のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

コーエン兄弟

2008-02-25 | 映画
おめでとう。



のろのワンオブマイフェイヴァリット監督であります所のジョエル&イーサン・コーエン兄弟が
最新作『ノーカントリー』で、アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞を受賞なさいました。
おまけに助演男優賞も、この作品に出演しているハビエル・バルデムさんが受賞なさったとのこと。

もちろん、アカデミー賞ってのはごく一部の人たちによる多数決の結果にすぎないのは分かっております。
それでも、なんだか嬉しうございます。
前作の『ディボース・ショウ』と『レディ・キラーズ』が不評だっただけに、なおさら。
あ、『レディ・キラーズ』はのろも見ていないや。ごめんよコーエンズ。だってトムハンクスなんだもん。

外国語映画賞は『ヒトラーの贋札』でございましたねえ。
去年の『善き人のためのソナタ』に続くドイツ映画の受賞でございます。やっほう!
ちなみに京都ではちょうど去年の今ごろに公開された『善き人の~』、
来月、3/15~21の日程で、京都シネマにてアンコール上映されます。
大変いい作品でございましたので、去年見逃したかたは、この機会にぜひとも劇場に足をお運びください。
当作の主演俳優で、東独時代は自身もシュタージ*の監視を受けていたというウルリッヒ・ミューエ氏は
昨年7月に胃がんのためお亡くなりになりました。
まだ54歳でいらっしたのに。

*シュタージ=東独の秘密警察。『善き人~』は、優秀なシュタージであるヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)を軸に、
彼に監視される人気劇作家ドライマン、その恋人である女優クリスタ、
そして恐るべき監視国家であった東独の社会状況をめぐる物語。


ともあれ。
おめでとうよ、コーエン・ブラザーズ。

しかし今回は、常連俳優を全然使わなかったのかしらん?
スティーブ・ブシェーミもジョン・グッドマンも、ジョン・タトゥーロも無し?
ちょっぴり淋しいなあ。





寒い歌

2008-02-24 | KLAUS NOMI
ええ、もちろん
「やれやれ、またノミ話か...」とお思いのかたは
記事内容はお読みいただかなくてもけっこうでございます。
しかし
当記事一番下の(即ち、4番目の)リンク先だけは、ぜひとも見ていただきたいのでござます。


それはさておき

寒い。
寒い。
寒いよう。

寒いのは嫌でございますよ。
しかし、暖冬というやつはワタクシ、もっと嫌なんでございますよ。
がっちり寒い冬があってこそ、春の喜びもあろうというものです。
ぬるい冬なんて、甚だいただけません。
その点、今年はしっかり寒くなりましたし、雪もけっこう降りましたし
冬らしくて、大変よろしうございました。
ここはひとつ、行く冬を惜しんで

寒い歌
寒い歌
もひとつおまけに寒い歌

申すまでもないことではございますが
バックに流れておりますのは全てクラウス・ノミの歌う「Cold Song」でございます。
皆様いろいろご意見はございましょうけれども
ワタクシは3番目のやつが、1番よろしいと思うのでございますよ。
即ち女性が黒髪を振り乱して躍る”Der Tod und das Madchen”(死と乙女)と題されたパフォーマンスでございます。

上の2つのパフォーマンスが悪いと申しているのではございません。
しかしこの荘厳な曲、そしてこの歌声には
ペアでの演技や感傷的な演出は、あんまり似合わないと思うのでございますよ。

他のカウンターテナーの歌声ならばいざしらず
クラウス・ノミの歌声でございますもの。

自らがアーティストであると同時に「見世物」であることをはっきり意識して
かくまで真面目に、かくまで馬鹿馬鹿しく、かくまで美しく道化を演じてみせた
他ならぬクラウス・ノミの歌う「Cold Song」でございますもの。
演技者は「きれいさ」や見栄えのよさを放棄する覚悟で、
しかもたった一人きりで、舞台にのぞむべきであろうと
ワタクシは思うのですよ。

”Der Tod~”の、このパフォーマンスは
踊り手の高い技術と身体能力を示す端正な動きを、随所にひらめかせながらも
やぶれかぶれな、なりふりかまわぬような、痙攣的で暴力的な動きが全体を支配しており
一般的な「きれいさ」からは逸脱しております。

この端正さと暴力性という相反する動きの併存が、鑑賞者に緊張を強い
あたかも傷口から流れ出る血のように、痛々しく鮮烈な印象を
心に刻みつけるのであろうと、のろは思うのでございます。

この鮮烈な痛ましさ、そして、高い技術と能力に裏打ちされた上での「きれいさ」からの逸脱。
これらの要素が、「Cold Song」におけるクラウス・ノミの歌声に
とてもよく合っていると思うのでございますよ。

そうそう、
つい先日のことでございますが
バレエダンサーのウラジーミル・マラーホフさんというかたもまた
来日公演で、ノミの「Cold Song」をお使いんなったようでございます。
どんな踊りをなさったのでございましょうねえ。
のろは舞台を見ることはできませんでしたけれども
しめしめ、これで更にヤツの認知度がズズイと上がったことであろうぞ、と
一人ほくそ笑んでおります。


さて
初めに申しましたように、今年はのろの暮らす京都でも、けっこう雪が降りました。
本日2月24日、もはや弥生3月も間近でございますが
今朝もまた、カーテンを開けたら外は真っ白でございました。
降り納めの雪でございましょうかねえ。
日中もずいぶん降りましたけれども
日の光りを浴びてちらちらと輝く雪は、なんだか一生懸命に降っているようで
いっそうはかなげな美しさをたたえておりました。

去り際に輝きを見せた今年の冬にならって、今回のノミ話も
一生懸命ではかなげな美しさをたたえたこちらの動画をもって
締めくくりとさせていただきます。


この人の瞳ときたら
本当に
ああ
なんと申してよいやら。




『川端康成と東山魁夷』展2

2008-02-17 | 展覧会
2/6の続きでございます。

東山魁夷については、前の記事でほんの少しだけ触れさせていただきましたけれども
それ以上の事は何も語らないことにいたします。
と申しますのも本展には、東山作品とともに、その作品について書いた川端康成による文章も掲げられておりますので
それらを読んだ後で、ワタクシなどが駄弁を弄する気にはとうていなれないからでございます。

というわけで、その他の展示品についてほんの少しだけ語らせていただきます。
時には画廊や骨董屋から品物を届けさせたまま、代金は払わずじまいで自分のコレクションにしてしまったという
美術品や骨董品の数々。(この逸話はワタクシに、氏の『片腕』*という作品を思い出させずにはいないんでございますが)
これらは言ってみれば、文豪の審美眼と美への貪欲さの証でございます。

子供の姿ながらきりっと凛々しい、鎌倉時代の聖徳太子立像も大変よろしうございましたし
古墳時代の埴輪の頭部などはいくら見ていても見飽きない、いい知れぬ味わいのあるものでございました。
また清代に描かれた墨梅図も、たいそう印象深いものでございました。



ぐんぐん上に伸びて行くたくましい枝は先へ行くほど細くなり、はらはらと空に遊んでおります。
可憐な花をその細枝いっぱいに身にまとった梅の木は
自らの美しさを喜び、誇り、歌っているかのようでございます。
枝の動き、さまざまな花の向き、パッパッと花火のようにアクセントをそえるしべ。
画面全体に、生き生きとしたリズム感が沸き立っております。

決してよく練られた構図というわけではございませんし
筆の向くままどんどん描いちゃった的な雰囲気も、大いにございます。
しかし梅の花の、今を盛りに「咲いている!」ということの喜びが描き込まれているようで
その花々が発する馥郁とした香りがこちらまで漂って来るようで
見ているとうっとりと喜ばしい思いがわいて来る作品でございました。


さて
前回申しましたように、本展は通常の絵画展などとは少々違った雰囲気でございまして
ジャンルを異にする二人の芸術家の、美をなかだちとした交友関係そのものを見るような心地もいたしました。
と申しますのも、川端康成と東山魁夷の間に交わされた書簡もたくさん展示されていたからでございます。

中には微笑ましいものもございましたよ。
鎌倉の川端さんから、千葉県は市川の東山さんに宛てた手紙でございますがね。

拝啓 藝術院でお話申し上げました、ほのぼのとやさしい少女(のろ注:埴輪の頭部のこと)、昨日の朝拙宅に参りました。お越し下さいましたら御覧いただけるもの一つ出来ましたので、とりあへずお知らせいたしまして御光来を楽しみにお待ちいたします。 匆々

他の用事があるわけではなく、ただこれだけを知らせるために筆をとったようでございます。
かたわらの封筒を見ると「速達」の赤いハンコが押してございます。
美意識を同じうするあの人に、この美しいものを一刻も早く見せたい、という
文豪のわくわくとはやる気持ちが、伝わって来るではございませんか。


こんな手紙を読みますとねえ、やはり思わずにはいられないんでございますよ。
なんでまたこの人は
自ら死んでしまったのかなあと。

あのように美しい姿でいて
あのように美しいものと共に暮らしていて
美意識を共有する友人もいたというのに。
あのようにきびしい眼をしていて
あのような文章を生み出して
怖いような迫力のある書を書いたというのに。

まあ他人の自殺というものは、いつでも納得の行かないものではございますけれども。


本展の図録ということになっております単行本、『川端康成と東山魁夷―響きあう美の世界』を買って帰宅し
とりあえずぱらぱらとめくっておりましたら、文豪の死をうけて出た雑誌の臨時増刊号に
画家が寄せた追悼文が、眼に飛び込んでまいりました。

私は、いま、先生について纏まったことは、何一つ書けないような気がする。

こう言いながらも、生前の交流や訃報の知らせを受けた時の衝撃を、痛む心のままに辿っていく
東山魁夷らしい、誠実な文でございます。
つい今しがた見て来た喜ばしい交流の軌跡と、その突然の断絶が画家にもたらした心痛を思うと
目鼻のあたりに熱いものがこみあげてまいりました。





*『片腕』は
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはづすと、それを左手にもって私の膝においた。
という文で始まる、美しくも変態的な短編でございます。
一晩だけの約束で美しい娘の片腕を借りた男は、夜、すやすやと寝入ったその腕を舐めるように見たあげく
我知らず自分の片腕と付け替えてしまうのでございます。

私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやはらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がはのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それらにゆらめく光りとかげの移りをながめつづけていた。「これはもうもらっておかう。」とつぶやいたのにも気がつかなかった。

目の前の美しいもの、しかし本来はただの借り物であるものを、執拗な視線で見つめ
「これはもうもらっておかう。」とつぶやくこの男は
まさに美術品を前にした川端康成本人の姿でなくて何ございましょう?

雪だるま

2008-02-13 | Weblog


まったくのところ
雪だるまほど
もの悲しいオブジェは他にございません。

何故こんな悲しいものをわざわざ好き好んでつくるのか
自分でもさっぱりわかりませんが
雪が積もるとつくらずにはいられないのでございます。

『川端康成と東山魁夷』展1

2008-02-06 | 展覧会
20歳も過ぎてからようやく川端康成を読もうと思い立ったきっかけは
ほとんど名前と『雪国』くらいしか知らなかったこの文豪が
たいへん美しい姿をしていることに気付いたためであり
それと同時に、ノーベル賞受賞の数年後に
ガス自殺によって生涯を閉じたということを知ったためでございました。
あのような姿の人が自殺をするということが、理解できませんでした。


『川端康成と東山魁夷 ---響き合う美の世界---』へ行ってまいりました。





日頃行き慣れた展覧会とはちと違った趣があり、そういう点でも興味深いものでございました。
日頃行き慣れた展覧会とはどういうものかと申しますと、鑑賞者であるのろは会場に足を踏み入れると共に
あるジャンルや、ある芸術家や、ある文化圏の形成する「◯◯ワールド」にすぽっと入り込み
その中で展示品と一対一で対峙する、いわば「展示品 対 のろ」の場でございます。
しかし本展で展示されている作品や骨董品と対峙しているのは
のろである以前に、川端康成の鷹の眼であり、またこの文豪と同じく透徹した美意識で
自然と自らの作品を見つめる東山魁夷の眼差しでございます。
のろは彼らが「美しいもの」と向き合う姿を横から眺めている、という心地でございました。

いいものがあると、お金が無くてもポンと買ってしまったという文豪。
2006年に長野で開催された『川端康成の眼力』展には、仏像、埴輪、水墨画、茶道具、抽象画、
ロダンにルノアールに古賀春江に東山魁夷などなど総勢約170点に及ぶ書画骨董が展示されたとのこと。
今回はあくまでも東山魁夷との交友を軸にした展覧会でございますので
東山魁夷作品以外の川端コレクションは、そうたくさんはございませんでした。

しかし東山作品と他の美術品を並べ見ることで、それらの間に通底する精神性を感じることができます。
それは一方では、存在しているものを慈しみ、賞賛し、
自ずから高みへ高みへと昇っていくような、澄明でひらけた精神であり
もう一方では目の前に見えているだけのものには飽き足らず、深みへ深みへと降りて行く
求道者のように孤独な厳しい精神でございます。

池大雅のようにひたすら屈託のないものも愛した川端康成ではございますが
その作品世界を視野に入れつつ彼のコレクションを概括するならば
この文豪の美意識を貫いているものが、単純にきれいなもの、可愛らしいものへの視線ではなく
暗さ、悲しさ、何かいい知れぬどろどろとしたもの、
そしてそれらを突き抜けた所にある明るさや静謐、存在への肯定であることは
おのずから明らかでございます。

そのような視線で見たからこそ、美しい色彩の親しみやすい風景画の中にも
「表には現はれていない、奥にひそめて出しつつしんだ、東山さんのデモオニッシュな内面、精神の苦悩、動揺を通じての寂福、敬虔」
を感じ、かつそれを愛したのでございましょう。


次回に続きます。

2月でございますが

2008-02-01 | Weblog
すみません。
今月はほとんど更新できないかもしれません。
ちょくちょく覗いてくださっている皆様、本当に申し訳ございません。
『川端康成と東山魁夷』展のレポートはなんとか近日中にUPしたいと思っております。

また、上映期間内にはイラストも記事も書けそうにないのでこの場を借りて申し上げますが
『ヒトラーの贋札』は、たいへんよろしうございました。