ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ 北尾光司

2014-07-02 12:08:00 | スポーツ

如何に素質があろうと、心の鍛錬ができてないと成功しない典型例、それが元横綱・双羽黒こと北尾光司だ。

素質だけは十二分にあった。199センチの長身とバランスのとれた体躯は日本人離れした逸材であった。子供の頃から相撲取りとして卓越した才能と実績をみせ、期待されての角界入り。

だが、次世代のスターを望む角界は、優勝経験なしでの横綱昇格を決め、その素質に期待を賭けた。しかし逃亡しての強制引退。スメ[ツ冒険家として名乗ったものの、実績はまるでなく、やはり予想通りのプロレス入り。

北尾を受け入れた新日本プロレスでは困っていた。とにかく受け身が下手なのはともかく、相手の技を受けるのを極端に嫌がる。プロレスは格闘演劇であるが、常人ではとうてい不可能な過酷な技を受けてみせることで、己の強靭な肉体をみせつける過酷な演技力が求められる。

本来、ぶつかり合いで鍛え上げた相撲取りは、相手の技を受けることには慣れているはずだ。実際、相撲取りの肉体の強靭さは脅威である。あの肥満したようにみえる身体は、直に触れてみると高フような硬さを誇る。

肉体のぶつかり合いで鍛えた堅い脂肪の鎧をまとい、その下に強靭な筋肉を誇る異形の戦士、それが相撲取りである。北尾とて、その一人であり、決して弱いわけではない。

だが、北尾は痛みを我慢しなかった。そもそも我慢が苦手な子であった。類いまれな肉体的才能は、痛みを知らずして彼に勝利をもたらしていた。中学生の頃には周囲に戦える相手がなく、止む無く高校に出稽古にいった北尾は、そこでも無敵であり、痛みに耐えて鍛える必要を感じていなかった。

それは角界に入ってからも、痛みから逃げる癖は変わらなかった。だから新人の頃には何度も脱走している。相撲が嫌いであったわけではない。ただ、痛いのに耐えるのが致命的に苦手であった。

だからだろう、相手を思いやらない技をかけて怪我をさせることも珍しくない、困った力士であった。当時、無敵の黒船とまで言われた小錦をサバ折で怪我をさせたのは有名だ。

あれは悪意なき事故であったようだが、私に言わせれば自身が怪我するギリギリまで鍛えた経験が希薄なので、危ない技を使いこなす実力がなかったのが真相だと思う。

だからこそ、プロレス入りしても、観客が喜ぶような試合が下手なショボいレスラーであった。ちなみに、デビュー戦の相手は器用上手で知られたクラッシャー・バンバン・ビガロである。

野菜と試合させてもプロレスの試合を作れるとまで言われたビガロだからこそ、そこそこの試合が出来た。後年ビガロはインタビューで北尾の不器用さを酷評しているが、北尾自身はよく出来たと勘違いしていた。だから、試合を重ねるごとに、観客からブーイングが出る始末であった。

北尾自身は、それをヒール(悪役)人気だと勘違いしていたが、観客からすれば技を受けず、自分の技を相手にかけようとするだけの不器用なプロレスに対する不満に他ならない。要するに演技が下手だと、観客からダメだしされていただけだ。

皮肉なことに、北尾が唯一プロレス史に残る名試合をしたのは、金に窮して負けを飲んだとされるUWFでの高田との異種格闘技戦であった。ちなみに相撲ではなく、空手代表の肩書で出場し、高田延彦のハイキックを顎に受けてのKO負けであった。

軽く失神(真贋は不明だが)するほどのKO負けは、北尾がプロレス・ファンから唯一といっていいほどの名試合として認められている。あれは確かに見事な負けっぷりであった。

そのプロレスも止めているが、その原因は人種差別発言だというから情けない。その後もいろんな職に就いているが、どれもものにならないのだから、どうしようもない。結局最後は、角界の某部屋の後見人に収まっている。

相撲好きな大柄な子供は、無限の可能性をもっていた。その肉体は将来の大器を期待させるのに十分な素質であった。しかし、心を鍛えていなかったがゆえに、結局どの分野でも一流になれずに終わった。教育って大事だと、つくづく思いますね。

コメント (11)
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