研究には集中できないと見受けられる。

そんな作者の不満が、犀川助教授を生み出したのだと思う。このキャラクターには、作者の微妙な願望が時々顔を覗かせるから面白い。変わり者だよな~と思いつつも、密かに共感している自分が怖い。

一方、コンビのもう一人である萌絵嬢の存在が面白い。ある意味、犀川助教授以上の変わり者だが、女性としてもかなり異質に思える。もしかしたら、作者の理想の女性なのだろうかと勘ぐりながら読んでいる。

今の自分に不満があるわけではないが、それでも、もしかしたらそうあったかもしれないもう一つの自分を思い浮かべてしまう。学校の勉強があまり好きでなかった私だが、それでも興味をもったことへの関心は深く、その分野への学究の道を考えたこともある。

もし、もう一度人生をやり直せるなら、しっかり基礎から勉強して、学究への道を歩みたいと思う。まったく異なる人生ではなく、少しずれたところに道を見出すあたり、森博嗣と相共通するところかもしれない。
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弱り目に、祟り目

2008-03-19 12:34:04 | 日記
この業界で働く以上、2月3月の確定申告の時期が忙しいのは覚悟の上だ。

ただ、今年は辛かった。まず2月末に風邪を引いたのがきつかった。インフルエンザでないのは幸いだったが、御腹にくる風邪であったようで、食欲だけは切らしたことのない私が数日間ほとんど食べられなかった。

じっくり休めば良かったのだが、年に一度しか会わないお客さんとの約束が連続していて、まったく休めなかった。3月に入り、昼間事務所に居られたのは、せいぜい2時間程度で、外回りが続いた。これが堪えた。

8日の土曜日、深夜帰宅して入浴時に右足の付け根が赤く腫れているのに気がついた。またずれか?

翌日曜日の深夜、帰宅してじっくり見ると、腫れているだけでなく、水疱まで出来ている。見るからに薄気味悪い。私の脳裏を「ヘルペス」という言葉がかすめた。あの再発を繰り返すという、やっかいな病気だ。

まさか・・・と思う。なにせ、ここ数年いたって健全な生活で、怪しいお店には出入りしていない。行ったとしても、せいぜい足裏マッサージか指圧ぐらいだ。まあ、素人判断は禁物と思い、明日医者へ行くことにした。

月曜日、体調も悪く、事務所近くの皮膚科の医者へ駆け込んだ。開口一番、医師は「見事な帯状疱疹だ」とのこと。やはりヘルペスだった。医者の説明では、帯状ヘルペスは体調の悪い時に発病するウィルス性の病気で、別に性風俗なんぞとは無関係に、どこかで感染していたのだろうとのこと。再発を繰り返す単状ヘルペスと異なり、一度発病すれば再発はほとんどないと聞き、一安心。再発は腎臓だけで十分だ。

ただ、少々痛いのと、醜い患部が消えるのに時間がかかるらしい。抗ウィルス剤やら消炎薬を処方され、ビタミン注射を受けて出勤。仕事は山のようにたまっている。本当は安静にしたほうがいいのだが、止む無く仕事に専念する。でも夜8時には切り上げて、家でひたすら冬眠。

医者へ毎日通い、其の甲斐あって疱疹は消え、どす黒い瘡蓋だけが残った。まあ、人に見られる場所でもないので、しばらくは我慢。仕事はなんとか無事済ませ、今はほっと一息ついている。

今にして思い返せば、風邪と過労が発病の原因だったのだろう。日頃、健康管理には人一倍気を遣っているつもりだが、やはり年々基礎体力が落ちている。やはり年齢相応な仕事をする必要があるのだと、改めて自覚した、今回の確定申告でした。
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「Yの悲劇」 エラリー・クイーン

2008-03-18 12:38:37 | 
私は少し生意気な子供であったと思う。

なにせ、小学校の3、4年生の頃から大人向けの文庫本を読んでいた。以前にも書いたとおり、きっかけは不親切な担任の先生に対する反発からだった。

読書の時間、偉人の伝記を読むとの宿題が出たのだが、私はタイトルが人名の本を読むことだと勘違いをした。伝記の意味を知らなかったからだ。で、読んだのがシャーロック・ホームズもの。面白かったので、自信満々感想文を出したら、担任の野郎「これは架空の人物だから駄目だ。やりなおせ」と吐き捨てやがった。

私の勘違いであることは確かだが、これが教師の言葉か。教え導くのが仕事だろう。むかついた私は、以降推理小説を積極的に読むようになった。しかし、当時子供向けの推理小説はそれほど多くなく、図書室の本では物足りなかった。

祖父が古本好きだったので、神田の古本屋街に連れて行ってもらい、そこで安い文庫本を買った。小さな本で、小さな文字。なんか大人の世界に入り込んだようで、妙に嬉しかったのを覚えている。その時買ったのが、表題の本だった。

とはいえ、漢字の多くは小学生の手に負えるものではない。辞典を引きながら、悪戦苦闘しつつ読んだものだ。多分、あの不愉快な教師への反発がなかったら、この地道な努力を続けることは出来なかったと思う。

そのうち、漢字の意味が分らなくとも、全体の文脈から意味を嗅ぎ取ることが出来るようになった。こうなると、読むスピードは飛躍的に上がる。

決して勉強の好きな子供ではなかったが、この読書のおかげで国語だけは力がついたと思う。教わったのではなく、自分の努力だけで読んだことが、学力の向上に役立ったと考えている。

ただ、いくら文章を読めても、社会経験の未熟な子供では理解しえないことがある。男女の愛憎であったり、性愛に絡むこととなると、漠然としか分らないので、頭を通り抜けていたらしい。

だからだろう、この年になって読み返すと、まったく逆の印象を受けることがある。かつては嫌な野郎だと思っていたのに、断ち切れぬ愛情と、それを押し殺すが故の歪みなどが、かえって同情と共感を覚えてしまうことさえある。子供の頃にはまったく理解も共感も出来なかったことを思うと、私も大人になったものだと、妙な感慨を抱いてしまう。

表題の作品は、TVドラマなどにもなっていたらしい。今にして読み返すと、小学生には理解できぬわな~と苦笑混じりで反省。当時は分ったつもりでいたのだから、思い返すと恥ずかしい。まあ、これも再読の楽しみでもある。

はて?私が読み返すべき本って、いったい何冊あるんだろう?宿題は一杯たまっているみたいです。
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「ど根性カエル」 吉沢やすみ

2008-03-17 16:45:05 | 
精神論を否定しているわけではない。でも、他人から「根性出せ!」と言われて、根性出したことは一度もない。

根性でも気合でもいいが、この手の精神的パワーは大事だと思う。意思の力だと言い換えてもいい。覚悟の底力でもある。巨大な体躯、筋肉隆々の力瘤、走り込みにより絞り込まれた脚力。どんなに体力があっても、それを支える精神力がなければ、あっという間にバテて、へばってしまうのが現実。それは分っている。

分っちゃいるが、いくら怒鳴られても根性は湧き出てはこない。根性の呼び水は、自らの意志でなければならない。

それは自覚の表れでもある。いかなる逆境にあろうと、意思を絞りきり、覚悟を決めて、断固たる決意を持って臨んだ時に、はじめて根性は生まれ出る。

このとき、人ははじめて実力以上の力を出せる。

はばかりながら、怠け者の私は滅多に根性は出さない。要領よく、のらくらと過ごすのが好きで、必要以上に頑張るのが好きではない。

ただし、その気になった時は、自分でも驚くほど根性出せる。病院のベッドの上で、医者に睨まれながら勉強していた時なんざ、異常なくらい集中していた。さりとて、勉強が好きなわけではない。

治る可能性は見当たらず、このまま衰弱して死ぬのを座して待つのは嫌だった。なにか一つでいい、自分が必死に生きた記録を残しておきたかった。だから必死に勉強した。全国模試であっさり一位がとれたが、私は当然と思い歯牙にもかけなかった。ストレスの少ない模試なんて、ある意味楽なものだと分っていたからだ。

問題は本番の国家試験だ。科目合格でいい。何か記録を残しておきたかった。決して病状は良くなかったが、無我夢中で勉強した。主治医と何度も喧嘩をした。勉強のしすぎは、たしかにデーターの数値を悪くした。それでも構わなかった。合格という記録さえ残せば、死んでも良いと考えた。どうせ、治る保証はないしね。

本試験は一発勝負だ。本気で集中しはじめると、耳は何も聞こえず、目は紙面に釘付け。ボールペンを走らす手の動きと、汗を拭うためのタオルだけが、わずかに感覚を残している。数字を追い、文脈を読み、機械のごとく答案をはじき出す。

終えた後の心地よい疲労感だけは、よく覚えている。その後、フラフラしながらタクシーに乗り込み、病院に舞い戻って点滴を受け、主治医のしかめっつらを無視して眠り込む。

半年後、自宅療養中に届いた科目合格の通知書が、私に生きる希望を与えてくれた。どうやら、私にも出来ることはあるようだし、それが可能であることを証明してくれた。私はあの夏の試験のときほど、根性を出したことはない。

子供の頃、人気だった漫画の一つが表題の作品だ。TVアニメにもなり、大ヒットした覚えがある。正直、あまり好きな漫画ではなかった。やたらと「根性」という言葉が使われるのが、妙に不快だったからだ。

当時は、根性ですべてが解決するわきゃなかろうと斜に構えていたからでもある。でも、やはり根性は必要だ。でも、根性は与えられるものではない。自分自身の覚悟と決意が、根性を涌き出でさす。

ピョン吉は、平面という逆境に追いやられたからこそ、根性カエルとなったのだと思う。しかし、まあ、まさか胃薬のCMで再会するとは思わなかった。
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