間違いを犯したら、同じ過ちを繰り返さないためにも、十分に反省する必要がある。
ところが、日本に関して云うならば、決して十分な反省をしているとは言い難い。もちろん、第二次世界大戦を敗戦国として終えたことである。いくら正しき目的があろうと、負けた戦争は失敗である。失敗である以上、同じ過ちをせぬためにも反省する必要がある。
しかし、戦後から既に半世紀を超えているにも関わらず、未だ十分に反省しているとは思えない。
断言しますが、謝罪をいくら繰り返してもそれは反省ではない。日の丸、君が代を禁止したってそれは反省ではない。憲法9条に至っては、それを守っていないがの現状である。
アメリカが主導した茶番劇である東京裁判では、ナチス・ドイツになぞらえて日本にも戦争犯罪者がいたと方向づけようとしたが失敗している。アメリカは日本のおいて、ヒットラーもゲッペルスもナチス党も見つけられなかった。
いったい誰が戦争を首謀したのか。それさえ分からず、仕方ないから上から順繰りに戦犯を祭り上げて誤魔化したのが東京裁判である。実はここにこそ、日本における大きな構造的問題がある。
君臨すれども統治せずをモットーにしていた昭和天皇はもちろん、近衛首相も東条首相も戦争を積極的に主導した形跡はなく、むしろ振り回された観さえある。では、誰に振り回されたのか?
やはり辻正信ら陸軍参謀本部の士官たちであろう。その前例を作ったのは、上層部に無断で満州国建設を目論んだ石原莞爾なのだが、この天才児は日本には珍しく長期的視野に立っての展望が出来る軍人であった。石原はあくまで来たるべき将来のアメリカとの決戦に向けての体力づくりの一環としての満州国建国であって、やたらと戦線を拡大する気はなかった。
しかし、その部下であった服部や辻は目先しか見えてなく、戦線拡大を止めようとする石原を閑職に追いやる始末。同じ陸軍参謀であっても戦線拡大に批判的なものを中央から追いやり、大陸において次々と戦争を拡大させていった。
ここで彼らを戦犯だと弾劾するのは容易い。しかし、日本は法治国家である。しかも、官僚組織が国中を固める強固な統治システムを持っていた。では、なぜに陸軍の参謀たちが上司の許可なく、このようなことが出来たのか。
ここに至って初めて、敗戦の反省の糸口にたどり着く。結論から言えば、有事法制の不備である。まず天皇を最高権力の頂点に置きながら、実質的な権限は薩長の実力者が握っていた明治憲法の不備。明治憲法は薩長の実力者あってのもので、主権者たる天皇に実権はなく、権力の空白が生じやすい欠点があった。
それが統帥権問題であり、これを盾に陸軍は「陸軍大臣は出さない」といえば組閣が出来ないという脅迫が出来た。少し脱線するが、これを恐れた山本内閣が陸軍大臣は現役に限定せず、陸軍出身者なら良し(OBでも良いってこと)とすることで陸軍の専横を封じた。それを無効とし、陸軍現役に限るとしてしまった大馬鹿が、人格者として名高い広田首相である。一応、覚えておいてほしい。
それはさておいても、もう一つの問題がある。かくも力をもった陸軍が何故に、その参謀(組織でいえばトップの下の下)たちの専横を許してしまったのか。その鍵は日露戦争である。
日露戦争は本来、その拙い作戦、指揮により日本が負けることが相応しい戦争であった。ところが日本以上にロシアが失敗を重ねたために、奇跡的に日本が勝ってしまった戦争でもある。
この奇跡的勝利に沸いた日本は、本来ならばその作戦の拙さ、指揮の未熟さから罰せられるべき将官たちを許してしまった。国中が奇跡の大勝利に沸いている時に、失策の反省と処罰をすることができなかった。
これが悪しき前例となった。高級士官たちは国のために全力を尽くしたのだから、その努力が失敗したとしても、その責任は問わず、罰せられることもない。誰が云いだし、誰が決めたのか分からないが、奇妙な、いや、とんでもない前例が出来てしまった。厭らしいのは、この前例はあくまで高級士官に限定されていることだろう。
あきれ果てたことに、これは昭和のみならず、平成の今日でも生きている前例である。思い出してほしいのは、官僚というものは前例踏襲主義であることだ。
第二次世界大戦の企画立案をした参謀本部の人間で、誰か処罰を受けた者はいたのか。自らを恥じて自決した参謀は確かにいた。またソ連軍に連れて行かれて、シベリアで強制労働に就いた者もいる。
しかし、日本政府自らが検証し、処罰を受けた高級士官は一人としていない。日本は太平洋戦争の敗戦を真面目に反省していないと私が執拗に書き続ける最大の理由がこれである。
ついでだから書いておくと、平成の今日にあってさえ、この悪しき前例踏襲主義は生きている。バブルの崩壊とその後の長期低迷の責任をとって処罰された高級官僚は皆無だ。エリート様は絶大な権限をふるっても、その結果については責任は問われないことが、今も特権となっている。
そりゃ、そうだと思う。敵であるアメリカ軍に殺されたならまだしも、拙い作戦で食糧、医薬品不足で南方のジャングルで飢え、病に唐黶A死んでいった若い日本兵は数十万人に及ぶ。
それなのに、その作戦の立案実行を指揮した高級士官は、誰ひとり処罰されていない。それどころか、立身出世して叙勲までされている輩がいる始末である。これが日本の敗戦に対する反省の仕方である。ならば、当然に経済政策に失敗しても責任感など生じる訳がない。
表題の書では、その典型的な例として瀬島龍三を挙げている。視点として実に相応しい人選だと思う。全てを語るものではないが、この本を読めば、なぜに日本が戦争へと雪崩込み、引き返すことができなかったのかが良く分かる。
そして瀬島に代表される権限振るえど責任は持たずの似非エリートが戦後をどのように生きたのかが分かります。日本を敗戦に追いやっただけでなく、戦後賠償までをも食い物にしたエリートたちの倫理観はどこにあるのか。是非、ご一読をお勧めします。