のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ノミ話6

2006-02-28 | KLAUS NOMI
我慢は身体に毒。

というわけで ノミ話をさせていただきます。
エルンスト・バルラハ展レポートは、もう少々お待ちくださりませ。

さて。

以前にもご紹介しましたクラウス・ノミのファンサイトに
新しい写真が追加されておりました。
全く実に 嬉しいかぎりでございますねえ!
もちろん、新しい写真 と申しましても、昔のものなのではございますが。
だって被写体本人が、もう20余年も以前にお亡くなりなのですからね。はは。・・・はは。

で ノミ。
これまた妙なシャツを着ているんでございますよ。
何が妙って
将棋の駒模様なんでございます。

gallery


ううむ この御人は
何だってこう 激 烈 に 可愛らしいんでございましょうか。
取って喰いたいぐらいです。
頭からこう、むしゃむしゃ とね。

まあのろの申すのはザレゴトでございますが
↓ここまで行っていまうと冗談にはなりませんね。

同性愛食人男の控訴審始まる=ドイツ|日刊ゲイ新聞

(あの、念のため申し上げますが、のろはゲイではございませんよ。ノミもメイプルソープもベーコン(画家)も大好きですけれども)

メールの記録から、被害者が本当に食べられたがっていたことが明らかになっているということです。
しかし
ある人を 食べちゃいたいくらい好きだ ということと
ある人を 本当に解体して調理して食べたい というのは全く話が別でございます。

先日の『新日曜美術館』では
サルバドール・ダリについてのこんな証言がありました。
愛する妻ガラについて、ダリがこう言っていたと。

「もし彼女がこれっくらい(と、親指と人差し指をすぼめて)小さかったなら、ぱくっと食べてしまいたいくらいだ!」

おっちゃん、その気持ち分かるよ!
と TVに向かって大きくうなずいたのろではございました。
のろの目の前に「これっくらい」小さなクラウス・ノミ なんてものがいた日にゃあ
やっぱり ぱくっと食べてしまうでしょうね。
あんまりにも可愛いらしくて。

ええ
栄枯盛衰は世の常にして
現実逃避はのろの常なり。
妄想がちにして
つまらぬ話でございました。
これでも自制をこころがけておりますので
どうかご寛恕を願います。

『エルンスト・バルラハ展』

2006-02-24 | 展覧会
長いこと美術館から遠ざかっておりますと

のろの
もともと乏しい 心的エネルギーは 
ずんずん低下し

もともとネガティヴ指向の 思考回路は
どんどんよろしくない方向へ傾くのです。

と いうわけで
エナジーチャージを口実に
月曜日締め切りの仕事をほっぽらかして 
『エルンスト・バルラハ展』(京都国立近代美術館 4月2日まで)へ行ってしまいました。
あははは
土曜はカンヅメだからな、のろ。





ドイツ表現主義 と聞くだけで
「・・・いえ、結構です」とお思いの方も おいでかもしれませんが
先入観を捨てて、ぜひとも見に行っていただきたいのです。

読書する修道士や 目を閉じて祈る天使や 苦行者 占星術師 女乞食 
彼らの、
円空仏や、興福寺の国宝釈迦十大弟子立像に通ずる
静けさと深い精神性をたたえた姿を、ぜひとも見に行っていただきたいのです。

本日はとりあえずこれにて。
詳しいレポートは後日とさせていただきます。

おお大原美術館。

2006-02-22 | 美術
本日 帰宅いたしますと
大原美術館から、のろ宛に 一通の封書が届いておりました。

1/3の記事にも書きましたとおり、新年に大原美術館詣でをした のろ。
その折にアンケートを投函して参りましたので、おそらくは美術館がそれに応じて
年間スケジュールでも送付してくれたのだろう(そんなのネットで見られるんだから、別にいらんのに)
と 思っておりました、封を開けるまでは。

ところがどっこい。
茶封筒から現れたのは手書きのお礼状だったのでございます。





ご来館 ご感想 ありがとうございます、云々、。
ええ、手書きでございます。本当です。
ルーペで確かめました。

美術館 冬の時代である今なお、年間40万人の入館者を数える
天下の大原美術館 が、ですよ。

40万分の1 であって 有名な批評家でも美術家でもない 
屁みたいな存在の のろに、ですよ

おお、手書きの文書を 送って来ようとは!

署名があったので、書き手は余人ではなくこの「大原美術館お客様ご意見承り係」ご本人の手になるものと信じます。
そりゃあもちろん、文面は 皆同じでしょう。
書き手も、同じ文章の繰り返しで もう うんざりしながら書いたのかもしれません。

それでも。
手書きの文(ふみ)を送りあるいは受け取る、ということがまったく稀になった、このご時世において
あえてあざわざ その面倒なことを行おうという大原美術館の姿勢に
「昭和5年創立」の 老舗の心意気を感じたものでございました。

ありがとう大原美術館!
また会おう大原美術館!
My love 大原美術館!!
青春18きっぷのシーズンにしか行かぬけれども!!

スピノザ忌

2006-02-21 | 忌日
21日 と 書いているものもあり
22日 と 書いているものもあり
23日 と 書いているものもあり

つまる所、研究者でも歴史家でもないのろは、正確な日付は存じませぬ。

ともあれ
1677年 2月21日 か、そのあたりに
オランダ共和国 ハーグ市近郊の 下宿の一室で
哲学者バルフ・デ・スピノザが亡くなりました。
享年 44歳。

            


死の当日も普段と変わらぬ平静さで過ごし
家主の一家が教会に出かけている間に
友人の医師ひとりに看取られて 息を引き取りました。

死の前日、スピノザは
生前ついに出版されることのなかった『エチカ』を含む、自らの原稿を整理して友人に送りました。
この遺稿集は------「真理は万人の所有であって、個人の名に帰せられるべきものではない」との信念から------
匿名で出版してくれるよう依頼され
この年の12月に スピノザの願い通り、匿名で出版されました。

質素な生活を送り 自身が金欠の時でも 困っている人には気前よく金を貸してやり
孤独を好みながらも人当たりがよく 訪問者はいつでも 気分のむらなく親切に迎えました。

彼の思想を「無神論」として嫌悪する人々も
彼の素行に 非難すべき点を何ら見いだせませんでした。

こういうことを つらつら書いていると
「わたしの生き様など、どうでもいいのだよ」と どこか 遠い高い所で スピノザが静かに笑う。
「わたしがどのように生きようと、真理が真理であることに変わりはない。
 それに、わたしは 神 即ち自然 の必然性に、従って生きただけなのだから」

そうです、けれども師匠
「徳ある無神論者」あるいは「神に酔える哲学者」スピノザ、
あなたがそのように生きた ということが、のろには重要なのですよ。

あなたが哲学を始めるにあたって
「何が真実か」ということからではなく
「人間にとって、何が幸福か」ということから発したように

のろにとっては
「何が真実か」ということよりも
「どうしたら、あなたのように生きられるか」が 問題なのです。






↑去年、神戸で開催された「オランダ絵画の黄金時代-----」アムステルダム国立美術館展」より
1672年のアムステルダムの運河を描いた作品。
当時スピノザはハーグ住まいでしたが
1675年7月、『エチカ』出版の働きかけのため、アムステルダムを訪れています。
(無神論を説く危険思想の持ち主と見なされていたので、出版は断念せざるをえませんでしたが)

まさにこの運河の風景を スピノザも 見ていたかも しれませんなあ。



ちなみにこんなサイトもあり。
みんなのエチカ

国民性ジョーク+α

2006-02-18 | Weblog
2/16の記事を書いていて、こんなジョークを思い出しました。
わりと有名な国民性ジョークです。

世界各国の乗客をのせて 
旅行く豪華客船。
突如、火災が発生!
乗客を速やかに海に飛び込ませなくては!
さて、彼らをスムーズに飛び込ませるために、船長さんは何と言うか?

最初に、アメリカ人に
「飛び込んだら、あなたヒーローですよ」
イギリス人には
「紳士はこういう時、黙って飛び込むものです」
ドイツ人には
「これは厳格な命令です。飛び込みなさい」
フランス人には
「絶対に飛び込まないでください」
イタリア人には
「あそこで美女が溺れている!」
ロシア人には
「積み荷のウォッカが流された!」
中国人には
「美味そうな魚が泳いでる!」
韓国人には
「日本人はもう飛び込みましたよ」
そして最後に日本人に、
「ご覧なさい。もうみんな飛び込みましたよ

うまいオチだなあ と思ったのですが
まだ続きがありました。

ヤレヤレみんな飛び込んだ と、ほっとした船長。
しかし!まだ乗客が船内にいるではありませんか。
国籍を問えば「大阪人」と。
ああ!彼を飛び込ませるためには何と言ったらいいのか?

経験豊かな船長は おごそかに こう言いました。

「阪神タイガースが優勝しました」

大阪人、GO!


ジョークですからね、ジョ~~ク。(小心者)


『ドイツ語とドイツ人気質』2

2006-02-17 | 
今朝ラジオをつけますと
トリノオリンピック 男子フィギュアスケートの模様を中継しておりました。
カナダの選手がクラシックの楽曲をバックに演技しております。

耳をすませば おお、この曲は 
サン・サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』より、ヒロイン・デリラの唄うアリア
「あなたの声に私の心は開く」ではございませんか。

つまりその クラウス・ノミの十八番の曲ではございませんか。
いつもライヴの最後に歌っていたという、『ノミ・ソング』でも映像が使われていた、あの曲ではございませんか!
グッドタイミング、のろ!
そう、これを歌っているときの、ヤツの顔といったら!

Ah! reponds a ma tendresse!
Verse-moi,verse-moi l'ivresse!
Reponds a ma tendre~sse~~! (歓声)のーみー!(歓声)


・・・・・・・・・

>>>>>修理中<<<<<<



失礼いたしました。
暴走いたしました。
そうではないのです本題は。

昨日ご紹介した『ドイツ語とドイツ人気質』
本当に面白く興味深く読ませて頂いたのですが
一点だけ、のろとしては、異を唱えたい点がございました。

即ち、筆者が、日本人が何かにつけ「ごめんなさい、すみません」と言うことを指して
「日本人的な心のやさしさ」と言い、また
「ドイツ人ばかりでなく、欧米人一般にこういうやさしい心はないと思う」とも言っておられる
この点については、のろは首を傾げざるを得ないのでございます。

「ごめんなさい」を言う、言わない は、優しい、優しくない という問題ではなく
社会生活を円滑に営んでいくための、慣習の違い に過ぎぬのではないかと
のろは思うのでございます。

日本では、「まずは謝る」ということが当事者同士の関係を良くし、ひいてはものごとの解決に資する、
という枠組みがあるのに対して
欧米では、「まず互いの正当性/非正当性を明らかにする」ということが、互いの関係とものごとのスムーズな解決に資する、
という、異なった枠組みがある、というだけのことであって
謝らない=優しくないということではないのではないかと。

そも
日本人が一日に幾度となく口にする「すみません、ごめんなさい、失礼します」といった言葉のうち
本当に心から、相手のことをおもんぱかって、つまり「優しい心」で発せられるものが
一体いかほどあるというのでしょう。
ほとんど皆無ではないだろうかとのろは思うのですが
それはのろの邪悪な心を他人様に敷衍しすぎでありましょうか


欧米文化圏の人から見たらば、このような日本の慣行は
ちっともすまぬと思っていないのに「すまない」を連発し、それでもってものごとを
なんとなく解決してしまおうとする不誠実な態度とも思えるのではないでしょうか。
(↑別に 断罪しているわけではございませんで、こういう見方も し得るよ、ということを申したいのでございますよ)

鄭重/礼譲 ということについて
スピノザが 例の如く この上なく冷徹に 定義をなさっているので、ちとご紹介いたしますと。

鄭重あるいは礼譲とは、人々に気に入ることをなし、
人々に気に入られぬことを控えようとする欲望である
(エチカ第3部 定義43)

ああ さすがはお師匠様。抜けば玉散る氷の刃。取り付くシマもございません。

スピノザの言う 欲望 とは、すべてのものに備わっている、自己保存を指向する衝動 が意識化したもの の意です。

繰り返しになりますが
鄭重/礼譲とは、自己保存に資するからこそ、とられる態度であります。
ある文化圏の人々が「すみません」を頻繁に口にする ということは
「謝ることが、謝った当人の自己保存に資する、という文化的土壌がある」
ということを示しているに過ぎないのであって
「謝る」イコール その人々が優しい心の持ち主である、ということを
示しているわけではないのであります。
スピノザスタンスで言えば、ですよ。そしてのろはスピノザスタンスで言っております。

そういうわけで
ことあるごとに「すみません」と言うことを、
「日本人的な心のやさしさ」と評される筆者のご意見には
のろは どうも承服しかねるのでございました。



『ドイツ語とドイツ人気質』

2006-02-16 | 
『ドイツ語とドイツ人気質』小塩 節 1988 講談社学術文庫 を読了。

独文学者である筆者は、異文化理解の手がかりを
自身が経験されたエピソードを交え、「普段のドイツ語/ドイツ人ってこんなふう」
という親しみやすい形で語っています。

たいへん読みやすい文章で、遅読なのろもスイスイと快調に読み進めることができました。
数々のエピソードは、微笑ましいもの、笑ってしまうもの、また身の引き締まる思いのするもの、それぞれが
長年ドイツ人やドイツ文学と深く関わって来た筆者ならではの説得力を持っております。

中でものろ好みだったのは、筆者がNHKのドイツ語講座を担当していらした時のエピソードです。

筆者はある時、番組の中で、ドイツ人レギュラーゲストによる
ゲーテの『野バラ』朗読を企画します。
ところが、当のドイツ人ゲストWさんは、この提案を「ナイン(No)」の一言で、にべもなく断ります。
筆者が、なぜ朗読が嫌なのかと問いただすと
W氏、「第一にこれこれ、第二にこれこれ」と、いかにもドイツ人らしくひとつひとつ理由を挙げて
この企画がいかに馬鹿げているかを力説します。

曰く「詩を読んだところで、ドイツ語会話はうまくならない」
曰く「この詩の中で使われている語彙は古すぎる」
曰く「詩の内容も古すぎ、非現実的である」
曰く「朗読の後で歌まで歌うとは、何たることか。
   私たちは言葉によるコミュニケーションを学んでいるのであって、歌なぞ歌っているヒマはないはずだ」

しかし、筆者も負けずに頑固です。

「この詩の一節を 読 む こ と に し ま す!」
そう、ドイツ人に言うことを聞かせる特効薬、即ち業務命令という手段に訴えたのです。


スタジオに入ったWさんは
「悲しげな顔をしながら、抑揚乏しく『野バラ』の第一節を朗読し」
歌に至っては、唇を動かすだけで、声は出さずじまい。
その後も番組内でドイツ民謡などを歌うたびに「実に悲しげな顔」をなさっていたそうです。

嗚呼、ドイツ人。
噂に違わず頑固でございますねえ。
筆者も もはやアキレタ という態で、この頑固さを「あっぱれというほかはない」と評しています。

頑固というだけでなく、ドイツにおいては一事が万事徹底というキーワードをもって行われるようです。

「・・・だからドイツ人の学者や技術者が「入門書」を書くとなると千ページぐらいの「ハンドブック」を
 三冊ぐらい書かないと気が済まない。ドイツ人がハンドブックと言ったら、両手でやっと持ち上げられるぐらいの
 重さということになる。何でも、知っていることはみな書いてしまう。・・・」(p.26)

もちろんある程度の誇張や偏りはあるでしょうから、本書の内容全てをを鵜呑みにはできませんが
笑って鵜呑みしたくなるほどに「ドイツ=マジメ、頑固、徹底」のイメージにぴったりでございますね。
怠け者で軟弱者で超どんぶり勘定人間の のろとしては、こんな「ドイツ人気質」に対して
全く実に 畏敬の念を禁じ得ないのでございますよ。





さあこい

2006-02-13 | 忌日
2月11日は、デカルトの 命日でした。
2月12日は、カントの  命日でした。

さて
2月13日。

さあ来い、ヘーゲル!
と思いますでしょう。

残念、ヘーゲルさんの命日は11月14日でした。

代わりに というわけではございませんが
クラウス・ノミさんの大好きな、略奪愛作曲家・ワーグナーの命日でございました。

この方も見事なドイツデコをお持ちですね。(ドイツデコとは→1/30の記事を参照)

ほら。




ほらほら。




ほおおおおおら。




いやあ結構なカリカチュアでございますねえ。
ご覧下さいまし、このみごとな絶壁デコ。


というわけで
本日の記事には、皆様の福祉に饗するような情報は
なにひとつ無かったかと存じます。
申し訳ございませんでした。





ノミ話5

2006-02-11 | KLAUS NOMI
「ノミ話4」は1月24日の記事を以てこれとします。
だっ れも気にしてないだろうけど。


キネマ旬報の2005年度ベストテンが発表されました。
『ノミ・ソング』は、一票でも票の入った洋画全155作品中 堂々の 

133位でした。

選出者62名のうち、一人だけ
自身のベストテンに含めてくだすったお人がいらっしたのですよ。(7位)




ありがとうありがとう。
ひとつ菓子折りでも差し上げたいくらいですなあ。
こんな所には名前も出てくるまい と予想しながらも
血眼で『ノミ・ソング』探した のろものろですが
一票入れた貴方も危篤なお人だ。

まあ
ランキングなんてどうでもいいんでございます。
メディアの中にクラウス・ノミという名前を見かけるだけでも
のろは嬉しいんでございますよ。

ドスト話 再び

2006-02-09 | 
本日  ドストエフスキーの命日です。
そら先々週の話だろって。
そうなんでございますが、それは今の暦で見ればの話。
帝政時代の暦では今日、2月9日が命日なんでございますよ。

というわけで、1月28日の続き

煉獄での浄罪を終えて、天国の入り口にやって来たドストさんの図。




デンマークみたいに問題になったらどうしませう。
と 心配するほど多くの人は見てないと思いますが
許せんとお思いの方がいらっしたらコメントに書き込んでくださいませ。
ケンカする気はございませんし、他人様を不快にさせる意図も毛頭ございません。
お詫びの上、イラストは削除いたします。

『わが友マキアヴェッリ』2

2006-02-07 | 
2/5の続きです。

「端役」たちまでもが、血肉を持った存在として生き生きと感じられる
と、申しました。
「主役」マキアヴェッリに至ってはもう、その
人間的あまりに人間的なふるまいには、塩野氏同様、微笑まずにはいられません。

出張先からの楽しい手紙で、同僚たちを笑わせる マキアヴェッリ。
公金を使ってどんちゃん騒ぎをして、友人に怒られる マキアヴェッリ。
仕事を山ほど抱え込み、「Ecco mi!」(塩野氏訳:マキアヴェッリ、ただいま参上!」)を口癖に
喜び勇んで駆け回る、働きバチ マキアヴェッリ。

著者はそんなマキアヴェッリの「著名な事実」を語る中に、
普通、学者は取り上げない「非著名な事実」をも、しっかり折り込んでいます。

ひどい娼婦をつかまされてさ、と友人にぼやきつつも、ちっとも懲りていない マキアヴェッリ。
失職中のくせに、惚れた近所の未亡人に貢ぐ マキアヴェッリ。



非常に頭がきれ、鋭い洞察力と天賦の文才があり
仕事のできる人物であった、ということは承知しつつも
ば か 。 とツッコミを入れて差し上げたくなる部分が所々あり
多いに親しみを覚えた次第でございます。

ついついこんな側面ばかり強調してしまいましたが
かようにくだけた話ばかりではもちろんございません。そらそーだ。

マキアヴェッリが生きたのは、フィレンツェ共和国の斜陽時代でした。
ロレンツォ・デ・メディチの死と共にルネサンスの栄光は去り
周辺諸国の軍事的圧力が、共和国に影を落とします。

そんな中、「目を開けて生まれてきた男」マキアヴェッリは
透徹した洞察力で世界を見、フィレンツェを憂い、イタリアを憂います。

国を憂いたのは、マキアヴェッリ一人ではありません。
しかしなお
イタリアが過酷な運命を免れ得なかったのは、何故なのか。
マキアヴェッリが、自国軍を持つことに強くこだわったのは、何故なのか。
その答えが、事実の集積から浮かび上がって来ます。

そして
政治を執り行う人々が、近視眼的な見通ししか持てなかった場合、また
危機に際して迅速な対応をとれなかった場合に
必然的に引き起こされる悲劇が、まざまざと示されています。
(本書では、なぜ上層部が近視眼的な見方しかできなかったのか、という所までは踏み込んでおりません。
そこまで分析するのは研究者の仕事でありましょう)

王や 貴族や 権力者 政治責任者といった
歴史の表舞台に立っていた人々の、選択や決断は
残酷なほどくっきりと、歴史の中に刻まれています。

彼らの行動は、いわば一国の運命を巻き込んだ処世術です。
胸のすくほど 大胆なものもあり
げんなりするほど 愚かしいものもあります。

その「処世術」は、何百年ののちに生きる私たちにとっても
少しも色あせることなく、むしろ自らに引き寄せて考えるべき示唆に満ちています。

16世紀のフィレンツェ。
冷徹な目と 熱い心 (そして軽いノリ)の
マキアヴェッリという同時代人に密着してたどった、フィレンツェの存亡は
やるせなく しかし スリリングで
頭と胸に 少なからず訴える ものだったので ございます。

『わが友マキアヴェッリ』

2006-02-05 | 
 『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』塩野七生 1987 を読了。

のろは塩野氏の長編を読むのは始めてでございましたが
簡潔、かつ臨場感あふれる語り口に ぐぐい ぐい ぐい と引きつけられました。

サブタイトルに「フィレンツェ存亡」とあるように
マキアヴェッリ個人の伝記というに留まらず、
マキアヴェッリの生涯を軸として書かれたフィレンツェ史、という趣き。

当時のフィレンツェ市民の日記や、マキアヴェッリとその周辺人物の私的・公的な書簡、
更にはマキアヴェッリの父の蔵書目録まで
膨大な資料を綿密にあたったことが伺われる、実証的な記述。

なおかつ、その中から
傲然とした チェーザレ・ボルジア
醜男でありながら、輝くように魅力的な ロレンツォ・デ・メディチ
若い書記官マキアヴェッリを余裕の表情であしらう 美しき「イタリアの女傑」カテリーナ・スフォルツァ
実にもって生き生きと、立ち現れて参ります。

そして、こうしたいかにも魅力的な有名人ばかりでなく
世界史の教科書には名前すら記されないような人々、即ち
事あるごとにフィレンツェともめる 法王連中だの
イタリアへの領土拡大を狙う フランス王ルイ12世だの
  12世。  誰?  てお思いんなるでしょう。のろは思いました。
ルイと言ったら、まあ14世か16世が相場でございまさぁね)
マキアヴェッリの上司や妻、文通相手といった、いわば「端役」たちまでが
血肉を持ち、人格を持ち、確かに生きていた 人間 として感じられるのです。




・・・
一回にupする文章が長過ぎてしんどいので
小分けでお出しする方針をとることにいたします。
というわけで続きは次回。


鴨居玲 展

2006-02-03 | 展覧会
本日2月3日は、洋画家 鴨居 玲(かもい・れい)の誕生日です。
鴨居 玲 がどんな絵を描いたのか
知りたい方は、神戸市立小磯記念美術館で開催中の 鴨居 玲 展 へ、ぜひお出かけください。
(終了後は広島、長崎に巡回します)

タイトルを正確に申しますと「没後20年 鴨居 玲 展 -----私の話を聞いてくれ-----」。
おお、聞くとも、聞くとも、鴨居 玲!

のろが初めて鴨居 玲の作品にまみえたのは 
鴨居のコレクションを所蔵している、石川県立美術館においてでございました。

展示室に一歩入るや、ひとつの作品が目に飛び込んで来ました。

その瞬間、大きな円錐が 心臓に突き刺さって来たような 胸の痛みに襲われました。
文字通り ぐ さ り と来たのです。
その作品とは、これです。↓(部分)





作品のタイトルは「1982年 私」
そう、白いカンバスの前に、呆けたように座っているのは、画家自身です。
周りにいるのは、画家がこれまで繰り返し描いてきた人々、
よっぱらいや 老人や 傷痍軍人や ピエロたちです。
彼らは 描けない画家を取り囲み
ある者は 揶揄するように、空しいカンバスを見やり
ある者は 全く無関心な様子で、画家に背を向けています。

描 け な い 。

描けないけれども、描かねばならない。

描かねばならない、といっても「仕事だから」とか「締め切りが迫っているから」という
義務的な意味での「ねばならない」では、ございません。

画家にとって、描くことは 存在証明、生の証 だからです。
描くこと は即ち 生きること 
だから、生きるために 描かねばならないのです。
    生きているからには 描かねばならないのです。 

描かねばならない のに 描けない。
描けない。
描けない。
描けるモチーフがない。向き合う対象がない。
描けない自分と、向きあうしかない。

そうして遂に画家は、「もはや描けない自分」を描いてしまったのです。

何という自虐。
開いた傷口のように 痛ましく 恐ろしい 作品です。
しかし、目が離せません。

画家はどんな心持ちで描いたのでしょうか
自らの 絵筆すら持たぬ 力ない 手を。
どんな心持ちで塗ったのでしょうか
絵の中の 白く空しい カンバスを。

鴨居作品におなじみのモチーフである、よっぱらいや
老人たちを登場させたのは、自己パロディーであるとも言えます。
しかし、画面から渦巻くように発せられている
「描けない!!」
という苦悶の叫びは
パロディーと呼ぶにはあまりに切実です。


あるものに心引かれるが故に、何度もそのモチーフを描く、ということと、
心引かれるものが見つからないが故に、しかたなくおなじみのモチーフを引っ張り出してきて描く、という自己模倣とは
たとえ同じモチーフを描いたとしても 言うまでもなく 全く別の行為です。

しかし自己模倣という行為は、創作者が年齢を重ねていけば、
まったくそれを避けて通るというのは不可能ではないかと思います。
意識的にせよ、無意識的にせよ。
ある作風で一定の評価を受けていたならば、なおさらです。
その中に若干の不誠実さが含まれていても、描き(=生き)続けるためにやむを得ず、となれば
作者自身も、鑑賞する側も ある程度目をつぶってしまうものではないでしょうか。

鴨居が自己模倣することを自らに許していれば、かように苦しむことはなかったはずです。
「描けない」といっても、心を打ち込む対象が見つからない ということであって
よっぱらいや老人を 鴨居 玲らしい色使いで 鴨居 玲らしいタッチで 描く
ということは、「1982 私」に示されているように、もちろん可能だったのです。

それでも
鴨居 玲は、
描けないことに苦しんだ 鴨居 玲は、
自己模倣という行為の 不誠実さに 我慢ならなかったのでしょう。

描けない しかし 描かねばならない
という苦悶は、創作に対する誠実さ故の 苦しみです。


善男善女の皆様方、ぜひとも、この絵に会いに行っていただきたいのです。
他人の苦悶など見たくないと仰せられるやもしれませぬが
それでも会いに行っていただきたいのです。

なんとなれば
この絵は単なる「苦しみの吐露」ではなく
創作に対して 描くことに対して 即ち生きることに対して
誠実に 真剣に向き合った一個の人間の
生の証であるからです。


一戸建て美術館

2006-02-01 | 美術
最近は 複合ビルの中にある美術館 が多くなってまいりましたね。
交通の便や立地条件を考えれば、妥当なことやもしれませぬが
やはり美術館は一戸建てがよろしうございます。

まずもって 遠くから一目見ても
「ああ、あれが美術館に違いない」と分かるような
個性的な面持ちをしている、というのが よろしいではございませんか。
その、いかにも建築家がクリエイティビティを駆使したような建物へと
だんだん近づいて行く時の、わくわくする心持ちといったら。

先日取り上げました和歌山県立近代美術館を例に申し上げますと。

この美術館は和歌山城のお向かいの小高い所にありまして
南海の和歌山市駅方面から、和歌山城のお堀に沿って歩いて行きますと
ぽん と突然現れるのです。

まず なにがいいって
ひ さ し がよろしいんでございますよ。
↓HPで建物の片側だけ見られます。
和歌山県立近代美術館

のろは初めてここを訪れた時、建物の側面から
びゅうん びゅうん と可笑しいほどに長々と、楽しげに張り出しているひさしを見て
「ああ、こんな面白い顔をしたひとは、美術館氏に違いない」
と思い、嬉しくなってしまいました。

エントランスへと向かう階段も、ひさしと対応するようなぐあいで
格段のへりが張り出しております。
グレーの外観とガラスがぴしっとシャープな印象を与える一方
階段の手すりはぐねぐねとランダムに波うち これまた楽しげです。

まったく実に
この階段を上って行くだけで
ああまたここに来られてよかった
と 幸せを感じさせてくれる建物なのでございますよ。

そう、美術館は一戸建てが一番。
立地が多少、郊外になってもよろしゅうございますから
ぜひとも独立した建物であってほしいのでございます。

そうした美術館が成り立つためには、
多少、郊外であっても、足を運ぶ人々がいる という文化状況が必須です。

皆様、美術館へ、行こうではありませんか!