のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ジョブズ氏死去

2011-10-06 | 忌日
ええ?!
死去?!?!

米アップル:ジョブズ会長死去 56歳 8月にCEO退任 - 毎日jp(毎日新聞)

ヘッドラインを二度三度と読み返してああ「目を疑う」とはこのことか、と妙に納得したのち、どうやらデマではないということがじわじわ滲みて来て呆然といたしました。

ワタクシはいわゆるアップル信者というわけではございません。ipadやiphoneはおろかipodすら持っておりません(他社のものを使っているというわけではなく、そもそもこうした機器を持っていない)。
しかしパソコンの使い方をはじめて習ったときからずっとMacユーザーで通して今に至ります。初めて買ったパソコンもiMacのスノーでございました。
即ち、↓これ。
imacさんさようなら - のろや

実を申せば、このiMacさんが拙宅に届いたときに入っていた白い段ボール箱が、ワタクシはいまだに捨てられずにおります。大きいので畳んでおりますけどね。箱の4面にあのころっと可愛らしい姿がプリントされており、ふと目にするとなにかこう、亡き友の遺影を見るような心地がするわけでございます。

そんなわけでわりと長年のMacユーザーであるにもかかわらず、いまだにあんまり使いこなせていないというのは目の前のMac miniさんにも故ジョブズ氏にも申し訳ないかぎりではあります。どっちみち使いこなせないなら、何故世に広く普及しているWindowsにしてしまわないのかと申しますと、まず「何となく」な動かし方でもそこそこ使えてしまうユーザーフレンドリーさがありがたいから、そしてやっぱり、デザインがいいからでございます。
ドナルド・ジャッドがパソコンを作ったらこうなったという感じの、白とシルバーを基調としたミニマルな外観は、ど真ん中にのろごのみでございまして、先代のiMacさんにしても今のMac miniさんにしても、電子機器がさして好きでもないワタクシをして「これとならば一緒に暮らしたい」と思わしめるような魅力的な姿をしております。

いわゆるコントロールフリークとも称されるジョブズ氏、製品の機能のみならずデザインにも徹底的にこだわったということはつとに聞こえておりました。コンピュータのくせにうっとりと眺めたくなるデザインをまとったmacさんとその周辺機器を世に送り出してくれた功績も、氏に帰せられる所が大きいのかもしれません。

ipodやipadの恩恵を受けてもいなければパソコン業界に詳しくもないワタクシには、この訃報を聞いても、ひとつの時代が終ったと感じるほどの大きな感慨はございません。
しかし今目の前に鎮座している白い小箱、下は3℃から上は35℃まで激しい温度差のある拙宅において、文句も言わずつぶれもせず日夜働いてくれているグッドデザインな相棒氏をつくづくと眺めやりますと、ジョブっさんありがとう、という言葉が自然と胸中に沸き上がって来たのでございました。

というわけで
数々の素敵な製品で、世界を前よりも少し楽しい場所にしてくれて
ありがとう、スティーブ・ジョブズ。

アップル

ウォルシンガム話12

2011-04-24 | 忌日
今回で終了。
寂しいなあ。
でも、そろそろ日常に戻らなくては。


というわけで
4/19の続きでございます。


ご存知の通りエリザベス朝イングランドといえば、演劇文化が花開いた時代でもあります。意外な所に顔を出すウォルシンガム長官、こんな所にも足跡を残しておりました。
1583年、女王陛下専属の劇団「クイーンズ・メン」が編成されます。病欠のサセックス伯を引き継ぐ形でこの任に当たったのがウォルシンガム。1583年といえばエリザベス暗殺計画が活発になりはじめた頃。国務長官、スロックモートンの動向や駄目スパイウィリアム・パーリーの立ち回りを注視するかたわら、2、3ヶ月の間にちゃっちゃと事を取りまとめております。レスター伯を始め、裕福な貴族たちの擁していた劇団からトップスターを引っこ抜いて集めたというのですから、引き抜かれる側としては何ともはた迷惑な話です。でも、どんなに不満でもおおっぴらに文句は言えなかったことでしょう。相手が相手ですから。

劇団結成の背景には多分に政治的な意図があったものと見られております。そもそも女王陛下のお楽しみのためだけであったなら、よりにもよってウォルシンガムに任せられることはなかったでしょうしね。

この女王陛下の劇団、宮中でのパフォーマンスの他、夏には地方巡業も行っておりました。
宮中においては、女王のもとに最高の演劇人を集中させることによって、貴族たちが自らの擁する劇団を誇ってエゴを張り合うのを止めさせる効果がありました。地方においては、女王や枢密院の意図に叶う演目を最高のパフォーマーが演じることにより、エリザベスへの忠誠心や新教への信仰を高める目的があったのです。
また劇団がこのタイミングで、しかもウォルシンガムの指示によって結成されていることから、団員には巡業で訪れた地方において情報を集め、ロンドンで待つウォルシンガムのもとへ報告するという役割もあったものと見られております。この人どうしてもこれなしでは済まされないようですな。

俳優の社会的地位は全般的に低かったものの、クイーンズ・メンは王宮付きの劇団ですから、地方へ行ってもそう下々の者と交わることはなかったかもしれません。クイーンズ・メンとは別に、ウォルシンガムはもっと卑俗な所へも入りこめるドサ回りの役者や市井の芝居関係者もリクルートして、国内外の旧教徒の動向を探らせていました。
この時代の劇作家としてはシェイクスピアに次いで有名なクリストファー・マーロウもその内の1人であったとされております。弱冠29歳で謎めいた死をとげたことから、スパイ活動への関与が彼の死を早めたとも推測されております。

いかに思いがけない所へ顔を出すといっても、マーロウより3年も前に他界しているウォルシンガムが直接的な指令を出すのはさすがに無理というもの。とはいえ、マーロウが酒場でのいさかいの最中に殺害された時、4人の当事者のうち2人がマーロウ自身のようにかつてウォルシンガムの雇われスパイであったことを鑑みると、サー・フランシスが残した諜報機関がマーロウ殺害に関わっていた可能性は確かに否定できないものではあります。

とりわけ事件の目撃者とされるロバート・ポウリーという男、この名前覚えてらっしゃるでしょうか、バビントン・プロットにも深く関わったいわくつきの人物です。カモフラージュのためか本当に疑いをかけられていたためか、バビントンと一緒に逮捕されて一時はロンドン塔に繋がれていたポウリー、ウォルシンガムの口添えで釈放されたのち、愛人に対してこんなことを言っております。

Nay, he is more beholdinge vnto me then I am vnto him for there are further matters betwene hym& me then all the world shall knowe of.
いや、恩になっているのは、おれのほうより彼(ウォルシンガム)のほうさ。なにしろ、世間では知らぬようなことが、われわれ2人のあいだにはいろいろとあるのだからな

『マーロウ研究』北川悌二 1964 研究社出版 p.42

こんな証言に出くわすと、ウォルシンガムの私的な書類が政府によって全て処分されたのは、不要だったからというより、残しておくのがやばすぎたからじゃなかろうかと憶測したくなります。

ウォルシンガム自身が演劇を好んだかどうかは分かりませんが、そのまま芝居の台詞になりそうな金言や、比喩とウィットに富む言い回しをひねり出すのは得意だったようです。
例えば1573年にフランスから帰国した際、エリザベスに対してこんなことを言っております。

‘She had no reason,’ he told her by way of spur, ‘to fear the king of Spain, for although he had a strong appetite and a good digestion,’ yet he―her envoy―claimed to have ‘given him such a bone to pick as would take him up twenty years at least and break his teeth at last, so that her majesty had no more to do but to throw into the fire he had kindled some English fuel from time to time to keep it burning’
スペイン王を恐れることはありません。彼は旺盛な食欲と強い胃袋の持ち主ではあります。しかし私は彼の歯の間に少なくとも20年は取れないような骨を差し込んでやりましたから、ついにはその歯もへし折れることでしょう。陛下は私が起こした火が消えぬよう、時おりイングランドの薪を投げ入れてくださるだけで結構でございます。

これ言ったときは「薪」をこんなにも出し惜しみされるとは思ってなかったでしょう、長官。

しかしこの人、

An habit of secrecy is both policy and virtue
秘密厳守の習慣は賢明なことでもあり、美徳でもある

とか
Video et taceo / See and keep silent
知れ、そして語るな


などという金言を吐いているわりには、デイヴィソン君など信頼した相手には軽率なことをぽんぽん言ってしまうたちだったらしく、初めてフランス大使に任命された際にはレスター伯からその性質を注意されているというのが笑けます。

エリザベスは近しい人々にニックネームをつけるのが好きで、例えばウィリアム・セシルは「私の精霊」、彼の息子で父の後を継いだロバートは背が低かったので「私の小人」、ドレイク船長は「私の海賊」、求婚者フランソワは「私のカエルさん」いった具合でした。
我らが国務長官は「My Moor 私のムーア人」。オセローのイメージからムーア人=ネグロイドと思っておりましたが、アフリカ北西部に暮らすイスラム教徒の総称で、むしろアラブ人やベルベル人を指すのだそうで。今初めて知った。サー・フランシスがこう”命名”されたのは彼が小柄で肌が浅黒かったからだとも、いつも黒服を着ていたからだとも言われておりますが、確かな理由は不明です。
ご本人がこのあだ名をそれほどありがたがったとは思えませんが、時々「my native soil Ethiopia 生まれ故郷のエチオピア」を自虐ジョーク的に持ち出して女王に応酬しております。

エリザベスがちっとも自分の進言を聞き入れてくれないことをあてつけては
The laws of Ethiopia, my native soil are very severe against those that condemn a person unheard...I then be worthy to receive the most sharp punishment
私の生まれ故郷エチオピアでは、言うことを聞き入れてもらえないからといって他人を非難する人間は厳しく罰せられるのだそうです。してみると私などは最も重い罰に値することになりましょうな。

彼女の吝嗇ぶりをなじっては
There was no one that serveth in place of councillor...who would not wish himself rather in the furthest part of Ethiopia than to enjoy the fairest palace in England.
この調子では、陛下にお仕えする議員の中で、イングランドの王宮にいるよりはエチオピアの僻地にいた方がましだと思わぬ者はおりますまい。


furthestとfairest、EthiopiaとEnglandで頭韻を踏んでくるあたり、やりますな。
それにしてもサー・フランシス、絶対君主に対してほんとにこんなこと言ったのかね、とびっくりするほど率直な言葉をしばしばお吐きになります。

Your Majesty's delay used in resolving doth not only make me void of all good hope to do any good therein, the opportunity being lost, but also quite discourage me to deal in like causes, seeing mine and other your poor faithful servants' care for your safety fruitless.
陛下が物事をお決めになるにあたってご決断を先延ばしにされるので、解決のため少しでもお役に立とうとする私からはあらゆる希望が奪われますし、せっかくの機会も失われてしまいます。そればかりか、私の哀れな部下や同僚たちが忠義を尽くし、陛下の安全のために骨折っているというのに、それも無駄になるのを見るにつけ、私は全くやる気が削がれます。

えらく辛辣な言い方です。うまく訳せないのが残念ですが。
面と向かってぶしつけな物言いをするだけでなく、もちろんご本人がいない所でも飛ばしておりますよ。
1585年、ネーデルラント北部7州から代表団がやって来て、エリザベスに諸州の統治権を委ねたいという申し出の文書をウォルシンガムに託します。お伺いを立てるまでもなく女王に断られることは明白でしたが、国務長官、長々とした文書に一応目を通した上で「陛下は1ページ以上のものを読むの嫌がるから、もっと短くしてみたら?」と提案したのでした。代表団の皆さんも、こんなこと言われて思わず固まったことでしょう。

でもその一方で、例のメアリ処刑前のごたごたでポッキリ折れた心を抱えて休職している間に「処刑の遅延によって陛下が直面される危険のほどを思うと、他のあらゆる悲しみよりもそれが何より私の心を苦しめる」なんて泣かせることをレスター宛に書き送ったり。
えっ。レスター伯づてで女王の耳に入ることを期待したんじゃないかって。
うーむ、まあ、そういうことをしそうな人ではあります。

さておき、2つのものを併記して「前者の方が後者よりも危険が少ない」という言い回しをしたり「陛下の病状(優柔不断)は、ちょっとぐらいの治療では改善しそうにない」だの「陛下は病を治すよりむしろ隠そうとなさる」だの、病気の喩えがしょっちゅう出てくるのもサー・フランシスの作文の特徴のようで、分析的な考え方や、若い頃から常につきまとった健康問題の大きさが垣間見えて面白い。いや面白がっちゃ悪いか。

これまでの記事の中でも何度か触れておりますけれども、この人の病弱ぶりときたら、ひとかたならぬものだったようです(心臓だけはやたら強そうですが)。例の泌尿器系の持病の関連疾患か、あるいは他の病気やまずい治療によるものか、熱を出したり胃を悪くしたり頭痛に襲われたり足が腫れたり目に障害が出たり、脇腹の激痛で一晩中眠れないことがしばしば-----どれもこれも休職しなければならないほどの激しさで-----あったり、並べてみるとそりゃもうえらいこっちゃです。1587年にはとうとう仕事中に発作で倒れて、後でレスター伯に「死ぬかと思った」と書き送っております。

I hope I shall enjoy more ease in another world than I do in this.
あの世ではもっと楽に暮らせるといいのですが。


なんて、弱音をお吐きんなるのも無理はありません。



エリザベスお好みの長身の美男子でもなければ颯爽とした武人でもなく、甘い言葉を好んだという女王に対して他の誰もあえてしなかったほど率直な言葉を浴びせ、重要な外交政策においては彼女の意に染まないことばかり主張する上に、あれやこれやでやたら病欠の多いウォルシンガムを、女王がずっと側に置き続けたのは何故だったのでしょうか。

それはとりもなおさず、エリザベスが彼の有能さを高く評価していたためでもあり、またどんなに無礼な言葉を吐こうとも、彼の忠誠は疑うべくもないということが分かっていたからでありましょう。だからこそ、しばしばウォルシンガム自身の主張とは正反対の任務を当の本人に押しつけることにもなったとはいえ、そんな時でも「(leave my) private passions behind me and do here submit myself to the passions of my prince, to execute whatsoever she shall command me as precisery as I may 私自身の感情はさておき、陛下がお命じになることをできるかぎり正確に遂行します」(レスター伯宛書簡)というウォルシンガムの言葉を、女王は完全に信用することができたのです。

では、鋭い知性と大胆さ、広い人脈、高い語学力と緻密な情報網を持ち、時にはマキャベリアン的に仮借のない冷血さを発揮することもできたウォルシンガムが、セシルやレスター伯のように大派閥をこさえたり大邸宅を構えたりすることもなく、病身を押し私財を投げ打って、彼のことを決して好いてはいない主君に対して健気という言葉がふさわしいほどの忠誠を捧げ続けたのは何故だったのでしょうか。

小国イングランドを支えるためにはそこまでしなければならないという政治的確信ゆえか、ケチで優柔不断な女王の側には自分のような人間が必要だという切実な懸念ゆえか、生来の生真面目さゆえか、あるいは「ピューリタン的情熱」ゆえか。
資料をさんざんひっくり返してみたところで、本当の所は分からないのかもしれません。
同時代の著名な歴史家で、ウォルシンガムを個人的によく知っていたと見られるウィリアム・カムデンですら、こう言っているのですから。

He saw everyone, no one saw him.
彼はあらゆる者を見通したが、彼のことを見通す者はいなかった。


最後に、最近の映像作品におけるサー・フランシス像をちょっとご紹介しておきましょう。
数年前に話の持ち上がったメアリ・スチュアートの伝記映画(スカーレット・ヨハンソン主演)も気になる所ではありますが、監督が降りてしまった上に、2009年には出資元企業が倒産して資金のめどが立たなくなり、現在ではすっかり暗礁に乗り上げている模様。ウのつく誰かの呪いじゃないでしょうか。

そうそう、ちなみにワタクシは記事の中で何度もサー・フランシスと呼んではおりますが、ナイトに叙された後も、廷臣の誰もが彼のことを「サー・フランシス」や「サー・ウォルシンガム」ではなくMr. Secretary 国務長官殿」と呼んでいたのだそうです。secretaryの語源はラテン語で「秘密に関わる人」。なるほど。
では、Mr. Secretary、どうぞ。

まずはBBCのドラマVirgin Queenより。


ベン・ダニエルズ

Elizabeth I The Virgin Queen (part14/21)


何というかこれは
ダース・ウォルシンガム。
1570年、28歳で大使補佐官としてフランスに行った時にしてすでに「全身黒づくめで王族に対しても傲然とした態度とあけすけな物言い」という目撃証言(スペイン大使談)が残されている人ではありますから、コスチュームや物腰については次に挙げるウォルシンガムたちよりも実像に近いかもしれません。黒手袋はしてなかったでしょうけれど。普段は白いカラーすらつけず、唯一の”アクセサリー”が拡大鏡であるというのも面白い。ベン・ダニエルズという俳優はワタクシ全然知りませんでしたが、なかなかいい声の持ち主ですね。
エリザベス役のアン=マリー・ダフさん、顔が似ていないのは仕方がないとして(ジュディ・デンチだって似てはいない)、苛立ちを表現するのにわざとらしく指を噛んだりするのはやめていただきたい。それにお腹から声の出てないエリザベスというのもなんだかなあ。そしてこんな所にもトム・ハーディ(レスター伯役)。作品によってほんとに印象を変えて来ますね。たいした役者さんです。

次に
ヘレン・ミレンがエリザベス1世を演じたTV映画『エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~』(監督は『英国王のスピーチ』のトム・フーパー)より


パトリック・マラハイド

不健康そうでよろしい笑。

注意↓4:58から5:45まではバビントンたちの処刑シーンです。かなりエグイです。
エグイのが苦手な方は飛ばしてください。


Helen Mirren as Elizabeth I -- Mary Queen of Scots trial


エセックス伯がうっとうしいので(役者さんではなくキャラクターが)ワタクシは前編しか見ていないのですが、見た限りではヘレン・ミレンとジェレミー・アイアンズの上手さがとにかく光っておりました。
ウォルシンガムは歴戦の外交官にしてはちと感情が顔に出すぎな感じはします。しかし枢密議員らに無言で退席を指示するゼスチャーや、拷問台の上にかがみこんで「シー」とささやきながら、引き延ばされ中の若者の顔をやさしーく拭いてやる(もちろん口を割らないと分かるとさっさと行ってしまう)のは実によかった。

また教皇がエリザベスの暗殺を奨励しているとの報を受けて、セシルが「陛下にお知らせしなければ...だが、いつ?私たちのうちのどちらが?」と逡巡しているのを横目に「私が話す。この顔は悪報にふさわしい I have the right face to tell a bad newsと言いながら、群衆をかき分けて女王に近づいて行く場面、これは行動も台詞も実にウォルシンガムらしくていいですね。また議会を代表してメアリの処刑令状をエリザベスに差し出したり、「陛下に言うの、気が重いよう」と廊下で泣きついて来たレスター伯に代わって、メアリが処刑されたことをエリザベスに告げてやったりと、最終的にしんどい役回りを引き受ける人物として描かれておりました。

コスチュームは他の登場人物との差異化を図ったためか、あるいはピューリタン的であることを強調するためか、廷臣たちの中でウォルシンガムだけが、首をぐるりと囲むひだ襟ではなく、現代のシャツのカラーのような簡素な襟を垂らしております。デイヴィソン君も兄貴分とほぼ同じ、とはいえ襟元にフリルがあるなどちょっとだけ綾のついた格好をしているというのが面白い。
そうそう、何と言っても本作の見どころはデイヴィソン君ですよ笑。いかにも生真面目で実直、かつちょっとお人好しな雰囲気が漂っておりまして、どこから見てもスケープゴート役にぴったりの風貌をしておいでです。そりゃもうあまりにもデイヴィソン君らしいデイヴィソン君なので、画面に現れるたびにワタクシちょっと笑ってしまうのでした。

(追記:結局、後編も鑑賞しました。前編でアルマダ戦までやってしまっていたので、国務長官、あとはもう弱ってお亡くなりになるばかりかと思っていたら、これが意外に見せ場が多かったのですよ、嬉しいことに。女王陛下の上履き投げつけシーンもばっちり収められておりました。エリザベスからものすごい剣幕でののしられ、正面から上履きをぶつけられつつも「またかよ」的に無反応なウォルシンガム。女王が議会で倒れた際、押し寄せる議員たちを遠ざけるために短剣を抜き放つウォルシンガム(←右脇から右手で剣を抜くというのは何とも非実用的な気がしますが)。上機嫌の女王に冷や水を浴びせるようなひと言を言い放つウォルシンガム。うーむ、実にもってウォルシンガムです。)


最後に『エリザベス』と続編『エリザベス ゴールデン・エイジ』より


ジェフリー・ラッシュ

いつも思うんですが
ジェフリー・ラッシュってあんな縦に引き延ばしたぬっぺほふみたいな顔の持ち主なのに、時として何であんなにもかっこよくなってしまうんでしょうね。「謎だ」。

それぞれフランスとスペインに喧嘩売ってるような作品ではありますし、史実をかなーーーーーーり自由に脚色しているので、けしからんとお思いになる方がいらっしゃるのは分かります。しかし映画としてはなかなかによくできた作品ですので、割り切って見られる方には大いにお勧めします。衣装や美術も申しぶんありませんし、何と言ってもケイト・ブランシェットとジェフリー・ラッシュの演技が素晴らしすぎるので何もかもよしとしましょう。レスター伯とウォルター・ローリーをそれぞれ演じたジョゼフ・ファインズとクライヴ・オーウェンが、それぞれに暑苦しく魅力に乏しいという難点はありましたが、これはまあ好みの問題かと。

スターが起用されているだけあって、ウォルシンガム、ここでは準主役と言ってもいいほどの存在感で描かれております。台詞はそれほど多くないのものの、一言一言に重みがあって印象深い。反逆罪で捕えられたノーフォーク公に対する

You were the most powerful man in England ... but you had not the courage to be loyal.
あなたはイングランドで最も力ある人物だった。だが、忠実であるだけの勇気を持たなかった。


という台詞など、一見逆説的であるだけにハッとさせられました。
続編『ゴールデン・エイジ』の方では、メアリの処刑を嫌がって「法なんて平民のためのもの、王族は縛られない」と駄々をこねるエリザベスをきっと振り返って

The law, Your Majesty, is for the protection of your people.
法とは陛下、あなたの民を守るためにあるものです。


と啖呵を切るシーンがたいへんよろしかった。
まあ実際のウォルシンガムはもっとよく喋る、しかも機知に富みつつも相手がムカッ とするような余計なひと言を付け加えながら喋る人だったんじゃないかと思いますけれど。

youtubeを漁っていたら『エリザベス』の切り貼り映像に「007のテーマ」を被せて作ったクリップを発見しました。危篤な人もいるものです。嬉しいですね。

Walsingham, Francis Walsingham


あっはっはっはっは。
似合う、似合う。よく似合いますよ。
しかしこの作品でのウォルシンガムはエリザベスよりもかなり年上である上に(実際はほぼ同年齢)、一作目の方では無神論者で同性愛者であることを匂わせる描きかたをされておりますので、あの世でご本人がご覧になったらひっくり返ることでしょう。
ひっくり返るウォルシンガムというのは、ちょっと見てみたいけれど。


おわり。

長々しい記事をここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。
軽い気持ちで書きはじめたウォルシンガム話。調べ出したらあまりにも面白い人だったのでのめりこんでしまい、この数週間というもの寝る間も惜しんでウォルシンガム漬けの日々でした。用事はたまるし視力は落ちるしのろさんあほみたい。でも、楽しかった。
次回から通常のプログラムに戻ります。

以下に記事を書くにあたって参照した文献およびサイトを列挙します。ちょっぴり感想つき。
記事ではなるべく複数の情報源に記載があったことのみをご紹介するようにしましたが、中にはあまりにも魅力的なエピソードだったので他のソースを見つけられなくても採用してしまったものもあります。
Hear all reports but trust not all.
全ての報告に耳を傾けよ、しかし全ては信じるな。

を信条とする諜報局長殿に怒られそうです。
当記事をお読みになってサー・フランシスに興味を持たれた方はぜひご自身でもいろいろ探ってみてくださいまし。はまりますよ。その際以下のリストが少しでもお役に立てば幸いです。

参考文献
『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』青木道彦 講談社 2000
ワタクシが書店主なら「エリザベス時代が一冊でわかる!」というpopをつけて平置きしたことでしょう。当時のイングランドの内外を取り巻く文化的・政治的状況が概括的に、かつ簡潔でスピード感のある文体で書かれており、たいへん参考になりました。
『イギリス国民の歴史〈続〉―新王政の成立からエリザベスの時代まで』J.R.グリーン著 和田雄一訳 篠崎書林 1986
これはウォルシンガム話6 で少しご紹介しました。固いタイトルですが、中身はあたかも小説のような面白さ。歴史の縦糸横糸とその中に織り込まれた大小の人物が生き生きと描き出されていて、引き込まれます。
『紳士の国のインテリジェンス』川成洋 集英社 2007
ウォルシンガムについて一定量の情報がある日本語の書籍としては現在最も入手しやすいものではありますし、とっかかりとしては良書かと思います。しかし-----学者さんに喧嘩を売るつもりはありませんが-----、スロックモートン事件についてあまり正確ではないことが書かれていたり、「娘のレディ・シドニーも夫のサー・フィリップ・シドニーとともに父の遺志を継いで...」という記述があったり(もちろんフィリップ・シドニーはウォルシンガムよりも先に亡くなっておりますから「遺志を継」げるわけがありません)と、ちょっと首を傾げたくなる箇所があることも申し上げておかねばなりません。参考文献に映画『エリザベス』のノベライズが含まれているというのもいかがなものか。

スロックモートン Throckmorton の名がなぜか全て「ストックモートン」と記載されている。またスロックモートンが逮捕されたのは本書に書かれているように「スコットランド国境」ではなく、ロンドンの自宅にいる時です。「ロンドン塔の地下牢で密かに処刑」されてもおりません。スロックモートンは正式な裁判を経てから、タイバーンの処刑場で絞首刑となりました。それから「その後(”密かに処刑”した後)、自宅を捜索」したのでもありません。これではウォルシンガムがろくな物証もないのに勝手に容疑者を殺し、それから証拠を探したことになってしまうではありませんか。家宅捜索が行われたは逮捕の後、あるいはそれと同時であり、そこで見つかった証拠を並べ上げた上で尋問(拷問)がなされたのです。
『スパイの歴史 』 テリー・クラウディ著 日暮雅通訳 東洋書林 2010
『イギリス史2 近世 世界歴史大系』今井宏編 山川出版社 1990
『イングランド史II』D.M.グリュー著 林達也訳 学文社 1983
『イギリス史2』G.M.トレヴェリアン著 大野真弓訳 みすず書房 1974
『市民と礼儀 初期近代イギリス社会史』ピーター・バーク編 木邨和彦訳 牧歌舎 2008
『スコットランド絶対王政の展開』G.ドナルドソン著 飯島啓二訳 未来社 1972
『アルマダの戦い』マイケル・ルイス著 幸田礼雅訳 新評論 1996
『ドレイク 無敵艦隊を破った男 大航海者の世界4』ネヴィル・ウィリアムズ著 向井元子訳 副羊羹書店 1994
『マーロウ研究』北川悌ニ 研究社 1964
Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press 2004
たいへんお世話になりました。こんな人物辞典を持ってるなんて、イギリス人は幸せですな。
The Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 1917
こちら↓で全文読めます。おすすめ。スコットランド行きを嫌がるくだり(p.238)なんかもう最高です。
Walsingham, Francis (1530?-1590) (DNB00) - Wikisource
Stephen Budiansky, Her Majesty's Spy Master, Plume, 2006
図版(白黒)あり。情報量はそれほど多くはないものの、文章に彩りがあって、読んで楽しい一冊。
「国務長官殿は女王陛下のドアの開け方というものを心得ていた。決して大きく開け放つこともなければ、一旦は開けたものを閉めてしまうことさえある。そこで彼は、開いたドアの隙間につま先をねじ込むことに力を尽くす一方、裏口を確保しておくことにも気を配った」なんて、あまりにも即妙な喩えで笑ってしまうではありませんか。
Robert Hutchinson, Elizabeth's Spy master, Phoenix, 2006
カラー図版あり。詳細な索引や略年表、引用注、ウォルシンガムが使っていたスパイたちの略歴つきリストなども収録されており、ペーパーバックのくせになかなかの充実度。とはいえ紙質は悪くカバーデザイン最悪でノドの余白も大きくないくせに横目で製本されているという、ちょっぴりがっつり怒りたくなるような造本ではあります。
Peter Holmes, Who's Who in Tudor England, Shepheard-Walwyn, 1990
Stephen Alford, Burghley: William Cecil at The Court of Elizabeth I, Yale University Press, 2008
Paul F. Grendler,Encyclopedia of the Renaissance, C. Scribner's Sons, 1987
A. R. Braunmuller, Cambridge Companion to English Renaissance Drama, Cambridge University Press, 2003
John Guy, Tudor England, Oxford University Press, 1988
Matthew Spring, The Lute in Britain: A History of the Instrument and Its Music, Oxford University Press, 2006
Terry Crowdy, The Enemy Within : A History of Spies, Spymasters and Espionage Osprey Publishing, 2008

参考Website
Francis Walsingham - Wikipedia, the free encyclopedia
England Under The Tudors: Sir Francis Walsingham (c.1530-1590)
Francis WALSINGHAM (Sir)
↓ご本人の言葉とされるものがいろいろ紹介されています。
WORDS: BIOG: Walsingham, Sir Fhancis
↓ウォルシンガムからスタンデン宛の手紙。アルマダ戦の記事の中でもご紹介しました。
The National Archives | Research, education & online exhibitions | Exhibitions | Secrets and Spies
↓宗教に関するウォルシンガムの姿勢について書かれており、なかなか興味深い記事です。
Wes Weems 4/20/07 Individual Pro
↓演劇との関わり
Sir Francis Walsingham | politicworm


なお今後、以前の記事(ウォルシンガム話)の中で不正確な情報であることが判明した部分や、より詳しいことが明らかになった部分があった場合は、特にお断りをせずに追記や書き直しをしていくことになるかと思います。ご了承くださいませ。

ウォルシンガム話11

2011-04-19 | 忌日
えーと
すみません。

やっぱりあと2回。

というわけで

4/16の続きでございます。


ウォルシンガムの私的な書類は政府によって破棄されてしまったので、プライベートなことはほどんど分からない、と前回書きましたけれども、全く何にも伺い知れないというわけではありません。

鷹狩りが好きだったらしい、ということはバビントン事件の所で少し触れました。その他のアウトドアな趣味としては、庭づくりに凝っていたということです。これはセシルやレスター伯とも共通の趣味だったのだそうで。イギリス人ですなあ。もっともセシルともレスター伯とも違って、後代に残るような立派な建築物を建てることには全く興味がなかったようです。お金が無かっただけかとも思いましたが、他のこと-----学問・芸術・航海の支援-----にはしっかりお金をつぎ込んでおりますので、やっぱり興味がなかったんでしょう。

ルネサンスの宮廷人らしく、音楽の愛好者にしてパトロンでもありました。例えばリュート奏者で作曲家のダニエル・バチェラーという人がおりますけれども、この人、国務長官殿から「食う寝る所住む所に着るものからその洗濯まで必要なものはぜーんぶ用意してあげよう」という有り難いお言葉を頂いて、若い頃からウォルシンガム邸住み込みの楽士をやっておりました。彼が雇い主のために書いた作品のいくつかは、現代にも伝わっております。
↓CDまで出してたりして。ちょっとだけ試聴できます。

Amazon.com: The Walsingham Consort Books

また趣味というのとは違いますが、神学や哲学といった学問、それに詩や航海記といった文芸の熱心な支援者でもありました。このあたり、財務大臣を任されるだけあって財布の紐が固かったセシルとは大いに異なる所です。セシルに「たかが詩に国庫から100ポンドも払うなんて!」と非難された「たかが詩」、即ち『妖精の女王』の作者であり、現在では詩人の王と讃えられるスペンサーも、ウォルシンガムの庇護を受けた文士の一人でした。

(ちなみに前回の記事で書きそびれましたが、娘婿フィリップ・シドニーが残した6000ポンドの借金を、ウォルシンガムは亡くなるまでにおおかた返済し終えていたということです。死の直前に売却された3つの所領の代金も、その返済に当てられたのかもしれません)

学術においても、11世紀のノルマン・コンクエスト以降のイングランド史を再検証し、それぞれの時代において社会の革新に役立った法律や起きた反乱とその要因を調べ上げるという歴史編纂事業を立ち上げたり、オックスフォードに神学の授業枠を設けて自らも教壇に立ったり、また母校のケンブリッジ・キングズ・カレッジには多国語聖書を寄贈したりと、多角的にメセナを行いました。
ちなみにこの多国語聖書というのは、16世紀の一大出版者であるクリストフ・プランタンがアントウェルペンで出版したもの。外交官時代に大陸で購入したのかもしれませんね。多国語に堪能で外国人との付き合いも多かったウォルシンガム、他国の言葉を理解することの重要性・有用性をよくよく感じていたのでしょうね。

またドレイクの世界周航を支援するなど、海洋探索を資金面でも政策面でも大いに後押しし、新世界への入植やロシアとの交易にも積極的でした。グリーンランドとカナダの間にあるデイヴィス海峡がその名をちなむ探検家ジョン・デイヴィスや、イギリス最初の海外植民地となったニューファウンドランドに到達したハンフリー・ギルバートのスポンサーでもありました(お金が無くなるわけだ)。また地理学者で著述家であるリチャード・ハクルートのベストセラー、『イングランド国民の主要な航海、貿易、発見の記録』の初版(1589)は、冒頭にウォルシンガムへの献辞を掲げております。

ほらっ


エヴリマンズ・ライブラリーより

この献辞が5ページに渡って続くのですが、途中に”Japan”が出て来たのにはびびりました。「日本人やフィリピン人までもが我が国に暮らし、我々の言葉を話し、彼らの母国について教えてくれる...」というくだりなのですが、それほんとに日本人なのかい?この時代に渡欧した日本人なんて天正少年使節団くらいしかいないと思ってましたが。

さておき。
ウォルシンガムが積極的に海外進出を支援したのは、スペインと衝突せずにアジアや新世界と連絡する航路を探るためでもあり、海外から情報を集めるためでもありました。例えばハクルートなどは「カナダでフランスが何やってるか探って来て」という指示を始め、フランスとスペインの海外での動きを探って本国に報告するようにとのはっきりした指令を受けておりました。カナダまで網を広げていたとは恐れいります。

サー・フランシスが張り巡らせたスパイ網の全容を知ることは、残念ながら不可能でしょう。それだけに興味をかき立てられるものでもありますし、誇張される面もあるかもしれません。Encyclopedia of the Renaissance (Paul F. Grendler 1999) では、

It is safe to assume that little occurred anywhere in Europe of which Walsingham was not aware.
ヨーロッパのどこで起きたものであれ、ウォルシンガムが気付かずにいた出来事はほとんどなかったと見ていいだろう。


なんて書かれておりまして、これはワタクシなどの耳には実に甘く響く一文ではありますけれども、さて、実際はどんなものだったのでしょうね。

上述のカナダのように思いがけない所にも人を遣っていることから、思いがけない所でウォルシンガムの名前に出会うこともあります。
例えば、トバモリーの財宝船伝説。
1588年、無敵艦隊のうちの一隻で、遭難してスコットランド北西部のトバモリー港に寄港していた船が停泊中に爆発し、積んでいた大量の金塊もろとも海に沈んだという言い伝えです。『アルマダの戦い』(マイケル・ルイス 1996)の中での検証によると、無敵艦隊のはぐれ船がトバモリーで爆発・沈没したのは事実であるものの、財宝を積んだりはしていない普通の軍船であったとのこと、船に爆薬を仕掛けたのはジョン・スモーレットという人物で、「この男がウォルシンガムの諜報部員であったことは疑いない」のだそうです。

積極的な対外政策といい、公私に渡る海外行や外国語への関心といい、アグレッシヴなご性格(←これこそ疑いようがない笑)といい、サー・フランシスは外向の人でした。
逆にイングランドから外へはほとんど出たことがなかったセシルは、国としても個人としてもできるだけ正面衝突を避けようとする人だったようです。内側をよく見据えていたからこそ、資源も乏しい新教国であるイングランドが、豊かな国土を擁するフランスや強大な軍事力と制海権を握るスペインといちいち喧嘩してはとても国がもたないということもよく分かっていたのでしょう。そんなセシルが外交政策においてウォルシンガムとは対極にあったというのも当然ではありました。
「家にばかりいる若者は自家製の知恵しか持たぬ」とはシェイクスピアの台詞ですが、辛辣トークをもって鳴らす我らが国務長官も、内心でこのぐらいのことを毒づいていたかもしれません。いや、この人のことだから面と向かって言ったかもしれませんな。

といって、ウォルシンガムが「外向き」であったのは彼の現状分析がセシルに比べて甘かったからだ、ということにはなりますまい。そもそも現状分析の甘い人に、危機下にある小国のスパイマスターなんぞつとまらないって話です。

ただウォルシンガムは、現実を見据える目はごく冷静であった一方、行動に際してはセシルや女王陛下と比べるとかなりの理想家であったようにワタクシは思います。
その姿勢が、私的には「お金が無いのは分かってるんだけど、才能ある芸術家がいるなら援助しなきゃ」、公的には「軍事的に厳しいのは分かってるんだけど、隣の国で新教徒が苦しんでるんなら助けなきゃ」という、リスクは承知だがやらねばならない式の彼の行動指針に現れているのではないかと。

ちと極端な喩えをになりますが、船長エリザベスを頂いたイングランド号において、セシルが「糧食も足りないし天候も不順だし、出航を取りやめて今停泊中のこの島で穏やかに過ごしましょう」と提案する副艦長であるとすれば、ウォルシンガムは、ひとたび正確な海図が手に入ったら悪天候でも構わず出航しようとする操舵手のような所がありました。その大胆さが非常に有効に働く場面もあった一方、この人がフルで舵取りをしていたら、イングランド号の早晩の沈没は免れなかったことでしょう。ワタクシもこの時議会の一員だったらセシルについてただろうなあ。どんなに国務長官のファンでも、戦争は嫌だし。



国家という単位でのまとまりよりも信仰によるまとまりを重要視していた点にも、理想主義的な側面が伺われます。ウォルシンガムはフランスやネーデルラントの新教徒たちにいつも同情的で「あの可哀想な国々(カトリック国スペインに対して反乱を起こしているネーデルラント諸州)」を助けられないことを常々嘆いておりました。

こうした戦闘的かつ理想主義的な姿勢から、時にファナティック(狂信的、熱狂的)というあんまり有り難くない形容が付されることもあるサー・フランシス。確かに彼は熱心な新教徒ではありましたし、カトリック勢力に対しては常にケンカ腰でもありました。しかし狂信者のペンからは、以下のような言葉が紡がれることはありますまい。

(men's conscience are) Not to be forced, but to be won and seduced by the force of truth, with the aid of time and use of all good means of instruction and persuasion.
良心とは強制されるべきものではなく、真実が持つ力によって獲得されるべきものです。充分な時間と、善意に基づいた指導と説得がその助けになるでしょう。


I would have all reformation done by public authority: it were very dangerous that every private man's zeal should carry sufficient authority of reforming things amiss.
矯正はあくまでも公権力を通じて行われるべきだというのが私の意見です。個々人の宗教的熱意がものごとを矯正する権威を持ち合わせているとしたら、危険なことになりましょうから。


へええ、意外に温厚な物言いもできるじゃないですかウォルシー。いつもこの調子だったら女王陛下から物を投げつけられることもないんだと思いますよ。

サン・バルテルミの虐殺事件に対するコメントもファナティックとは呼びがたいものです。
この事件は宗教的熱狂の恐ろしさ、そして異なる宗派の人々が隣り合って暮らすということへの悲観と警戒をウォルシンガムに強烈に印象づけた事件ではありました。
しかし新教徒が旧教徒に無差別に殺害されるという惨劇を目の当たりにし、かつこのあと仏王室に対して強い不信感を抱き続けたにも関わらず、事件そのものについては64ページに渡る報告書(←4日で書き上げた)において「計画されたものではなく、王毋カトリーヌの命令によるというよりもコリニー伯暗殺の副産物として起きた事件であろう」と、恐ろしく冷静な分析をしております。

フランス王弟がネーデルラント支援に乗り出した時も、熱狂的プロテスタントならば諸手を上げて喜んでいい場面なのに「彼には何の徳にもならないはずだが」と取りつく島もないおっしゃりよう。
反逆罪など深刻な場合は別として、カトリックの司祭を処刑することには反対したり、新大陸に旧教徒のための入植地建設を構想したりしているのも、旧教徒を根絶やしにせんとする宗教的ファナティシズムとは異なる、いたって政治的な判断と言えましょう。

カトリックの宗旨がどうこうという以前に、イングランドが新教国である以上、カトリック教徒は国内の政治的な不安定要因とならざるを得ないということ、またフランス・スペインという強大な旧教国がすぐ近くにある上に、大きな権威を持つローマ教皇がエリザベスへの敵意をあらわにしているからには、周辺国の新教徒を積極的に支援せずにいることは政治的には危険であり、道徳的には怠慢であるとウォルシンガムは見ていたのでありましょう。
彼のことはファナティックと呼ぶよりマキャベリアンと呼ぶ方がずっとしっくり来るように思います。

もちろんマキャベリアンという称号が相応しいからには、目的のために手段を選ばなかったりするわけで、そこに権謀術策や拷問台が活躍する余地もあるというわけではありますが、ご存知の通りこの時代には拷問も陰謀も国家によって普通に行われていたものであって、つまりはお互い様ってことですわな。



次回で本当に終了(のはず)。
そう思うと寂しくて筆が進みません。





ウォルシンガム話10

2011-04-16 | 忌日
4/15のつづきでございます。




1587年のものとされる肖像画。

ウォルシンガムがバビントン・プロット進行中にいみじくも「If the matter be well handled, it will break the neck of all dangerous practices during her Majesty's reign ことが上手く運べば、陛下のご在位中に起こりうる全ての危険な企ての息の根を止めることができるだろう」と予言したように、1587年のメアリの処刑以降、あんなに盛んだったエリザベス暗殺計画はふっつりとなくなりました。
隣国スコットランドではジェームズ6世が若いながらもよく国を治め、86年に同盟を結んで以来、イングランドとは良好な関係が続いておりました。
そして88年の夏、スペイン無敵艦隊の敗退によって、エリザベス即位以来最大の危機は辛くも乗り越えられたのでした。

この年の秋口から、もともと芳しくなかったウォルシンガムの健康は急速に衰えていきます。
1589年にはほぼ半年に渡る休養を余儀なくされます。しかし持ち前の勤勉さがそうさせたのか、あるいは腹心デイヴィソンを失ったことによって、国務長官および諜報局長としての彼の後任者が不在になったことを案じてか、ひとたび職場復帰してからは死の直前まで、病身を押して登庁を続けました。

1590年4月6日、サー・フランシス・ウォルシンガムはSeething Laneの自宅で息を引き取りました。享年58歳。
遺言に従って、葬儀は特別なセレモニーなしでひっそりと執り行われました。「私の負債の大きさと、厳しい状況に残される妻や娘のことを思えば」立派な葬儀などできないということを、死の4ヶ月前に書き遺していたのでした。
隠し戸棚から見つかった遺言書の執行人には彼の「Most kind and loving wife」アーシュラ夫人が指定されており、彼女は遺言どうりに諸々の遺産を分配しました。
アーシュラ夫人はその後の12年間をバーン・エルムス(メアリ問題などなどで疲れきったウォルシンガムがしばらく引っ込んでいた所)で過ごしたのち1602年に亡くなり、夫の側に埋葬されました。

ひとり娘のフランセスは父親の死後(あるいは死の直前、いずれにしてもエリザベスには内密に)、エセックス伯ロバート・デヴァルーと再婚します。そう、あのエリザベス最後の寵臣で、のちに反逆罪で若くして打ち首に処されるエセックスです。「フランシス・ウォルシンガムの娘に生まれて18歳で夫のフィリップ・シドニーに死に別れたあとエセックス伯と再婚」って、なかなかものすごい人生です。1601年にエセックスがロンドン塔で処刑されたのちはアイルランドの貴族と再婚し、余生をアイルランドで過ごしました。

そもそもエリザベスは寵臣シドニーとフランセスが婚約した時、事前に相談がなかったことに腹を立て、2人の結婚に許可を与えませんでした。フランシス父さんは激務のかたわら2ヶ月かけて女王を説得しなけらばならなかったのです。
同様に、エセックス伯とフランセスの結婚を知った時もエリザベスは激しく憤り、フランセスがエセックス伯と同居せずに母親と一緒に暮らすということを取り決めたのち、ようやく怒りを収めたのでした。女王にしてみれば、お気に入りの男を二人もウォルシンガムの娘に取られたという格好になるわけですから、まあ腹も立ったことでしょう。「この父にして...」とお思いになったかどうかは分かりませんが。

女王の財布の紐の固さをよく知っていた国務長官は必要な資金を用立てする際、しばしば「許可を得る前にとりあえず国庫から金を引き出す作戦」を採っておりました。そうした「とりあえず引き出し金」はウォルシンガムのつけとして勘定されておりましたので、積もり積もって女王に対しての借金は4万2000ポンドにまで膨れ上がっておりました。でも、全ては女王陛下とイングランドのセキュリティのための出資だったのですよ。
その膨大な負債は遺族に引き継がれることとなったのですが、幸いなことに、エリザベスの跡を継いだジェームズ1世の代になって帳消しとなりました。ちなみにこのジェームズ1世というのはもとスコットランド国王ジェームズ6世のこと。嫌々スコットランドに出かけて行ったウォルシンガムから「政治をするには若すぎる」と正面切って言われた人です。ウォルシンガムが生きてたら、借金帳消しにしてもらえなかったかもしれませんな笑。

ウォルシンガムの残した膨大な書類や通信は、蔵書や私的な文書ともども政府によって押収されました。保管に際して私的文書が全て破棄されたため(バカヤロー)、手紙の中に垣間見える私的なやりとりの他に、この諜報局長のプライベートな側面を明らかにするものはほとんど残されていません。

ロンドンに潜入していたスペインのスパイは、ウォルシンガムの死の2日後「国務長官の死去に、人々は哀悼を捧げています」と本国に報告します。天敵の訃報を受け取ったスペイン王は、報告書の余白に思わず「やったあ!我が国にとってはいいニュースだなあ」なんてことを書き入れたのでした。
Who's Who in Tudor England 1990 Shepheard-Walwyn から一文をお借りしましょう。

That would have satisfied Walsingham as his epitaph.
このフェリペの言葉が墓碑銘に刻まれたら、ウォルシンガムはさぞ喜んだことだろう。


サー・フランシスの遺体は、セント・ポール大聖堂はの娘婿フィリップ・シドニーと同じ墓所に埋葬されております。大聖堂は1666年のロンドン大火で焼け落ち、シドニーとウォルシンガムの墓碑も破壊されました。18世紀に設置され、現在も大聖堂の壁面を飾る記念碑にはシドニーの姿のみが刻まれております。

**********

(追記)
ロンドン大火での被災以前、ウォルシンガムの墓所には以下の碑文を記した木製のプレートが設置されていました。

Shall Honor, fame and Titles of Renown
 かくあるべきかは、栄誉と、名声と、世に聞こえし称号を持てる御人が
In Clods of Clay be thus enclosed still?
 土くれの下、かくもひそやかに閉ざされてありしとは?
Rather will I, though wiser Wits may frown,
 むしろ私は、拙くはあれど
For to enlarge his Fame extend my Skill.
 かの人の名声をいや増さんがため、微力をば尽くさん。
Right gentle reader, be it known to thee,
 尊敬すべき読者諸氏よ、いざ知らしめん、
A famous knight doth here interred lye,
 ここに眠るは高名なる勲爵士、
Noble by birth, renown'd for policy
 生まれながらに高貴にして、その深慮によりあまねく知られし御人
Confounding Foes, which wrought our Jeopardy.
 我らに仇なす敵を退け、
In foreign Countries their interests he knew
 諸国の意向をとくと知る
Such was his Zeal to do his country good,
 その献身は、なべて祖国のため。
When dangers would by Enemies ensue,
 敵のわざにて我らに危機の迫りし時も、
As well as they themselves he understood.
 その手管を熟知すること、さながら敵自らに同じ。
Launch forth ye Muses into Streams of Praise,
 詩神たちよ、讃えたまえ
Sing and sound forth praiseworthy harmony;
 妙なる旋律を歌い奏でたまえ
In England Death cut off his dismal days,
 イングランドの地において、死がかの人の苦しみの日々を終らしめたのだ
Not Wronged by Death but by false Treachery:
 死の影によらず、忌むべき反逆によりて苦しめられしその日々を。
Grudge not at this imperfect Epitaph
 言葉足らずなこの碑文、あえて堪忍するなかれ
Herein I have expressed my simple skill,
 私は自らの拙いわざを行ったまでのこと
As the first fruits proceeding from a Graft
 あたかも接ぎ木に実った最初の果実のごとく
Make them a better whosoever will.
 お望みならばこれを取り、より良き一篇をなしたまえ。

各行の頭の文字を並べると SIR FRANCIS WALSINGHAM となります。脚韻もきれいに踏まれておりますね。
碑文の作者は「E.W」とだけ伝えられておりますが、これはサー・フランシスの孫娘(つまりフィリップ・シドニーの娘)で、長じては詩作をよくしたエリザベス・ウォルシンガムであろうと推測されております。言われてみると最後から二行目の「接ぎ木に実った最初の果実」という言い回しは、作者がサー・フランシスの初孫であることを暗示しているようです。
ちなみにおじいちゃんが亡くなった時、孫娘のエリザベスは5歳でした。その後彼女は1599年、14歳で結婚し、ジェームズ1世統治下の1614年、29歳ではかなく世を去ります。

**********

ここ数年、イギリスでなぜかウォルシンガム関係の本が立て続けに出版されておりますので、あるいはこれから再評価がなされて、ウォルシンガムの墓碑も復活するかもしれません。
とはいえ、華やかなシドニーに正面の席を譲って、記念碑もなく、名前すら記されずにひっそりと眠っている方が、らしいといえば実に彼らしいような気もするのです。



あと1回続きます。
...たぶん、1回。



ウォルシンガム話9

2011-04-15 | 忌日
4/14の続きでございます。


メアリ・スチュアートが処刑されて
ウォルシンガムはひと安心。
セシルもひと安心。
女王陛下も(本音では)ひと安心。

ここで一人、割を食ったのが死刑執行令状の送達役をつとめたデイヴィソンです。
エリザベス、メアリの処刑をどーーーしても誰かのせいにしたかったらしく、メアリの処刑を知ったあとで「令状にサインはしたけど送達しろとは言ってない」と大激怒。デイヴィソンに巨額の罰金を科した上でロンドン塔に放り込んでしまいます。
まさにスケープゴートのデイヴィソン。Wikipediaを開いても経歴”Court official(廷臣)”の下に”Scapegoat スケープゴート” しか項目がないというのが何とも。

ウォルシンガムは弟分であるデイヴィソンのとりなしをしてやるため、2月14日に職場復帰します。
なーんて言うととってもいい先輩みたいですけどね、実はウォルシンガムもデイヴィソンのことを「なすりつけ先」としてちゃっかり活用しております。

1587年1月、つまりエリザベスがメアリ処刑令状にサインする前月のこと、またも女王に対する陰謀計画が発覚しました。あるいは、発覚したように見えました。

陰謀の概要は、例の借金浸け駐仏大使スタッフォードの弟であるウィリアム・スタッフォードと駐英フランス大使が共謀してエリザベスを毒殺する計画を立てていたというものでした。これを受けてフランス大使は牢に繋がれます。メアリと繋がりのあるフランス王室はメアリの処刑に反対でしたが、大使の拘束によって抗議の道は封じられてしまいます。またここに至ってなお女王暗殺の陰謀が企てられたことは、エリザベスをメアリの処刑へと踏み切らせる後押しともなったのでした。

この「陰謀」、自白によって一旦は投獄されたウィリアム・スタッフォードが翌年には何事もなかったように釈放されていることなどから見ても、実際に暗殺計画があったわけではなく、フランスを牽制しつつエリザベスに脅しをかけるために仕組まれた、いわば偽装陰謀であったという見方が有力です。主君に対してこういうことをぬけぬけと仕組んだのは、まあ、おそらくきっと十中八九、我らが国務長官サー・フランシスでしょう。

2月にメアリが処刑され、デイヴィソンがとばっちりでロンドン塔に投獄されると、ウォルシンガムはフランス大使を訪れて容疑は間違いでしたと謝罪し、しゃあしゃあと「担当のデイヴィソン君が未熟だったもので」とのたもうたのでした。

1589年にやっとこさ釈放してもらえたデイヴィソン君。罰金は帳消しになったものの女王に再び登用されることはなく、ロンドン郊外で貧窮のままひっそり生涯を終えたのでした。ウォルシンガムはこの頃にはかなり身体が衰えており、病欠が続いて議会での影響力も弱まっておりました。しかしもし元気だったら、この弟分のために何か手を回してくれたのではなかろうかと、ワタクシは信じております。何故と言われても困りますが、何となく、そういう人のような気がするのです。

(追記:デイヴィソン君がロンドン塔から釈放されたのは、セシルとウォルシンガムからの「陛下に内緒で出してやって」という働きかけがあったからでした。また復職させるのは無理であったものの、ウォルシンガムは弟分が宮廷を離れた後も、恩給の一部を受け取れるよう根回しをしてやったのでした。)


16世紀のロンドン塔のスケッチ

不幸なデイヴィソン君の話がつい長くなりました。
アルマダ戦です。

スペインとの全面対決が避けがたいと判明したのは1587年のことですが、ウォルシンガムは1582年頃には対スペイン戦をかなり現実的なものと見ていたようで、いざとなったら教会から世俗的収入の一部を徴収するべきだという提案なんぞをしております。
エリザベスが(スペイン船に対する英海賊の襲撃は歓迎しながらも)なるべく「いざ」ということにならないよう曖昧政策をとっている間、ウォルシンガムは大陸に放ったエージェントたちからスペイン海軍の情報をかき集めておりました。中でもトスカーナ公に仕えるアンソニー・スタンデンという男が送ってよこす情報は有益で、彼を優秀な男と見込んだウォルシンガムは彼にローマへ行ってイタリアの出方を探ることや、フランス、次いでスペインに潜入してスパイネットワークを作ることを指示しております。

こちら↓で1587年5月ごろの、ウォルシンガムからスタンデン宛ての手紙を見ることができます。クリックで拡大します。
The National Archives | Research, education & online exhibitions | Exhibitions | Secrets and Spies
長官、もうちょっと丁寧な字で書いてください。読めません。

ウォルシンガムに見込まれただけあって、実際、スタンデンは優秀でした。彼の活躍のおかげでフランス・スペイン両国の宮廷内からも情報が入ってくるようになり、1587末までにはスペイン海軍の軍船の数、種類、陣容、乗員数、兵器、軍需品や糧食、さらにはドレイク船長がカディスを急襲して「スペイン王の髭を焦がし」た際のスペイン側のダメージの大きさや、スペインの巷でドレイクが恐れられていることを示す井戸端情報(士気を高めるためにドレイクを揶揄した歌が作られた)まで、ウォルシンガムのオフィスに届いていたのです。

しかしネーデルラントのスペイン総督パルマ公を通じての和平交渉に望みをかけていたエリザベスは例によって、ウォルシンガムの「スペイン戦に備えないとやばいんですってば」という警告になかなか耳を貸しません。常のごとくセシルもまた女王と同じ見解に立っております。外交政策ではいつもウォルシンガムと一致していた友人レスター伯は今はネーデルラントにおり、しかも失策によって女王の寵を失いつつありました。ちなみにレスター伯のネーデルラントでの動向や、彼のイングランド軍内での不人気のほどもウォルシンガムによってスパイされておりました。あんたって人は。

(追記:ウォルシンガムが友人にスパイを差し向けたのはこの時が初めてではなく、例のだだ漏れ大使カステルノーさんも、ウォルシンガムのフランス大使時代からの古い友人でした。何も知らないカステルノーさんは本国に召還されたのちも、彼のキャリアを潰したいわば張本人である「よき友」ウォルシンガム氏と、温かな手紙のやり取りを死ぬまで続けたのでした。)

ウォルシンガムにとって唯一幸いだったのは、彼がスペイン側の張った煙幕にすぎないと見なしていたパルマ公との和平交渉に、今度こそ引っぱり出されずに済んだことでした。また体調を崩していたので。
上述のように2月には職場復帰していたサー・フランシスですが、8月には例の泌尿器系疾患が再発、9月には熱を出して年末まで再び病欠を余儀なくされました。まあ、ワーカホリックである彼がこの間おとなしく寝ていたとは思えませんけれども。

11月にはレスター伯に宛てた手紙の中で、いつもながらの皮肉な調子で現状を嘆いております。

The manner of our cold and careless proceeding here in this time of peril,maketh me to take no comfort of my recovery of health, for that I see, unless it shall please God in mercy and miraculously to preserve us, we cannot long stand.
このような危機的状況下での人々の冷淡で無関心な態度を見ていると、我が身の健康が回復した所で喜べそうにありません。神が御慈悲を垂れて奇跡でも起こしてくださらないかぎり、我が国が長く持ちこたえられないのは明白ですから。


自分が女王陛下に嫌われていることを骨髄に沁みるほどよく分かっていたウォルシンガム、ここで巧妙な迂回路をとることにします。

エリザベスが「私の海賊」と呼ぶお気に入りのドレイク船長に、女王宛の私的な手紙を書くことをこっそり勧めたのです。ドレイクは1577-80年の世界周航の時から資金面でウォルシンガムの世話になっていた旧知の間柄で、もちろん対スペイン戦がんがん行こうぜ派でもありました。
手紙の中でドレイクは、乗組員たちがいかに意気軒昂であるか、今のタイミングで積極的な行動を起こすことがいかに重要かを強調します。翌年の春には再び女王に手紙を書き、パルマ公の和平交渉は煙幕にすぎない、というどこぞの国務長官が言いそうなことを主張し、迅速な軍事行動を重ねて求めました。
その手紙が女王のもとに届いた数日後にドレイクは枢密院に呼び出され、彼の唱える戦略について説明しております。その結果、エリザベスはやっと軍備増強に乗り出し、装備を固めた英国海軍はプリマス港へと集結したのでした。

「私が言っても聞かないくせに」と心中で愚痴をこぼしたかどうかは分かりませんが、ともかくウォルシンガムがドレイクの影に隠れてのばした長いリーチは、何とか女王を動かすことに成功したのでした。

(追記:もちろんウォルシンガムは、女王の説得をドレイクに任せてその間ぼーっとしていたわけではありません。かねてから対スペイン戦は避け得ないと見ていた彼は、この3年前からトルコが海上からのスペイン領攻撃に乗り出すようスルタンを説得せよ、という指令をトルコ駐在の英大使に出しておりました。
残念ながらトルコは動きそうにありませんでしたが、ウォルシンガムの多方面から攻めます戦法は、地理的な面での作戦に留まりません。

スペインが北イタリアの銀行家から融資を受けていることを掴んだ諜報局長、銀行家たちに働きかけて融資をストップさせます。カディス奇襲の損害を穴埋めするためにもどうしてもお金が必要だったフェリペ2世、「こんな時に貸し渋りかよ!」と嘆きつつ(多分)、目を転じてローマ教皇に融資をお願いします。教皇、融資そのものは承諾してくれたものの「君らがイングランドに上陸してから半額、残りの半額はおいおいと貸出ししたげる」と何ともケチなおっしゃりよう。思わぬ肘鉄をくらったフェリペ、「だからその上陸のためにお金が要るんだってば」と嘆きつつ(多分)、アジアから富を積んだ船が帰ってくるまで待たざるを得なくなったのでした。
「大事な時にケチられるのってつらいよね」と我らが国務長官がつぶやいたかどうかはこれまた定かではありませんが、彼が作戦がひとつ成功したからといって安心するような人ではなかったのは確かで、様々な裏工作を仕掛ける一方で、万が一陸上戦になった場合の作戦を練ることも怠りませんでした。

・海岸での総力戦か、あるいは焦土作戦を取りつつ敵軍を内陸へと誘い込み、消耗を図るか。
・襲撃を受けそうな場所はどこか、またそこへ派遣するべきいかなる人員がいるか。
・工兵を派遣するにあたって、各地において土地鑑のある案内人をどの程度用意できるか。
・女王陛下の身辺警護には馬、人、合わせてどのくらい必要か。
・ロンドンが攻撃を受ける事態となった場合、どの方面からの攻撃が考えられるか。それに対処する最善の方法は何か。

「スペイン王よりもスペイン海軍のことをよく知っている」とまで言われたウォルシンガムでしたが、あるいは、だからこそ、ドレイクやジョン・ホーキンスら有能な船長たちを信頼しつつも、英海軍の撃沈という最悪の事態をも視野に入れてこの戦いに臨んだのでした。)

一方、敵国に手強い諜報局長がいることを知っていたスペインとても、情報を洩れるがままにしておいたわけではありません。ウォルシンガムは無敵艦隊が装備を固めているという情報は得ていましたが、出航のタイミング、あるいは実際にイングランドに向けて出航するのかどうかについては、彼にも確かなことは分かりませんでした。もちろん、他の人々はなおさら分からなかったわけですが。

1588年7月、いよいよアルマダ来襲との情報が固まった時、ネーデルラントから戻って来てテムズ河口のティルベリーに軍を構えたレスター伯は、女王自身が陣営を訪れて将兵たちを激励するよう進言します。
そんな危ないことさせられるかと廷臣たちがこぞって止めるのを振り切って、エリザベスはティルベリーに赴き、白いシルクのドレスに銀の胸当てといういでたちで兵たちの前に進み出て「私は自分が女性として肉体が弱いことは知っているが、一人の国王として、またイングランド国王としての心と勇気とを持っている」のくだりで有名な、歴史に残る名演説を行ったのでした。

この時、ウォルシンガムも女王に同行してティルベリーの幕舎に身を置いておりました。
(He...intended himself) "to steale to the campe, when her majestie shall be there"
陛下が戦場においでになるならば、私もお供いたします。


ああ、なんて健気なんだフランシス。
あんなに邪険にされたのに。
もっとも、ウォルシンガムについて来られて女王陛下が喜んだかどうかはかなり怪しい所ではあります。またウォルシンガムの方でも、彼女のセキュリティのためという以上に、ことここに至って女王がいつもの優柔不断を発揮しないよう押したり引いたりするのが同行の一番の目的であったかもしれません。



女王陛下に「神が御慈悲を垂れて」くだすったのは、皆様ご承知の通り。悪天候と機動性の高いイギリス軍船に悩まされ、無敵艦隊は敗走。イングランドは喜びに沸きます。
より徹底的にスペインを叩いておくべきだと考えていたウォルシンガムは渋い顔で「leaveth the disease uncured 病気を完治せぬままに残してしまった」 とつぶやいたものの、この海戦での彼の貢献のほどをよく知っていたセシルは「you have fought more with your pen than many here in our English navy with their enemies 君はペンの力によって、我が国の海軍よりもいっそうよく敵と戦った」と言って、気難しい同僚をねぎらったのでした。
(追記:この台詞はセシルではなくドレイクによるものと書いてある資料もあります)


うーむ、やっぱり終らなかった。
もう少し続きます。



ウォルシンガム話8

2011-04-14 | 忌日
4/13の続きでございます。

1586年9月、バビントン事件の共謀者たちへの尋問が始まります。
自分の役回りをあっさり自供し、バラード神父に何もかもなすりつけるバビントン。一方バラードは甘んじて罪を引き受け、陰謀の全容解明のため恐ろしい拷問にさらされることとなりました。出廷の際にはもはや自分の足では歩けない状態だったということですから、例の羊革長靴下も使われたのかもしれません。

ワタクシが嬉しそうに拷問拷問と言うもんだから、ウォルシンガムが拷問好きであるかのような印象をお持ちになるかもしれませんが、すみません、決してそんなことはなかったのですよ。こちらによると、エリザベスの、ひいては国の安全に関わるなどよっぽどの重大事でないかぎり、取り調べに拷問を用いるべきではないとウォルシンガム本人が明言していたということです。
また取調官トマス・モートンは、有罪か無罪かの判定が拷問によってなされるということはない、つまり拷問台にかけられる容疑者は明白な反逆の証拠が挙がっている者にかぎられており、陰謀の詳細を明らかにするためにのみ使われたと証言しております。

バビントンやバラードの計画はもちろんよっぽどの重大事であり、動かしがたい反逆の証拠も挙がっております。かくして暗殺計画の首謀者である7人は9月20日、セント・ジャイルズ広場で群衆の前に引き出され、あんまり詳しく述べたくないような仕方で処刑されたのでした。南無阿弥陀仏。

さて。
本命メアリ・スチュアートの裁判は10月14日に始まりました。
メアリは裁判の席で、ウォルシンガムが彼女を陥れたのだと面と向かって非難します。
仇敵からの非難を受け、ウォルシンガムは起立してこう答えました。


I call God to witness that as a private person I have done nothing unbeseeming an honest man, nor, as I bear the place of a public man, have I done anything unworthy of my place. I confess that being very careful for the safety of the queen and the realm, I have curiously searched out all the practices against the same.
神もご照覧の通り、私の行いには、一人の誠実な人間として恥ずべきことも、また一人の公僕としての地位に相応しからざることも、何ひとつございません。ただ女王陛下の御身の安全と我が国の安泰を図るため、両者を損なう恐れのあるものを駆逐することに、ひたすら心を砕いて参ったのです。


文句の付けようがありません。
そもそもメアリさん。もと弁護士の卵で、エリザベスをはじめ数々の王や大使や執政と命がけで渡り合ってきた歴戦の外交官であるウォルシンガムと口喧嘩したって、まず勝ち目はないと思いますよ、可哀想だけど。

このウォルシンガムの言葉、メアリに対しては「陛下にとってあんたは癌」という血も涙もない宣告である一方、エリザベスとイングランドのために身を捧げ尽くして来た彼の熱い信条/心情告白でもあったと言えましょう。
その思いにエリザベスが報いてくれたらよかったのですが。

よかったのです

誰もが予想していたように、メアリの逮捕はエリザベスの機嫌を大いに損ねました。
スロックモートン事件を受けて成立したあのBond of Associationにがあるからには、陰謀に加担したメアリは当然処刑されねばなりません。しかしエリザベスは諸々の事情から、どうしてもメアリを殺したくなかったのです。セシルに対して、今回のことでメアリに害が及ばないような配慮をしろという指示さえ出しております。 しかしここはセシルもウォルシンガムも、女王の不興をこうむったぐらいで身を引くわけにはいきません。メアリの死刑執行令状に何とかエリザベスのサインを頂こうと、廷臣たちは手を焼くことに。

そんな折、ネーデルラントで対スペイン反乱のお手伝いをしているイングランド軍から、サー・フィリップ・シドニーが戦死したとの報せが届きました。ウォルシンガムにとっては娘婿であり、サン・バルテルミの虐殺事件以来の若い友人であり、その詩人としての文才を愛でてもいた、あのシドニーです。

31歳で戦地に散ったシドニーは家柄も容貌も振る舞いも華やかで、自身が優れた文学者だったばかりでなく、文芸の一大パトロンとしても高名な人物でした。だからこそ彼の早すぎる死は多くの人々に悼まれ、文学者たちは生前の彼のパトロンとしての寛大さを大いに讃えたのでした。
とはいえ彼は長い間国政の要職に就くことができず、所領からの収入もかんばしくなく、その一方で彼の身分に相応しい華やかな体面を保たねばならず、何だかんだで結局亡くなる時までに膨大な借金をこさえておりました。その額、実に6000ポンド。ちなみに『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』(青木道彦 2000 講談社)によると、当時の国務長官の年俸は100ポンドだったのだそうで。

シドニーの実父も彼の少し前に他界していたことから、ウォルシンガムはこの娘婿の残した負債を全て肩代わりするはめになりました。彼自身も決してふところの暖かい方ではなかったというのに。以前にも少し触れたように、ウォルシンガムは広大なスパイ網の維持運営のために私財を投じておりました。国外に常駐する70人以上のスパイに対して、彼はしばしば自分のポケットから手当や活動資金を出さねばならなかったのです。

そこへ振って湧いたこの巨額の借金。しかも賄賂も受け取らず取り巻きも作らない一方、”Intelligence is never too dear 情報にはいくら払っても惜しくはない”という信条の持ち主であるこの国務長官が、不測の事態のために貯蓄に励んだりしているわけがありませんでした。

実に嫌なタイミングで訪れたこの苦境に対処するため、ウォルシンガムは女王陛下に金銭的援助を請うものの、すげなく断られます。同僚たちが「彼はあんなにも陛下のためにお仕えしているのに、酷いじゃありませんか」と口添えしてもエリザベスは全く耳を貸しません。
バビントンをはじめ反逆罪で処刑された者たちの資産はウォルシンガムの厳重な管理のもとに国庫に納められていたので、その中から幾らか拠出してやったら...とセシルが進言しても完全無視。バビントンから押収した財産は、そのほとんどがエリザベスお気に入りの廷臣ウォルター・ローリーに下賜されたのでした。

”Oxford Dictionary of National Biography(2004)”から、ディクショナリーらしからぬ共感のこもった一文を引用しましょう。

With this something snapped.
ここで何かがポッキリ折れた。


疲労と心労が積もりに積もったウォルシンガム、メアリ問題継続中の12月半ばに、印璽を補佐官のデイヴィソンに預けてロンドン郊外の別宅に引っ込んでしまいます。無理もありません。
そんな状況でも、ひとり娘の旦那であり国民的英雄でもあるシドニーを、彼に相応しい華やかさで葬送してやることをウォルシンガムは忘れませんでした。2月にイングランドに帰って来たシドニーの遺体はこの月の16日、「英国で初めての国葬」とも称される盛大な式典とともにセント・ポール大聖堂に葬られたのでした。心身のダメージが激しかったからか、あるいは仕事がとんでもなく忙しかったからか、ウォルシンガム自身は葬儀には参列しませんでした。


シドニーの葬列。

ちなみに「国葬」といっても別に国庫からお金が出たわけではなく、エリザベスはこのもと寵臣の葬儀に際しても一銭も出費しておりません。
『市民と礼儀 初期近代イギリス社会史』(ピーター・バーク他 2008 牧歌舎)から引用しましょう。

フィリップ・シドニーは、特別に、豪華な葬儀を許された初期の傑出した国家的英雄だった。しかしながら、その莫大な費用を支払ったのは国王ではなく、シドニーの義理の父フランシス・ウォルシンガムであり、その負債のために彼は自身の葬式を簡素にするように遺言した。
p.108

これ読んだ時、正直ちょっと涙が出ました。

まあエリザベスがケチであることは疑いないとはいえ、メアリ処刑を前にして苦悩と苛立ちをウォルシンガムにぶつけたことについては、彼女に同情の余地がないでもありません。
メアリを処刑すればカトリック諸国からの激しい非難は免れない上、今までエリザベスが正面対決を避けに避けて来たスペインが、ここぞとばかりに戦争を仕掛けてくることは明白だったからです。

さんざんためらった末、1587年2月1日、エリザベスはついにメアリの死刑執行令状にサインします。そしてウォルシンガムがこの令状を見たら「悲しみのあまり即死するんじゃないかしら」と辛辣なジョークを飛ばしつつ、令状を病欠中のウォルシンガムのもとに回すようデイヴィソンに指示したのでした。

例のロンドン塔近くの自宅に戻っていたウォルシンガムに令状が届けられると、もちろん悲しみもしなければ即死もしなかった国務長官、腹心デイヴィソンと話し合って速やかに令状送達の段取りや死刑執行人の手配を取り決めるのでした。その一方で、令状が届いたその日のうちに、フォザリンゲイ城で幽閉中のメアリの監視役を勤めているエイミアス・ポーレット宛に「君がこっそりメアリを暗殺してくれれば、陛下の御心労も和らぐんだけど...」といった内容の手紙を特急で書き上げ、フォザリンゲイに送り届けております。

この悪魔と言うなかれ。これはウォルシンガムの独断ではなく、エリザベス本人の指示を受けてのことだったのですから。
あのさあ、エリザベス...いや、何も言うまい。

実際、もしも拘留中にメアリが誰かに殺害されていれば、エリザベスとしては万々歳でした。自らの手を汚さずに、メアリ排除というどうしても必要なことをやりおおせられるのですから。カトリック諸国から非難されても「秘書が勝手に」式の言い逃れができようというものです。
しかしポーレットはさすがにそんなことはできない、と翌日ウォルシンガムに断りの手紙をよこします。

かくして。
恐ろしく迅速な、とはいえ正式な手続きが踏まれ、デイヴィソンは女王のサイン入りの令状をフォザリンゲイに送達し、2月8日、メアリ・スチュアートはついに断頭台の露と消えたのでした。

自宅療養中という立場のウォルシンガムはメアリの処刑には立ち会いませんでしたが、メアリが旧教徒たちによって殉教者に祭り上げられることの危険性は重々承知しておりました。そのため「聖遺物」になりそうな遺品は全て-----処刑時に着ていた服から、持ち物から、彼女の血の付いた断頭台まで-----ウォルシンガムの指示により焼き払われ、切り落とされた首と身体とは王族らしく防腐処理を施した上で、鉛で裏打ちされた棺に収められたのでした。


メアリの処刑によってウォルシンガムもセシルも大いに女王の不興を被りましたが、彼らがのんびりもしょんぼりもしていられない状況が、イングランドには迫っておりました。
スペインの誇る無敵艦隊が、その舳先を英国の海岸に向けているという情報が、ウォルシンガムのもとに集まって来ていたからです。


次回に続きます。


(追記:お分かりのように、フィリップ・シドニーの盛大な葬儀が行われたのはメアリの処刑から8日後のことです。前年10月に死亡したシドニーの埋葬がここまで遅れたのは、このタイミングで国民的英雄の葬儀を行ってメアリの処刑から人々の目をそらすためだという憶測もありますが、これはさすがにうがち過ぎではないかと。ウォルシンガムは1586年内にレスター伯宛に書いた手紙の中で「シドニーの負債を清算しないことには、彼にふさわしい立派な葬儀をするわけにもいかない」と嘆いており、やはり金銭面の問題が大きかったようです。同じ手紙の中で「あなたが帰国するまでは埋葬を延期せざるをえない」と書いていることから、シドニーの叔父であるレスター伯からの帰国後の金銭的支援を期待したものと見られます。しかしレスター伯自身もネーデルラントでの戦費に私財を投じており、決して財政状況に余裕があるとは言いがたかったのでした。だからといってエリザベスご同様に一銭も出さなかったというのはあまりにもケチすぎる話ではあり、以降レスター伯とウォルシンガムとの間が冷え込んだというのも無理からぬことです。
ちなみにシドニーの死亡時に彼の妻、即ちウォルシンガムの娘であるフランセスは彼の陣営を訪れており、その死に立ち会ったものと見られます。身ごもっていたフランセスは帰国後に娘を出産したものの、子どもは死産、または生まれた後すぐに亡くなりました。)

ウォルシンガム話7

2011-04-13 | 忌日
4/12の続きでございます。


さて、いよいよバビントン・プロットです。

ウォルシンガムといえばバビントン・プロット。
バビントン・プロットといえばウォルシンガム。

バビントンの名を冠してはいるもののこの「プロット」、正確にはトマス・モーガンやバラード神父らベテランのメアリ・スチュアート支持者が計画したものであり、もっと正確には、ウォルシンガムがメアリを捕捉するためにモーガン、バラード、そしてバビントンを巻き込んで仕掛けた、大規模にして巧妙な罠だったのです。

世界の陰謀史に名を残すこの事件に立ち入る前にちょっとだけ、ウォルシンガムの数少ないプライベートの慶事に触れておきましょう。

1583年9月2日、ひとり娘のフランセスが、ウォルシンガムの歳若い友人で文人として誉れ高いサー・フィリップ・シドニーと結婚します。2人はウォルシンガム邸で新婚生活をスタートします。


シドニーとフランセス。

1585年、フランセスが娘を出産。
エリザベスと名付けます。
...いや、いいけどさ。
「おりこうさんだね~エリザベス」とか「いい子にしなさい、エリザベス!」とか言うの?国務長官。
いや、いいんだけどさ。

えっ
名付け親は女王とともに洗礼式に出席したレスター伯ですって。
ははあ成る程。他人の孫を使って女王に媚を売るとは、さすがはロビンさんよのう。

さておき。
しかし孫娘に目尻を下げている暇もあらばこそ、この年、例のだだ洩れフランス大使カステルノーが新任者と交代したことを受けて、ウォルシンガムは矢継ぎ早に新たな手を打ち、メアリ包囲網をひき締めます。

まずは9月、メアリと外部との通信を厳しく規制。その上で、メアリと彼女の支持者たちがその抜け道を見つけて手紙をやりとりし始めるのをじっと待ちます。抜け道を塞ぐためではありません。利用するためです。
大陸には、メアリと彼女の支持者との通信係をしていたトマス・モーガンという男がおりました。スロックモートン事件にも関わり、前回ご紹介したパーリーにはエリザベスの暗殺を勧めた人物です。メアリとの通信手段が断たれて困っていたモーガンのもとに、いいタイミングで現れたのがギルバート・ギフォードという旧教徒の青年。モーガンは彼にメアリとの通信役を頼み、手紙を託してイングランドに送り出します。

フランスからイングランド南東部の港町ライへと渡って来たギフォードを、ウォルシンガムのエージェントたちは捕え、ボスのもとにしょっぴきます。
ギフォードは旧教徒の家庭に生まれ、教皇のお膝元であるローマの大学で学んだ司祭見習いで、大陸のメアリ支持者たちとの付き合いもあり、「メアリ支持のカトリック青年」としての血統書は完璧でした。ウォルシンガムはそんな彼を寝返らせ、メアリのもとに二重スパイとして送り込むことに成功します。ギフォードがこれ以前からウォルシンガムのスパイであったとする説もありますが、確かな証拠がないので何とも言えません。
確かなのはウォルシンガムの手から放たれたとき、ギフォードはメアリ・スチュアート捕捉の決め手となる重大な任務を与えられていたということです。

鷹狩りが好きだったというウォルシンガム。遠くの獲物に向かって鷹を放つというこの狩りのスタイル、密令とともにスパイを差し向ける諜報局長としての彼の姿と重なるものがあるではありませんか。

この年の末、メアリは幽閉場所をこれまでとは別のチャートリ・ホールという所に移されます。
支持者たちとの通信を絶たれた上にこれまでよりも厳しい監視下に置かれることになったメアリのもとに、今やウォルシンガムのエージェントとなったギフォード青年がやってきます。いとも画期的な通信手段を携えて。
チャートリ・ホールの近くにはビール工場があり、そこからチャートリには定期的にビールが届けられておりました。そのビール樽の中に手紙を隠して外部とやり取りするという手段を、ギフォードは提案します。

翌1586年1月、このビール樽通信によって、メアリは密かにモーガンらとの通信を再開します。
ウォルシンガムの仕掛けた罠が、バネをいっぱいに引き延ばして彼女を待ちかまえているとも知らずに。

と言うのもこのビール樽の手紙、実は送信も返信も一通残らずウォルシンガムの手に渡っていたのです。ウォルシンガムのエージェントはもれなく手紙を開封し、コピーしたのち、再び封をして本来の受け取り手に届けていました。手紙は暗号で書かれておりましたが、そこは諜報局長ウォルシンガム、彼のオフィスは封鑞開けの名人の他、暗号解読のエキスパートをも擁しておりました。中でもとりわけ有能であったトマス・フェリッペスという人物、彼は暗号解読だけでなく偽筆の名人でもありました。前の記事でご紹介したパーリー事件の際にパーリーの筆跡で証拠を捏造したのもこの人物とされております。
フェリッペスによって解読された手紙はすぐさまウォルシンガムの手に届けられる手はずとなっておりました。この手紙と外部のスパイからの報告によって、国務長官はこの陰謀の進行具合を、女王やセシルにも詳しいことは知らせないままに、把握していたのです。

一方そんなこととは露知らぬパリのトマス・モーガンは、相も変わらずエリザベス暗殺計画を進行中。春にはメアリを崇拝する旧教徒の青年期族アンソニー・バビントンを抱き込み、今度こそはとこぶしを磨いておりました。

4月、モーガンはくだんのビール樽通信で、共謀者として脈のありそうな若者バビントンにハッパをかけるため、彼が喜ぶような手紙を書いてやるようにとメアリに勧めます。
この手紙を入手したウォルシンガム、近い将来これを有効に活用する機会があると見て、メアリには発送せずに引き出しにしまい込みます。

5月、イングランドに帰国していたバビントンをイエズス会士ジョン・バラードが訪ねます。初めは及び腰だったバビントンにバラード神父は計画の詳細を打ち明け、もと駐英スペイン大使メンドーサ(また出たよこの人)とのやりとりがあったことを示して、スペインが計画をバックアップしていることも教えてやるのでした。
陰謀というのはつまり「旧教徒蜂起&外国軍侵攻&エリザベス殺害&メアリ擁立」という例のあれ。オリジナリティがないなあ。ともあれ、これで乗り気になったバビントンは近しい友人たちに計画を打ち明けました。ハンサムで頭の回転がよく、人好きのする青年だったバビントンは、仲間たちの間でリーダー格になっていきます。
計画に深く関わるからにはイングランド国内にいるのは危険だと判断したバビントン、英国脱出のためパスポートの申請をします。

誰に申請するかって。
こういうことを司っている人にです。
つまり
国務長官ウォルシンガムにです。

ウォルシンガムはバビントンとの3度の面談の間に、何かやばいことに関わってるなら今のうちに打ち明けなさいよ、と水を向けるものの、バビントンはしらを切り通します。あーあ...。
ウォルシンガムがなかなか許可をくれない(そりゃそうだ)一方で、ロバート・ポウリーという親切な人物が近づいて来て、バビントンのためにいろいろと便宜を図ってくれました。彼と心易くなったバビントン、これは信用できる人物だと見て、エリザベス暗殺計画とその正当性についての主張をぺらぺら喋ってしまいます。

はい。
お分かりですね。
このポウリーもまたウォルシンガムのエージェントの一人だったのです。
しかしウォルシンガム、事ここに至ってもなお、バビントンを黙って野に放してやります。
大局的に見て重要なのは、暗殺計画の全容そのものよりも、計画に対するメアリ・スチュアートの関与の証拠だったからです。

スコットランドやスペインに対する戦闘的な姿勢から見ると意外な感じもしますが、ウォルシンガムは取り調べに際していきなり強硬な手段に訴えるということをしない人でした。
ただ「こいつはもはや救えない」と判断するや、以降は悪魔的なまでの非情さをもって事に当たるのです。

3回の面談ののちにバビントンを「もはや救えない」と見限ったウォルシンガム、4月から温存していた例のモーガンからの手紙をここで引き出しから取り出し、メアリに発送します。
それを受けてバビントンに温情ある文書を送るメアリ。
囚われの女王から暖かい手紙を頂戴して有頂天のバビントン。
ギフォードの後押しも受けて、バビントンは7月6日付けの手紙でとうとうメアリ自身に対してもエリザベス暗殺計画を打ち明けます。



バビントンからの手紙。暗号で書かれています。下の方にAnthonie Babingtonの署名がありますね。

7月18日付けのメアリからの返信には、暗殺計画を歓迎するという内容の、メアリ自身の文言が記されておりました。
耳を澄ませてください。バネの跳ねる音が聞こえるでしょう。

メアリの手紙は発送されたその日に暗号解読者フェリッペスの手に渡り、フェリッペスは翌日、解読した手紙のコピーをウォルシンガムへと届けます。その際フェリッペスは、とうとうメアリの首根っこを押さえたぞという高揚感からか、国務長官宛の翻訳文書に、〆印の代わりに絞首台の絵を描き入れたのでした。

メアリ捕捉のための充分な物証を手にしたウォルシンガムは、リスクの大きさを知りつつもう一歩先へと踏み込みます。7月29日付けのメアリ発バビントン宛の手紙には、この陰謀に関わる仲間たちの名前や、陰謀の進捗状況を教えてくださいという内容の「追伸」が記されておりました。暗号で書かれたこの一文はしかし、実はメアリの筆によるものではなく、フェリッペスによって加筆されたものでした。

この大胆な加筆によってバビントンが自分がはめられていることに気付き、全てが崩壊してしまう危険性は充分にありました。”Burley: William Cecil at the Court of Elizabeth I(2008)”に、この状況を巧みに述べた一文がありますので、ちょっとここで引用させてくださいまし。

The question now was whether Babington would write an answer to the Scottish Queen that told her all about the conspiracy. Or perhaps he would go silent, aware that Walsingham's hand was on his shoulder.
今や問題は、バビントンがスコットランド女王に対して陰謀の全てを打ち明けるかどうかだった。あるいは彼は、自分の肩にウォルシンガムの手が置かれていることに気付いて、口をつぐんでしまうかもしれなかった。
p.263

この危険性を充分に承知していた国務長官は、8月2日にはバビントンらの逮捕状を用意した上でとりあえず様子を見ます。翌3日、バビントン逃走の報を受けて追跡隊を繰り出し、4日にはすみやかに黒幕のバラード神父を拘束。数日のうちにバビントンと、一緒に逃亡していた2人の共謀者も捕縛。15日までには、バビントンの仲間らその他の共謀者をそっくり収監、書類を押収。その中には、メアリの手紙を書いた彼女の秘書2人も含まれておりました。

ぱちん、すとん
ときれいな音がして、メアリ・スチュアート捕捉の罠は閉じられたのでした。


次回に続きます。


(追記:このビール樽通信で使われた暗号は、アルファベットをそれぞれ別のアルファベットに置き換える換字式暗号というものでした。短縮化のためか、頻出する固有名詞は1文字の記号で表していたとのこと。Robert Hutchinson著 『Elizabeth's Spy Master』が挙げている例によると、フランス王は”#”、スペイン王は”X/”エリザベスは”V”、メアリは”Z”、ローマ教皇は”X”、「包み」は”8”、「手紙」は”y”で「秘密」は”e”。そしてフランシス・ウォルシンガムを表すのに使われたのはもちろんFでもWでもなく、”_”。なんかヴォルデモートみたいな扱いですな)


ウォルシンガム話6

2011-04-12 | 忌日
4/11の続きでございます。


ここでちょっと、我らがウォルシンガム長官と違っていささか間抜けだったスパイたちに触れておきましょう。

まず1人目、エドワード・スタッフォード。
ケンブリッジで学んだのち、セシルに目をかけられて議会入り。セシルの使いっ走りとして機密情報の伝達役などを勤めたのち、何がしかの指令を与えられて一時的に渡仏。1570年代後半から、エリザベスとフランス王弟の縁談交渉のため数回に渡ってフランスに派遣され、83年には爵位を与えられ、フランス大使に任命されます。

いやはやこの経歴、サー・フランシスのそれとずいぶん似ているではありませんか。
あるいはセシルは、今や政権中枢の座を占めた(そして必ずしも彼自身と意見の一致しない)後輩ウォルシンガムに代わる弟分を育成しようとしていたのかもしれません。残念ながらスタッフォードは、第二のウォルシンガムたりうるような能力も、自制心も、慎重さも、そして何より女王に対する忠誠心も欠いていたのですが。

セシルの後ろ盾を頼みに、スタッフォードは次第にウォルシンガムに対してあからさまに拒絶的な態度を取りはじめ、ウォルシンガムを迂回してセシルに情報を届けたり、ウォルシンガムの指揮下で進行中の諜報活動を邪魔だてする挙に出ます。ほおお、いい度胸ですな。

そもそもフランス大使への任命当初からこの男の適正に疑問を抱いていたウォルシンガム、早速エージェトを送り込んでスタッフォードの周辺を探らせます。スタッフォードの通信はエリザベス宛のものから母親宛のものまで、ウォルシンガムに傍受されることに。

パリでギャンブルに打ち込み、どっさり借金をこさえていたスタッフォードは、何とかお金を工面するために、メアリ・スチュアートと繋がりのあるギーズ家にイングランドの外交情報を売り渡すという、外交官にあるまじきことに手を染めておりました。
それでもなお借金浸けでもがいているスタッフォードに接近して来たのが誰あろう、スロックモートン事件で国外追放になっていた元駐英スペイン大使メンドーサです。イングランドの情報をくれれば報酬をやるぜというメンドーサの誘いに、スタッフォードは飛びつきます。

その一部始終をロンドンからじっ と見ていたウォルシンガム。
スタッフォードの首根っこを掴んでロンドン塔に放り込む...という早急なことはせず、例の「ひも付きで泳がせる作戦」を採ります。今回は疑似餌つきで。スタッフォードに嘘イングランド情報を掴ませて、それがそのままスペインに渡るという寸法です。しかもスタッフォード周辺からはまっとうなスペイン情報が入ってくる。ウハウハですな。

セシルの庇護、ひも付き作戦、そして1590年のウォルシンガムの死のおかげで、スタッフォードはロンドン塔も拷問台も経験することなく生涯を終えました。ラッキーな男だったとしか言いようがありません。

しかしもう1人の駄目スパイ、ウィリアム・パーリーは、スタッフォードほど幸運ではありませんでした。

パーリーはそもそも借金取りから逃げるのが目的でスパイになることを志願した、いたって情けない経歴の持ち主です。大陸に数回渡って旧教徒と親交を結んだたのち、1584年の帰国時にエリザベスに謁見して「実は私、大陸で女王陛下の暗殺計画に関わってました。これがその証拠の手紙です。でも、ひとえに陛下への陰謀を暴くために、わざとやったんですよ」てなことを報告します。

エリザベス、よくやったとパーリーに報酬を与えます。
それでもまだ借金が返せないパーリー、翌年サー・エドムンド・ネヴィルという人物を巻き込んで、再びエリザベス暗殺計画を練りはじめます。また「暗殺計画を暴露」して女王の覚えめでたくなろうとしたのか、それとも他者からの報酬をあてこんでいたのか、あるいは旧教徒と交わるうちに本気で彼らに肩入れするようになったのか。

ところが今回は大誤算が生じます。ネヴィルによって告発されたのです。
パーリー、前々からこのうさん臭い男の動向を横目で睨んでいたウォルシンガムのもとへしょっぴかれ、国務長官のロンドンはseething通りの自宅(ロンドン塔から徒歩3分)で尋問を受けます。一旦は自白したもののそれをまた覆したりと言を左右にしつつ、何とか女王に助けてもらおうと淡い期待をかけますが、下院は彼を反逆罪で処刑するという決議で一致。哀れパーリーは生きながら内蔵を抜かれることとあいなったのでした。

パーリーが本気でエリザベスを殺害するつもりだったのか、それとも報酬欲しさに二重スパイを気取っただけだったのか、本当の所は分かりません。
しかしたとえパーリーの暗殺計画が単に陰謀を暴くための偽装に過ぎなかったとしても、スパイ網の中央にいるウォルシンガムにとって、パーリーの姑息な立ち回りは目先にとらわれた個人プレー以外の何ものでもありませんでした。

またパーリーは大陸で、前の記事で触れたイエズス会士クライトンや後述のトマス・モーガンといった、本気でエリザベスを殺害しようとしている人物たちとも接触しております。パーリーの暗殺計画は本気であったとすれば充分に危険であり、偽装であったとしても、へまをやらかして、ウォルシンガムの密かな監視下にあるモーガンらを警戒させてしまう恐れがあったのです。

パーリーは結局の所、女王陛下のセキュリティのためには消えてもらった方がいい人物でした。
だからこそウォルシンガムは、有能な偽筆師に命じてパーリーの筆跡を偽造させ、陰謀の証拠を捏造までしてパーリーを確実に刑死へと追い込んだのです。

まったく、哀れなパーリー。
ウォルシンガム長官、そんな彼にひと言アドバイスをどうぞ。



そうなの。
『イギリス国民の歴史』(J.R.グリーン 1986 篠崎書店) から引用しましょう。

実際、たいていの場合、彼女は感謝ということを知らなかった。いまだ嘗て、いかなるイギリス国王にも与えられたことのないような奉仕を受けても、彼女はそれに報いることなど考えもしなかった。ウォルシンガムは、彼女の生命と王位を救うために全財産を投げだしたのに、窮乏のうちに死ぬままにほっておかれた。
p.137-138

ああ。
そうなのですよ。


次回に続きます。


ウォルシンガム話5

2011-04-11 | 忌日
いつもいつも何でこんなに投票率が低いのか。

それはさておき

4/10の続きでございます。

そもそもからの投げやり気分も祟ってか、対エリザベスで鍛えられた辛辣トークを若造ジェームズ6世に対しても炸裂させて、すっかり先方の機嫌を損ねたウォルシンガム、1ヶ月後に徒労感と共に帰国の途につきます。
幸いなことにこのスコットランド行を最後に、彼が外交官として引っぱり出されることはなくなります。これは体力的に長旅ができなくなったせいでもありましょうが、それ以上に、1580年代のウォルシンガムは他の仕事でたいへん忙しかったからでしょう。即ち、陰謀の阻止と対スペイン戦に備えた情報収集です。
このあたりからサー・フランシス、いよいよスパイマスターとしての本領を発揮し始めます。

スコットランドでごたごたが起きている頃、ロンドンには駐英フランス大使のカステルノーという人物がおりました。1581年,ウォルシンガムはカステルノーが密かにスコットランドのレノックス伯(前回の記事参照)にイングランド側の情報を流していたことを突き止めます。しかし獲物を発見した時点ですぐに飛びかかってしまわないのが、ウォルシンガムの怖い所。カステルノーには二重三重の紐をくくりつけた上で自由に泳がせ続けるのです。

まずカステルノーへの情報提供者であったダグラスという男を寝返らせて、以降は二重スパイとして活用。さらにカステルノーの下で働いていた秘書官やヘンリ・ファゴットといういささか謎めいた人物をスパイ網に引き入れ、カステルノーとフランス本国との通信書類などを入手します。何より重要なのはカステルノーが、メアリ・スチュアートと仏王室との通信を司っていたことでした。カステルノーを網にかけることによって、ウォルシンガムは彼がエリザベスの敵として最も危険視する人物、メアリ・スチュアートの動静を間近に探ることが可能になったのです。

ちなみにこのヘンリ・ファゴットという人物、近年の研究で、当時イギリスに滞在していた哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(←汎神論と地動説を唱えて火あぶりにされた人)と同一人物であることが有力視されているようです。ほんまかいな?!

閑話休題。
大陸ではエリザベスを暗殺してメアリを英国王に据えようとする陰謀が着々と進んでおりました。

1583年春、ウォルシンガムはフランス大使付きのヘンリ・ファゴットから、なぜかいつも夜中にしかやって来ない奇妙な客についての報告を受け取ります。客の一人はフランシス・スロックモートンという旧教徒の青年でした。ウォルシンガム、スロックモートンのもとにスパイを放って監視を始めます。
メアリ・スチュアートと駐英スペイン大使メンドーサとの連絡役をつとめていたスロックモートンは同年11月4日、ウォルシンガムのエージェントによって捕えられます。

家宅捜索の結果、メアリがイングランド王座につくべきだと説いた論文や、エリザベスを誹謗する内容の小冊子、さらには外国の軍隊が上陸可能な英港湾の詳細な情報など、女王に対する陰謀を示す書類が多数発見されました。ロンドン塔の取調べ室で証拠を突きつけられたスロックモートン、それは以前うちに出入りしていた男が置いてったもので、自分は直接関係ないとしらを切ります。全て打ち明ければ恩赦が得られるよと持ちかけられても頑として口を割りませんでした。

スロックモートンは主席判事や外交官を輩出している名家の息子でしたが、それ以上の証言を拒んだこの青年を、ウォルシンガムは容赦なく拷問台にかけます。

ここで言う拷問台というのはこれ↓のこと。



張付台とも言いますね。上下のウインチを回転させて、じりじり身体を引き延ばすわけです。イングランドには15世紀の半ばに導入されました。
その他にどんなものがあったのかしらと『西洋拷問刑罰史』(大場正史著 1992 雄山閣)をひも解いてみますと、ばっちりありました、ウォルシンガムの名前が。

あまり一般的ではなかったが、囚人の両脚に羊皮製の長靴下をはかせる責め方も行われた。この靴下が湿っている場合は,楽に足をつっこむことができたが、火を近づけると、かなり縮んで、耐えがたい苦痛を与えた。

p.159

こちらはじわじわ締め付け系ですね。これが1583年、ウォルシンガムによって、メアリ・スチュアートやメンドーサと通じていたイエズス会士のウィリアム・ホルトに対して適用されたということですが、ホルトについてのwikipediaの記事によれば拷問は脅しとして持ち出されただけで、実際には行われなかったのだとか。
まあスロックモートンの方は脅しだけでなくがっつり拷問されましたけどね。

さて、拘留中、トランプに「友を裏切るくらいなら千回死んだ方がましだ」というメッセージを暗号で書いてメンドーサに届けたスロックモートン、拷問の第1ラウンドは持ちこたえたものの、第2ラウンドでたまらず口を割り、洗いざらい喋ってしまいます。陰謀の概要はおおむねリドルフィ事件と同じで、外国の軍隊がイングランドに攻め入り、エリザベスを王座から引きずり下ろしてメアリを後釜に据え、カトリックの栄光を取り戻すというもの。また今回はメアリの母方の親戚であるフランスの貴族ギーズ公が自ら軍隊を率いてイングランド南岸に上陸する手はずとなっておりました。

事件の発覚を受けて翌年メンドーサは国外に追放され、スロックモートンは処刑。セシルやウォルシンガムとしてはここで何とかメアリ・スチュアートを始末したい所だったのですが、今回もエリザベスは首を縦にふりません。ウォルシンガム、がっかり。

ここにもう一人、この事件に深く関わっており、しかも何の処罰も受けなかった人物がおります。
例の通信だだ洩れフランス大使、カステルノーさんです。ウォルシンガムとしては、最大のターゲットであるメアリがぴんぴんしているかぎり、メアリ周辺の貴重な情報源であるカステルノーを手放すわけにはいきませんでした。

さらにこの年の夏には、以前からウォルシンガムがその不信な動きに目をつけていたウィリアム・クライトンというイエズス会士がネーデルラント沿岸で捕捉され、ウォルシンガムのもとに送られて来ます。ふっふっふ。いらっしゃいませロンドン塔。
クライトンが持っていた書類と尋問から明らかになったのは、スペインによるイングランド侵略計画、そしてその計画へのメアリ・スチュアートの関わりでした。

「メアリ何とかしましょう」
外交政策では対立してもこの点では意見が一致していたセシルとウォルシンガム、ここに至ってBond of Associationというものを練り上げます。「連合盟約」ですとか「一致団結の誓約」などと訳されるこのBond、署名した者は「女王に対する陰謀を企てた者、また暗殺を試みた者は何者であろうと(←ここ重要)王位の継承を認められず、訴追され、処刑される」ことに合意するというものでした。
メアリの名前を出さないよう注意深く書き上げられたこの盟約書は、メアリ自身の署名も取りつけた上でウォルシンガムによって厳重に保管されました。もちろん、来る時が来たらサッと取り出して、メアリに対しては「あーた、ここに署名してますよね?」と言い、エリザベスに対しても「こういう盟約がありますから。メアリ自身もここにしっかり署名してますから」と釘を刺すためです。

メアリ・スチュアートの命運を決するその時は、間近に迫っておりました。


次回に続きます。
まだ続くのかって。
はい。多分あと3回ぐらい。
 

ウォルシンガム話4

2011-04-10 | 忌日
4/8の続きでございます。


国務長官の激務にへこんでちょっと弱音を吐いたウォルシンガム、辞職の方は認められませんでしたが、その頑張りが認められて1577年、爵位を授かります。”サー”・フランシス・ウォルシンガムになったわけです。もっともこれ以降に彼が経験した様々なストレスをおもんばかると、サーと呼ばれるようになったぐらいじゃ見合わないような気がしますけどね。


17世紀に制作された銅版画。女王を挟んで向かって左がセシル、右がウォルシンガム。
国務長官、頬こけすぎ。

さて独立戦争が続くネーデルラントでは事態がいっそうややこしいことになりつつありました。今やセシルとウォルシンガムはエリザベスを実質的に支えるツートップとなっておりましたが、対外問題についての2人の意見は異なっておりました。
セシルはスペインとの決定的な対立をできるだけ避けたいと考えており、エリザベスもまたこの立場を取っております。一方ウォルシンガムは、スペインと仲良くすることは全く不可能と見ており、そのためネーデルラント問題にしても、対スペイン反乱の指導者であるオラニエ公をイングランドが軍事的にも財政的にもどーんと支援して、かの地からスペインの勢力をきっぱり追い出すべきだと前々から主張しておりました。

エリザベスが重い腰を上げてネーデルラント支援に乗り出すのは、ようやく1585年になってからのこと。ウォルシンガムや軍人肌の寵臣レスター伯がどんなに「ネーデルラントに派兵しましょう!」と息巻いても、エリザベスと財務大臣セシルにしてみれば「そんな金がどこにある」という所だったのでしょう。G.M.トレヴェリアン著『イギリス史』から、セシルとウォルシンガムの立場の違い、そして彼らの手綱を握るエリザベスのバランス感覚を簡潔にまとめた一文を引用しますと。

当時大陸で猛威をふるっていたカトリック的反動に対抗するピューリタン的熱意に動かされていたウォルシンガムは、プロテスタント的国民主義者のセシルと、「生粋のイングランド人」女王のあまりの用心深さをもどかしがっていた。彼はあらゆる危険と財政上の犠牲を賭けて、終始積極的行動を支持していた。もしエリザベスがあらゆる場合にウォルシンガムの助言を容れていたら、彼女は破産していたであろう。かといって、もし彼女がそれを採り上げなかったとしたら、それに劣らず破滅の憂き目を見ていたかもしれないであろう。全体として彼女は、自分のすぐれた大臣たちの双方の助言の中で最善のものを用いたのであった。
『イギリス史2』みすず書房 1974 p.85

ウォルシンガムが「ピューリタン的熱意に動かされていた」という点にはちと留保のある所ですが、その話はまたのちに。

ともあれ、ウォルシンガムはしばしば外交に際して自身の主張とは相反する指示を与えられ、その線に沿って働かねばなりませんでいした。1578年には、ネーデルラントの様子見&ごたごたを落ちつかせるために大陸へと派遣されます。
嫌がったのに。

またこれと前後してエリザベスとフランス王弟(前とは別の人)の縁談交渉が再び持ち上がり、女王の煮え切らない態度にここでもイライラさせられるウォルシンガム。しかもここ数年のことの成り行きに一番イラついているであろう彼が、仏王アンリ3世の意図を探る他、もろもろの交渉役という任務を背負って渡仏することに。
今度も嫌がったのに。

そもそも彼はサン・バルテルミの虐殺以来、フランス王室に対しては拭い難い不信感を抱いておりましたし、それを抜きにしてもエリザベスとフランソワの縁談に反対する理由はいくつもありました。
フランソワの兄である国王アンリ3世には跡継ぎがなかったため、フランソワはフランスの第一王位継承者でした。結婚賛成派の言い分としては「まず女王陛下とフランソワが結婚して、それからフランソワが王位に就けば、フランスが女王陛下の領土になるじゃん!」というごく楽天的なサセックス伯の意見から、セシルのようにこの結婚を女王自身が世継ぎを産む最後のチャンスと見なす意見、より消極的には、フランス側から持ちかけられた縁談を断ることによって、フランスがスペインと手を結んでしまうのではないかという恐れから縁談を支持するというものもありました。

ウォルシンガムはというと、すでに齢46に達していたエリザベスが無事な妊娠・出産をする可能性を疑問視しており、むしろ女王の身体を損なうことになりかねないと懸念しておりました。またサセックス伯とは逆に、相手がフランスの第一王位継承者であるからこそ、イギリス国王であるエリザベスとの結婚は不可能であるという見解に立ち、交渉なんぞするだけ時間の無駄ですよとハッキリ反対しておりました。ハッキリしすぎてエリザベスから叱責をくらったり、宮廷から遠ざけられたりしております。

それでも。
どんなにストレスフルな状況であろうとも、与えられた条件のもとで女王陛下およびイングランドのセキュリティのためにベストを尽くすのが国務長官ウォルシンガムです。
求婚者フランソワが「ネーデルラントに軍隊置いときたいから金貸して~!」と言ってよこせば、彼に紐をつけておくためにエリザベスから支援金を引き出したり(珍しくエリザベスに金を出させることに成功している)、息子のフランソワがネーデルラントもエリザベスも放っといてスペイン王女と結婚するべきだと考えていた王毋カトリーヌ・ド・メディシスを説得して英仏の友好関係の維持に努めたりと、右へ左へ奔走するのでした。

国内外に様々な対立要素が渦巻いていた時代において、エリザベスの優柔不断や出し惜しみは彼女流の曖昧戦略であったとも言えましょうが、ウォルシンガムにとっては女王陛下お得意の「曖昧・引き延ばし・出し惜しみ作戦」こそ何よりのストレス源だったようです。
エリザベスの金銭的・政治的出し惜しみを嘆じた「it is hard in a politique body to prevent any mischief without charges as in a natural body diseased to cure the same without pain 身体の病が痛みなしには癒されないのと同様、政治における禍いも代償なしに防ぐことはできない」というコメント、彼が実際に病を抱えていたことを思うと、なんだかしんみりするではありませんか。

大陸の方だけでもいろいろやっかいなのに、隣のスコットランドでもごたごた継続中。
ウォルシンガムはかねがね、旧教徒が多い上にフランスと浅からぬ繋がりのある隣国スコットランドを警戒し、スコットランド執政モートン伯と密に連絡を取り合っておりました。モートン伯、この人はイングランドとの協調路線を採っていた人で、その有能さをウォルシンガムは高く評価しておりました。

1580年、そのモートン伯がジェームズ6世の寵臣レノックス公らに難癖をつけられ、逮捕されるという事件が起きます。親イングランド派のモートン伯に対して、レノックス公はフランス帰り、しかも国王のお気に入り。さあどうするフランシス。

不安定化するスコットランド状勢を受けて、枢密院は1000人の兵をスコットランド国境に配置することを決議します。しかしウォルシンガムからその報告を受けたエリザベスは全く乗り気ではなく、派兵するにしても兵力を半分にしなさいと命じます。ウォルシンガムはその日のうちに再び女王に対して軍事的介入の必要性を説きます。それがエリザベスにはかえって鬱陶しかったのか、あるいは「いやいや、モートン伯は殺しませんから...」というジェームズ6世の言葉を信じたためか、エリザベス、結局1兵も送らないと決めてしまいます。

で、どうなったか。
ジェームズの口約束はあっさり破られ、モートン伯はギロチン送りとなり、これ以降、フランス帰りのレノックス伯らがスコットランド宮廷で幅を利かせることとあいなったのでした。(ちなみにギロチンという当時最新鋭の断頭マシーンをスコットランドにもたらしたのは当のモートン伯自身だったり)
ウォルシンガムはこの事態に「これでスコットランドは完全に失われたし、アイルランド喪失への大きな門が開かれた」と嘆じつつ、もはやモートン伯は救えないと判断するやレノックス打倒に的を絞り、スパイを使ってレノックス関連情報を集めつつ、スコットランドの反レノックス勢力であるウィリアム・リヴァンらへの働きかけを強めて行くのでした。

1582年、クーデターによってレノックスが失脚し、親イングランドのリヴァン政権がめでたく誕生。しかしその翌年には国王ジェームズ6世の逃亡によってこれまたひっくり返り、以降は17歳のジェームズが親政を始めます。親英(モートン)→新仏(レノックス)→親英(リヴァン)と1年おきのめまぐるしい政権交代ののち誕生したこの新政権に対して「フランスとはあんまりくっつくなよ、スペインとは仲良くするなよ」と釘を刺すため、またぞろ外交官として派遣されたのが誰あろうウォルシンガム。
ものっすごく嫌がったのに。

駐英スペイン大使メンドーサの報告によると、命令が下されたときウォルシンガムは女王の足下に身を投げだし、スコットランドに行くくらいなら絞首刑になった方がましです、他の場所で吊るされるよりイングランドで吊るされた方がましですから、と訴えたのだそうです。こんな時にブラックジョークを繰り出してくるあたり、実にイギリス人なウォルシー。
しかしかの地では2年前にイングランドの外交官が狙撃されるという事件が起きており、「吊るされる」というこの極端な表現もあながち冗談ばかりではなかったのです。

これより先、エリザベスは例の親英リヴァン政権から、レノックス伯がイングランド内に持っていた領地の譲渡、および一時支援金として1万ポンド、毎年の支援金として5000ポンド送られたしという要請を受けていたにもかかわらず、2500ポンド以上は出せない、というものすごい値切り方をしてかの地の親イングランド派を幻滅させておりました。ウォルシンガムは女王のそうした吝嗇ぶりを指摘し、今さら私が出かけて行った所で何もいい結果は出せないだろうし、悪い結果が生じたら全部私のせいになさるんでしょう、そんなん嫌です、と必死に訴えたものの、エリザベスは耳を貸しませんでした。

あのさあエリザベス。「危険で面倒な外交はとりあえずこいつに押しつけよう」と思ってないか。
まあ、我らが諜報局長は女王からそれだけ信頼されていたのだと解釈しましょう。内心「だからあの時ああ言ったのに...」とぼやきながら、またも病身を引きずってスコットランドに向かうサー・フランシスではありました。

ああ、可哀想すぎて笑えてくる。ごめんよ。


次回に続きます。


ウォルシンガム話3

2011-04-08 | 忌日
4/7の続きでございます。

リドルフィ事件が発覚したとき、ウォルシンガムはイングランドにはおりませんでした。
高い語学力と外交能力を買われて1570年にフランス大使に抜擢され、家族とともにパリに駐在していたのです。
ここでちょっとこの時期のものすごくおおまかな諸国宗教地図を見てみましょう。

赤はカトリック、青はプロテスタント。ものすごくおおまかなのでスイスもアイルランドもありません、悪しからず。



主要国との関係を見て行きましょう。
まずスペイン。何せ財力と軍事力のある国で、イングランドとしてはできれば喧嘩したくない相手ではあります。しかしガチガチの旧教国である上、先だってのリドルフィ事件に加担してちゃっかり攻め入ろうとしていたぐらいですから、とても仲良くできそうもない相手でもあります。

次にフランス。国内の新教徒(ユグノーと呼ばれます)と旧教徒の対立が激化して、1560年代から断続的にユグノー戦争というのが起きておりました。そのまんまなネーミングですな。ともあれスペインと違って、フランス国内の新教徒は少なくともある程度の勢力を持っておりましたし、新教国イングランドに対しても、表向き友好的な顔を向けておりました。王弟アンジュー公とエリザベスとの縁談まで持ちかけていたぐらいで、イングランドにとっては、スペインよりはまだしも「話せる相手」であったわけです。英仏ともに「スペインがこれ以上強くなるのはよろしくないよね」という認識では一致しておりましたし。

そして、ネーデルラント。
ああ、がんばれネーデルラント。がんばれ。栄光の17世紀までもう少しだ。
で、16世紀のこの時期はどうなのかと言うと、これが対スペイン独立戦争の真っただ中。「フェリペってさ、あいつカトリックじゃん。だし、俺等はプロテスタントで行くべ」という軽いノリ...では決してなかったのですが、とりあえず新教を精神的支柱に据え、結束してスペインと大喧嘩をしております。これは英仏ともに成り行きが気になる所です。

こんな状勢のもと、38歳のウォルシンガムは仏王室とユグノーとの関係緩和、エリザベスとアンジュー公の縁談交渉、および緊迫したネーデルラント状勢の偵察という重い使命を引き継ぐ外交官として渡仏したのでした。嫌がったんですけどね。身体が悪いのでって。
ともあれ交渉の甲斐あって1572年、英仏間で「宗教的にはちょっと違いがあるかもしれないけど、誰かに攻め込まれた時にはお互いを助け合おうね」という、どう見ても”誰か”にスペインを想定したブロワ条約が締結されます。フランスと結んだ上でネーデルラントの反乱を支援してスペインと対抗するべし、と考えていたウォルシンガム、とりあえず一安心。

ところが。
ウォルシンガムがパリ滞在中の1572年8月24日、ちょっぴりがっつりどころではなく大変な事件が起きます。有力な新教徒であったコリニー提督の暗殺を皮切りに、旧教徒がフランス国内の新教徒を無差別に殺戮した「サン・バルテルミの虐殺」です。



ひええ。犠牲者はパリだけでも数千人、フランス全土では数万人に及んだとか。
この時、ウォルシンガムの住まいは新教徒たちの避難所となりました。外交官に危害が及んではまずいと判断した国王シャルル9世はウォルシンガム邸に護衛を送ります。それでも保護を求めてウォルシンガム邸に向かっていた数人のイングランド人はその途上で殺害され、コリニーの部下であったボーヴェという将校は家々の屋根を伝って何とか逃げてきたものの、兵士たちによって館から引きずり出され、吊るされたのでした。

邸内に避難していた新教徒の中には、のちに詩人として有名になるフィリップ・シドニー(←将来の娘婿)や、近代速記の祖とされるティモシー・ブライトもおりました。ブライトは後年、この時のことを「16年たった今でも鮮明に覚えているし、これからもそうだろう」という言葉とともに振り返り、ウォルシンガムが英国人だけでなく多くの”strangers”も保護したことに触れ、謝辞を捧げております。

事態の沈静化を待って妻と5歳の娘を帰国させたウォルシンガム、自分もすぐに帰りたかった所でしょうが、何せ外交官なのでそうも行きません。状況を本国に知らせたり、この事件の黒幕の一人とも囁かれる王母カトリーヌ・ド・メディシスに謁見して遺憾の意を伝えたり、本国から明確な指示がないことにイライラしたりと忙しかったのです。この時枢密院に送った報告の中には「敵意も偏見も交えずに申し上げますが、この地の現状を鑑みますと、彼ら(フランス)とは友としてよりも敵として付き合った方が危険が少ないであろう、というのが私の見解です」と記されております。
「◯◯よりも××の方が危険が少ない」というこの言い回し、いかにもウォルシンガム的でよろしい。

翌年5月、やっと後任の外交官がやって来ますとウォルシンガム、後任者を引き継ぎのためシャルル9世に紹介して、その3日後にはさっさと帰国しております。
いやはや、お疲れ様。でも本当にキビシいのはこれからですよ。しっかり、フランシス。女王陛下のセキュリティは君にかかっているのだ。

帰国の約半年後、principal secretary (国務長官)に就任。国務長官は内政にも外交にも広い権限を持つ要職で、前任者は例のウィリアム・セシルでした。後輩に席を譲った形のセシルは財務長官に就任します。国務長官としての滑り出しはウォルシンガムと、ケンブリッジでのセシルの恩師で元フランス大使でもあったサー・トマス・スミスという爺さんとの二頭体制だったのですが、1576年にスミス爺さんがぽっくり他界して以降、その職責がどさっ とウォルシンガムにのしかかります。
スミスの後任とその補佐官はすぐに任命されたものの、1576年には国王のハンコを管理する王璽尚書も兼任することに。残念ながら1619年のロンドン大火で史料が失われたため、彼の王璽尚書としての職責のほどは分からないということです。

分かっているのは、この泣く子も黙る諜報局長、実はあんまり身体の強いほうではなかったということ。とりわけ腎臓が悪かったものと見え、フランス大使時代から亡くなるまで何度も、泌尿器系疾患で数ヶ月に渡って病床についております。特に冬場に症状が悪化していることが多いので、腎臓結石ですとか尿路結石ですとか、そのあたりを患っていたのではないかと推測されます。
そして1576年はそんなウォルシンガムにとって、体力的にかなりキツイ年であったらしいということ。この年の秋にはセシルに対して、疲労のため職を辞したい旨を伝えているほどです。40代半ばのワーカホリックが「辞めたいんですけど」なんて言うのですから、まあ相当なものだったんでしょう。


次回に続きます。

ウォルシンガム話2

2011-04-07 | 忌日
4/6の続きでございます。


さて、表立ってはそれほど動きの見られない1560年代のフランシスさんですが、プライベートではこの10年の間に、けっこうな波がありました。

1560年、母親が亡くなり、前夫(つまりフランシスの実父)ウィリアムのもとに葬られます。
1562年、30歳の折にロンドンのワイン業者アレクサンダー・カーライルの未亡人アン・バーンと結婚。しかし彼女はたった2年の結婚生活ののち、連れ子であるクリストファーを残して他界してしまいます。2人の間に子供はありませんでしたが、ウォルシンガムは10代前半で母を亡くしたクリストファーをたいそう可愛がり、そのキャリアについても何くれと心を砕いてやったのでした。クリストファー・カーライルはのちに海軍将校となり、船団を率いてロシアまで出かけたり、”女王陛下の海賊”ドレイク船長の西インド遠征に参加したりしています。
1566年、やはり寡婦であったアースラ・バーブと再婚。何です。16世紀の英国では寡婦の再婚率が高かったのですよ。参照:英国史の中の結婚と子供(4)
1567年、ウォルシンガムには初子となる娘が誕生。フランセスと名付けます。
お父ちゃんがフランシスで娘がフランセスって家の中で呼ぶのに紛らわしいじゃないか。といういらぬ心配はさておき、34歳で初めて授かった子供、嬉しかったでしょうね。しかし禍福はあざなえる縄のごとくウォルシンガム家を襲い、アースラの2人の連れ子が火薬の爆発事故で命を落としたのもこの年のことでした。

ちなみに映画『エリザベス ゴールデン・エイジ』ではウォルシンガムの娘のメアリーという子が父親の死を看取りますけれども、実際にはメアリーは父親に先立つこと10年の1580年、弱冠7歳で亡くなっております。それにエリザベスは、セシルと違って戦闘的な上に歯に衣着せぬ言葉でビシビシ諫言するウォルシンガムをあんまり好いていなかった、いや率直に言えばかなり嫌っていたフシがあるので、彼の死に際しても映画に描かれているような感動的な別れの挨拶はなかったことでしょう。そうは言ってもあのシーンで泣きましたけどさ、のろは。あの、2人の手の握り方がなんとも...

さておき。
1569年、ウォルシンガムはエリザベスに対する陰謀を企んでいたフィレンツェ出身の銀行家ロベルト・リドルフィを捕え、尋問します。ウォルシンガムファンとしては「いよっ、待ってました!」と声をかけたい所ですが、この時にはまだロンドン塔で拷問→洗いざらい白状→全容解明→首謀者処刑という後年のウォルシンガム・スペシャルは見られません。容疑者リドルフィはウォルシンガムの自宅での取り調べの後あっさり釈放され、以降も着々と、のちに「リドルフィ事件」と称されることになるエリザベス転覆計画を進めるのです。これはどうしたことか。

リドルフィがどんな陰謀を企てていたかと言いますと、イングランド国内の旧教徒が蜂起し、それに連動してお隣のネーデルラントからスペイン軍が攻め入り、エリザベスを廃位、もしくは暗殺する。そして旧教徒で元スコットランド女王のメアリ・スチュアートを王座に据える、というものでした。
スペイン軍を率いてネーデルラントに駐屯していたアルバ公(←現場)はリドルフィと会談してこの話を持ちかけられた時、この男の知識や見積もりを怪しいもんだと思い、現実的に「兵力足らんし、そら~無理!」と判断しましたが、フェリペ2世(←会議室)も、またローマ教皇(←会議室)も、この計画に大いに乗り気でした。
実際の所この陰謀が成功する確率は低めであったものの、1569年秋にはカトリックを信奉するイングランド北部の大貴族たちが反乱を起こしていることもあり、エリザベスやセシルとしては笑って見過ごせるようなものでもなかったのです。

ちなみに69年の北部諸候の反乱には、新教v.s旧教の宗派対立という一面の他に、エリザベスがセシルやウォルシンガムのように中流階級出身の廷臣を重用したため、政権中枢から追い出された大貴族たちが不満を抱いていたという側面もあります。宗教的な不満と政治的な不満という別々のものがからみ合ってひとつの事件に至るというのは歴史上よく見られることでもありますし、それだけに示唆に富むものではないでしょうか。

さて1571年にリドルフィ陰謀が発覚するや、密かに計画を後押ししていた駐英スペイン大使は国外に追い出され、メアリ・スチュアートとの関係が認められたノーフォーク公トマス・ハワードは処刑され、陰謀は未然に阻止されたのでした。

えっ。
あの、銀行家のリドルフィさんですか。
あの人はまんまと逃げおおせて故郷イタリアに舞い戻り、フランチェスコ1世・デ・メディチに仕えたり、ピサで知事をやったり、フィレンツェで議員になったりしたのち1612年に亡くなってます。ううむ、ほぼ同い年のくせにウォルシンガムより20年以上も長生きしてるじゃないか。何か腹が立つなあ。

この事件、陰謀の現実性の低さやリドルフィの行動のお粗末さ、そしてリドルフィが尋問後にあっさり釈放されていることなどから、一説にはウォルシンガムが(のちに「バビントン事件」でやったように)拘禁中のリドルフィを説得し、潜在的な陰謀をあぶり出すために二重スパイとして働かせていたではないかとも言われておりますが、真相は分かりません。
あるいはフランシスさんもこの頃はまだまだ未熟で、本当に陰謀の証拠を掴めなかっただけかもしれません。だとすると、この時の教訓はのちの「スロックモートン事件」や「バビントン事件」といったエリザベス暗殺計画を阻止するにあたって大いに活かされたと言えましょう。


ここでエリザベスの後釜にと反乱者たちが名前を挙げたメアリ・スチュアートについて触れておきましょう。



「悲劇の女王」とか「囚われの女王」、「恋多き美女」などロマンチックな形容が付されることが多いメアリ・スチュアートですが、ウォルシンガムに言わせると「悪魔のような女。いやはや、何ともひどい言われようです。しかし彼女はエリザベスにとっては実にやっかいな、しばしば命に関わるほどにやっかいな人物であり、ウォルシンガムがこう呼びたくもなるのもまあ、理解できないではありません。

前述のようにこの人、スコットランドの女王だったのですが、すったもんだのすえ王座を追われ、イングランドに逃げ込んで来ていました。これにはエリザベス、大迷惑。何故かというとこのメアリ、イングランドの王位継承権をばっちり持っている上に旧教徒だったので、カトリック国のスペインやローマ教皇やイングランド国内の旧教信者は彼女をイングランド王位に就けたがっていたからです。
しかも、エリザベスはお父ちゃんのヘンリ8世が「アン・ブーリンと結婚するのやーめた。ってゆーかー、もともと結婚なんかしてなかったもんね」とのたもうたせいで非嫡出子扱いであったのに対して、メアリの方は文句のつけようのない血筋の持ち主でもありました。

こんな人を国内に泳がせておいたら、「打倒エリザベス!」と叫ぶ不埒な輩によって正統な女王として担ぎ出されるに決まっております。実際、そうした試みは国内外から何度も持ち上がり、そのたびにウォルシンガムが計画の阻止と首謀者の摘発に奔走することになるのでした。
一方、もしメアリを殺してしまえば、カトリック側からの激しい非難は免れないことは明白ときております。やれやれ。仕方がないのでエリザベス、メアリを緩やかな軟禁状態に置きつつ、何とか彼女をスコットランド女王に戻してやる道を形だけでも模索することに。

そんな状況下で起こった、リドルフィ事件。
この事件によって明らかになったのは、要するに
「スペインは信用ならん」
「カトリック勢力は放っとくとやばい」そして
「メアリ・スチュアートはやっぱり何とかせにゃならん」ということ。
しかし議会が「メアリ何とかしましょうよ(=処刑するとか、もっと厳しく監禁するとか)」と提案しても、エリザベスは首を縦には振りませんでした。ウォルシンガムはこの時メアリが処刑されなかったことを、のちのちおおっぴらに残念がったということです。だろうね。
メアリが元気でいるかぎりは今後もエリザベスの身と国の安定は危険にさらされ続けるだろうと確信したウォルシンガム、諜報局長としての任務にいっそう精を出し、国内外に当時比肩する者のないほど密な情報網をこつこつと-----私財を投じて-----作り上げて行くのでした。


次回に続きます。

ウォルシンガム話1

2011-04-06 | 忌日
本日は
女王陛下のスパイマスター、サー・フランシス・ウォルシンガムの忌日でございます。

この人。



フェリペ2世みたいだって。
怒りますよ、本人が聞いたら。
けっ こうコワイ人なので、怒らせないのが得策ってもんでございます。

エリザベス1世の忠臣であり(好かれてはいなかったようですが)、国内はもとより欧州全土にくまなく張り巡らせたスパイ網を駆使して内外の問題に当たり、英国諜報組織の礎を築いたウォルシンガム卿。そのネットワークたるやイングランド国内や隣国スコットランドはもちろん、フランス、ネーデルラント(オランダ・ベルギー)スペイン、イタリア、神聖ローマ帝国(ドイツ・オーストリア)、そして遠くはコンスタンティノープルにまで及んでいたというから驚きでございます。

最近この人にふと興味をもちまして、調べてみたらこれがなかなかに面白い人物だったのでございますよ。
というわけで、数回に渡ってウォルシンガムばなしをさせていただきたく。
初めに謝っておきます。
すみません。
長いです。

*以下の記事を書くにあたっては概ね”Oxford Dictionary of National Biography(2004)”と”Burley: William Cecil at the Court of Elizabeth I(2008)”を参考にしました。生年を1532年としたのもOxford ~に準拠したためです。その他のソースについては記事の最後に列挙します。また、英国国教会と新教徒(プロテスタント)は厳密に同じものというわけではありませんが、ややこしいので以下では英国国教会=新教徒として記述します。


では。

時は1532年、アン・ブーリンが後のイングランド女王エリザベスを産む1年前のこと。
ドイツに発した宗教改革の波は島国イングランドにまでひたひたと押し寄せ、政治的・宗教的に大きな変化がもたらされようとしておりました。

裕福な新教徒(プロテスタント)で法廷弁護士であったウィリアム・ウォルシンガムのもとに生まれたフランシス、1歳の時に父親を亡くし、母親の再婚相手であるジョン・ケアリのもとで育ちます。この継父ジョンさんのお兄ちゃんのウィリアム・ケアリって人、実はアン・ブーリンの妹であるメアリ・ブーリンと結婚しております。つまり系図上ではエリザベス1世とウォルシンガムはいとこ同士ってことになりますね。

16歳の時ケンブリッジのキングズ・カレッジに入学。学長ジョン・チークのもと、プロテスタント色の強い教育方針のもとで法学を学びます。チーク学長の義理の兄弟に、ウィリアム・セシルという若者がおりました。のちにウォルシンガムと共にエリザベスに仕え「黄金時代」を支えた宰相として歴史に名を残す人物でございます。10代のウォルシンガムと、彼より12歳年上ですでにケンブリッジを卒業していたセシルの直接的な交流を示す史料は残されていないものの、のちの軌跡を見ればここで2人が顔見知りになっていた可能性は大いにあります。

18歳でケンブリッジを卒業後、フランスやイタリアに学んだのち帰国して名門グレイズ・イン法学院に入学。ここは実のお父ちゃんのウィリアム・ウォルシンガムが生前所属していた学校で、上記のウィリアム・セシルも籍を置いております。(ウィリアムばっかりだなあ)ここで勉強を続けていた頃はフランシス君も、父と同じく弁護士にでもなるつもりでいたかもしれません。

ところが。
1553年、フランシス23歳のとき、新教徒である彼にとっては、ちょっぴりがっつり大変なことが起こります。メアリ1世がイングランド女王の座に就いたのです。そう、ブラッディ・メアリ(血まみれメアリ)のメアリさんですよ。ワタクシが子供のころ読んだ『まんが世界の歴史』とか何とかいう本には、火あぶりにされる人々を背景に「あっはっは、プロテスタントは皆殺しよ!」と大口空けて笑っているメアリさんの姿が描かれておりましたっけ。あれは強烈だった。
まあ皆殺しとまではいきませんけれども、メアリさんが新教徒を厳しく弾圧したのは事実で、5年半に満たない彼女の治世の間に300人余りの人々がその信仰ゆえに処刑されたのでした。


メアリ姉ちゃん顔恐い。

このメアリ時代に、熱心な(かつ裕福な)新教徒800人ほどがオイオイ冗談じゃないよとばかりに大陸へ亡命。ウォルシンガムもその1人でした。ところがこの人、亡命者らしくひっそり息をひそめていたわけでもなく、語学力を活かしてフランス、スイス、イタリアなどを廻り、大学で法律を学んだり、外交や情報収集のノウハウを身につけたり、各地の新教徒たちと交友を結んだりと、実に活発な亡命ライフを送っております。振り返ればこの時に築いた知識と人脈が、のちにスパイ網を構築する礎となったのでしょう。
ちなみにあちこち行った中でもスイスはたいへん居心地がよかったらしく、後年メアリ・スチュアート関連のあれこれや対スペイン戦のそれこれで仕事のストレスが溜まった折には、友人のレスター伯に宛てた手紙の中で「今スイスにいるんだったらいいのになぁ...」とこぼしております。

1558年、メアリが亡くなり、新教徒であった義妹エリザベスが王位を継承。25歳の新女王の誕生に、縮こまって暮らしていたイングランドの新教徒たちは喜びに湧きます。キャッホーと帰国するメアリ時代亡命者たちの中に、もちろんウォルシンガムの姿もありました。帰国後ほどなく、すでに国政の中枢に座を占めていた例のケンブリッジの先輩ウィリアム・セシルの引き立てもあり、晴れて庶民院(下院)議員となります。

これから10年ほど、若手下院議員としてのウォルシンガムに目立った活躍はありません。どうもセシルのために国外情報収集活動をしていたようです。1568年8月には、それに先立つ3ヶ月の間にイタリアに在住していた全ての(エリザベスにとっての)危険人物のリストをセシルに提出したとか。ほんまかいな。
その情報収集能力が認められ1569年、秘密情報部の責任者に任命されます。秘密情報部なのでこっそりと。この頃書かれたセシル宛の手紙には、以降の彼の外交と安全保障に対する信条を裏付けるような言葉が記されております。

There is nothing more dangerous than security. 安全な状態ほど危険なものはありません」
There is less danger in fearing too much than too little. 心配しすぎる方が、心配しなさすぎるよりも危険が少ない」

うーむ。こんな言葉から見ると、おっそろしく慎重な人物といった印象ですね。しかしこの人、敵側の人間を転向させて二重スパイに使ったり、敵国の宮廷内に密偵を送り込んだり、傍受した手紙を開封してすっかり読んだ上で、何事もなかったかのように封をして本来の受け取り手に届けたりと、情報収集の手法はけっこう大胆です。またひとたび充分な情報を手にした後の行動は素早く、総合的に見るとウォルシンガムはむしろ「先手必勝」とか「虎穴に入らずんば虎子を得ず」といったモットーがぴったりな人物のような気がするのです。


次回に続きます。

れのんき

2010-12-08 | 忌日
本日は

言うまでもございませんね。
ジョン・レノンの忌日でございます。

記事を色々考えましたけれども、何を書いても薄っぺらくなりそうなのでやめます。
今日はあちこちで「イマジン」が流れていることと思いますので
あえてこの曲を。

The Beatles Twist & Shout (High Quality)


昨日民放のBSジャパンでは、彼の暗殺を新たな角度から検証する特集番組が放送されていたようでございます。ナビゲーターがピーター・バラカンさんだということもあって、ぜひとも見たい番組ではございましたが、あいにくのろ宅にはBSチューナーが無いのでございました。
ありがたいことに、↓のブログさんで番組内容のレポートをしてくださっております。

ザ・ラストデイ ~誰がジョン・レノンを殺したか?

悼んでも、嘆いても、検証しても、ひとたび死んだ人は決して二度と戻って来ないなんて。
何てもったいないことだろう。
本当に何てもったいないことだろう。

John Lennon Tribute In My Life