のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

えねえちけえのこと

2012-06-24 | Weblog
待ちました。
HPもチェックしてみました。


本当に報道しないのですね、NHK。

東京新聞:首相官邸前 再稼働反対デモ:社会(TOKYO Web)

ワタクシはTVのチャンネルがいつもNHKにセットされている家庭に育ちましたし、一人暮らしを始めるまで、ニュースも天気予報もNHK以外のものは見たことがございませんでした。FM・AMを問わずNHKラジオには常にお世話になっておりますし、TVをほとんど見なくなった今でも、シリーズものにせよ単発にせよ、良質なドキュメンタリーを作り続けてらっしゃる点については高く評価し、感謝もしております。受信料の支払いも欠かしたことはございません。

そんなワタクシにおいてさえ、あきれかえりました。
実のところ、ワタクシが長年NHKの報道に寄せていた信頼は、この一年余りの間にギリシャ国債にも負けない勢いで失墜いたしました。
いやしくも公共放送の名を冠しておきながら、4万人以上の市民が首相官邸を取り囲んだ抗議デモを完全に黙殺して、その代わりに何を報じるかと思えば「スカイツリー開業から半年、客入りは上々」って。

いったい何のために存在しているのですか?

あるいはこれは、「政府の方針に反対する市民の数万人規模の抗議集会よりも、半年前にできたトーキョーの新名所やサッカー選手の移籍について報道する方が公共のためだ」という不思議な信念のもとになされたご判断なのでしょうか。それとも、何かオオヤケにはできない理由があってのことなのでしょうか。”公共放送”なのに。

タクシーで1周しながら撮った首相官邸周辺デモの状況(2012.6.22 19:00-19:10)


ティーンはもちろん、じいちゃんばあちゃんだってネットサーフィンくらいする時代でございます。NHKが報じなかったからといって、事件そのものが消えるわけでもございません。むしろこんなにも無視しがたいイベントをあえて無視することによって「何故これが報道されないのか」という不審を招くだけなのに、あえて黙殺を選び、わざわざ自らの報道機関としてのを価値を下げる挙にお出になるとは。
これでは解約が増えるのも無理なかろうというものでございます。

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2012-06-20 | Weblog
中之島図書館を廃止へ 橋下市長と松井知事 - 47NEWS(よんななニュース)

文楽にオーケストラに美術館に図書館、と。

すると人々は、贅沢な生活にたいして日頃のうらみをはらすのである。無学文盲な者は、書物を引き裂く。他の者は、彫刻や絵画や家具や手箱や、彼らがその使用法を知らず、従ってその激昂の種となるような繊細優美な品物の数々を散々に打ち毀す。
フローベール全集4『聖アントワーヌの誘惑』p.22 筑摩書房

...という一文が思い出されるわけですが、まあそれはそれとして。
図書館のことで騒ぎを起こせば、その影で原発のことはみんな忘れてくれるだろうと期待なさってるのでしょうかね。

このごろ特に思うのですがこの人、メディアへの露出度は相変わらず高いようですけれども、果たして今も支持されているんでしょうか?
そりゃまあ選挙で当選したことは確かなんですが、これだけ盛大に手のひらを返された後でも、いまだにこの人物を支持しうるものだろうかと思いまして。
原発のことだけに限っても↓こうですのに。

天才漫才師?橋下徹・大阪市長の「ノリツッコミ」ツイート集(脱原発時代の橋下vs原発再稼働容認(現在)の橋下の掛け合い) - Togetter

再稼働のこと

2012-06-18 | Weblog
6月15日に行われた、大飯原発再稼働に反対する1万人規模のデモ@東京、ロイターやBBCといった欧米メディアはしっかり報道したのに対し、日本国内の主要メディアは一切取り上げず黙殺したということを、ワタクシもネットの情報でようやっと知ったわけです。
世捨て気味のワタクシでも気づかされたくらいですから、世辞に聡い皆様はとっくにご存知のこととは思いますが、念のため、情報拡散の片棒を担がせていただこうと思ったわけでございます。

ドイツ誌シュピーゲル 反原発 東京デモ.wmv



ついでに。

SPEEDIによるフクイチ汚染シミュレーションを大飯原発に重ねてみた。

で、大飯原発直下には活断層がある可能性が指摘されていると。
福島規模の事故が起きたら琵琶湖終了。京都終了。さらに関西一円があれあれまあ...という話かと思いきや、下の方のシミュレーションを見ますと、近畿のみならず本州四国ほぼ全域があれあれまあという話でございました。
あ~あっと。

日本海側の福井で福島と同じような地震があるわけないって。まあそうかもしれません。
しかしワタクシ1993年に奥尻島を襲った北海道南西沖地震の時は実家(函館)におりまして、震源から100キロは離れた-----そして地震が決して少なくはない-----函館においても、これはただならぬと感じるほどに揺れたことや、津波と火災に見舞われて燃え上がる町並みの映像、そして一夜明けて瓦礫の地と化した奥尻町の様子などをよくよく覚えておりますからには、「こっち側ではあんなことは起きないだろう」などとは容易に思えないのでございますよ。

と申しますか
そもそも福島にしても「こんな規模の大災害が起きるわけないだろう」って、みんな思ってたんですよね?

『井田照一 版の思考・間の思索』

2012-06-15 | 展覧会
増税とか再稼働とかする前にひとつ選挙でもしていただけませんかね。


それはさておき
京都市美術館コレクション展 第1期 井田照一 版の思考・間の思索の鑑賞レポでございます。気づけば京都市美とは半年以上もご無沙汰しておりました。
終わってしまった展覧会をご紹介するのはいささか心苦しいのですが、向いの京都国立近代美術館でも井田照一の版画展が開催中であり、こちらは24日までやっておりますので、行こうか行くまいか迷っておいでのかたはご参考にでもしていただければと思います。


さて
本当にしんどい時は何を見る気にもならないわけですが、そこそこしんどいくらいの時には彫刻か現代美術を見たくなります。おそらく彫刻はワタクシ自身が全く関わらない分野なので、がつがつせずに純粋に楽しみとして見られるという気楽さがよいのであり、現代美術は、作品に対してわりあい自由な解釈が許されているという点がよいのでございましょう。

2006年6月に亡くなった井田照一氏、版画における版とは何かということを考えたり、ものの存在感と重力との関係を作品化したりと、色々コンセプチュアルにつめて行ったかたのようですが、しんどいのでなるべく何も考えずに鑑賞することに。そんなわけで、カラフルなリトグラフ作品が並ぶ第一室から、これはいいなあ、これもいいなあ、これはあんまり好きじゃないや、と気楽な気分で見ていきましたら、たいへん面白かったのでございますよ。
単色でくるっと円が描かれただけの作品なんて、それだけでもずーーっと見ていられます。
といえばぐだぐだしている間に芦屋の吉原治良展も終わってしまったなあ。4月からやってたのに何で行かなかったんだろう。

様々な色と形と作風に彩られたカラフルな第一室から一転して、第二室はおおむねモノトーンの世界でございます。こちらの一番下の作品のように、一見すると黒や青のただ一色を四角形にベタ刷りしたものかと見えます。ところが近づいてよくよく見ますと、版の表面のへこみや盛り上がりが紙面に写し取られており、この場には存在しない版の存在感、「もの感」が、ひしひしと伝わってまいります。
この他にもフロッタージュ(凹凸のあるものの表面に紙をあて、上から鉛筆などでこすって凹凸を写し取る手法。拓版。)を活用した半立体的な作品や、石や木材とごくごく薄い紙とを組み合わせたオブジェなど、それはそれはのろごのみな作品がたんまりと。版の凹凸、しみの広がり、そして木目の自然な紋様といった作家の意図を離れた偶発性が、きっちりかっきりとバランスの良い長方形という限定された版面の中で遊ぶ、その恣意と偶発のせめぎ合いが心地よいったらございません。

ここまで見て来ましても、いやはや全然知らなかったけど色んなことしてた人なんだなあ、と今更ながら感じ入ったわけでございますが、平面・立体・半立体に加えてインスタレーションも手がけていらっしたようです。美術館一階中央の休憩スペース(トイレ前)と2階中央展示室を繋ぐ階段、ここは『日展』開催時以外は仕切りで閉鎖されているのが常でございますが、半円を描くこの趣き深い階段に、本展では氏のインスタレーション作品であるプリントされた紙袋たちが配置されておりました。単純な横線模様がプリントされているほかは何の変哲もない、茶色いクラフト紙製の紙袋たちは美術館の住人よろしく、年季の入った段の上やら、大理石製の手すりの上やら、柔らかな自然光が降り注ぐ窓の桟やらの上で、思い思いの方向を向いてたたずんでおります。意味やコンセプトがどうこういう以前に、こういうミニマルな作品に出会うと無性に嬉しくなってしまいます。

展示の後半は立体作品が多く、前半の「”もの感”のある版画」に比べるとまんま「もの」になりすぎていて、それほどのろごのみというわけでもございませんでした。作品のサイズが大きかったり、ものと重力との関係、という文字通りずっしりするテーマをあつかったものが多かったせいもありましょうけれど。
その中にもいいなあと思う作品はございまして。
SBBV4-Gravity and Descended というわりとわけわからんタイトルの立体でございます。こんなかんじの。



四角い木枠の内側に、斜めに紗(シルクスクリーンで使うやつ?)が張り渡され、その裏表から長さの違う真鍮の棒がソッ、ソッ、と寄りかかっております。木と紗と真鍮というアンバランスな素材感、それ自身の重みで柔らかに紗を押しやる真鍮の棒、その重みの確かさ、そしてその重みをやんわりと受け止める紗の柔軟な強さ、四角い囲いの中に描かれる斜めの動き、などなど、もうたまらないわけです。

まあそんなわけで
意味も哲学もコンセプトもなーんも考えずに鑑賞させていただき、井田氏にはちと申し訳ないようではございますが、とにもかくにも「あー面白かった」という感想とともに、久しぶりの京都市美術館を後にしたのでございました。

後日に近美で開催中の井田照一展にも行きました。本展と重複する作品も多かったものの、あちらはあちらでまた楽しめました。本展を逃したというかたはぜひ近美の方へおいでになるとよろしいかと。

大飯原発再稼働への反対署名

2012-06-10 | Weblog
以下、他ブログひつまぶしの日記さんからの転載。

chieko.h(脱原発に1票!即!) ‏@muybien_chiezo
@ikeda_kayoko 拡散お願いします!まだ間に合う! #再稼働 反対署名11000筆突破!感謝です!明日提出なのでギリギリ明日11日朝10時まで出来ると!目指せ2万筆!私たちの力で再稼働を止める!
緊急署名 大飯原発3・4号の再稼働を断念するよう求めます

『リスベート・ツヴェルガー絵本原画展』

2012-06-05 | 展覧会
美術館「えき」で開催中の「リスベート・ツヴェルガー絵本原画展」へ行って参りました。

ツヴェルガーは酒井駒子やビネッテ・シュレーダーと並んで、ワタクシが最も好きな現代絵本作家の一人でございます。
その画業の最初期から最新作までカバーする本展、冒頭に展示されているのは、何と5歳の頃のスケッチ、というか落書きでございます。余白には「女の子は魔法でリンゴに変えられてしまいました」というキャプションが、鉛筆書きのたどたどしい字で記されております。綴りを間違えて訂正されたらしい箇所もあり、なんとも微笑ましい。「幼い頃からラファエロのように描いた」のなんざピカソくらいなもんで、ツヴェルガー5歳の作品はいたって子どもらしい、つたない絵でございます。しかしそのファンタジックな題材やらシンプルで安定したフォルムやら全体のバランスやらに、すでに往年のツヴェルガーらしさを認めうると思うのは気のせいでございましょうか。まあ気のせいでしょうな。

5歳時の作品はさておき、本展では絵本作家としてのデヴュー以来、35年に渡って制作された数々の作品が時系列に沿って展示されておりますので、画風の変遷を明確に見て取ることができます。諸々の絵本原画展でもよく見かけるツヴェルガー作品ですが、こうした見方ができるのは回顧展ならではのことでございますね。
アーサー・ラッカムの絵に出会ってこの道を志したというだけあって、1977年のデヴュー作『ふしぎな子』には、植物の描き方や渋い色調にラッカムの影響が認められます。一方で線使いがややキーピングっぽくもあり、これは何となく70年代という時代を感じさせる所でございました。また後年の作風と比べると、手足が大きくデフォルメされ、輪郭線が強調されているなど、やや漫画的な表現となっております。

80年の『おやゆび姫』になると、明暗のコントラストが抑えられて画面全体をもの静かな雰囲気が包み、漫画的なデフォルメも目立たなくなり、そのぶん際立つのは画家の繊細かつ豊かな想像力とそれを支える確かな描写力でございます。
↑リンク先の絵は最上段真ん中のカエルの絵以外、全て本展で見ることができます。ごく自然に擬人化された野ネズミやもぐらやツバメの姿は、ひどくリアルで現実的な事物としての説得力がありながらも、幻想的で愛らしい魅力をもたたえております。
リアルな描写と幻想性と愛嬌、と言葉で並べるのは簡単でございますが、描写のリアルさは時に主題の幻想性を損なって、擬人化された動物を不気味なクリーチャーにしてしまいかねません。上記の形容のすべてを高水準で満たすのは、相当のセンスと力量を要することでございます。

『おやゆび姫』以降、ツヴェルガー独特のディテールの素晴らしさが際立ってまいります。ディテールといっても描き込みの細かさ、ということではございません。物語の本筋とは関わりのない、周辺部の描写ということでございます。
例えば、『おやゆび姫』では野ネズミのおばさんが防寒用に身につけている、マフラーと同じ柄のしっぽ袋や、おやゆび姫が履いているぶかぶかのスリッパ(野ネズミから借りているのでサイズが合わない)。『ぶたかい王子』(←クリックすると全ページ見ることができます)では、王子が豚飼いに変装するために引っ張りだした珍妙な帽子の数々や、急いで上履きをつっかけるにあたって小姓の背中を支えに活用する皇帝。『ちいさなヘーヴェルマン』では、疲れて眠るお月様の枕元に控えた、持ち主と同じ柄の衣装を着込んだ三日月人形
こうしたディテールは話の筋そのものとは関わりがないだけに、作家の自由な発想の見せ所でもあり、遊びどころでもあり、また世界観に奥行きを与えるという点で重要な+αでもあります。
(かつての宮崎駿作品ではこの「ディテール/遊びどころ」による奥行きの構築が素晴らしい威力を発揮していたものでございます。近年の作ではむしろディテールばかりに力が注がれ肝心の本筋がないがしろにされているような気がいたしますが。)

90年代に入りますと、それまでセピアがちだった色彩に鮮やかさが増してまいります。はっとするような鮮やかな色が使われながらも心地よいリズムが画面を覆い、全体としてはこの上なくシックでございます。ここにはこの色以外ありえまいというドンピシャな配色を、塗り直しのきかない透明水彩(おそらく)という素材で描いてしまうのですから、ワタクシにはまったく奇跡のように思われます。

またツヴェルガーは、よく知られたおとぎ話や寓話の本質的なところはそのままに、その上に現代の衣装を着せることがとても上手い人でございます。この話なら当然こういう絵が来るんだろうなー、という予想を鮮やかに裏切る、その発想の自由さが何とも小気味よい。読者としてはまさかイソップ寓話である「人間とサテュロス」の挿絵に、アイスクリームのようにおっとりとした白さの三つ揃えスーツを着込んだ紳士や、粋な青白ストライプの生地が張られた寝椅子が登場しようとは思わないわけでございます。ところがツヴェルガーの手にかかると、神話画や古代ギリシャの壷絵で見かける半人半ヤギの牧神が、スーツの紳士やストライプのソファといった全く現代的なモチーフの中に、何の違和感もなく馴染んでしまいます。『ノアの箱船』で豪雨の中をユニコーンとともに逃げまどうのはレインコートに雨傘を携えた人間たちであり、『聖書』のバベルの塔は四角いビルディングであり、東方三博士はスーツケースを携えてやってまいります。

イソップ寓話に聖書の物語、アンデルセン童話に「不思議の国のアリス」、どれもこれも先人たちによってさんざん手あかのつけられ、強固なイメージが作り上げられて来た題材でございます。バベルの塔といえばブリューゲルのあの絵、そしてアリスといえばテニエル、あるいはディズニー映画におけるあのエプロン姿のアリスを思い起こさない人はおりますまい。そうした強力かつ広く普及した先行イメージや、歴代のさまざまな解釈とその描写にみっしり取り囲まれた題材においても、なおこれだけ新しく、独自な表現が可能であるということに、ほとほと感心させられました。

そんなわけで
スケッチ類を含めて約150点という思った以上に多くの作品を見ることができ、展示の最後には絵本を手に取って読めるコーナーまで設けられておりまして、大満足でございました。
ワタクシがツヴェルガー作品の中で一番好きな『ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら』がなかったのだけが、ちと残念ではございましたけれど。