All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

韓国ソウルの旅(その11)2日目、戦争記念館(中編)

2005年12月23日 23時59分24秒 | 韓国 ソウルの旅
 韓国には兵役があり、満19歳以上の身体が丈夫な男子は
軍に入隊しなければならない。(大学生の場合は1年生を修
了してからとなる。)
 分断国家の韓国は100万の陸上部隊を有する北朝鮮と38度線
を境に今も対峙している。国民の義務は4項目ある。納税の義
務、教育の義務、労働の義務、そして国防の義務だ。
給与も支払われるが、一ヶ月2万ウォン(約2千円弱)だ。
これで約2年間の軍隊生活を送らねばならない。

※この記念館の入場料は3千ウォン(約3百円弱)。

 しかし、兵役を経ていない者は公務員試験の受験資格がな
いことや一般の企業でも兵役経験のない者は不採用になるな
ど、社会的に一人前とみなされない風潮がある。

 インタヴューした訳ではないが、偶然、入隊したばかりと
思われる韓国の若い青年兵士の集団が、記念館の広場に整列
していた。

 我々が入場したあと、教官らしき年配の兵士が先導に立っ
て彼らも入って来た。この記念館の見学も教育訓練の一つな
のかもしれない。

 通りをはさんで戦争記念館の向かい側の高台にある建物が
陸軍の本庁である。(下の写真の奥やや右のビル)

日本の市ヶ谷防衛庁もそうだが、どうして軍人というのは、
高いところがお好きなのだろう?

記念館の中に入る。1階中央の吹き抜けでは秀吉を打ち破
ったイスンシンの亀甲船(模型)が目に入った。

たいへんユニークな形の船だ。船全体を覆う屋根の凸凹
はガメラとかアンギラスの背中をほうふつさせる。これで
体当たりされてはたまらない。
 今回のソウル旅の目的に韓国ならではの模型の入手を
考えていたが、やはり「亀甲船」は外せない。出口付近の
売店で木製のキットを手に入れることができた。2個購入し
たので1ケは在庫とし、1ケは折を見て組み立てるつもりだ。

鴨緑江

2005年12月22日 20時16分34秒 | 平和憲法9条
 北朝鮮(北韓)は38度線で韓国と分断されているが
大陸側は鴨緑江を隔てて中国と踵を接している。
今回は、その鴨緑江をはさんで中国側から見える北朝
鮮の画像を入手したので紹介しよう。

 何の変哲もない川に見えるが、対岸が北朝鮮だとい
われると「えっ!ほんとに?」と思ってしまう。
有刺鉄線や物々しい警備体制もないようだし、時折り
北の農民の姿も見られるらしい。

 赤字で書かれた注意書きのようなものは確かに注意
書きである。
 注意というより「厳禁」とあるから「禁止項目」と
読むのが正しそうだ。遊覧船の乗客に対してのものだ。
 対岸の朝鮮側に物を投げてはいけない、とか、船の
中で大声で笑ったりしてもいけない、さらに、北朝鮮
側を背景に写真を撮ってはいけない。船乗務員の指示
に従わずに勝手な行動を取ってはいけない。その場合
は自己責任だぞ。というようなことらしい。


 実は対岸は北朝鮮と地続きではなく、川の中州で
この先の向こうにもう1本川が流れているのだそうだ。
とはいえ、一跨(また)ぎで向こう岸に渡れそうな気
がしてしまう。実際「一歩跨」という石碑まである。
(下の写真、注意:黒服の男は北の工作員ではない。)

 下の2枚の写真は、普通の観覧車と、工場の煙突が
写っている普通の写真だが、この観覧車が回っている
ところを見た人はいないという。工場の方も煙突から
煙が立ち昇ったことは一度もないらしい。
 なんだか映画のセットのようなものを北側が作って
「ワシらのとこだってテーマパークはあるし、工業だ
って盛んなんだぞ。」と気勢を張っているようにしか
見えない淋しい光景だ。


 韓国(朝鮮)戦争当時、アメリカ軍のB29が鴨緑江
まで飛来して爆撃した跡が下の写真である。
現在は、しっかり観光スポット化して爆弾のオブジェま
であしらってある。



韓国ソウルの旅(その10)2日目、戦争記念館(前編)

2005年12月21日 23時59分22秒 | 韓国 ソウルの旅
 独立公園を後にした我々はタクシーにて
三角地(サンガクチー)にある「戦争記念館」を目指した。
途中、ソウル駅舎を右に見る。確かに上野駅に似ている。
約10分で記念館入り口に立った。
すぐ目に入るのが、巨大な二人の兵士の抱き合う姿の像だ。

これは“兄弟の像”と呼ばれるもので、パンフの解説によれば
「韓国戦争(朝鮮戦争のことを韓国ではこう呼ぶ。)を象徴
する造形物で」韓国軍の兄と北朝鮮軍の弟が「戦場で劇的に
出会った実話」に基づいているそうだ。
 日本では「戦後』といえば1945年の敗戦以降を指すが、韓
国では「戦後」はない。北朝鮮とは「休戦」状態だからだ。
韓国の人々の中で韓国戦争の占める比重の高さというか、背
負った歴史の重みのようなものをひしひしと感じた。
展示されている戦車や戦闘機などの兵器も第2次大戦という
より韓国戦争当時の物がほとんどだ。北朝鮮軍からの鹵獲品
も多い。戦った敵側の兵器類もちゃんと展示されているのが
ちょっと不思議な気持ちにさせられる。


北朝鮮から脱北してきたミグ。(韓国戦争当時の物ではない)

ミグの前では形無しだったF51。

なぜかB52も展示されていた。

潜水艦の模型もあった。よくわからなかったが兵士が池の中
を清掃していた。

ミサイル類も堂々と展示されている。

イラク派遣軍の戦闘車両もあった。

韓国ソウルの旅(その9)2日目、独立門~西大門刑務所

2005年12月20日 23時47分40秒 | 韓国 ソウルの旅
光化門からはタクシーを利用した。
韓国タクシー初乗車である。
タクシーは「一般」と「模範」の2種類がある。
名前からして「模範」は値段が高そうだ。
我々は、迷うことなく「一般」に乗った。
ここでもNI氏の出番だ。
わずか5分足らずで独立門公園付近のロータリー着。
料金は1900ウォンだから地下鉄で一人900ウォン×4
の3600ウォンよりはるかに安い。近距離ではタクシー
はけっこう使える。
(但し目的地をきちんと運転手に伝えられるかがポイントだ。)

 信号を渡ると、ほどなく独立門のある独立公園。
独立門というのは韓国が中国や日本、ロシアその他の西欧
列強と同じ自主独立国であることを国内外に宣布するべく
1897年11月に建てられたもの。
パリの凱旋門によく似ている。

 独立門から北の方に広がるのが独立公園。

ゆるい坂道を登る。右手に広場があり、タプコル公園で
見たような碑文の壁が視界に入った。中央には複数の人
物像が立つ塔がある。近づいてみたところ「3・1独立宣
言記念塔」とあった。塔の裏は碑文でタプコルと同様に
3・1独立宣言文が刻みつけられている。独立万歳運動
を主導した33名の民代表の名前もある。

ここでNI氏が日中韓三国共同で出版された歴史教科書の
韓国語翻訳者と打ち合わせのため、独立門の方へ戻り、
残った我々3人は西大門(ソデムン)刑務所歴史館を見学
することにした。

1895年から1945年までの50年間、韓国が日本の統治下
にあったその苦難が凝縮されたようなところだ。敗戦間
際に証拠隠滅をはかった日本軍が埋めた拷問施設や死刑
の執行室などが掘り起こされ展示されていた。
棺桶を縦にしたような人ひとりやっと入れるスペースの
独房。ここに入れられ3ヶ月も立つと血が下半身に溜ま
ってやがて血管が破裂してしまう。夥しい拷問器具などは
以前シンガポールの戦争記念館で見たものとは比べよう
もないくらい陰惨で生々しい凶行が繰り返された証左だ。
間違いなく私の父の世代がこの残虐な行為に従事してい
たことが伝わってくる。

 このような刑務所が韓国内に8カ所もあったという。
日本国内での治安維持法がこの地では独立を目指す韓国
の人々に容赦なく適用された。
靖国参拝に血道を上げる小泉首相にぜひこの西大門刑務
所記念館まで足を運んで欲しいと思った。

上の写真は10月の小泉首相の靖国参拝報じる中国の新聞。
参拝は「拝鬼」とあり。「鬼」とはA級戦犯のことである。
その左側には韓国内での抗議が伝えられている。

韓国ソウルの旅(その8)2日目、光化門

2005年12月19日 01時11分35秒 | 韓国 ソウルの旅
 早朝から外を歩き続けたせいか、身体が冷
えきってしまったようだ。
仁寺洞(インサンドン)で遅めの朝食を摂った。
チゲやソルロンタンそしてお馴染みとなったソジュのお
かげで身も心も温まった一行は歩行を再開。
 日韓の女子高生の姿も目立つ仁寺洞(インサンドン)
を通りぬけ、鍾路(チョンノ)大通りを光化門へと向か
った。途中、銀行で円をウォンに換金したりしたため、
少々時間はかかったものの12時ぎりぎりに光化門を望む
通りに出た。


 光化門を反対側の通りから眺めた後、街路樹に電飾
(イルミネーション)取り付け工事の人たちを見上げな
がら少し戻り、地下道を渡り光化門入口に辿り着いた。

 門をくぐると偶然にも王宮守門将交代式が行われてい
た。この交代儀式は、荘厳な雰囲気の中、赤、黄、青な
どの原色も鮮やかな衣装や旗に彩られた見るも華やかで
格調も高く、もっとじっくりと見てみたいと思った。


 交代式もそこそこに、急いでNI氏の後に続いた。王宮
の奥深くにある閔姫暗殺現場に行くためだ。抜けるよう
な青空の下、ところどころに凍った雪が残る歩道を駆け
るように急いだが、途中で工事中にぶつかってしまった。
下の写真のように現在は改修中とのこと。
次の機会に譲ることとなった。






町内清掃に参加して

2005年12月18日 01時52分09秒 | 歩く印象派
 先週の日曜はあかんべ山の顔合わせ会に行ったが、
その前に、A市の町内一斉清掃作業というのに参加した。
隣組単位となって、自治会の指示した区域の道路のゴミ
を拾い集めながら、集合地点の神社に向かう。
 8時開始だが9時前にはほとんど終わってしまう。
私の住む町内は通りがかりの車からの投げ捨てゴミは少な
く、用意された30リットル入りの袋は満杯になったことはない。

 このゴミ収集について何点か疑問がある。
(1)ゴミを拾ったり、町内をきれいにする行為に異論は
  ないが、何故同一時刻に市内「一斉」なのか?未だに
  わからない。
  「一斉」であることに「強制」の臭いさえ感じる。
(2)そして一番気になるのが、「不参加者」への態度である。
  行政が「一斉」とか「全員」を主導しているが任意に行わ
  れている活動であるはずなのに「不参加者」が白い目で見
  られることである。それも参加者からの非難が辛辣だ。

 「◯◯さん宅はいつも参加しないんだよね。ずるいよね。」と
 かはざらだ。

  前に紹介した辛淑玉に学ぶ正しい怒り方で紹介したが、
  「声出せば、無知な大衆。敵になる」という構図がリアルに
  立ち現れてくる。「日本の大衆は、自分より惨めな立場にい
  る者に同情するのは大好きだが、彼らが差別と闘ったり、異
  議申し立てをすると、とたんに攻撃を始める。」本当にこの
  とおりだから驚いてしまう。

  ま、参加しない人が「差別と戦ったり」しているかどうかは
  わからないが、少なくとも物事に対して多様な考え方が存在
  し、それを互いに尊重し認め合うという成熟した社会からは
  遠く離れた社会に今暮らしているのだなというのが実感だ。

  NHKの番組で「ご近所の底力」という地域の市民活動支援番
  組(私が勝手に付けた名称)がある。この番組も、ご近所の
  困りごとを解決して行くというお題目のもとに、「こんなよ
  いことなのに何故あなたはやらないのか?」という善意の押
  しつけ、実は新しい形の「村八分」がテレビというマスメデ
  ィアによってまき散らされているのが非常に怖い。 

あかんべ山2006顔合わせ会に行く

2005年12月17日 23時54分11秒 | 館林ロストと愉快な仲間たち
先週の日曜に「あかんべ山2006」の顔合わせ会に行って来た。
場所は昨年と同じ館林の西公民館。
毎年、この時期に開かれる「顔合わせ会」はコンサートに出
演するグループが一同に会し、実行委員会スタッフらと当日
までの準備状況の確認や互いの要求を擦り合せる重要な会合
である。
実行委員長の開会の挨拶に続き各グループの近況報告や実行
委員会からは会計報告など各種お知らせが行われ1月29日当
日の演奏順序などが承認された。会合は前日リハーサルの順
番などを決めて10時半には終わった。

集まったグループの代表の面々は以下の通り
さのっこ、館林ロスト、コンフントロス・クラカケス、達和会、
空とぶこんぺいとう、ワイルドフラワーズ
(ふたりーず、ユキとチエは欠席)
(下写真:実行委員長(左)とさのっこのTAKAKOさん。)

(下はさのっこのお二人)

(下の写真;左から達和会代表、音響師、空こん代表)

(左はさのっこのMARIEさん、中央はクラカケス、右はワイルドフラワーズ代表)

(館林ロストおよび実行委員の面々)

グルメギャラリーその8 怒涛の韓国編(その2)2日目朝食

2005年12月16日 00時00分48秒 | グルメ
タプコル公園をあとにして仁寺洞(インサンドン)にて遅い朝食。
(1)韓国の「つきだし」ミッパンチャン。この店では左から
   ナムル、水キムチ、キムチ、カクテキそして(5)が
   ついた。(もちろんお代わり自由!)
(2)H崎氏、O輪氏の頼んだソルロンタン。麺が入っていた。
(3)NI氏はキムチチゲ
(4)私はテンジャンチゲ。いずれも火傷しそうなくらい熱々。
(5)どんぐりの餅。日本の葛餅の食感とほぼ同じ。甘い蜜を
   かければデザートにもなりそう。





韓国ソウルの旅(その7)2日目、東大門市場からタプコル公園

2005年12月15日 21時34分44秒 | 韓国 ソウルの旅
 ところで、東大門、南大門この2つの門は現存するが
残りの西大門と北大門はない。昔はソウル市全体を囲む
城壁があってその四方を守る四大門がちゃんとあったそ
うだ。ところが、日本軍が城壁全てと2つの門を破壊し
てしまったとNIが教えてくれた。
 なんでも、日本統治の時代に皇族の誰かが朝鮮に来て
ソウル市内に入城する際、“日本の天皇の血筋が「属国」
の門の下をくぐるなど許しがたい”として取り壊してし
まったのだそうだ。日本にいては知らないことはたくさ
んある。西大門の刑務所もショッキングだったが、その
ことは後述する。

 さて、東大門のロータリー下の地下道を通り抜け、い
よいよ東大門市場へ。まだ、早い時間のため開店してい
る店は少ないが、我々が日本人と気がつくと、声をかけ
てくる。「おでん、あるよ。おいしいよ。」

 八百屋さんの店先にはきれいに飾られた果物が一際
目立つ。下の写真)

はじめは食品や衣料類を扱う店がほとんどだったのが、
通りを一つ、二つと越えて進むうちに店なみにも変化が
見られる。
 いつの間にか金物屋、工具店、食器など厨房用品を扱
う店ばかりとなっていた。
(写真は刃物屋で包丁の品定めのNI氏)

日本と同じように開発が進んでいるようで、雨天対策の
アーケード工事が行われていた。(下の写真)

市場を抜け出て、広い道路に出た。歩道を歩く。
工事中の歩道に思わぬものを見つけて微笑んでしまった。
ニードルフェルトである。昔は車の内装品に沢山使われて
いたものだ。韓国では、道路工事の仮道一面に敷かれて
いた。フカフカして歩きやすかった。
(下の写真の歩道部分一帯に敷設)

タプコル公園はその少し先だ。

公園入り口でなにやらパンフのようなものを配っている
男性がいたが、このときはもらわなかった。


門をくぐると正面に人物の銅像があり、その奥には八角
堂、右手には大きな壁の碑文が見える。NIによればこの
公園は以前はパゴダ公園と呼ばれていて、
3.1独立運動時に独立宣言書が読まれた場所なのだそ
うだ。
碑文の壁は「3・1独立宣言記念塔」と言い、刻まれてい
るのは「独立宣言文」そのものだった。
(下の写真)

ずっと奥の壁には12枚のレリーフ群がある。
これはこの公園から始まり朝鮮全土に広まっていった独立運
動で弾圧する日本の官憲たちに毅然と立ち向かった民衆たち
の様子が銅板に刻まれたもの。
下の写真は「観光コースでない韓国」を手にしたNI氏。この
本の中でもレリーフについては詳しく記載されている。NI氏
はレリーフの元文を写真に収め、これを訳してもらって本書
に紹介したそうだ。

ところで入り口のパンフおじさんだが、配布しているパンフ
には「独立宣言」が収められていた。すべてハングル表記で
外国人向けの物ではなかったが、私たちにもにっこりと微笑
んで手渡してくれた。しかも流暢な日本語で話しかけてくれ
た。
(写真右がパンフおじさん)

韓国ソウルの旅(その6)2日目朝、地下鉄で東大門へ

2005年12月15日 20時31分50秒 | 韓国 ソウルの旅
 ソウル2日目の朝。
7時半に起床。ロビーにて全員集合しホテルを出た。
本日の行程は長い。東大門市場を経て光化門まで歩
き、独立門、西大門刑務所を見学し、三角地の戦争
記念館、そして最終目的地の「国立墓地」と盛りだ
くさんだ。一日で巡るにはちょっときつそうだが、
明日の朝は起床と共に空港に向かうため、頑張るし
かない。
 歩いて地下鉄往十里(ワンシムリ)の駅に向かう。
路面はところどころ凍っている。駅入り口の公園に
は一昨日の雪が残っていた。
(写真は凍った歩道を歩いているところ)

(公園には雪が残っていた。下の写真)

(こちらは地下鉄駅入り口の表示、日本と同じで数
字で出入り口を示している。2番口だ。)

階段を下り、地下の通路を券売機、改札口方面へと向かう。
日本の地下鉄と同様に売店が並び雑誌や弁当・パンなどが
販売されている。電車の乗車券の券売機は日本とは違い少
し重々しい感じだ。ステンレスの鋼板がいかめしく、ちょ
っと目には券売機には見えない。
 札は使えない。目指す東大門運動場駅までは900ウォン。
「いい機会だから、窓口で買ってみたら。」とNIに言われ
「トンデモン・ウンドンジョン、ネージャン・チュセヨ」
と窓口で言ってみた。みごと通じたらしく、黄色い乗車券
が4枚差し出された。
(下の写真は改札口。テーマパークの出入り口のように身
体で棒を押して中へ入る。)

ここで問題がある。電車は上下線とか1番栓2番線とか必ず
双方向に発着する。自分目指す駅の方面かどうかがわから
ないと、逆方向に行ったりして悲惨なことになる。自分の
乗るホームをよく確かめなくてはならない。
ここでもNI氏のハングル通が発揮されたことはいうまでも
ない。


 まだ8時台、通勤時間帯らしく車内は込み合っていた。
地下鉄(チハチョル)2号線は環状線で、ぐるっと一周
すればまた元へ戻れる。車内放送に耳をすませると、な
んとか聞き取ることはできることもわかった。東大門運
動場はトンデモン・ウンドンジョンで運動場の発音が日
本の「うんどうじょう」に近いためすぐに聞き分けるこ
とができた。
 東大門運動場駅は往十里から三つ目、わずか10分足
らずの行程だった。下車後、どの出口から地上に出れば
よいのか、じっくりと付近図を見る。(下写真)

 1番出口がもっとも東大門に近いことが判明。一番の
階段を登った。

 地上では抜けるような青空が待っていた。