ヌマンタの書斎

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魂の昭和史 福田和也

2014-07-07 12:04:00 | 

昭和史は学校の授業では習わなかった。

4月の歴史の授業では古代史から始まり、冬休みの頃にようやく明治維新にたどり着く。3学期が始まり、2月までに駆け足で第二次世界大戦の終結までが、期末試験の範囲で、戦後の歴史は「読んでおくように」で終わってしまった。

中学でも、高校でも昭和史をしっかりと教わることはなかった。あの頃はスケジュールの関係だと思っていたが、今にして思うとあれは意図的なものだった。

当時の状況下でまともに教えられるのは、せいぜいが第一次世界大戦とその後のヴェルサイユ会議まででが精いっぱいだったのだろう。

原因は想像ではあるが、おそらくは日教組と文部省の争いである。マルクス主義に基づく唯物史観は、資本主義国家の敗北を予言しているのだから、日本が資本主義をとる以上、日本については否定的な歴史でなければならない。

文部省はそんな歴史を認める訳にもいかないが、教科書執筆者である大学の先生たちは、当時圧涛Iな勢いで大学を侵食していたマルクス主義の立場を無視することは出来ないどころか、自ら進んで唯物史観に染まっていった。

教科書検定の歴史とは、この侵食する唯物史観と、それに抵抗する文部省との争いの歴史でもある。だが、一番困っていたのは、年配の歴史教師たちであった。

戦後生まれの教師はいざ知らず、戦争を知っている世代からすると、このマルクス主義に影響された日本を否定するだけの歴史なんぞ、到底受け入れることは出来なかった。

さりとて、一応は検定を受けた教科書から離れて授業をすることも出来なかった。だから最低限の抵抗として、昭和史を授業で教えることを避けた。それが歴史教師としての最低限の矜持であったのだろう。

妙な話だが、私が日本の昭和史をまともに習ったのは、大学受験のための予備校が最初であった。といっても、世界史を選択した私の場合、世界史の一端としての日本史であった。

当時、私は代ゼミに通っていたが、山村先生、武井先生の両名とも大学受験に最低限必要なことを中心に話してくれた。が、雑談の際には、かなり教科書とは異なる昭和史を話してくれた。

大学受験のための授業であったが、山村先生は自ら「これは本当の歴史の勉強ではない」断言し、武井先生は「教科書に頼った勉強はあくまで受験のためだけだ」と吐き捨てていたことが、今も私の記憶に深く刻まれている。

今だから分かるが、両名とも唯物史観による歴史に否定的であった。歴史はもっと面白いものだし、学ぶに値する立派なものだと講義の折々に語っていた。

あれから三十数年、未だに私は彼らの講義を覚えている。ダジャレの年号暗記や、歴史上の事実なんぞは忘れてしまったことが多いが、彼らが熱く語る人類の生きてきた軌跡への思いは忘れがたい。

ただ、世界史の授業の一環としてであったので、私は案外日本史に暗い。だからこそ、大人になって難病で長期の自宅療養を余儀なくされた時、図書館に通って独学の日本史研鑽に励んだ。

奇妙なことに、古代から近世までは力作が多く、私は十二分に楽しんだ。しかし、昭和史はダメであった。どうも唯物史観に毒された自虐的歴史ものが多く、納得できたものは数冊に過ぎない。

ここにきて、ようやくある程度納得できる昭和史に出くわした。それが表題の作品である。文剣]論家である福田和也が語る昭和史は、学校の先生では到底語り得ない昭和の歴史をひも解いてくれている。

なぜ日本は勝ち目のない戦いを止められなかったのか。なぜ日本は大陸に侵略していったのか。なぜ日本は平和憲法などという欺瞞にはまり込んだのか。

昭和に関する疑問の多くに対して、従来の歴史専門家では語れなかった真相を分かりやすく解説している本書は、かなり有益だと思います。機会がありましたら是非どうぞ。

コメント (5)
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