本当にプロレスラーになりたかったの?
70年代から80年代にかけて、全米で絶大な人気を誇ったのが兄ドリーと弟テリーのファンクス・ブラザーズだった。父親もまた50年代に活躍したプロレスラーであり、親子二代にわたるプロレスラーとしても有名だった。
ただ、親爺(ドリー・ファンク・シニア)は悪役レスラーであり、テキサスの暴れん坊といった風情でプロレスをやっていたが、子供たちはファンクスの愛称で知られた善玉レスラーであった。
どちらかといえば、弟のテリーのほうが父親の雰囲気を上手く引き継いだようで、いかにもヤンチャなテキサン(テキサス人というか、テキサス気質を言い表す)だった。
ところが兄のドリーは大分違った。母親似というか、温厚な雰囲気が濃厚で、スポーツマンの風情はあっても暴れん坊ではなかった。
もっといえば、体格のいい地方廻りの営業マンといっても十分通じる外見であった。実際、人柄も温厚であり、悪く言えばドン臭い感じさえあった。
事実、休日の写真を見ると、テキサスの郊外の農場で干し藁の傍らで控えめな笑顔を浮かべながら、馬にまたがるドリー・ファンク・JRは、どこからみても垢抜けないカウボーイそのままであった。
一方、弟のテリーは、牛にヘッドロックをかけて騒いでいる陽気なテキサンそのもので、月と太陽というか、雰囲気のまったく異なる兄弟であった。
それはプロレスのリング上でも変ることがなかった。兄ドリーは正統派のアマチュアレスリングのテクニックを地味に使うのだが、真面目に過ぎて簡単に悪役レスラーたちにつかまって、やられてしまう。
その兄を助けようと暴れる弟テリーは、正統派ではあっても、反則には反則をやり返す暴れん坊であった。もっとも、調子に乗りすぎて悪役レスラーたちの罠にはまることが多いのもテリーの特徴だった。
そこへ弟を助け出すために、敢えて反則負けを覚悟でリングに飛び出すドリーに、観客は拍手喝采の大騒ぎであった。このパターンはアメリカでも日本でも変らなかった。
これをイカサマだと笑うのは、いささか浅慮だと思う。私たちプロレス・ファンは、このファンクス兄弟のワンパターン試合を大喜びで楽しんでいたからだ。
とりわけ思い出深いのは、全日本プロレスの年末の世界最強タッグ・トーナメントだった。たしか、80年の決勝試合は、ファンクス兄弟対ブッチャー・シーク組だった。ブッチャーが凶器のフォークでテリーの腕を刺したことで有名な試合だ。
私はこの試合を、下北沢のパチンコ屋の街頭テレビで観ていた。ブッチャーが刺した血まみれのフォークをマットに投げ捨て、必死の形相で立ち上がるテリーと、助けようとリングサイドから手を伸ばすドリーの場面には、盛り上がらずにはいられなかった。
下北沢の南口の道路上で、大声上げて喚声をあげてファンクス兄弟を応援していた騒ぎを、まるで昨日のことのように思い出せる。あれほど興奮した試合は滅多にない。
ただ、当時から私は疑問に思っていた。本当にドリーはプロレスラーになりたかったのだろうか?ドリーが常に冷静沈着で淡々と試合をこなす様子からは、あまり楽しんでいるように思えなかったからだ。
もし、長男でなければ、あるいは親爺が子供たちにチャンピオンの夢を託さなければ、ドリーには違った人生があったように思えてならない。
おそらく相当な葛藤があったらしいことは、プロレス界入りが弟よりも一年近く遅れていたことからも察せられる。しかし、最終的にはプロレスに自分の人生を託し、父が望んだ正統派のチャンピオンレスラーにもなっている。
決して中途半端な気持ちでのプロレス入りではなかったと思う。それでもだ、私はドリーが淡々と試合をこなす姿に、ある種の哀愁を感じることがあった。四年近くチャンピオンの座を守ったドリーは、父の果たせなかった夢を見事に達成してみせた。
弱いチャンピオンではないが、玄人好みの渋い試合が多かった。意外にもチャンピオンの座を奪われてからのほうが、生き生きとプロレスをやっていた。多分、父への恩返しが終わった安堵感が、彼を自由にさせたのだと思う。
テキサスのアマリロの牧場の傍らに設けたレスリング道場からは、ファンクスの指導を受けた多くの若きレスラーたちが巣立っていった。そして晩年、ドリーはさっさとプロレス界から足を洗い、第二の人生に励んでいると聞く。
やはり、本当は別の人生を望んでいたのだと私は確信している。悪役として悔しい思いを何度もした父の期待に沿うために、敢えてプロレスラーとなったドリーは、ようやく自分の人生を歩みだしたのだろう。少し寂しい気持ちもあるが、第二の人生で頑張って欲しいものだと思います。