のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ドイツデコ

2006-01-30 | Weblog
警告:これより先、くだらない話をいたします。
   以下をお読みになると、貴方の人生の時間を浪費する恐れがございます。
   ご覚悟およびご了承の上、お進みください。







読むんでございますか。 
そうですか。
警告は いたしましたよ。


いえね、先日『N響アワー』で
ドイツ人指揮者のゲルト・アルブレヒトさんという方をお見かけしまして(20年前の映像でしたが)
「いやあ、これは見事なドイツデコだ」と感心したのでございますよ。

Yomiuri Nippon Symphony Orchestra[Conductor]

ド イ ツ デ コ とは、
段差のついた絶壁状のひたいのことを指します。

     
『N響アワー』↑のスケッチ

もちろん、のろが勝手にそう呼んでいるだけでございます。
例えばクラウス・キンスキーとか。promis3(←一番下の写真)
あるいはエド・ハリスとか。(米国人ですが)
それからもちろん のろがこよなく愛する クラウス・ノミ↓ とか。

     


ね。

のろは以前からこの 段丘状絶壁デコ を、心中で ドイツデコ ドイツデコ と
他人事のように 愛称していたのでございます。
ですから
ある時、友人からこのような宣告を受けたことは
全くもって晴天の霹靂でございました。

「のろよ、君のデコは 段々になっている。」

段 々 。

それはなにかね、友よ、のろのデコは ドイツデコになっておるということかね?
いぶかしんで訊ぬれば、同席していたもう一人の友人も
「今まで自分で気付かなかったの?」
と のたもうたでは ございませんか。

ところがですね
のろが鏡を覗いてみましても
自らのデコがさほどに段丘状になっているようには どうも見えなかったのでございますよ。

念のため 後日、もう一人の知人にも訊ねてみました。
前述の友らよりは のろとの付き合いが長い知人で 
ぶっちゃけて申せば親ですが
かように申されたものでございます。

「今まで自分で気付かなかったの?」

さらには「ピッコロ大魔王みたいだ」とまで仰せられたものです。

ああ 
灯台もと暗し とは このこと也。

で、ゲルト・アルブレヒトさんをお見かけして そのことを フと思い起こし
また こう 自らのデコをつくづく眺めてみたのでございますが
やはり キンスキーや ノミさんに 似ているとは思われないのでございますよ。

これは のろの知人3人ともが 視覚に問題あり、ということでございましょうか。
それとも のろが端から見ればそうと分かるが自分では気付かない という程度の
あいまいなドイツデコである ということなのでございましょうか。

おお! 
あいまいなドイツデコなんて 最低でございます。
どうせなら バ リッ と ビ シッ と 
疑いようも無いくらいに段差のついたドイツデコでありたいものです。

ううむ
わたくしの心の中で
スピノザとスナフキンが 頭痛そーーーな顔をしていらっしゃいますので
もうこのへんで クチをつぐもうと思います。




おお 貴方は 全部 読んじゃったのでございますね。
ですから 警告しておいたではございませんか。
くだらぬ話だと。

その脱力感と倦怠感を癒すために
キンスキーのかわいい写真でもご覧下さいませ。

TUXAMOON

どうしたんだね狂人キンスキー、そんなにかわいい顔をしちゃって。


ドスト話

2006-01-29 | 
昨日(1/28)の続きなのですが
ドストエフスキーはお好き?

去年、斉藤 孝 氏が『過剰な人』という本を上梓されました。
ドストエフスキー作品を、その登場人物に即して熱く語った、非常に愉快な本です。

過剰な人。 なんと適切な表現でありましょうか。

以下は巷の一読者たるのろの感想に過ぎませんので、
まあその程度のことと心得てお読みくださいませ。


ドストさんの作品において、
男はみな何かに取り付かれたように行動し
熱にうかされたように喋りまくります。
一人の人物が数ページに渡って喋り続けるなんてざらです。
(文庫本の数ページではございませんよ、ハードカバー上製本(テキスト2段組み)の 数ページ です。)
女はといえばおおむね聖女か狂女です。
あと若干の俗物と。
まともな人?
おりませんよ、そんなつまらないもの。

ドストさん、未読の方はぜひ一度手に取っていただきたいのです。
宗教的・哲学的側面から語られることが多うございますから、
小難しい観念的な作品という印象をお持ちの方もおいででしょうが
のろがお勧めいたしますのは、何よりもまず 面白い からです。
読まずに死ぬのは損でございますよ。

面白い小説を読んで、その上に
世界への肯定や 
神の不在や 
破壊性や 
衝動や 
悪や 
愛 
などなどについて考えることができるとしたら
これはお得な話ではございませんか?

『罪と罰』『カラマーゾフ』がダメだったという方は、『白痴』をお試しくださいませ。
この作品は冒頭から入り込みやすく、観念的な議論や独白が少ないので読みやすいかと思われます。
そして何と申しましても、この作品には
文学史上に輝くスーパーヒロイン、ナスターシャ・フィリッポヴナが いるからでございます。

おお 破壊の女神、ナスターシャ・フィリッポヴナ。
恐ろしいほどの美貌と 女王のような度胸と気位の持ち主。
そうでありながら、彼女は
自分のことを紙くずほども大事に思っていないのです。

彼女は、自らが放つ強烈な磁場のただ中で
自らを 破壊し
彼女を愛する者を 破壊し
彼女が愛する人をも 破壊します。

彼女は 自分を決定的に傷つけ、痛めつけた世界を 激しく憎みながらも
自らの「傷」と離れることができません。

女王のように振る舞いながらも 「自分は汚れきった存在である」という観念から
逃れることができません。

女王のように振る舞うことで 世界に対抗し
それによって自らのバランスを保っていたのです。

しかし
彼女の前に、そのあまりの純粋さゆえに「白痴」と称される公爵ムイシュキンが現れ
彼女の全てを肯定すると言った時---------

おおっとここまで
これが前半のクライマックスでございます。

面白いので、未読の方はぜひ読んでみてくださいまし。


などと申して 『白痴」をお勧めいたしましたけれども
のろが一番好きなのは『悪霊』なのですよ、キリーロフ君。

美術百科「世界一周」の巻

2006-01-26 | 展覧会
先日のことですが 
青春18きっぷを消化するため、和歌山県立近代美術館へ行って参りました。
のろはこの美術館が大好きなのでございます。
その理由はおいおい語らせていただくとして、今回は開催中の展覧会についてレポートいたします。

美術百科「世界一周」の巻(前期:1/15~2/19 後期:2/28~4/9)
と銘打った コレクション展でございます。
収蔵品は、作者の出身地や、モチーフとなった場所によって8つのセクションに分けられています。
和歌山から太平洋を渡って、南北アメリカ、大西洋、欧州、中近東からアジアを通ってまた日本へ
セクションを辿ることで「世界一周」をしようという趣向。

なにしろ全館展示でございますから、その作品数の多いこと。
リーフレットも充実しております。
それでいて、お値段たったの310円。

310円ぽっちで こんなに楽しめちゃって いいのでありましょうか。

この美術館は版画の収集に力を入れておりますので、
いきおい、コレクション展では版画作品が多く見られます。
ひとくちに版画と申しましても、素材から技法から さまざまでございまして
版画表現の博覧会のような様相でございましたよ。
「この技法でこういう表現もできるのか」
「この雰囲気は、この技法ならではよなあ」 などなど
版画というカテゴリの中での比較ができたのも、面白うございました。

各セクションには、二つ折りのリーフレットが用意されております。
ページNo.もふられておりますので、全部集めるとちょっとした冊子ができあがります。
モノクロのコピーながらも 丁寧なつくりで
「展示を楽しんでもらいたい」という、学芸員さんの熱意と心遣いが感じられます。




展示作品が、どの国のどこにちなんでいるのかが地図で示されております。

キャプションには時折、作品そのものとは関係のない
土地についての豆知識も取り上げられており、これまた楽しめました。

そうそう、おかげでゴルフ・ジュアン海岸、エルバ島を脱出したナポレオンがフランス本土に上陸した場所、の位置も分かりました。
いやー また会いましたね、アニキ。

ちなみにこの時のエピソード というか小話 がございまして。

ナポレオンが本土に上陸すると、部下がヴァンス公モナコをつかまえてきました。
「モナコ、一緒に行こうではないか」と言うナポ。
モナコは驚いて「とんでもない!私は家に帰る途中で連行されたのですよ」
ナポいわく 
「そうか。私も家に帰る途中なのだよ。

ホントの話かどうかは存じません。
しかし いかにもこんな場面でこんなことを言いそうですね、ナポ。
どうもこの人は かっこよさげなことを言って相手を丸め込むのが得意だったのでは
と 思うのでございますよ。
肖像画を依頼しても、じっとポーズをとっているのは嫌なので
「アレクサンダー大王はポーズなどとらなかった」などと言ってみたり。
このせっかち気質のため、ダヴィッドによる有名な 若きナポ像 →ナポレオン1 は顔の部分しかできておりませんし
例の『サン=ベルナール山からアルプスを越えるボナパルト』を描く時は
ナポから借りて来た軍服を人に着せて、ポーズをとってもらわなくてはならなかったのだそうです。

いや ナポ話じゃなくってさ。

ええともかく。
楽しい企画で、内容もよろしうございまして
のろは4時間ばかりおりましたけれども、時間があればもっとゆっくり見たい展覧会ではございました。
2月に展示替えがあるようですし、3月にはまた18きっぷが発売されるので
何とか また出かけたいと思っている次第でございます。


1月 24日

2006-01-24 | KLAUS NOMI
本日は クラウス・スパーバーの誕生日です。     



            



1944年 ドイツアルプス地方の小さな町に生まれた彼は
父親を第二次大戦で亡くし 母親の手で育てられました。

母親は音楽好きで 家にはレコードプレイヤーがあり
幼いスパーバーは クラシックのレコードをかけては 曲に合わせて歌いました。

地元でオペラが上演される時には 子役エキストラとして舞台に上がり
クラシック音楽と舞台芸術に親しみながら 成長しました。

12歳の時 エルヴィス・プレスリーに夢中になり
ロック嫌いの母親からお金をくすねて レコードを購入。
しかし 地下室に隠しておいたレコードは あっさり母親に見つかり
そんなものよりこれを聴きなさい と 代わりにマリア・カラスのレコードを渡されます。

この日から エルヴィスと同じくらい マリア・カラスにも惚れ込んでしまった スパーバー少年 
ある時 念願かなって 彼女の舞台を間近に見る機会を得ます。
(後年、この時のことを振り返って「一瞬、彼女と目が合ったんだよ!」と主張しています。はいはい。)

その翌日から 声楽のレッスンを受け始め
長じては ベルリンの音楽大学に通うようになります。

音大に通いながら 歌劇場の案内係として働く 田舎出の学生スパーバー。
掃除をしながらも 歌いまくり ソプラノの裏声を使って 
マリア・カラスの歌真似をして 同僚を楽しませたりしつつ
オペラ歌手になることを夢見ますが 歌手としての働き口は 見つからず

バーで歌って何年か過ごしたのち N.Y. へ 渡ります。

1970年代のイースト・ヴィレッジに 貧乏アーティストの一人として居を構え
アルバイトや 菓子職人として 生計を立てつつ
パフォーマーとしての道を模索します。
(本人は体質的に砂糖を受け付けなかったらしいのですが、お菓子を作って人に振る舞うのは大好きだったようです。
 彼の作るパイはとてもおいしくて、腹をすかせたアーティスト仲間のあいだで通貨のようにやりとりされました。)



ある夜
ニューウェーヴのパフォーマーたちが集う ショーでのこと

髪を三方に逆立て 
白塗りの顔に 黒いルージュをひき
歌舞伎役者のくまどりのような メイクをほどこし
B級映画の宇宙人のような チープな衣装をまとった
奇妙な人物が 舞台に立ちました。

彼が歌い始めると
観客も パフォーマーたちも 
息を呑み 唖然として その場に固まりました。

クラウス・ノミ と名乗る その奇妙な人物が 黒い唇から発したのは
ちぐはぐな容貌からは想像もつかぬ 澄んだソプラノの歌声と
美しい オペラのアリアの一節だったからです。


この夜から
1983年 当時は謎の奇病とされていたエイズで 生涯を閉じるまで
彼は  クラウス・ノミ  として生き続け
二度と クラウス・スパーバー に 戻ることはありませんでした。





誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。

            









Picture Copyright:2004CV Films|CAMEO Film|ZDF/Arte

ナポレオン展5

2006-01-22 | 展覧会
1/21の続きでございます。
ようやくシメでございます。

全体を通して感じたことは(否定的に聞こえるかもしれませんが)
「ナポレオン」というイメージの肥大化ということです。

革命に続く、混乱と国家的危機の中にあって
人々は若き常勝将軍ボナパルトに「救国の英雄」というイメージを託しました。
ナポレオン自身もそのイメージを積極的に活用し、
絵画という手段を用いて、いっそう拡大・促進しました。
それと同時に、彼自身の持つ自己像も否応なく肥大して行った
そのさまを、彼を取り巻いた「もの」や絵画から 見るような心地がいたしました。

あるいは
彼はもともと 欧州に君臨する巨大な英雄 という、並外れたスケールの自己像をもっており
その自己像に近づくために、バリバリ働き どんどん戦争をし 版図を拡大していったのかもしれない
とも 思ったのでありました。

とまあ実になんとも
見どころ盛りだくさんな展覧会でございましたが
のろが一番の 穴場チェックポイント としてお勧めいたしますのは
展示No.97 『サラゴサの包囲、サンタ=エングラシア修道院の襲撃』という油彩画の
右下隅にいらっしゃる

倒れたフランス軍兵士に銃尻で殴りかかる修道士 の姿でございます。




いやあ・・・
ここはひとつ 思い切りつっこんでさしあげようではありませんか。

修道士さま、汝の敵を愛さんでいーのかね。


あともうひとつ。
複製ですが、ナポレオンの足あっため用椅子
 
寒がりだったんだそうです、ナポ。
ここで今一度 声を大にしてつっこんでさしあげようではありませんか。

ロシア行くなよ、寒がり。


パリよりも ヴェルサイユよりも 故郷のコルシカ島よりも
ずっ と南の 
はるか 南の 
赤道近くの 
英領セント・ヘレナ島に流されて そこで死んだナポ。

6年間の流刑生活の間に、あのアルプス越えの時の寒さを
懐かしむことも あっただろうか。

巨大な自己のイメージを追いかけて 内には改革に腕を振るい 外には版図を拡大し続け
つまるところ、戦争をしまくったナポ。
一連の戦争で、フランス側だけでも 70~100万の死者が出たと見積もられております。
ラスコーリニコフがなんと言おうとも
「才能ある非凡人が低級なる凡人の命を犠牲にする」なんて 絶対に 良かないんだ。
(↑『罪と罰』の、このくだりを読むと、自分の倫理観を揺さぶられるような心地がして くらくらいたします。
 今こうして打ち込んでいても のろの脆弱な倫理観は くらくら いたします。)
英雄と言ったってナポ、
君は 無数の「凡人」たちの 死体の山の上に 立ってるじゃないか。

ナポレオンファンにはなれませぬが
博物館を出る頃には
本好きで 寒がりの このアニキに
なにやら親しみを覚えてしまった
寒がりのろ ではございました。








ナポレオン展4

2006-01-21 | 展覧会
本日はルイ16世の命日だそうで。
すなわち、ギロチンにかけられた日ということでございますね。
えらい前の話ですが、ご冥福をお祈りいたします。南無阿弥陀仏。
ちなみにマリ-・アントワネットの命日は、ずいぶん下って同年の10月16日ということです。
彼女の最期の言葉は、ギロチン台に向かう際にうっかり刑吏の足を踏んづけてしまい、発したセリフ
「ごめんあそばせ。わざとではございませんのよ」であると伝えられています。

わざとではございませんのよ。   …いいですね。

さて、ルイ&マリーの話はこのへんにして、ナポ話でございます。

グロとダヴィッドに字数を割きすぎました。その他の展示を、駆け足でご紹介します。

「家族」というセクションでは、ナポさんの兄弟や妹の顔が拝めます。
あたりまえですが、みんなナポレオン顔で なんだか笑えます。鼻と口元がもう、皆そっくりで。
ナポさんが幼い甥っ子や姪っ子と、テラスでくつろぐ姿を描いた作品などもあり
その中で、ナポの膝に乗ってだっこされている幼児が 
のちのナポレオン3世であるというのも、面白うございました。

それからこの展覧会が目玉としておりますところの、「部屋の再現」。
実は 見る前は馬鹿にしておりました。 再現されてもなあ~ と。

これがですね、意外とよろしかったのでございます。
実際に 壁 や 家具 が空間に配されているのを見ると、写真で見るのとは異なった
現実感 と申しましょうか、3次元の「もの」の存在感 というものが感じられて。
室内の配色や装飾を、そうして立体的に見られたのは、ようございました。

で これがですね。意外とシックで、趣味がいいんでございますよ。
そりゃあもちろん、ナポさんがデザインしたわけではございませんが
「ヴェルサイユ」と聞いてイメージするような、豪華絢爛な華美さはなく、
かといって質実剛健というほど無愛想なわけでもなく。
ナポレオンは平和をイメージさせる色であるを好んだとかで、緑を基調とした執務室はなかなか居心地がよさそうです。
この書斎の様子は、ダヴィッドの『書斎のナポレオン』という作品にも描かれています。
(この展覧会には来ていませんが下のサイトで見られます。クリックすると絵が大きくなります。)
Great Art Masters

↑時計をご覧下さい。
これ、 夕 方 の 4 時 ではないんでございます。 朝 の 4 時 なのです。(ランプがついておりますね)
つまり、皇帝は愛する民衆のために、こんな時間まで(またはこんな時間から)執務をしているのだよ、
ということを示しているのだそうです。
ははあ、さすがは睡眠時間3時間の仕事人間。(よく馬上で居眠りしていたらしいけれども。)

脱線いたしました。
ナポがやはり好んだという、ヨウラクユリの瀟酒な文様などを見ましても
「ほお こういう趣味だったのか」と、少なからずわたくしのナポ観を改善せしむるものがございました。

実際に使われていた調度品や装飾品も、見ものでございましたよ。
執務机(本当に使われていた形跡が見て取れます)やら、
戴冠式の時に身につけていたレースやら、
食器やら、洗面やら、便座やら。

ナポレオンの便座。


・・・・・ありがたいような ありがたくないような。


また長くなってしまいました。
すみません、もう一回続きます。





ナポレオン展3

2006-01-20 | 展覧会
1/19の続きです。
次の展示室に向かうと、いきなり『アルコル橋のボナパルト将軍』が迎えてくれます。




ごめんよ遊んじゃって、ナポ。カッコよすぎてちょっと恥ずかしいのさ。


ダヴィッドの優秀な弟子、ジャン=グロは、若き「ボナパルト将軍」が
乱戦のさ中、味方の兵たちを鼓舞するシーンを捉えています。

オーストリア軍に対して苦戦を強いられる中、将軍自らが軍旗を手にして
「諸君の将軍に続け」と叫んで敵陣に向かった という場面です。

役 者 で す ね え、アニキ!

もちろん「実際の勝利は本作に描かれているほど輝かしいものではなかった」(ガイドブック)ということです。
戦争 ですからね。

では、この場面をグロはどう描いたのか。
砲煙の立ちこめる中、削いだような頬の若い将軍は
右手に抜き身の剣を持ち 左手には強風になぶられる軍旗を握りしめ
さっそうと配下の兵たちを振り返っています。
淡色の髪は 軽やかに風を含み 軍服の金糸は 重厚に輝いています。
背景には放火を受けて燃え上がる建物が垣間見え、戦況の厳しさが表されています。

絵の中のナポレオンは、後年、ドラクロワが描いた 自由の女神 さながらに、力強く輝きを発しています。

○○民衆を率いる自由の女神(1830年7月28日)/ウジェーヌ・ドラクロア○○

グロはこの「救国の英雄」を、あたかも女神を描くような心地で描いたのではないでしょうか。
卓越した写実の腕を示しながらも(バックルの映り込みをご覧下さいませ)この絵は決してリアリズムではないのです。
だから「軍服がちっとも汚れてないぞ」というツッコミは、置いといてあげましょう。

この作品にしても、同セクションで見られる
『サン・ベルナール山からアルプスを越えるボナパルト』
(ダヴィッド!これを日本で見られるとは・・・)にしても、
ナポレオンを英雄として理想化し、わざとらしいポーズで描いているにもかかわらず、
「いかにもヨイショしている」といういやらしさが感じられません。
(ここよりも後、皇帝就任後セクションの展示作品には、このわざとらしい「ヨイショ感」が見られます)

これは、わざとらしさを感じさせない、画家の力量 ということもありましょうが、
画家が本当にモデルに惚れ込み、その美を描こうとしている
ということでもありましょう。

画家が 対象に美を見出す とは、一面、
画家が自分の心の中にある「美」というかたち無きものを、かたちある「対象」に投影するということです。
対象が生きた人間であった場合、対象と画家との関係の変化により、
往々にして投影は引き戻されてゆくことになります。
ダヴィッドも後年、ナポレオンと不仲になり、わざとらしさを感じさせる作品を描いていますが
(のろの印象ですよ、あくまで。)
ここで見られる作品は画家とモデルの蜜月という
幸福な状況で描かれたものであり、
それは その蜜月から200年ののちに作品を目にするわたくしたちにも
幸福感と 高揚感を もたらしてくれるのです。


あーーーー話が長いんだよ、のろ!
すみません、もう1回ぐらい続きます。

ナポレオン展2

2006-01-19 | 展覧会
アニキ、そいつあちっとカッコつけすぎじゃないすか。 



ということで
『ナポレオンとヴェルサイユ展』でございます。
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展示は「1章・革命」から「11章・ナポレオンの最期そして伝説」まで、おおむね時代順に並んでいます。
展示室の入り口でガイドブック(100円)を購入できます。
短い文で全作品の解説が書かれております。
展示スペースにはほとんど解説の表示がありませんので、
持って歩かれることを強くお勧めします。あった方がだんぜん楽しめます。

のっけから
牢獄の壁を背景にした 喪服姿の マリー・アンとワネットの肖像 という珍しいものが見られます。

しかし第一展示室の目玉はやはりダヴィッドの『マラーの死』です。



昨年の『ルーヴル美術館展』でもお目にかかった作品ですが、
よいものは何度見てもよろしうございます。

凶行直後の 浴槽に半身浸かったままの 刺殺死体 という凄惨な場面でありながら、
この静謐さといったらどうでしょう。
また、静謐でありながらも
床に転がる血の付いたナイフ、だらりと垂れた右腕、浴槽の中の血だまりといった
描写の生々しさといったらどうでしょう。
筋力を失い、がっくりと傾いた死者の頭部に目を転ずれば
光に照らされた顔はわずかに微笑み、不思議に穏やかな表情を浮かべています。
画家がこの革命理論家の死を悼み、革命に殉じた英雄としての姿を
描こうとしたことが伝わって参ります。

頭に巻いたタオルの描写もまた本当に素晴らしくて・・・
などと のろごときがいかに駄弁を弄したとて、
この作品のものすごさを言葉に翻訳できはしないのでございますよ。
前にも見たという方も、初めてという方も
ぜひとも実物に会いに、足をお運びいただきたい。
くれぐれも「図版で見られるしいいや」などとお思いになりませぬよう。

例によって、まだ続きます。


ナポレオン展1

2006-01-17 | 展覧会
本日は 悪名高き
禁酒法発行の日(米,1920)でございます。
なおかつ、
アル・カポネの誕生日(米,1899)でもあります。
ううむ なんとも面白い偶然ではございませんか。

お酒には色々と面白い逸話がございますね。
密造酒 ということで言うなら、のろは My alltime best映画『大脱走』で
捕虜たちがジャガイモで蒸留酒を作り、アメリカ独立記念日を祝った(そして脱走用トンネルが発覚した)
あの一連のシーンが忘れられません。どこまでが実話なのかは存じませんけれども。

ここで問題です。
蒸留酒の銘柄のひとつ、コニャック。
6年以上熟成させたものが名乗り得る等級は、X.O、エクストラ、 さて もう一つは何でしょう?


答えは、





ナポレオン です。

と いうわけで
「ナポレオンとヴェルサイユ展』(神戸市立博物館 3/19まで)へ行って参りました。


絵画はもちろんのこと、家具調度から宝飾品から便座からレジオン・ドヌール勲章まで、
大きなものから小さなものまで
美術的、歴史的に価値あるものが盛りだくさんで、たいへん見ごたえがございましたよ。

「ナポレオンの波乱の生涯を縦軸にして、その時代に花開いた
新しい様式や文化、社会の様子を浮き彫りにしようとする試みです」
という、解説の言葉どおりに
ナポレオンという魅力ある人物について知ると共に、
フランス革命後の かの地の歴史的・風俗的状況の一端を、「もの」を通して伺うことができ、
まったく 一粒で二度からおいしい展覧会でございました。

・・・ぬけぬけと「魅力ある人物」などと申しましたけれども
実のところ、のろは当初、ナポさんにはあまり興味がございませんでした。

ルーヴル宮を美術館として整備した とか
読書家で、軍の遠征にも「マイ図書館」を携えて行った といった
好もしいエピソードも知らぬではありませんでしたが
むしろ好もしくないイメージの方が先行しておりましたので。

百日天下とか。
政略結婚のために長年連れ添ったジョゼフィーヌを離縁したとか。
皇帝就任の報に腹を立てたベートーベンが、交響曲の献辞を取りやめたとか。
(勝手に捧げといて勝手に止めるんだから世話ないですね)

『罪と罰』のラスコーリニコフは強盗殺人を正当化する口実に使うし。
(↑ナポレオンのように偉大な人間には、法を踏み越える行為も許される云々)
横光利一の短編『ナポレオンと田虫』では一晩中カユさにのたうちまわるおっさんだったし。

あ 地の底から 「後の2つは余と関係ないんすけど」ていうナポさんの声が聞こえる。 

ともあれ。
この展覧会を経て、わたくしの中の ナポレオン株 は大幅に上昇いたしました。
堀江社長もびっくりの上昇ぶりです。

まあナポレオンは、絵画を自らのイメージ戦略に活用した人ですから
のろはまんまとその戦略に引っかかった ということになりましょうか。
もっとも、のろが好もしく思ったのは
「寒がりだった」とか
「倹約家だった」とか
「部屋を緑で統一させた」という点なんでございますが。

また長くなりそうですので 続きは後日。

『本の文化史』

2006-01-16 | 
『本の文化史 ブック・アラカルト』庄治浅水著 雪華社 1977 を読みました。
書物にまつわる歴史上のエピソードや、書物に とりつかれた 人々が登場する短編小説が収められた
まさしく本のアラカルトという趣き。
筆者や、言及されている人たちの書物愛がひしひしと伝わって参りまして、大変面白うございましたよ。

その中に「ある古本屋の殺人」という一編がございました。
ミステリではないので、ここで荒筋を紹介しても罪にはならぬでしょう。


時は19世紀、所はスペイン、バルセロナの都。
本好きが高じて、修道士から古本屋に転身してしまったドン・ヴィンセントというおっさんがおりました。

彼は商売品とは別に、珍本・稀本のコレクションを持っておりました。
飢えをしのび爪に火をともして金を貯め、それを全て稀本の蒐集につぎ込んでいたのです。
この秘蔵本はよほど危急の時でもないかぎり、どんなに大金を積まれても売られることはなく、
売ったとしてもすぐに買手の後を追いかけ、大騒ぎして結局金と本を取り返させるという始末。

ある時、オークションで天下の孤本『フラウス・デ・アラゴ』が出品されると聞きつけたドン・ヴィンセント、
ありったけの金を工面して乗り込みますが、あと一歩の所で商売がたきパクストットにせり負け、
ほとんど死相を浮かべて引き下がります。

その数日後、パクストットの店が火事になり、家主は黒こげの死体となって発見されます。
それに続いて、学識ある人物が、所持金は奪われることなく街路で刺殺されるという事件が続発します。
被害者はみな、バルセロナ中の本屋の常連客。
殺される前にドン・ヴィンセントの店にいるのを見たという証言もありました。

あまりにも怪しいのでドン・ヴィンセントの店を捜索してみると、果たせるかな
世界に一冊しかないはずの『フラウス・デ・アラゴ』
パクストットが持っていたはずのこの本が見つかったではありませんか。
また、殺された学識者たちが-----殺される直前に-----彼から買い取ったはずの、数々の貴重な本も。

尋問に答えてドン・ヴィンセントいわく、
「わたくしはいくつかの法を犯しましたが、決して悪意があったわけではありませぬ。
わたくしは学問に貢献するため、かけがえのない宝を保存しようと思ったのであります。
多くの人は、本よりもお金を愛し、書物よりも、この世の宝(=金)を尊びました。
このような人々に、大事な本を預けておくのは、とても忍びません」

いちおう、裁判は開かれました。
検察側が、動かぬ物証として「天下の孤本」がドン・ヴィンセントの店で発見された事実をつきつけると、
弁護士はとっておきの切り札を出し、こう切り返しました。
「『フラウス・デ・アラゴ』は天下の孤本ではございません。現に、フランスの図書館が1冊所蔵しているのです!」
これを聞いて、それまで端然としていた被告がわっと泣き崩れました。
「ああ裁判長、わたくしはとんでもない過ちをおかしました・・・」
ようやく犯行の重大さに気付き、悔悟したのかと優しく声をかける裁判長に対し、
「ああ裁判長、わたしのあの本が、天下の孤本ではなかったなんて・・・」

かくして、罪深き もと修道士ドン・ヴィンセントは、絞首台上の露と消えたのでありました。


これがですね。

実話なんだそうでございますよ。

すごいお方ですね。
まさに 愛書狂の名にふさわしいお方ではありませんか。
台詞にはもちろん脚色もあるでしょうから、この一編がどこまで事実に忠実なものかは分かりませんが
次の言葉などはなかなかの至言かと。
法廷で、神様が守ってくださるので犯行は全て首尾よく行うことができた、と語るドン・ヴィンセント。

裁判長「というと被告は、人を殺す心も神の御心の内にあると申すのか」
ヴィ 「人は死すべきもの、神様は遅かれ早かれ、彼らをみ許にお呼び寄せになりますが、
   しかし、良書はこの世の続くかぎり、保存しなければなりません」


ああ裁判長、彼のこの素晴らしい情熱と使命感が、もう少し別な方向を向いていてくれたらよかったのですが・・・

ノミ話3

2006-01-15 | KLAUS NOMI
とりあえず、Tシャツ姿のクラウス・ノミでもご覧下さい。





T シャツ の ノミ 。

これがまた似合わないんだ。

もと写真はこちら。→gallery

まあイカレファンといたしましては、その似合わなさが なおさら可愛いぜ などと思うわけでございますがな。

そもそも
あの容貌、あのメイクで、普通のTシャツを着ようというのが間違いです。
在りし日のノミさんのお姿を見るにつけ、
ああ この人は 「普通」の似合わない人だったのだなあ と、つくづく思います。
だってね、ちっと見てくださいましよ。
Ashra - The News Archive (スクロールして行くと、真ん中より少し上あたりに、
革ジャン&白Tシャツに赤いパンツでフツーにロックンロールしてるノミがいます。
ノミだとわかるかなあ。デコでわかるとは思いますが..)

↑これよりも、klausnomiland : Klaus Nomi land - A place for fans of Kl

こちらのお姿の方が断然、似合っておいでですし、断然、素敵じゃぁござんせんか。

映画『ノミ・ソング』でも、「彼は、普通にしていてもなんかだった」
とか「人間、誰しも変な所はあるけど、彼はとりわけだった」などという、関係者の
ナイスな証言がございました。
いやあ いいですねえ。 


...とか申してはおりますが。
少々まじめに語らせていただくなら、
自分は普通にしているつもりなのに、周りからは変だと思われてしまう、というのは
ちっとばかり 辛いことでもあるんでございますよ。
そして
ノミ本人や周りの人たちが、彼のそうしたアブノーマルさを意識的に活用したからこそ
「歌う変異体・Klaus Nomi」という存在が、あのように確立し得たのだと、思うのでございますよ。

インタビューで「僕は自分を生きるアートだと見なしている」と語るノミ。
音楽仲間のC・ホフマンは「彼は、”未来はアーティストを求めている”と言っていた。
常にその観点から、いかに生き、いかに生活するかを決めていたんだ」と語ります。(映画の英語版公式サイトで読めます)

「Klaus Nomi」というペルソナは、彼や彼の仲間たちが作り上げた、 作品 でした。
ひとたびこのペルソナが確立されると、
彼はその後ずっと------ステージ上はもちろん、舞台を降りてもなお------この仮面をかぶり続けました。
「Klaus Nomi」でいるかぎり、彼は「ドイツなまりの裏声で歌うゲイの小男」という異質な存在ではなく、
「Klaus Nomi」という作品として、あるいは「Klaus Nomi」を演じる人間として
いわば、公に認められていたのです。

アートとは、世界の中で「私はここにいる!!」という叫びである と のろは思っております。

「Klaus Nomi」という存在は彼にとって
「普通」の似合わぬ、
「普通」でいられぬ、彼が、世界に受け入れられるための desperateな策であった と
また あるいは
シャイでおとなしいくせに目立ちたがりだったという彼が、
パフォーマーとしての道を歩むための、大仰な かくれみの であったと
そのように思えてならぬのでございますよ。

「普通」が似合わない。
「普通」でいられない。
けれども、「僕はここにいる!!」という
世界に対する 叫びのように 思われれてならぬのですよ。

そう思って見るとほら、
ノミさんのちっとも似合わぬTシャツ姿が
なにやら いとおしく 感じられはしませぬか。

ううむ
本日は絵だけUPしてあっさり終わる予定であったのに
えらいこと語ってしまいました。

いいんだ。堂々と胸をはって変人道を歩むことに決めたんだ。

これに懲りず
まだまだ続きますよ、ノミ話。
誰も期待してなくったって語っちゃうんだもんね。
はっはん。




ドイツ写真の現在3

2006-01-13 | 展覧会
1/11の続きでございます。

Loretta Lux ロレッタ・ラックス でございます。

キーワードは「いかにも」です。
いかにもありそうな、とか いかにもそれらしい、の「いかにも」です。

「いかにも」とは、送り手(作る人)と受け手(見る人)の間にある、暗黙の了解事項です。
「いかにも」とは、「受け手の意表をつく」とか「受け手の世界観をゆさぶる」という無礼なことを決してしない、
心地よい記号の集積です。

げにも、この世は「いかにも」な像に満ちあふれております。
CM、広告、TVドラマは「いかにも」の大博覧会です。
「いかにも」には作り物めいた嘘くささが伴いますが、その嘘くささも、相当に、かつほとんど無意識的に、
許容されあるいは見過ごされています。

技術的な面で言うなら、昨今のCG技術の発達が、「いかにも」なものを作り出すことに一役買っています。
(去年、豊岡でコウノトリの放鳥が行われたあと、「宵の満月を背景に羽ばたくコウノトリ」という「いかにも」な写真が新聞に掲載され、後でそれがCGによる合成写真だと発覚した、という事件がありましたね。)

Loretta Luxの作品では
可愛らしい子供たちが「いかにも」ないでたちで、「いかにも」なポーズで、「いかにも」な背景に収まっています。
でも、なにかがです。 
実は彼女の作品は、別々に撮影したモデルと背景を、CGで合成した上、細部や色彩を丹念に修正して作られたものなのです。

フレームの中の「いかにも」な子供たちは、天使のように美しく、かつ、見過ごせないほどの嘘くささを帯びています。
この美しさと嘘くささは、表層の、つまり絵的な 美と うそ性 のみに留まるものではなく、
「純粋無垢な子供時代」という観念の、心地よさと嘘くささを表しています。

無垢なる子供、透き通ったまなざし、自分もかつてはこうであった・・・
あたかも失われた楽園のように、「純粋無垢な子供時代」という観念は
甘美で清らかなイメージに満ちています。
しかし実際の所、その観念はあくまでもファンタジーです。
「完全なる善」や「楽園」など、そもそも存在しないのと同様に。

分ちがたく結びついた 美 と 嘘。
これを表現するにあたって、CGという技術の うそ性 を逆手に取って活用するとは見事です。

展示作品はあまり多くなかったのですが、
幸い売店で彼女の作品集を購入できました。



ドイツ写真の現在2

2006-01-11 | 展覧会
1/9の続きでございます。
Andreas Gursky アンドレアス グルスキー でございます。

抽象絵画を見るときならいざ知らず
写真を見る時、通常、私たちは「そこに何が写っているのか」に、まずもって関心を向けます。
ああ花が写っているのだな、とか ああ人物が写っているのだな、と。

ところがGursky氏の作品は、被写体が何であるのか、ということに先立って
まずは美しい色面として目に飛び込んで来ました。

あるいは くすんだ白とまぶしいようなグリーンの 簡潔なボーダーの色面として。
あるいは 広がる赤い空間にリズミカルに散りばめられた、白と黒のスポットとして。

眺望のある風景を理屈抜きで楽しむように、目の前の色面の美しさ、面白さ、そしてバランスの妙は
それだけで充分に、目の喜びでありました。
ぜひとも、まずは 作品から離れた所からぼんやりと眺めて見ることをお勧めいたします。

しかし
そこに写されたものが何であるかをよく見るにつれ、
「ああ この現象は一体何なのだろう?」という思いに捕われました。

そこに写し出された現象とは、
あるいは 赤い絨毯を敷きつめた大部屋で、四辺を壁に囲まれ、蜂のように働く人々であったり
あるいは 無数のゴルフボールが転がるグラウンドのはるか向こうで、厩舎のような空間におのおの収まって、打ちっぱなしに興ずる人々であったり
あるいは 人っ子一人いない曇天のもと、まぶしい緑の草地の中を、たゆまず流れる白い川であったり。

巨大な作品です。
どの作品も、タタミ何畳という大きさです。
単純に「大きいなあ!」という感想を持つ一方、あることに思い至り、ぎょっとしました。

ここに写っている現象そのものは、この写真よりもよほど巨大ではないか。
この現象そのものの巨大さに比べたら、目の前の写真の大きさなど、取るに足りないではないか。

まるで、映画のスクリーン上で 接写をしていたカメラがさあっと引いて行き
巨大な風景を捉えたその中に いつの間にか スクリーンを見ている自分までが映し込まれている のを 発見した かのような 空恐ろしさを感じたのです。

私たちは常に、こんなにも巨大な現象の一部に組み込まれて、(そして、写真の中の人々同様に、その事実を意識することがなく)存在しているではないか。

一体、これは何なのか?
一体、この巨大な現象は何なのか?

その美しい色面は
わたくしを、答うる者とて無い問いの海に突き落としたまま
沈黙しておりました。


実を申せば
まだ続きます。
というわけでまた後日。

 


ドイツ写真の現在1

2006-01-09 | 展覧会
馬鹿なので風邪をひきません。
今年もひかぬ予定でした。
ところがどっこい、ひきました。
ああ のろも 風邪をひきうる程度には賢くなったのか と思うと感慨深いですなあ。ゴホゴホ。

さておき。
『ドイツ写真の現在』展に行って参りました。
京都国立近代美術館にて2/12まで開催中です。
「ドイツ写真の現在 かわりゆく「現実」と向かいあうために」

これは非常に面白うございました。
長くなるので、数回に分けてレポートいたします。

セクションは写真家ごとに区切られておりまして、第1室がこの方々でございます。

Bernd & Hilla Becher ベルント&ヒラ・ベッヒャー
モノクロームの静謐な画面に写されているのは、
かつては採掘産業を担っていたであろう巨大な施設や
採掘場の煙突を遠景にして立ち並ぶ、似たような形の家々。
あるいは、ポートレイトのようにきちんとフレームに収まった、さまざまな採掘塔たち。
あるいは、時を追って(かなり無計画に)建て増ししていったことがありありと分かる、なんとも個性的な面持ちの小屋たち。

被写体は全て、「機能」を目指して造られたものばかりです。
美的価値や、造形的な面白さを目指して造られたものではありません。
にもかかわらず、こうしてフレームに収められた彼らの姿は、確かに 美 や 面白さ を発しているのです。
機能性を求めただけなのに、ふと気付けば、そこに 美 が発生している。

バウハウスの創始者、グロピウスによれば
「目的合理性(のろ注:手段と目的とが適合していること)は、対象の美しさの一つの要素である」と。
(『キッチュの心理学』A・モル著 叢書ウニベルシタス 1986 p.173)

グロピウスさんに言わせれば、機能的なものが美しいのは当然のこと と、なりましょうか。

では、どう見てもあまり「機能的」には見えない建て増し小屋の面々、
謎の出っぱりや、無理矢理なはり出しや、意味不明の傾斜で身を飾り
柱一本折れたら全倒壊しそうな アンバランスな構造の彼らが発する 美 は何なのでしょうか。

合理主義・機能主義的な考えでバウハウスに影響を与えたテオ・ファン・ドゥースブルフは、その著作において、このようなことを言っております。
例えばここに一頭の雌牛がいる。その牛を、人が見る。
その人が獣医なら、彼が見るのは牛の 健康状態 であり、
その人が肉屋なら、彼が見るのは牛の 商品価値 であり、
そのひとが芸術家なら、彼が見るのは牛の 造形的・美的な側面 である と。
(『新しい造形芸術の基礎概念』 バウハウス叢書6 中央公論美術出版 1993 p.15~16)

つまり芸術家の目は、「もの」の持つ一般的な機能とはまた別に、その「もの」の中に 美的な価値 を認めうるのだ と。

「もの」を、もはや機能から自由になった美的存在として 見る。
あるいは、「もの」を、その合目的的、機能的な美を宿した存在として 見る。

どちらの方向をとるかは鑑賞者にゆだねつつも、ベッヒャー夫妻の作品群は
「もの」を 美 という視座からとらえてみることを、鑑賞者に提案しているように思います。

続きはまた後日。