のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

あいちトリエンナーレ・レポ6

2010-09-29 | 展覧会
さてお昼前に名古屋市美術館を出てから、またてくてくと30分ほど歩いて納屋橋会場へ。
こちらにはプロジェクターで大きく映し出された映像作品が多い中、こぢんまりとしたしつらえながらもいたく心に残った作品がございました。

せいぜい三畳かそこらの狭い部屋の片隅に、ごくありきたりな収納付きシンクが設置されております。その前にはちっぽけなテーブルと、シンクの方を向いてきちきちに並んだ椅子が二脚。ふと壁を見ますと、ブルガリアヨーグルトの化粧まわしをしめた琴欧州関の堂々とした全身写真がプリントされております。といってもおそらく、実物よりは3周りくらい小さめの。その向かいの壁には、短パンTシャツに化粧まわしならぬエプロンをしめた、見知らぬあんちゃんの全身写真が。頭と体のバランスから判断するに、こちらは実物もそんなに大きな人ではなさそうでございます。
シンクの上にはテレビが一台乗っておりまして、画面の中ではにエプロン姿のあんちゃん、即ちこの作品"Cultual mussaka"を制作したブルガリア出身のアーティスト、カーメン・ストヤノフ Kamen Stoyanov 氏が、身振りをまじえつつこちらに語りかけていらっしゃいます。

曰く、ブルガリアとオーストリアの国籍を持っているので、本トリエンナーレへの参加にあたって両国に助成を申請したところ、オーストリアは気前よくお金を出してくれたけれども、ブルガリアは国が貧乏なので助成金をもらえなかったこと。トリエンナーレの開会式にはブルガリア大使館の料理人が腕を振るって開会式の参加者にブルガリア料理をふるまうという計画だったけれども、大使館の経費節減のために料理人さんが急に解雇されてしまい、叶わなかったこと。その代わりに開会式にはストヤノフ氏自身が祖国の家庭料理を作って皆にふるまったこと。(「ムサカパーティー」で検索すると、参加された方々のブログやtwitterがヒットしてまいります。楽しそうおいしそうです)

こうした裏事情をなまった英語で語り終えた後、氏はおもむろに「ムサカ」を作りはじめます。作り方を説明しながら手際よく材料を炒めていくその様子はさながら料理番組でございます。
まずは玉ねぎ。にんじん、じゃがいも。ここでひき肉を入れます。料理とアートは似てるんだよ。ある程度炒めたら天板に移して。ソース作りはずっと弱火で。牛乳は少しずつ加えて。ここはちょっと難しいけど、前にも作ったことがあるから大丈夫。ムサカはおいしいし、栄養たっぷり。琴欧州も大好きなんだよ。
そして最後はオーブンで熱々に焼き上がったムサカをヨーグルトと一緒にお皿に盛って、完成。

大仰な「芸術」という言葉からはかけ離れたその映像を見ているうちに、何やらとてもなごやかな気分になってまいりました。こういう些細にして個別的な出会いこそ、異文化交流として最も有効なのではないかしらん。ここで観客が出会うものは家庭料理を作るというごく日常的な行為と、眉毛の濃いい小柄なあんちゃんという全く見知らぬ個人でございます。しかしこうした些細なものごとが、ブルガリアが誇る世界遺産の教会やブルガリアン・ヴォイスの合唱やブルガリア観光のお役立ち情報よりも、ワタクシをブルガリアという国へ心的にぐっと近づけました。

ある宗教や国籍や民族といった大きなくくりをの中にある集団を、十把一絡げにして嫌ったり憎んだり蔑んだりする向きはいつの時代でもあったことであり、残念ながら今もございますし、これからも無くなるとは思えません。しかしその集団の中に、自分と肯定的な出会いを果たした個人が一人でもいたなら、先方を何の留保もなく丸ごと憎むということには(少なくとも容易には)ならないのではないかしらん。
個人発信できるメディアがかくも増大している昨今、この作品との邂逅のような、ささやかなで肯定的な出会いの機会も増えているはずでございます。もちろんそれで経済的・政治的対立そのものが解消されるわけではございません。ただ、対立する相手集団の成員と、些細な、日常的な、肯定的な出会いを経験する人が多ければ、集団間の利害対立がいかに激しかったとしても、暴力の発動という決定的で取り返しのつかない一歩を踏み出すには至らずに済むのではないかと思うのですよ。

とまあ楽観的なことを考えながら名古屋駅へとてくてく歩いているつもりがどこかで曲がりそこねたらしく、気がつけば名古屋城の近くまで来ているではございませんか。帰りもラッシュに巻き込まれるのはどうでも避けたいので競歩選手の勢いで猛然と取って返し、駅の売店で職場へのお土産にきしめんパイをひっ掴み、かろうじて16:30の電車に滑りこみました。暮れ行く車窓の風景を時折眺めつつ『福翁自伝』の続きを読んで京都まで立ちづめ。ゆきっちゃんがお役人を口先三寸で丸め込み、塾の経営資金150両ふんだくったというくだりまで読んだ所で、拙宅もよりの花園駅に到着したのでございました。



あいちトリエンナーレ・レポ5

2010-09-26 | 展覧会
さて9/16にご報告しましたように東横インに一泊し、『鳥の物語』を読みふけり、翌日はてくてく歩いて名古屋市美術館へ。途中の道ばたで思いがけなくストイコビッチの足形と遭遇いたしました。「ピクシーストリート」なのだそうで。

ほぼ開館と同時に入ると床一面にお香を敷き詰めたかぐわしい作品や、深海魚めいた光を放つ、生物と機械のあいだのようなホアン・スー・チエ Huang Shih Chieh の作品が迎えてくれます。



刺激に対して一定の仕方で反応しながらも、周囲の環境と自身の体勢の微妙な変化によって有機的な動きをしてみせるへんてこマシーンたち。
『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一さんは生命は自動機械ではないよと再三おっしゃっておりますし、生物学者の御説に対してのろごときが何をか言わんやではございますけれども、やっぱり生物ってのはつまる所、機械と変わらないんじゃないのかなあ、と思うわけでございますよ。ただプログラムと構造における複雑さの度合いがものすごく違うだけで。いやそれとも、そのものすごい度合いの違いこそが決定的な壁なのかしらん、などと考えながらぶらぶら進んで行きますと、突如として後方から美術館にあるまじき喚声が沸き上がり、見る間に小学生の大集団がなだれ込んでまいりました。
幸い、すぐ近くに蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)Tsai Ming Liang のインスタレーション作品が。何が幸いかと申しますと、仕切られた空間に鍵付きの小部屋がたくさん並んでいるという、避難所にはもってこいの作品だからでございます。

背後に迫り来るちびっこの波を感じつつ辛くも小部屋のひとつに飛び込み、しっかり戸を閉め、鍵をかけ、嵐が通り過ぎるのを待ちます。小部屋にはマットレスを敷いた寝台と、テレビとごみ箱とひと巻きのトイレットペーパーが設置されております。テレビには、汚げな石壁に囲まれた狭い空間にこれまた汚いぐすぐすのマットレスが放置されているという閉塞感いっぱいの風景が映し出されております。個室そのものは戸から壁から寝台から全てが真っ白で、不快なことはございませんが何とも殺風景でございまして、こぎれいな独房あるいはいわゆる個室ビデオ店の一室といった趣き。いえ、どちらも入ったことはございませんが。
壁が高いので、寝台の上に立ち上がっても通路や他の部屋の様子は見えません。隣の部屋に人がいたとしても、物音を立てないかぎりはお互いの存在に気付きません。昨今話題の「無縁社会」を象徴するような作品でございます。

もっとも室外に吹き荒れるちびっこたちの喧噪のせいで、ワタクシにとってはこの「無縁社会の縮図」が大層居心地のいい避難所となったのでございました。そもそもその「無縁社会」にしても、人付き合いの甚だ苦手なワタクシには、地縁社会血縁社会よりもずっと生きやすいというのが正直な所。もとより最期は運が良ければ屋根のある所で孤独死、そうでなければ一文無しになったあげくに橋の下かどこかで野垂れ死にするんだろうとは、昔から思っておりますし。
とはいえ飽くまでもワタクシ自身はこれでいいというだけの話であって、隣室でお年寄りが倒れてていることに誰も気付かなかったり、悩みを抱えた人が相談する相手もいないという社会がよいと申しているのではございません。地縁血縁に頼らずとも個人がそこそこ安心して暮らしていける社会システムが構築されてほしいのです。そのためなら税金が多少上がっても構わないと思っておりますけれどもできれば年収150万ののろさんよりもいっぱい儲けてる法人さんからがっつり取ってね。

ああ、それにしても子どもらのうるさいことよ。
背格好から判断するにもう5年生か6年生ではあろうに、狭い通路を走り回るわ、ドアは乱暴に開け閉めするわ、作品の壁はバンバン叩くわ、あげくにビル解体工事現場での会話もかくやとばかりに大音声を張り上げるわ。ここは一体どこなんだと気が遠くなりましたですよ。言っても無駄と思ってか、引率の方もボランティアの監視員さんもいっこうに注意する気配がございません。
もちろんワタクシは、小学生は美術館に行くなと申しているのではございません。芸術に触れるのはたいへん結構なことであり、むしろ推奨したいことでございます。しかし美術館や図書館といった公共の場では静かにするべしという基本的マナーぐらいはガキの、いや失礼お子様の時分に身につけておいてしかるべきではございませんか。そういうことを学ばずに大きくなってしまった人が、大学に入ってから図書館の机の真ん中にお菓子を広げて椅子の上には足を乗せ、かたわらの500ml入り紙パックジュースからは蟻が寄って来そうな匂いをあたり一帯にまきちらしつつ友達とひたすらおしゃべりに興じたり、至る所に張られた「携帯電話禁止」の張り紙を尻目に「あ、もしもし~、今図書館~。ううん~全然いいよ~」と楽しげに通話をおっぱじめ、図書館員に注意されるとうるせーなと言わんばかりの視線を投げかけながら尚も会話を続け、甚だ不当な視線を浴びせられた図書館員が(あからさまな館内秩序霍乱行為に堪え難い思いを味わいながらも)すぐにその場を立ち去る気はないということが分かってから、ようやくしぶしぶ電話を切る、という手合いになるのでございましょう。嘆かわしきことかな。
何です。例えがいやに具体的ですって。
ええ、まあ。

どうもかなりトリエンナーレから話が逸れてしまいましたが、まあ以上のようなことを、真っ白な個室の真っ白な寝台の上で頭を抱えて考えたわけでございます。


あと一回続きます。

あいちトリエンナーレ・レポ4

2010-09-23 | 展覧会
ジャン・ホァン作品とは対照的に繊細さで印象に残ったのが宮永愛子氏の「結(ゆい)」でございました。

↓写真をクリックすると拡大されます。
MIZUMA ART GALLERY : 新着情報 : 宮永愛子があいちトリエンナーレ2010に参加します

塩の神殿とでも申しましょうか。床から天井までいく筋も張られた糸には塩の結晶が付着しており、会場内の淡い光を受けて霜のようにちらちらと輝いております。この塩は名古屋市内を流れる堀川の水から精製したものなのだとか。
淡い光の光源は部屋の中央に置かれている古びたカヌーでございます。中をのぞいてみると、アクリル板で蓋をされた船の中にナフタリンでできた真っ白な靴が置かれております。↑の写真では全ての靴が完全な形をしておりますが、時間とともに気化していくため、ワタクシが見た時にはだいぶ欠けてきており、中にはほとんどなくなっているものもございました。気化したぶんはどこへ行ったかと申しますと、透明な蓋の内側に、今度は自然なかたちの結晶となって点々と付着しております。生物も無生物も、存在する「もの」全てが、時とともに形を変えつつも存在し続ける、何かの消滅が別なものの生成に繋がっている、そんなことを思わしめる作品でございました。

この他にもフィロズ・マハムド Firoz Mahmud 氏の穀物で覆われた戦闘機(21世紀の戦い、軍国主義や火器は全て人民の生存権の搾取によるものである---アーティスト自身の言葉より)や、真っ暗な部屋の中でHELL(地獄)、MORTAL(死すべき者)、FATE(運命)といった言葉が床を這いずっては消えて行き、しまいには床を覆い尽くす白い光となって轟音とともに観客を包み込む、まことに陰鬱なツァン・キンワ Tsang Kin Wah氏の作品、それからオリバー・ヘリング Oliver Herring 氏による、マサチューセッツ、ニューヨーク、そして名古屋のお年寄りたちによる無性に楽しい映像コラボ作品などなど、面白ものがたくさんございましたけれども、あまりに長くなりますので芸術文化センター会場についてはこのへんで。

あと2回ぐらい続きます。

あいちトリエンナーレ・レポ3

2010-09-22 | 展覧会
名古屋市内にいくつかある会場のうち、ワタクシが行ったのは愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、そして納屋橋会場の3つだけでございます。その限りでのことではありますが、映像作品や映像を使ったインスタレーション作品がずいぶん多いようでございました。

さきにご紹介した Staging silence をはじめ、ビデオアートはテクノロジーを利用した表現という点でも、物体としての空間的広がりを持たないという点でも、その手法自体がいかにも現代的なものでございます。
そんな中、大きさと素材感、そして造形性という空間的・直接的な要素に訴えることによって圧倒的な存在感を放っていたのがジャン・ホァン Zhang Huan の ”HERO"でございます。こちらの写真で大きさのほどがお分かりいただけるかと。

泥まみれの巨人のようなものが、展示室いっぱいに足を投げだして座っております。右肩には子どもらしきものがくっついており、膝はむくむくと膨れ上がって今しも何かが生れ出てこようとしております。近づいてみると、泥のように見えたまだら模様は何枚も張り合わされた牛の毛皮でございました。白や黒や茶色のつやつやとした、しかし尻尾や蹄もついたままの毛皮が、むき出しの針金で固定されている親子像。荒々しさと生物のぬくもりとが混在する作品を前にして、恐ろしいような、慕わしいような、何とも名状し難い感覚に襲われました。
たまたま一団をひき連れてやって来た解説ボランティアさんの話によると、発掘された太古の神をイメージしているのだとか。確かに、見る者のプリミティブな部分に訴えて来る作品でございました。

ジャン・ホァン氏は国立国際美術館で昨年開催された『アヴァンギャルド・チャイナ』にも出展しておられました。こちらは映像作品だったのでございますが、アーティスト自身が取り組むほとんど苦行か人体実験のようなパフォーマンスには、やはり強烈なインパクトがございました。
『アヴァンギャルド・チャイナ』 - のろや

芸術文化センター地階のミュジアムショップに作品集があったので少々立ち読みさせていただきましたが、立体もパフォーマンスも、ただもう凄いのひと言でございます。こんな力のあるアーティストの作品をじかに、しかも同時代に見られるのはまことに幸せなことでございます。

本人のHPでドローイングや版画作品も見ることができます。ううむ、これまたいい。

次回に続きます。

あいちトリエンナーレ・レポ2

2010-09-21 | 展覧会
さてフアン・アラウホの白い小部屋から一転して、真っ暗に仕切られた隣の空間ではハンス・オプ・デ・ビークの詩的な映像作品が上映されております。

タイトルは "Staging Silence" (沈黙を上演する)。
スクリーンに映っているのは1m四方ほどの舞台。両側から人の手が現れ、小さな模型や豆電球を使って、舞台上に様々な「沈黙の風景」を演出してゆきます。夜のビル街や誰もいないオフィス、廃墟や月明かりの湖といった風景が次々に出来上がって行く、その様子が実に面白い。

その映像にあわせて、何とも不思議で心地よい音楽が途切れなく流れております。タイトルには「沈黙」と銘打っているものの、20分ほどの上映の間に鑑賞者の耳が沈黙を経験することはございません。変な言い方になりますけれども、鑑賞者が沈黙を経験するのは、視覚を通じてのことなのでございます。あたかも、音も色もないモノクロ無声映画が、観客をして声や音や色彩を頭の中で補わしめるように、この作品はあくまでも視覚に訴えることよって観客の中に沈黙の感覚を生じさせます。鑑賞者の中に生起した「沈黙」は、この作品の一部であり、加えられるべき最後のひと筆なのでございます。

鑑賞者の感覚が作品を完成させる、という点では、いかにも現代美術といった趣きの作品でございます。しかし作り出される風景そのものは、何かこう、タルホ的にノスタルジックで、映像と音楽がかもし出す詩的な雰囲気は目にも耳にも心地よく、展示室内では何も考えずにただただうっとりと眺めておりました。また、ミニチュアによっていかにも静かそうな風景を演出する、という行為に伴う若干のウソっぽさ、わざとらしさは大変のろごのみでもあり、いたく心に残ったのでございました。

なおこの作品、アーティストのHPで全編見ることができます。
HANS OP DE BEECK
トップページからartworks→2009と進むと表示される作品リストの下から2番目でございます。ロードに少々時間がかかるかもしれませんが、なに、ほんの数秒のことでございます。大変美しく心地よい作品でございますので、ぜひご覧下さいまし。


次回に続きます。

あいちトリエンナーレ・レポ1

2010-09-18 | 展覧会
「美の壺」に郷里が取り上げられたので片手間に見ていたら、父が出て来て喋っておりました。まあ知らん間に立派になって。

さておき。
あいちトリエンナーレは名古屋市内のいくつかの会場において開催されております。到着時間が予定よりも遅れたこともあり、一日目は愛知芸術文化センターに的を絞ることといたしました。愛知芸術文化センターは美術館と劇場と図書館を併設した複合施設で、ここに来れば愛知県内の美術・音楽・演劇情報が一手にわかるという、なかなかに羨ましい施設でございます。以前申しましたように、美術館はビル内のフロアとしてあるよりも単独の建物であってほしいというのがワタクシの持論ではございますが、芸術に関する情報が集まっているという点では、この施設の有用性を認めぬわけにはまいりません。

10階の美術館フロアに入るとすぐに草間彌生の花(らしきもの)がお出迎え。取って喰われそうでございます。
登山 博文による、まず十畳敷きはあろうかというすがすがしい大きさの作品を経て進んでまいりますと、白い小部屋にフアン・アラウホの慎ましくも示唆に富む作品が並んでおりました。

一見、ちょと古びた図録が開いて置いてあるだけのようでございます。表紙には「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」と。しかし近づいてみると、ちょっと様子がおかしい。実はこれ、上記のカタログ本を写真から小さな文字に至るまで、油彩で描きおこしたものなのでございます。文字が日本語であることは一目で分かるものの、所々かすれたように書かれ(描かれ)ているため、文章として判読するとなるとちと難しい。それに模写されているのは表紙を含めてもほんの数ページのことであって、後はスチレンボードか何かで厚みを出しているだけ。つまりここに展示されているのは、図像や文のレイアウトといったデザイン的要素を愛でることはできるものの、ライト建築の記録と考察というカタログ本来の機能は失われている、なんとも奇妙な物体なのでございます。

機能から解放されたものの美にフォーカスしたんかなと思ったのですが、解説パネルによると「帝国ホテルの一部が明治村に移築され、本来の機能と文脈を失って幽霊のようなイメージとして機能していることを、幾度ものイメージの複製を通じて提示しています」とのこと。とすると、むしろ本来の役割を失ったものがご大層に展示されていることの滑稽さと違和感を表現したものと申せましょうか。
また、模写、と言っていいのかこの場合分かりませんが、平面のものをそのまま描き写すという行為が持つ、アート/表現としての可能性についても改めて考える土壌を与える作品ではないかと。

次回に続きます。

あいちトリエンナーレ

2010-09-16 | 展覧会
というわけで、愛知県へやって参りました。
ただ今名古屋栄恵町東横インのロビーでございます。
『福翁自伝』と中勘助の『鳥の物語』、そして念のため『物語 史記』を携え、最寄り駅を7:14発の電車に乗ったところ、思わぬ混雑にてすし詰め状態。四方八方からあまりにもぎゅうぎゅう押されるので、しまいには笑いがこみ上げてまいりました。

大雨のため先行の特急が遅れたせいで予定より1時間半ほど遅く名古屋駅に到着すると、しとしと雨が降っておりました。傘がないのは別になんともございませんが、カメラを忘れたのは痛恨の極み。撮影可の作品もけっこうあるというのに。常のごとく、時間がもったいないため昼食抜きで美術館に乗り込むつもり満々だったのが、カメラを忘れて来たことに気づくや急にお腹がへってきたのだから面白いもんでございます。

ともあれ、現代アートに半日浸ってまいりました。
『福翁自伝』は、ゆきっちゃんが欧州から帰ってきたら日本は攘夷論まっさかりであら困ったな、という所まで読みまして、後は明日にとっておくのでございます。そして今晩は『鳥の物語』を読みふけるのです。

で、鳩のほうから口ぐちに声をかけた。
「ナザレの大工さん」
「ナザレの大工さん」
「柳の鳩だよ」
「ほらヨルダンの行者さんとこで逢ったじゃないか」
「おお、おお」
二度びっくりした若者は汚れた足元に集まった彼らを一羽一羽迎えた。

『鳩の話』より

ううっ
たまりません中勘助。


『印象派とモダンアート』2

2010-09-12 | 展覧会
あまりにもやる気がないのでごみ箱の内側をクレンザーでぴかぴかに磨き上げてみました。
こうしている間にもどんどん人生の残り時間は少なくなっていくわけでございます。

それはさておき
9/9の続きでございます。

4階に降りると20世紀の絵画における具象表現のセクションが始まります。具象絵画という大きな括りの中ではありますが、幻想的なルドンやシャガールから激しいタッチのキルヒナー、物憂くも華やかなキスリング にスーパーリアルのワイエスと、70年ほどの間に実に幅広い表現が試みられたということが一望できます。

嬉しいことには、モランディの作品が4点も展示されておりました。
モランディ美術館のHP
Home - Museo Morandi
モランディのファンサイト(注:音楽が流れます)
モランディファンの皆様こんにちは
当ブログのモランディについての記事はこちら

瓶やポットや箱といったモランディおなじみの何の変哲もない「もの」たちが、タッチも色彩も激しいルオーとキルヒナーの間に挟まれて、しんとしておりました。
今回サントリーミュージアムは、この地味な、とはいえ個性的な画家にスポットライトを当て(もちろん物理的にではなく)、20世紀の美術において独特の位置を占める画家として、小コーナーのようなかたちで展示してくれております。そのコーナーにだけモランディの絵から延長したようなベージュ色の絨毯を敷いてあるのも、心憎い演出でございました。

次のセクションへのつなぎとなる「花束の回廊」と題されたコーナーは、展示室を細長く仕切って両壁面に作品を並べた、まさしく絵の回廊のようなしつらえとなっております。この会場風景もサントリーミュージアムのHPで見ることができます。ちっちゃい画像ですけどね。
花を描いた作品が集められたこの「回廊」、ワタシが描くとこうなります、という画家の個性の見本帳のようで面白いものでございました。軽い明るいデュフィのアネモネ、花というより絞り出した臓物のようにおどろおどろしいスーチンのグラジオラス、ひたすらのどかなボーシャンの花々、鋭く厳しいビュフェのミモザ。

最後のセクションは抽象作品で構成されております。真面目な顔で鑑賞するべき所ではありましょうが、ついつい面白がってしまいます。キャンバスそのものを作品にしてしまったフォンタナカステラーニなんかを前にしますと、ヒャーやりゃあがったなコノ、と思うわけでございますよ。
ここで驚いたのは目の錯覚を利用した表現をよくしたヴァザルリのタピスリー(織り物)作品でございます。ヴァザルリというと幾何学模様を使った理知的な作品のイメージでございましたので、本展の展示作品における色彩とテクスチャのかもし出す温かみは意外でござました。
本展のトリをつとめる、いともポップなホックニーにも驚きました。作品にではなく、「最近はipadで絵を描き友人たちに配信している」という近況にでございます。ポップアート界の寵児も今や御年73歳。この歳で新しい表現媒体に手を出すというのがすごい。

というわけで
閉館まであと数ヶ月を残すのみとなってしまったわびしさを感じつつも、作品そのもののみならずサントリーミュージアムらしさが存分に発揮された展示空間も大いに楽しませていただきました。
いやあ面白かった、ここが閉館してしまうなんてやっぱり惜しいし寂しいや、と頭をふりふり1階のミュージアムショップまで降りてまいりますと、閉店セールということでございましょう、過去の図録が下は200円からという投げ売り価格で販売されておりました。つい喜んでしまった自分が情けない。そうは言ってもお得なものはお得なのであって、いそいそと2冊購入して肩に食い込むカバンと共に帰路についたのでございました。





『印象派とモダンアート』1

2010-09-09 | 展覧会
サントリーミュージアムで開催中の展覧会『印象派とモダンアート』へ行ってまいりました。

見どころ解説つきで20世紀美術を概括でき、ライトな美術好きから暇さえあれば美術館へ出かけて行くような人まで、広く楽しめる展覧会でございます。

『インシデンタル・アフェアーズ』の記事でも触れましたとおり、サントリーミュージアムは展覧会によって驚くほど色々な顔を見せる美術館でございます。今回は入ってすぐの所に円形のモネ室ができており、プチオランジュリー美術館の様相を呈しておりました。
リノリウムっぽいベージュの床はこの部分にだけ、深みのある青灰色の絨毯が敷き詰められており、白い壁、くすんだ金色の額、そして青がちなパステルカラーの作品と、素晴らしい調和を見せております。モネがさして好きでもないワタクシではありますが、ここでは空間全体のかもし出す一種特別な雰囲気に、覚えずわくわくといたしました。
展示室の様子は↑一番上のリンク先で見ることができます。

モネから始まった展示はルノワール、シスレー、ピサロと続き、ギャラリー入り口のある5階展示室はおおむね印象派の作品で占められております。濃厚なルノワールの裸婦像にいささかげんなりしつつも、久しぶりにお会いしたピサロの「チュイルリー公園の午後」にほっこりし、気を取り直して4階へ。



さて4階へと向かう階段の前には、海に面したこの館ならではの展示室が控えております。一度でもこの美術館を訪れたことのあるかたはご存知でございましょう、三面を白い壁で囲まれ、海に向かう南側の壁面が全部ガラス張りになっている、それは素敵な一室でございます。
展覧会の内容によっては展示室としては使われず、次のセクションへ向かう前の小休止として踊り場的な役割を果たしていることもございました。日差しが降り注ぐ場所なので、作品が展示される場合でも、褪色の心配のないブロンズ像などの立体かインスタレーション作品に限られるのでございますが、この一室を使ってどんな展示がされているか、あるいはされていないか、ということもこの美術館を訪れる楽しみのひとつだったのでございます。今回は、西側の壁際にマンズーの「枢機卿」、東側の壁際には枢機卿と向かい合わせになるかたちでジャコメッティの「小さな像」、その間には海と空を背景にバーバラ・ヘップワースの3つの作品が展示されておりました。

マンズーは枢機卿をモチーフにした作品をいくつも製作しております。大阪の国立国際美術館に所蔵されているものは、ブロンズ製で240cmという長身でございまして、その素材と大きさから厳格な雰囲気を漂わせる作品でございます。本展に展示されているものは高さ約1mの真っ白い大理石製で、斜めに射し込む午後の日差しを浴びて静かにたたずんでおりました。単純化された鋭い造形という点では国立国際美術館のそれと変わらぬものの、こちらはぐっと柔らかな印象でございます。
対して向かいのジャコメッティは、高さ15cmほどの、タイトルどおりに小さいブロンズ像でございます。対象から個人的なものを削いで、削いで、削ぎ尽くされた後に残った「人間」のかたち。骨張った両肩から薄い胴体を経て、棒のように細い足へと落ち込む逆三角形のフォルムは、周りの空間から押しひしがれんとするのを必至に耐えている人のような激しい緊張を見せており、どっしりとした白い円錐形の枢機卿とは対照的でございます。
向かい合う2つの人物像の間に並んでいるヘップワースの球体や半球体は、陽光をうけてきらきらと輝きながら互いを反射し合い、緊張をはらんで対峙する両者の間をとりもっております。

共に人間のかたちを生涯のテーマに据え、独自の厳しい造形を追求したマンズーとジャコメッティ。具体的なものの描写から解放され、繊細でまろやかな形を生み出したヘップワース。この三者が、全体でひとつの作品を形成しているかのようなこの空間に身を置きますと、この美術館がなくなってしまうことをつくづく寂しく思ったのでございました。

次回に続きます。

なおサントリーミュージアムの展示デザインの素晴らしさについてはこちら↓のブログさんが熱く語ってくださっております。
そうよそうよと頷きながら読ませていただきました。

サントリーミュージアムがどれほど素晴らしい美術館だったかということ - 勘違いジャム

『大脱走』

2010-09-04 | 映画
ゲシュタポ「いい旅を」
マクドナルド「ありがとう」
のろ「うわあああああああああ!」


というわけで

TOHOシネマズの午前十時の映画祭で『大脱走』を観てまいりました。

1年間に渡って往年の名作映画を上映するというこの素晴らしい企画において、ワタクシが最も楽しみにしていたのが『羊たちの沈黙』と『大脱走』でございます。この2作品を大スクリーンで観られるとは。もはや死んでも思い残すことはないや。
とはいっても来月には『第三の男』や『アマデウス』が控えているし、バスター・キートン作品を劇場で観る機会にはまだ恵まれていないし、マーク・ストロングの出演作がこれから続々公開されることだし、4年後のワールドカップブラジル大会にクローゼが出場するかどうか大変気にかかっていることだから、やっぱりまだ死ねないや。

それにしてもこの企画のサブタイトルである「何度見てもすごい50本」という言葉は全く本当のことでございますね。いいものは何度観てもいいもんでございます。のろはおそらく『羊たちの沈黙』を通しで20回以上は鑑賞しておりますが、どういうタイミングでどんな展開が待ち受けているかがよく分かっていてもなお、手に汗握ってしまうのでございますよ。
『大脱走』でも、捕まってしまうことが分かっていても、バイクで疾走するマックイーンや町中を逃げ回るリチャード・アッテンボローを全力で応援してしまうのでございますよ。ううむ、DVD欲しくなってきた。

大脱走 予告編 (日本版・DVD用)



コミカルな場面、シリアスな場面、どこを取っても名シーンの連続という作品ゆえ、観るたびごとに新たな魅力がございます。今回とりわけ印象に残ったのは、トンネルから出た土の「処理屋」であるアシュレーが死ぬシーンでござました。
司令塔として数々の脱走を指揮してきたロジャー(リチャード・アッテンボロー)と彼の右腕のマクドナルド(ゴードン・ジャクソン)がゲシュタポに捕えられそうになった時、自らゲシュタポの注意を引き付けて射殺されるアシュレー(デヴィッド・マッカラム)。
駅の検問でゲシュタポがロジャーに気付く、アシュレーがそいつに飛びかかる、騒然とする民間人たち、混乱に紛れて脱出するロジャーとマクドナルド、「そこをどけ!」というゲシュタポの怒号で一斉に伏せた人々の間をただ一人逃げ走るアシュレー、銃声、倒れる、転げる、ホームから線路の上によろよろと倒れ込んで息絶える。
素晴らしい演出に、デヴィッド・マッカラムの可憐な風貌も相まって、まことに鮮烈でございました。

しかしまあ、この映画は何と言ってもスティーヴ・マックイーンでございましょう。
学生の時、バイク乗りでマックイーン好きの先輩は「女との絡みがあってこそのマックイーンだ。故に『大脱走』での奴はイマイチである」とおっしゃっておいででした。(ちなみに先輩のイチ押しは『華麗なる賭け』)しかしワタクシとしてはやっぱり、マックイーンがいっとうカッコイイのは『大脱走』なのでございます。「狂ってる」と評されるほどの輝かしい脱走歴を誇るマックイーン、敵兵から奪ったバイクで牧草地をひた走るマックイーン、大脱走マーチに乗って意気揚々と独房へ行進するマックイーン、そして懲りた様子もさらさらなく、泥だらけ傷だらけの顔で、またも独房の壁を相手にキャッチボールを繰り返すマックイーン。先輩にゃ悪うござますが、スーツ姿の銀行強盗マックイーンよりもこっちのがずうっと男前だと思いますよ。

というわけで、帰り道ではすっかりマックイーン気分で自転車のハンドルを握り、無駄にあっちこっち見回しながら道を渡ったりしておりました。ええ、馬鹿なもので。