のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

よのなか

2011-05-26 | Weblog
テレビも邦画もめったに見ませんので、この方面でご活躍の方については甚だ疎い人間でございます。
山本太郎という俳優さんについても『母ちゃんごめん普通に生きられなくて』という実に身につまされるタイトルを冠した本の著者であることのほかは、ほとんど何も存じません。



カバーがいたってのろごのみであることは否定いたしません。

その山本さんですが、積極的に反原発の声を上げたために、ご本人が予想していたように「干され」つつある模様です。

山本太郎、出演予定のドラマ降板に 反原発発言が原因か ツイッターで大反響 - シネマトゥデイ

【オペレーションコドモタチ賛同者メッセージ】 山本 太郎 02


いきなり20倍という途方もない被曝限度基準値引き上げに対する批判も、子供たちのために一時的にせよ遠くへ避難することの呼びかけも、いたってまともなことのようにワタクシには思われるのですが、こういうことを言ったがために「お前には仕事やらん」とのたまうお偉いさんがいるとは、何とも馬鹿馬鹿しい世の中でございます。


『誕生!中国文明』展

2011-05-20 | 展覧会
琉球朝日放送 報道部 Qリポート 原発点検労働者の実態



それはさておき

奈良国立博物館で開催中の『誕生!中国文明』展にやっとこさ行ってまいりました。

トップ || 誕生!中国文明 特別展 The Birth of Chinese Civilization

いやあ、たいへん面白かった。期待以上に名品揃いでございました。
展示室に入るとすぐに、本展の目玉のひとつである夏時代の「動物紋装板」が迎えてくれます。かつては伝説扱いだった夏王朝、その遺物が「夏時代」のキャプションと共に堂々と展示されているのを見ますと、ここに至るまで研究・発掘の長い道のりを歩んできたであろう考古学者、歴史学者たちの情熱と努力を思わずにはいられません。

洛陽を擁する河南省を大フィーチャーした本展、古代の出土品が中心ではあるものの、唐宋時代のものもちらほら展示されております。また「古代」とひとくちに申しましても、2000年くらいのスパンがございます。同じ青銅器でも、時代が下るとセクシーな曲線を帯びてきたり、場所によっては非常に怪異な造形が見られたりと、ヴァリエーションはさまざまで、ひとつひとつが史的にも造形的にもたいへん興味深い。時代、用途、技法、それにモチーフも様々なものたちを一同に見ることができて大満足でございました。
また目玉品だけではなく全ての展示品に簡潔な解説文がつけられておりまして、照明もよく、会場の所々には解説ボランティアさんもいらっして(中国史の基本的な知識についていささか危うげな方もおいでではありましたが...)来場者に対してよく心配りをされた展覧会だったように思います。

中国美術といえば何と言っても高雅と洗練の北宋バンザイなワタクシではあり、本展にも青磁の素晴らしいのなどもございましたが、本展でとりわけ心に残ったのは洗練された美術品よりも、作られた当時の人々の生活や精神を伺わせる古代の出土品でございます。

例えば前漢の副葬品で、動物を解体する様子をかたどった陶製の小像がございます。サイズは20cm四方ぐらいで、まあいわばフィギュアというやつでございますね。蹄のある動物が仰向けで固定され、そこへ上半身は肌脱ぎ、下はカーゴパンツのようなものを履いた男性がかがみこんで、後ろ足の付け根あたりに顔を寄せております。キャプションによると「傷口から息を吹き込んで膨らませ、皮をはぎやすくしている」のだとか。
その足下には仕事をする主人を横目に、二匹の犬がくつろいでおります。尖り耳を後ろに倒した大きめの一匹は地面に伏せ、両前足で何かをしっかりと押さえて、頭を斜めにかたむけてそのご馳走にかじりついております。もう一匹の垂れ耳の子犬は首が痒いのか、横ざまに寝転びながら後足でうん、と空中を蹴りあげ、喉元を地面にこすりつけている所。
解体中の動物の、天に向かって野方図に伸ばされた四つ足と、大地にむかって神妙に垂れた仰向けの頭、男が片足を踏み出してかがみこみ、両手を添えてふうっと息をふきこむその姿勢、すっかりリラックスした様子でおこぼれにあずかる犬たち、そうした全ての造形が素朴ながらもアンリ・カルティエ=ブレッソンのスナップのように生き生きとしておりまして、この時代の中国に、庶民の様子をこんなにも瑞々しく表現した作品があったのかと驚くと共に、2千年余りも前に生きた無名氏(と、その犬)が妙に近しい存在に感じられたのでございました。

また生き生きしていると言えば、チラシやHPでも紹介されております楚の神獣像は強烈でございましたよ。セサミストリートのマペットのような顔をした、何だか分からない動物の頭や背に、これまた何だかわからない小さな生き物がわさわさ乗っかってうごめいております。背中の上で跳ねているやつはその口に龍?をくわえ、さらにその龍はウナギのように身をよじりながらでよーんと舌を出しており、さらには獣たちの顔は皆同じという果てしなく訳の分からない造形。力強く、呪術的な迫力に満ちる一方、四つ足を踏ん張った妙にお行儀のよいポーズや、顔の両脇の花や、笑っているような表情はちょっとユーモラスでございます。
こいつが柔らかなスポットライトの下に鎮座ましましておりますと、それはもう異様な存在感がございまして、しまいにはワタクシの方が見られているような心地になったのでございました。

とかく古代のものはロマンをかき立てますね。中に今も液体が入っているという商(殷)の蓋つき壺なんてもうそれだけでワクワクしますし、後漢時代にローマから伝わったガラス瓶は、その来歴だけでもう、ははーっと拝みたくなります。そうでなくとも玉虫色に輝く手の平サイズの小瓶はたまらなく美しかったのですが。

文字が刻まれた骨や金属器と宋代の石碑が一同に展示されたセクションでは、漢字がまだ若かった頃と成熟したのちの、しかも非常に洗練された姿とを見ることができます。
より象形文字だった頃の漢字を記したのは、3千年余りも前の世に生き、今では名を知る者とてない卜者か文官。一方、成熟した方を書いたのは、ずっと下って北宋の超有名人、司馬光でございます。下調べをほとんどせずに行ったので、こんな大物にお目にかかろうとは想像だにしておりませんでした。

奈良国博サイトの画像では石碑の全体を収めたために、刻まれた文字そのものが小さすぎて見えません(←画像を出す意味が皆無)けれども、九州国博の方では部分を拡大したものが見られます。
↓下から2番目。クリックしてください。二行目の「書司馬光」の文字もはっきり確認できます。

誕生!中国文明~九州国立博物館~

おおこれが『資治通鑑』を記した司馬温公の筆か、と思うと感慨ひとしお。一文字ごとにきっちり、きっちり、折り目正しく書かれた文字たちはそのままパソコンのフォントにできそうな、非の打ち所のない整いよう。解説パネルの言葉を借りるならば「端正で力強い隷書体の文字から司馬光の硬骨な人柄がしのばれる」という所でございます。
まあ硬骨と言えばそれはその通りなんですけれども、この人が頑ななまでに士大夫(既得権益)に利する旧法を擁護して、せっかく軌道に乗りはじめた新法(貧困層救済&経済立て直し策)をことごとく廃止するようなことをしていなければ、北宋の滅亡ももう少し先のことになっていたんじゃないかと...いや、どっちみち徽宗さんがあるだけ趣味につぎ込んだ上に蔡京に政治丸投げしてアウトか。そおですよね。

ともあれ。
あの青銅器やこの画像石やかの宝飾品について、それがどんなに素晴らしかったかを並べ立てたいのは山々ではございますが、もはや会期も末となってしまったことですし、くだくだ述べることはいたしますまい。あと9日を残すのみとなってしまいましたけれども、お時間のある方にはぜひともお運びんなることをお勧めします。

残念だったのは、来場者の中にほとんど若い人を見かけなかったこと。東京九州に比べて、奈良国博のチラシは仏像が前面に押し出された、かなりおとなしめの(あんまり面白くない)ものではございましたので、あまり若者にアピールする所がなかったのかもしれません。そう解釈しよう。



『パウル・クレー展』

2011-05-15 | 展覧会
当地では本日にて会期終了となってしまいましたが、せっかくなので『パウル・クレー展』の鑑賞レポをちょとだけ。何事もなければ、月末には東京に巡回します。
何事もなければ。なんて言っていられる事態ではないような気もしますけどね、もう今の時点で。

パウル・クレー展 おわらないアトリエ PAUL KLEE:Art in The Making 1883-1940

「おわらないアトリエ」のサブタイトルどおり、アトリエにおける画家のたゆまぬ試行錯誤の跡をたどる、ユニークにして意義深い展覧会でございました。
完成作品として世に出ているものだけでなく、それに先立つ素描や小品も並べられていたり、ある作品の構想段階の姿と、それを大胆にトリミングまたは分割した完成品とが一緒に展示されていたりと、完成作品を見ただけでは伺い知れない製作過程にスポットライトを当てているのが本展の何よりの目玉でございましょう。それによって、クレーがイメージを純化させ、あるいは展開し、時には別の主題へと転用していくさまや、その際の指向性------具体的・説明的になりすぎるのを避け、ひとつのモチーフに集中する傾向-----を見てとることができまして、たいへん勉強になりました。

もちろん勉強になるだけでなく、感覚的にも心地よい展覧会でありました。そこはクレーでございます。味わい深い素描に、絵の中から染み出るような色彩、一行詩のようなタイトル、イノセンス漂う綱渡り師や人形たち。

また会場内では「油彩転写」というクレー独自の製作手法を再現した映像が流れておりました。素描の線に現れた即興性をなるべく損なわないようにするためか、素描を参照しながら本作品を仕上げるのではなく、ほぼ同じサイズの他の紙に転写して、そのおおむね素描そのままの線の上に彩色して仕上げるという描き方でございまして、再現映像を見るとあの独特のけば立った線や、画面の所々に見られる黒いかすれがどのように生み出されたのかがよく分かります。

展示作品数が約170点と多く、またひとつひとつじっくり鑑賞するのが相応しい作品ばかりでございましたので、例によって閉館時間まぎわまで居座ったすえ、ショップで慌ただしくクリアファイルと文庫本カバーを購入して家路についたのでございました。



ああ、変な写真になった。photoshopでいじってみても駄目でした。やっぱり自然光じゃないとうまく撮れないや。




のらくら更新のお詫び

2011-05-12 | Weblog
胃痛でも朝からコーヒー飲んでしまう。

それはさておき

ここ最近、当ブログを以前よりも多くの方々が訪れてくださっているようで、その一方でさっぱり新しい記事をupできずにいることを大変申し訳なく思っております。すみません、ほんとに。
4月半ば頃から閲覧してくだすっている方は昨今ののらくら更新ぶりをいぶかしんでおいでかもしれませんが、すみません、これが当のろや通常のペースなのです。ウォルシンガム話のように時折、何かにとりつかれたように毎日更新することがありますけれども、基本的には一週間に一度更新するのがやっとのへなちょこブログですので、そのぐらいのペースでたまーに覗いていただけたらと思います。それでも更新されていない時もありますが汗。

モランディ展

2011-05-08 | 展覧会
今さらですが、モランディ展は結局全国的に中止になってしまったようですね。
それどころじゃない事態であるとはいえ、モランディファンの一人としては本当に残念です。
せめてもの慰めに職場PCの背景をモランディ作品のスライドショーにしてみたりして。

博物館・美術館・イベント情報サイト|インターネットミュージアム モランディ展 鳥取でも6月開催断念

ヨーロッパの中では地震の多い国であるイタリアは、87年に国民投票によって脱原発を選択した国でもあります。「資源に乏しいからって活断層の上に原発ぶっ建てる国なんかにモランディを貸せるか」と言われれば「そうですよね」とうなだれるしかないのが我々でございます。

今貸してもらえないとすると、将来に渡っても貸出ししてもらえる可能性は低いかもしれません。地震はいつでも起こり得ますし、原発は依然としてあっちこっちにあって、すぐにはなくなりそうにない(なくす方向にすら進んでいない)のですから。
残念です、本当に。

『トゥルー・グリット』

2011-05-01 | 映画
日常か。



それはさておき
『トゥルー・グリット』を観て参りました。
ワタクシ涙もろい方ではございますが
コーエン兄弟の映画で泣かされるとは思ってもみませんでした。

トゥルー・グリット


ご覧の通り西部劇でございます。しかし女の子が主役というのは何とも珍しい。
内容的にはわりと王道のエンターテイメントでございまして、ワクワク感と安心感とに引っぱられて、最後までたいへん面白く鑑賞いたしました。王道といっても暴力や死のごくドライな描き方、そして所々に漂う変なユーモアはまことにコーエン節でございまして、コーエンズが西部劇を撮るとこうなるよ、といういかにも感もファンには嬉しい所。

利発で頑固で度胸があって、やたら法律に詳しい14歳の少女マティ。「真の勇気」の持ち主と言われているものの、酒瓶を手放せない呑んだくれ保安官ルースター・コグバーン。この凸凹コンビ的な2人に、何かにつけて「俺たちテキサスレンジャーはなあ...」と切り出すいささかうっとうしいプライドの持ち主(しかもよく喋る)のラビーフという男が加わって,マティの父親を殺した犯人であるならず者チェイニーを追跡していくのでございます。

音楽や映像がいいのはもはや言わずもがなですが、本作で特筆したいのは、描き方は淡白でありながら奥行きを感じさせる人物造形でございます。
マティは大人顔負けの交渉術や度胸を見せるかと思えば、買った馬にさっそく名前をつけて友達のように話しかけたり、時には動揺がありありと顔に表れてしまったりと、子供と大人の中間にいる感じがよく表現されております。何と言っても、少女というステイタスを利用して周りに媚びるつもりが微塵もないのが実に清々しいですね。本作が映画デビューのヘイリー・スタインフェルドさん、評判通りの素晴らしい演技でした。今後のご活躍も楽しみです。

お互いを馬鹿にし合っているコグバーンとラビーフ、マティ視点で見るとどっちもいまいち頼りにならなさそうで、かつちょっと嫌な奴でもあるのですが、2人とも決める所はきちっと決めるというのがいいですね。じんわり可笑しく、じんわりカッコいいジェフ・ブリッジスも、口だけカッコマンかと思いきや終盤にぐんと男を上げるマット・デイモンも名演でございました。どうでもいいけどワタクシが映画の中で見るジェフ・ブリッジスってたいてい呑んだくれかドラッグ漬けだなあ。

一方マティたちに追跡される殺人犯チェイニー、「ならず者」なんて言うと何だか強そうですがこの男、悪漢というよりはケチなごろつきに過ぎず、颯爽とした所が全くない野郎でございます。よそでも法を犯して逃げ回ってはいるものの、当局からもお尋ね者連中からも、いっぱしの悪党とは見なされておりません。粗暴さと卑しさの入り交じる、そしてその卑しさゆえにどこか哀れでもあるチェイニーを、ジョシュ・ブローリンが小物くささ満点で演じております。『ノーカントリー』『ミルク』そして本作と、ワタクシの中ではブローリン=追いつめられるおっさんというイメージが定着してしまいそうです。でもこの人、『グーニーズ』のブランド兄ちゃんなんですよね。ああ、のろも歳をとるわけだ。
チェイニーと対照的に、悪党ながらも気骨とダンディズムを感じさせるのがバリー・ペッパー演じる無法者の頭目ラッキー・ネッド。登場するシーンはそう多くないのに、たいへん印象深い役どころでござました。

かくのごとく主役の3人はもちろん、ほんの少ししか登場しない脇役まで、登場人物の各々にしっかりした個性があり、しかも話が進むうちにはじめの印象とは少し違ったキャラクターをかいま見せるのでございます。そうした人物描写が、追跡→復讐→帰還というごくシンプルなストーリーに深みを与えておりました。

だからこそ、復讐行の果てに迎えたほろ苦いラストシークエンスで、人生という個別的なものの重み、と同時にそのかけがえのない個別的なものが大きな時間の流れの中に置かれた時の、どうしようもないちっぽけさが、胸に迫って来たのでございます。そのとてつもない重さとちっぽけさが、きびきびした足取りで去って行くマティの後ろ姿に刻まれているようで、次第に小さくなって行く彼女のシルエットを見ながら、思わず涙がこぼれたのでございました。