のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ピーナッツ化

2015-09-23 | Weblog
世間並みに5連休でございました。

家の用事を片付けて過ごすつもりだったのですが、振返ってみれば京都市美術館に『マグリット展』と『院展』を観に行き、京都シネマに『さよなら、人類』と『ルック・オブ・サイレンス』を観に行き、今日はTOHOシネマズにソーターさん、じゃなかった『キングスマン』を観に行き、と、遠出をしないなりに結構遊んで過ごしたようです。
これらの鑑賞レポートはまた後日書ければと思います。ただ『ルック・オブ・サイレンス』については、『アクト・オブ・キリング』同様、適切に語る言葉を見付けられそうにありません。ひとつだけ申しますならば、加害者が被害者に向かって「過去の事だ。俺達はもう忘れた、お前ももう忘れろ」と言いつのる、そのことの醜悪さに吐き気すら覚える、前作同様に凄まじい作品でございました。


さておき。

しばらく前から、TOHOシネマズでは上映前に『I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE』のプロモーション映像を流しております。アメリカでは11月6日、日本では12月4日に公開なのだそうで。何なんでしょうね、この微妙なタイムラグは。
とにかく、それに先立つ宣伝企画のひとつなのでございましょう、「自分をピーナッツのキャラ化してみよう」というサイトが公開されております。

Get Peanutized | Turn Yourself into a Peanuts Character

女性と男性で選べるパーツが違うようなので、両方やってみました。
女の子モードでやってみた結果がこちら。


うーん、まあ、高校くらいまではだいたいこんな感じでした。
パーカーも着ていたし眼鏡も丸かったし。髪は長かったけど。

男の子モードでやってみた結果がこちら。


そっっっくり!!

『ジュラシック・ワールド』

2015-09-16 | 映画
人生で初めて劇場に二度観に行った映画は『ジュラシック・パーク』でした。

幼稚園に上がる前からの恐竜好きであったのろさんは、ブラキオサウルスの登場シーンに涙が出るほど感激し、彼女または彼にくしゃみをかけられる子供たちに嫉妬し、ヴェロキラプトルの賢さと美しさに息をのみ、ティラノサウルスの咆哮をほとんど神聖なものを見るような心地で目撃したものでした。
そして2作目『ロスト・ワールド』では恐竜へのリスペクトを欠く展開に心底がっかりし、3作目はティラノが壁の穴からガオ~と顔を突出しているポスターからしてこりゃ駄目だと悟り、もはや観ようという気にもなりませんでした。(ちなみにTレックスという呼び方はワタクシ好きではないので使いません)

そんなワタクシが『ジュラシック・ワールド』を観てまいりました。

期待が大きかった分、ガッカリ感も大きかったとも申さねばなりません。
恐竜が沢山見られたのはよかったですよ、そりゃあもう。
けれども映画としては「ウーン、こんなもんか」といった所。
というわけで、鑑賞前の期待の大きさに比例して、以下はひたすら文句ばかりです。

まずはネット上で見つけた、わりかし共感できるレヴューをいくつかご紹介しておきます。

『ジュラシック・ワールド』 恐竜大戦争|映★画太郎の MOVIE CRADLE

恐竜好きからすると複雑 - ユーザーレビュー - ジュラシック・ワールド - 作品 - Yahoo!映画

堂々巡りなストーリー - ユーザーレビュー - ジュラシック・ワールド - 作品 - Yahoo!映画

好意的なレヴューの中には「アトラクションとして楽しめた」というご意見がけっこうあるようです。でもワタクシはアトラクションを体験しに行ったのではなくて、映画を観に行ったのですよ。アトラクションとして楽しむべし、という代物なら、映画館ではなく遊園地でやっていただきたい。

結局、『ジュラシック~』というタイトルに何を求めるのかということなのだと思います。ワタクシはあの名作『~パーク』から連なる作品に、ただのパニック映画になってほしくはなかったのですよ。
もちろん1作目もパニック映画ではありました。しかしおっそろしく上質なパニック映画だったのです。また自然を意のままにしようとする人間の傲慢さや、それにたいする警告といったテーマが、観客の心に響く形でしっかり織り込まれておりました。
本作『~ワールド』も、制作者がそうしたメッセージを打ち出そう打ち出そうと頑張っているのは分かりました。オマージュとおぼしきシーンもいくつかありました。問題はそうした頑張りのほぼ全てが空回り&上滑りに終わっていたことです。では1作目『パーク』と本作『ワールド』ではいったい何が違うのか。

サスペンスの見せかたがスピルバーグほど上手くない、というのはしょうがないとして、観客が登場人物の判断や行動に共感できるか否かが大きいのではないかと思います。『パーク』におけるそもそもの元凶は、恐竜再生という大それた事業に手を出したインジェン社のハモンド会長です。しかし、恐竜を現代に復活させるという試みそれ自体は、ハモンド翁のみならず映画の観客にとっても、とても魅力的なものでした。

少々自然の成り行きに反するかもしれないけれど、絶滅した生き物を蘇らせるのはそんなに悪いことだろうか?
逃げ出したり勝手に繁殖したりしないよう厳重に管理するなら、環境への影響だってそんなにないのでは?
生きた恐竜を間近で見られたら、どんなに素晴らしいだろう。
目の前で草を食む首長竜たち、密林を行き交うすばしこい小型恐竜たち、そしてもちろん、囲いの中にはティラノサウルスがいなくては!
ティラノなしの恐竜復活プロジェクトなんて考えられない。獰猛なのは承知の上、だからしっかり管理して…。

恐竜復活、これは恐竜好きならときめかずにはいられない、そんなにうまいこと行くわけがないと分かっていても「本当だったら素敵だな」と思わずにはいられない夢物語でございます。だからこそ、たとえ無謀なプロジェクトであったにせよ、それを押し進めてしまったハモンドを責めきれない部分がありました。つまり観客からハモンドへの共感の余地があったのです。
そのため、しっかり管理されていた「はず」の恐竜たちが囲いから放たれてからのパニック映画らしい展開にハラハラドキドキする一方、何もできずにひとりぼっちでアイスクリームを食べるハモンドの姿に悲哀を感じ、終劇に際しては単なる「めでたし、めでたし」という楽観のみならず、戒められたような粛然とした気持ちも残ったのです。

また一例を挙げれば、『パーク』では数学者マルカムがグラント博士を手助けしようとして、もう少しで立ち去る所だったティラノサウルスを自分に引きつけてしまうというポカをやりましたけれども、これなども結果的には誤りであったとはいえ、行動の動機そのものは共感できるものでした。同じ立場に置かれたら自分もああした、という人だっているかもしれません。(ワタクシは臆病者なのでしませんが。)
またマルカムは魅力的なキャラクターでしたから、観ているこちらも「あんなバカなことをして」と憤るのではなく、むしろマルカムの身を案じてますます手に汗握ることになったわけです。

ところが『ワールド』では魅力ある登場人物がそもそも少なく、なおかつ揃いも揃って共感できない行動ばかり取るので、終始ハラハラどころかイライラさせられました。子供らが無鉄砲なことをするのは仕方ないとしても、大人たち、しかもその道のプロであるはずの飼育係や重要な部署の担当者、そして施設全体の管理責任者までもが、個々の状況判断から組織的な運営といった様々なレベルにおいて「え、何で!?」と言いたくなるような愚かな行動に及ぶのです。

特に本作のヒロインであり、(それらしい描写はないものの)科学者であり、パークの管理責任者でもあるらしいクレア、これは本当に不愉快なキャラクターでした。生まれてこのかた観た映画を振返ってみても、これほど不愉快な登場人物はそうそういないという程の超弩級の不快キャラです。
恐竜たちのことを見下し、恐竜好きの部下をバカにし、目下の者にはとにかく威丈高、その上意固地で浅はかで無責任ときております。ワタクシはこの人物があんなにバカにしていた恐竜たちによって無惨に喰い殺されるのを心待ちにしていたのですが、あろうことか最後まで生き延びやがりました。

その一方で、クレアから甥っ子たちのお守りを押付けられた秘書の女性は、そのせいで(と言っていいと思いますが)とんでもなく悲惨な死に方をするのです。結婚式を目前に控えていたのに。この秘書がクレア同様に普段から恐竜を見下していたとか、実は今回のパニックの原因の一端であった、とか、密かに軍と通じて情報をリークしていた、とか、そういった描写があるならまだしも、ほとんど何の落ち度もなかった彼女を、なぜあんなにも執拗に痛めつけてから死なせることにしたのか、制作者の意図が全く分かりません。

この他にこまごまとした例を挙げることはよしますが、とにかく登場人物の行動に共感できないので、バカなことをした人物がその後ひどい目にあっても自業自得だなとしか思えず、バカなことをした人物がひどい目にあわなければ御都合主義が気になり、バカなことをしたわけでもない人がひどい目にあえば理不尽な気がして、映画にのめりこむということができませんでした。

それから、恐竜のことなんですが。
遺伝子組み換え恐竜インドミナス・レックス、あれはもう恐竜ではなく怪獣ですから、何でもありで結構です。目からビームを出そうが火を吹きながら空を飛ぼうがお好きになさったらいい。でも、ヴェロキラプトルが中盤でいきなり人間臭くなるのは何故なんですか。映画序盤では飼育員のオーウェンを喰い殺しかねない奴らだったのに、それから数時間しか経っていないはずの中盤ではすっかりオーウェンに懐いている様子。しまいにはオーウェンを守るために闘い始めるってどういうことですか。

細かい事は気にするなと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これ、ちっとも細かい事ではございません。
細かい事というのは、いかに幼獣だからって触れ合いコーナーにトリケラトプス出すのは危ないだろあそこに出すならプロトケラトプスだろ、とか、翼竜たちは突然ねぐらを襲撃されたのに何で侵入者に襲いかかるのでも散り散りに逃げ出すのでもなく皆で食糧調達にいそしんでるんだ、とか、軍のヘリは外部からパークのある島に向かって飛んでるはずなのになんであの翼竜(ディモルフォドン?)はヘリと同じ方向に飛んでるんだ、とか、アンキロサウルスでさえあんなに勇敢に闘ったのに、野原にいたトリケラたちがインドミナスに一矢も報いずにみんな逃げ出すなんてことあり得るだろうか?!とか、そういうのです。

ラプトルたちとオーウェンに代表される、恐竜と人間との信頼関係というのは、本作の大きなテーマのひとつ、しかもシリーズの他作品にはない、本作が独自に打ち出したテーマではありませんか。それなのにこんな雑な描きかたをしてはイカンでしょう。
例えばラプトル舎での騒動からインドミナス狩りまでの間に、軍関係者か誰かの手出しのせいで事件が起きて、オーウェンがラプトルたちを命がけで助ける、それをラプトルたちがしっかり見ている、といった一幕があればまだしも説得力があったでしょうに。ワタクシとしては肉食恐竜たちには人間となれ合ってほしくなんぞ全然ないのですけれども、ストーリー上それが必要だというなら、せめて説得力のある語りをしていただきたいのですよ。

この1点に限らず、重要なテーマなのかと思いきや扱いがとても雑な「テーマもどき」がひとつならずあり、どれもこれも中途半端な印象を受けました。
ただ、インドミナス誕生をめぐるウー博士とマスラニCEOの対話の中で解説された失敗の構造については、それ以上突っ込まれることがなかったとはいえ、なかなか穿っていてよろしかったと思います。上層部がざっくりした指示だけ出して丸投げし、中間がそれを好きなように解釈し、末端の技術者らは自分の部署内でおそらくはベストを尽くし、誰もそうとは気付かぬ無責任体制の中でろくでもない代物が出来上がってしまった。でも、それもこれも、どんどん高くなる観客の要求に応えようとしたため…って、あれ、何だかこの映画自身のことのような気がして来ました。

それにしてもあのCEO、現場のことをあまり把握していないざっくり経営ではあったかもしれませんが、上述のクレアなんぞよりよっぽど責任感があり、人間もできており、若干お茶目ですらあったのに、何であんな死に方をせにゃならんのかしら。東洋人だからかしら。
ウー博士だって1作目に登場した時は全く悪人ではなかったのに、本作ではヤバい恐竜は作るわ、上層部に内緒で軍と通じてるわ、大事な胚を持ってさっさと逃げ出すわ、すっかり「悪い奴」になってしまいました。東洋人だからかしら。

↓こちらの記事によると、当初は中国人の女性古生物学者とその子供たちがメインキャラクターとして構想されていたのに、脚本見直しの過程で古生物学者はいなくなり、子供たちは白人ということになったのだそうです。

The radical “Jurassic World” we didn’t get to see: When “starting from scratch” means “starting from white” - Salon.com

また女性の描きかたについては、本国でも色々言われているようです。Jurassic World sexistのキーワードで検索しますと、反論も含めて色々出て来ます。もちろん主に取りざたされているのはクレアのことですが、ワタクシは他の女性キャラの描きかたもちょっと気になりました。
子供たちの母親なんて登場するたびにべそべそ泣いてましたし、未婚のクレアにわざわざ「子供っていいものよ!」などと言うのも唐突な上にわざとらしくて白けました。パークの女性スタッフも「死者が出た時に泣く要員」てな感じで、これといった活躍はありませんでしたし。
↓の記事が言うように、20年以上前の『パーク』の方がよほど女性をまっとうに描いていたと思います。

‘Jurassic Park’ is 100 times more feminist than ‘Jurassic World’ | Fusion


うーむ。
ひたすら文句ばかりったってこんなにも文句ばかり言うつもりではなかったのですが。
考えれば考えるほどイカン所が見つかってしまう映画のようです。
ほんと、何も期待せず「ただのパニック映画」と思って観た方がよかったのでしょうね。そうすれば、演出のダサさも、面白くもない笑い所も、無茶すぎる展開も、魅力のなさすぎるキャラクターも、笑って許せたかもしれません。
まあ、そんな心構えが必要だと始めからわかっていたら、そもそも観に行かなかったでしょうけれど。

高野山行3

2015-09-07 | Weblog
金剛峰寺を後にして、壇上伽藍へ向かいます。

大会堂とその軒下の龍。金網は鳥よけでしょうが、躍動的な龍が飛び出さないように押さえているように見えて面白い。


この一角には昭和になってから再建されたというピカピカの建造物もあり、少々面食らいました。
大会堂の前あたりで、さっき金剛峰寺で見かけたようなかなぶんが二匹揃ってひっくり返り、わきわきともがいておりました。ひっくり返ったかなぶんを見かけたら、もれなく助け起こして差し上げることにしております。指を差出すとご両人ともどうにかこうにか立ち直り、「ああ、えらい目に会った」とでも言いたげな後ろ姿で去って行かれました。ころんとした体型といい、いささかどんくさい所といい、かなぶんぶんは可愛いですね。ゴキ諸氏もこれくらい可愛かったら共存できなくはないんですが...。

さておき。

弘法大師の肖像が安置されているという御影堂と、その隣のこぢんまりとした准胝堂。深緑に灯籠がきらきらと映えて、とてもきれいです。


金堂の方へ行くと、少し離れた所で子供たちがわいわい騒いでおります。どうやら可動式になっている塔を回しているようです。ううっ面白そう。普段だったら一人でも塔回しに挑戦する所ですが、炎天下を歩きづめでいいかげん疲れておりましたので、遠くから見守るに留めました。後で調べてみましたら、経蔵であるとのこと。

六角経蔵 - 壇場伽藍(壇上伽藍)の見どころ - 高野山名所図会

横から見た金堂。びゅうんびゅうんと立派な垂木が延びています。


金堂の正面には数年前から再建が勧められ、今年の4月に落成したばかりの中門が立っておりました。柱の緋色も鮮やかな中門を抜け、霊宝館へ。
展示品ごとに丁寧な説明が付いており、ライティングもよろしく、大変結構な展示でした。またワタクシが行った折は名宝展開催中ということで、修復されたばかりのお市の方の肖像画も見ることができました。感想メモを取らなかったので、個々の展示品についての感想は省きます。仏像についての説明書きを読んで驚いたことには、全山の仏像・画像を数え上げてみると、一番多いのは大日如来ではなく阿弥陀如来の像なんだそうです。

霊宝館を出、いいかげんくたくたではありましたが、地面から立ちのぼるような午後の暑さの中を歩いて大門へ向かいます。
↑写真中央は大門を東側から見たところ。写真右端は西側から見たところ。本来なら駅からここまで歩いて、この門をくぐったのちに散策を始めるべきだったのしれません。最後に来ちゃいましたが。

さて時間は午後3時前、夕方までに京都に帰るためにはそろそろケーブルカーに乗らねばなりません。今日3度目のバスに乗り、かつて女性はここまでしか来られなかったという女人堂をすっとばして駅へ。満員のケーブルカーで下界に下りる途中、山腹に「ここがスカイツリーと同じ高さ」という内容の看板が立っているのが目に入りました。へええと思う情報ではありますが、こういうのを得意気に押出してきてしまうあたり、やっぱり何だか俗っぽい。南海高野線に乗ってからはまた『夏への扉』を開いてごとごと帰ります。

『夏への扉』はとても面白かったものの、主人公にとって全てがえらい都合よく終わったな、とは思いました。え、同い年くらいじゃなくて一回り下なわけだ、とも思いました。しかし最終的に猫のピートが幸せになったので何もかも良しとします。
高野山も期待したような静謐な場所ではありませんでしたけれど、奥の院の杉がなにせ素晴らしかったので、良しとしようと思います。


高野山行2

2015-09-04 | Weblog
奥の院を出てもと来た道を引返します。途中、分かれ道がございました。
↓大木の手前を左に折れると杉木立から出るルートになります。太陽さんさんでちょっと暑そう。しかし来た時とは別の道をたどってみるのもよかろうと思って出てみたわけです。


まあ暑いのなんの。
正午前の強い日差しが遮るものもなく降り注ぎ、石畳で目玉焼きくらいは作れそうな勢い。
木立の中の道とほんの数メートルの隔たりしかないのが信じられないような温度差でございます。ああ、植物は偉大なり。
できればもとの参道に戻りたかったのですが、枝道になっているのは先程の一カ所だけらしく、仕方ないので汗を吹き拭きバス停へ向かいます。

程なくやって来たバスで市街地へと向かう途中、苅萱堂(かるかやどう)前で下車。お堂に入って行きますと、堂守の御老人が話しかけていらっして、あれよあれよという間にろうそくを買わされました。もっともこれは単にワタクシが断り下手だからであって、何も買わなくても拝観できます。
お堂の中では高野山ゆかりの僧、苅萱道心とその息子石童丸 - Wikipediaの物語を、彩色された木彫レリーフ(あまり芸術性が高いものとは思われませんでした)と解説文によって辿ることができます。現代の価値観で見ると「そもそもおめーが妾を囲い入れた上に家庭放棄したのが悪いんじゃねーか!」と苅萱道心をしばき倒したくなるようなお話ではございましたが、謡曲や説教節において、道徳的なお話として長らく語り継がれて来た説話なんだとか。

お堂を出てからてくてく歩いて行くと、立派な構えの史跡らしい建物がございます。(↑真ん中の写真)おずおずと入ってみても門前を掃いているお坊さんがたに呼び止められることはなく、これは拝観できる所なのかなと思って玄関口のスリッパをお借りしてぺたぺた上がって行きました。ところがこれが宿坊だったらしく、奥から出ていらっしたお坊さんに「ちょっとそこの人!声もかけんと勝手に上がってもろたら困りますよ!」と指さしで怒られました。

もう寄り道はしないことにして、黙々と金剛峰寺へと向かいます。

蝉しぐれの金剛峰寺。

境内の一角に、何か現代アートじみた素敵なものが立っております。
近づいて説明書きを読んでみると、実際に現代アートでございました。美術作家の崔石鎬氏による、護摩木を積み上げた作品とのこと。
詳しくは↓こちら。
artpot - ホーム

悼みや祈りのひとつひとつが丁寧に積み上げられて、天に昇せられる時を待っております。周囲と調和しながらもしんと自己完結した、厳かで美しい空間でございました。

金剛峰寺の中を拝観。枯山水を望める廊下から。

窓辺では可愛いかなぶんぶんが涼んでおります。

廊下の突き当たりは大広間になっており、煎茶のお接待をいただけます。雲を食べるような白くて軽い煎餅がお茶菓子に付いて来ました。
ひっきりなしに人が来るので、まかないの皆さんは大忙し。「はい~お二人様~」「はい~次の方どうぞ~」とこの一角だけやけに威勢がいい声が飛び交っていて、ちょっと可笑しかった。

お茶をいただいて一息ついてから廊下を少し戻り、枯山水を左手に見ながら進んで行きますと、しまいにお台所へ着きました。小さな天窓からいい具合に外光が降り注いでおります。見える場所に段ボールとか積んでなかったらもっとよかった。


力尽きたので、次回に続きます。

高野山行1

2015-09-01 | Weblog
ふと思い立って高野山へ行ってまいりました。
ふと思い立ったことなので下調べはほぼ無し。

行ってみればバスやケーブルカーの中ではいかにも観光地めいた音楽つきのアナウンスが流れ、お寺とお寺の間にはお土産屋さんとお茶所がぎゅうぎゅう詰まっており、コンビニなんぞもあり、ゆるキャラ「こうやくん」の看板が所々に立っており、お坊さんがたはお客をさばき慣れている、というか、さばき倦んでいる感じで、もう少し俗離れした所を期待していた身としては少々がっかり。
しかしまあ、循環バスは使いよく、公衆トイレはとてもきれいであって、要するに観光客が快適に過ごせるように整えられているというわけで、観光目的で行ったワタクシごときに文句を言われる筋合いはないこってございましょう。

遠出のおともには本が不可欠。あまたのつんどく本を尻目に、数日前に買ったばかりのハインラインの『夏への扉』、そして万がいち途中で読み終えてしまった時の予備として、遠藤周作の『沈黙』をカバンに入れます。変な組み合わせですが別に意味はありません。二冊とも「そういえば読んでなかった名作」というだけの繋がりでございます。

JRの最寄り駅から京都→梅田→難波まで出て南海電鉄に乗り換え。関西に20年いながら初めて乗った南海。ワタクシが乗った車両はきれいな青い座席でクッションの固さも程よく、乗り心地はいたって快適でございました。
しばらく市街地が続いたのち窓外の景色はだんだんと山がちになり、橋本駅で極楽橋行きに乗り換えてからは本当に山の中を進んで行きます。右手には鬱蒼とした木々がせまり、左手には深い谷を見下ろし、よくまあこんな所に鉄道を敷いたもんだと驚くばかりの山奥をごとごとと揺られておりますと、『夏への扉』をちょうど半分くらいまで読んだ所で極楽橋に到着。悪漢たちのせいで「ぼく」から引き離され、過去に取り残されてしまったピート(猫)の運命がものすごく気になる所ではありますが、ここで一旦本を閉じねばなりません。

真っ赤な車体が可愛らしい、二両編成の車両。

ホームからケーブルカーの乗り口まで、風鈴がたくさん吊り下げられております。
このケーブルカーというのがまあ、おっそろしい角度の傾斜をゴンゴンと上って行くんでございます。写真は高野山駅に着いた時に撮ったもの。いやどうです、この斜めっぷり!

改札を出ますと、はちすをかたどった何やらありがたげな器が置いてあります。蓋を開けてみると粒子の細かい茶色の粉末が入っておりました。塗香(ずこう)というもので、聖地に踏み込む前にこれを両手にまぶして身を清浄にするんだそうです。つまんで両手にもみこむと、スパイシーないい香りがたち上ります。いささか『注文の多い料理店』気分ではございます。


表へ出るとすぐバス乗り場があり、ちょうど一番遠い奥の院口行きのバスが出る所でございました。勢いで一日乗車券(¥830)を買って乗り込みます。
奥の院口から奥の院までの参道には、歴史的有名人やら作家やら大企業やらの供養塔やお墓やがぎっしり並んでおりまして、親切なことに参道入口にはお墓マップが掲示されておりました。織田さんやら豊臣さんやらはすっとばしてもいいけど、熊谷直実のお墓には手を合わせておこうかな…と思っていたのですが、周りの杉の木ばかり見ていたらいつの間にか通り過ぎてしまいました。

何せ素晴らしいんですもの、杉の木が。年月を経た大木がしんしんと空に向かって延びており、朽ちかけた株からは可愛らしい新芽が育ちつつあり、複数の株が根元で一体化したものや、大きな洞にこんもりとシダや苔を擁しているもの、幹の途中から別の木が生えているもの(↑右端)もございました。

根元には様々な種類の苔が豊かに育っております。


知人に勧められて尾崎翠を読んだばかりだったのろさん、苔たちのたたずまいにも何となく心惹かれます。



↓下の方に見えている赤いものはお地蔵さんの前掛け。ご立派なお墓や供養塔だけでなく、名も無き小さなお地蔵さんも無数にありました。


8月なかばの暑い盛りであったにも関わらず、杉木立の中はひんやりと涼しく、歩きづめでも汗が流れることはありませんでした。

ちいさなちいさなキノコを発見。

さて、奥の院の手前までやって来ました。橋を渡った向う側は撮影禁止でございます。なんせ聖地ですから。
なんでも、橋の所まで弘法大師さんが参拝者を迎えに来てくだすって、帰る時も橋までお見送りしてくださるんだとか。
こんなにお客さんが多いと弘法さんも大忙しだろうなあと思うほどの人出ではございましたが、遠慮する義理もないので、一応襟を正してお堂をぐるっと一巡し、誰へともなくお線香をあげてみたりなんぞいたしました。


次回に続きます。