のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ハイチのこと

2010-01-28 | Weblog
大地震がハイチを襲ってから2週間が経ちました。
ユニセフ赤十字、ワールドビジョンなどを通じて募金されたかたも多いことと存じます。
充分にはほど遠いにしても、救援物資が被災者のもとに届き始めたというニュースも耳にいたします。

しかしハイチは西半球一とも言われる貧困国であり、米仏をはじめとする諸国に対する多額の債務を抱えています。
しかもその借金のおおもとが、単に経済政策の失敗ですとか不況のあおりというだけではなく、1820年代の独立時に、宗主国(つまり原住民の土地を占領して植民地を作り、アフリカから拉致して来た人々を奴隷として働かせて得たコーヒーと砂糖で大もうけした)フランスによって要求された莫大な「賠償金」だというのですから、驚きでございます。
これは言ってみれば、家に上がり込んで好き放題やっていた居直り強盗から「出て行ってやる代わりに賠償金を払え」と言われ、その支払いのために子々孫々にまで渡る借金を負ったようなものではございませんか。
賠償金それ自体は(約100年かかって)完済されましたが、その後も経済は停滞し、借金漬け状態で今に至っているということでございます。
今回の地震を受けて、債務帳消しを呼びかける声が債権国からも上がっておりますが、いまだ動きを見せない国もあります。その上、債務帳消しが実施されても、結局は将来に負担を残す、かたちばかりのものとなってしまう恐れもございます。
ハイチ救援策として実のある債権放棄の実施を各国に求めるため、国際NGO、Avaazから届いた署名呼びかけメールを、以下にご紹介いたします。

なお、ハイチ略史はこちらのブログさん↓が大変分かりやすくまとめておられます。
ハイチ雑感 - Tech Mom from Silicon Valley
ハイチ国民が独裁政権によって負わされた「不公正な債務」、および借金のスパイラルについてはこちら様↓の記事がたいへん勉強になりました。
震災被害者とブラック・ジャコバンたちに情熱と思いを寄せて~ハイチ大地震と債務帳消し:attacこうとう(準備会)


以下、Avaazからのメール(和訳文責:のろ)
-------------------

Dear friends,
ショッキングな事態です。地震で破壊されたハイチの社会に援助の手が差し伸べられる一方で、この国の資金が国外へと流出しているのです。ずっと昔に、破廉恥な政府や指導者らによって課された、10億ドルを超える不当な借金を返済するためです。

ハイチに対する債権の放棄を呼びかける声は世界中で高まっており、すでにいくつかの国が応じています。しかし、その他の裕福な債権国は、この提案を拒否すると噂されています。カナダでのG7の財務相・中央銀行総裁会議を来週に控えて、事態は逼迫しています。

悲劇に襲われたハイチの人々のため、全世界から、公正と慈愛、そして良識を求める声を上げようではありませんか。私たちAvaazは連携機関と共に、債権放棄を求める請願書を、上記会議に参加する首脳達に直接届けます。下のリンク先から、署名にご参加ください。そしてお友達にも参加を呼びかけてください。

DROP HAITI'S DEBT

(のろ注:署名のしかた、送られるメッセージなどは当記事の*****以下をご覧下さい)

地震の前でさえ、ハイチは世界の最貧国のひとつでした。奴隷たちの蜂起によって1804年に独立を勝ち取ったハイチに対して、フランスは巨額の賠償金を要求し、2世紀に渡って続く貧困と不当な借金のスパイラルをひき起しました。

近年、債権放棄を求める世界規模のキャンペーンが、この問題に対する世界の人々の注意を喚起しました。そしてこの数日、人々からのプレッシャーの高まりによって、ハイチのひどい負債を軽減しようという声が、指導者たちからも聞かれるようになりました。

しかし「悪魔は細部に宿る」とも言います。例えば2004年のインド洋大津波ののち、IMFは被害にあった国々の負債を軽減しました。しかし根本的な借金は手つかずのまま残されたため、ひとたび人々の関心が薄れるや、返済すべき金額は過去最大にまで膨れ上がったのです。

ハイチの負債を完全かつ無条件に解消し、復興支援を借款ではなく譲与によって行うことが保証されなければなりません。ここでの勝利は、世界の関心が薄れたのちも、ハイチ国民の生活の好転に役立つでしょう。

テレビやパソコンで被災地の映像を目にすると、暗い気持ちにならずにはいられません。ハイチと富裕国との関係の歴史も、決して明るいものではありませんでした。

けれども今このような時だからこそ、変革をもたらすことも可能です。ハイチ支援のため、世界中から寄付が集まっています。Avaazには10日間のあいだに100万ドルを超える義援金が寄せられました。ハイチの人々を自然災害に対して弱い立場に追いやったのは、人的災害です。この人災に取り組むため、世界市民として声を上げましょう。

私たちにできることは、決して充分なものとは言えません。それでも、せめてできるだけのことをしようではありませんか。

With hope,

Ben, Alice, Iain, Ricken, Sam, Milena, Paula, and the whole Avaaz team

*****

送られるメッセージ

各国財務相、IMF、世界銀行、米州開発銀行 、およびハイチに対する債権者の皆様へ
大災害からの復興のため、ハイチに対する10億ドルに上る債権の放棄、および、更なる負債に繋がる借款ではなく、譲与というかたちでの復興支援をお約束くださるようお願いいたします。

(以上)

リンク先画面右側に出ておりますピンク色のバーと数字が、現在署名に参加している人数です。のろがこの記事を書いている時点で、25万4324人が参加しています。

署名のしかた
水色のバーで出ております Sign the Petition 欄

以前にも署名したことがあるという方は一番上のAlready Avaaz member?の空欄にメールアドレスを入れてピンクのSEND:送信ボタンをクリックしてください。
初めての方はその下に、
Name:お名前
Email:メールアドレス
Cell/Mobile : 電話番号(必須ではありません)
Country:国籍(選択)
Postcode:郵便番号
を入力の上,右側のYour personal massage欄にあるピンク色の Send:送信ボタン をクリックすると参加できます。

入力したアドレスにはご署名ありがとうメールが届きます。
その後も署名を呼びかけるメールが随時届きます。
それはちょっと...という方は、送られて来たメール本文の一番下にある go here to unsubscribe.(青字)という所をクリックして、移動先の空欄にメールアドレスを入力→SENDをクリックすれば登録は抹消されます。

1月24日

2010-01-24 | KLAUS NOMI
音楽は家で聴く派でございますので、いわゆるMP3プレイヤーの類は持っておりません。
こんなのがあったら欲しいんだけどなあ。10個ぐらい。
ずらっとならべてTotal Eclipseを輪唱してもらうの。



というわけで
本日はクラウス・ノミの誕生日でございます。

さて、相も変わらず日々ノミサーチに余念のないのろ、先日ヤツの名前でブログ検索をしておりましたら、こんな論文にぶちあたりましたですよ。

Project MUSE - Women and Music: A Journal of Gender and Culture - "Do You Nomi?": Klaus Nomi and the Politics of (Non)identification

本文はこちら。
"Do You Nomi?": Klaus Nomi and the Politics of (Non)identification | Women & Music | Find Articles at BNET

「クラウス・ノミと(脱)同一化の政治学」。
早速読んでみますというと、以下のような内容でございました。

まずは導入。
ノミが同時代の人々を魅了した要素というのは、ひとつには、本来なら全く異質な世界に属しているもの同士を組み合わせたようなその容貌(ステージ上でもプライベートでも)、ひとつには幅広い声域とオペラからシンセポップまで及ぶレパートリー、そしてもうひとつには、彼が既存のアイデンティティモデルに依らない、自由な自己像を創造したという点で、このことは今もファンの心を惹き付けてやまない、しかしここにはもっと複雑な問題がからんでいる、と。

そして「アイデンティティ」という広義に使われる言葉を、ここで論じられる文脈に沿って「個々人が、既存のある社会的グループに所属していると認めうるような、文化的帰属感覚」(例えば、そのグループの成員と似たような恰好をする等の行動を伴う)と定義する。価値観を共有するグループに身を置くという点で、アイデンティティとは優れて社会的・政治的な観点を含む上、ちょうど言語がその使い手の思考や行動様式を規定するのと同様に、アイデンティティはそれをまとう人物を規定し、ある型に押し込める側面を持っていると論じる。
ここで再びノミ登場。ヤツがいかにあらゆるアイデンティフィケーションから逸脱した存在であったかを、同時代人の証言を引きつつ論考したのち、思想家ジュディス・バトラーによる以下の言葉を引用。
If we are not recognizable, if there are no norms of recognition by which we are recognizable, then it is not possible to persist in one's own being, and we are not possible beings; we have been foreclosed from possibility.
「それが何者であるかを認識/承認できないようなもの、つまり、それによって認識/承認されうるような名詞(のろ注:例えば犬、鳥、人間、男性、女性...等)を持たないものが存在を継続することは不可能だ。存在とは可能性ではなく、可能性からの阻害なのだから」という訳にでもなりましょうか、こなれない日本語で恐縮でございますけれども。

続いて、ノミのようにラディカルに既存のアイデンティティを拒否する存在は、つまる所、他者からの承認を得られず、阻害される運命にあるのではないかと述べる。
結論としては、既存のアイデンティティモデルに組み入れられるのは窮屈だが、かといってノミのように徹底的にアイデンティフィケーションを拒むことは、即ち他者からの承認を望めない、社会的に阻害された存在となることであり、いずれ立ち行かなくなる生き方である、そこで我々が取りうる道は、脱同一化、即ち既存のアイデンティティを新たなものへと作り替えていくことである。

...といった論旨。
うむ、そうですね。そうはそうではございますが。
脱アイデンティティを論じるのに、ノミというモデルはあまりに極端ではございませんか。極端だからこそ彼を選んだのかもしれませんけれど。
それから、映画『ノミ・ソング』の美的な終幕に即して、ヤツの早すぎる、しかも悲惨な死は、アイデンティフィケーションを拒む者に下される間化と社会的阻害の象徴のようだ、という述べるくだりは、論文としてはあまりにも情緒的なおっしゃりようでございます。たとえ象徴的に見えたとしても、ヤツが「歌う変異体クラウス・ノミ」というキャラクターに託して社会的同一化を拒否したことと、謎の流行病だったエイズによって早逝したことの間には、何の因果関係もございません。

思うにノミの早すぎた死について、ファンが取りうる観点とはおおむね以下の2つに大別されましょう。
a.もっと生きていたらもっといろんなことをできただろうに、不慮の死によってその可能性が断たれてしまった。
b.あまりにも不器用なその生き方ゆえ、居場所のないこの世からそっと退場していくより仕方がなかった。
のろは前者なんでございますが、この論者は後者の観点をとりつつ、人をある型に押し込めるアイデンティフィケーションへの対抗者としてのノミを論じていらっしゃるのであり、その意図の誠実であることには疑いの余地がございません。
また、人が他者を認識するにあたって性識別は重要な要素であり、人は常に他の人間を「女性である人間」あるいは「男性である人間」として認識しようとするため、ステージ上でもプライベートでも性的に曖昧な存在だったノミに対して、人々が「そもそもあれは人間なのか」といういささか突飛な疑いを抱いたのも無理からぬことである、と論じたくだりはなかなかに興味深いものでございました。

何より、ヤツのことを真面目に、しかも好意的関心を持って論じてくださるというのは、まことに嬉しいことではございませんか。
ここ数年、ファッション界ではノミにインスパイアされた作品が毎年のように発表されておりますし、巷で話題のレディ・ガガさんをはじめ、音楽界にも、ヤツからの影響を公言しているアーティストが登場しております。
単なる時代のあだ花、一発屋の奇形的人物としてではなく、リスペクトに値するアーティストとしてヤツの名が語られるのは、全くもって正当なことと申せましょう。もっともレディ・ガガについては、ノミファンからの「形だけ真似てもダメなんだよ!」というお叱りの声を耳にしないではございませんが。のろは彼女についてはあまり存じませんので、何とも申せませんけれども、彼女のおかげでクラウス・ノミというの名のメディア露出度が上がったという点だけでも、たいへんありがたいことと思っております。

そんなわけでノミ、
あなたが聴いていようといまいと、今日は世界のあちこちで、あなたのためにハッピーバースデーが歌われることだろうよ。

お誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。


ノミにインスパイアされた作品
2006年の記事↓(ジバンシーなど有名ファッションブランドへの影響が言及されています)
Alien Status - New York Times

2009年春↓
Runway Review: Jean Paul Gaultier Couture Spring 2009 : Glam Damn It New York

00010m.jpg (image)

2009年秋冬↓
+JOE: GARETH PUGH / KLAUS NOMI

Men’s Fashion | The Ghost of Klaus Nomi - T Magazine Blog - NYTimes.com

↑の Gareth Pughとノミの関連についての記事↓(2010年)
Gareth Pugh Spring 2010 Ready-to-Wear Collection

2010年春↓
IS MENTAL: Do You Nomi?

2009日展2

2010-01-22 | 展覧会
1/20の続きでございます。

村山春菜さん「郷」
(↓こちらで見られます)
日展 - 主な作品 日本画
このかたの作品も-----画像が無かったので言葉だけでのご紹介になりましたが-----前回の日展レポで少し触れさせていただきました。このときはたしか初入選であったと思いますが、今回は「特選」の札とともに堂々と第一室に展示されておりました。

白がちの大画面にうねりながら伸び上がるビル群。ぐいぐいと引かれた線が形作るその動的なフォルムは、鑑賞者をぐっと引き付ける、いや引っ張り込むと言いたいほどの不敵なエネルギーに満ちております。青・黄色の配置や中央を大きく開けた構図に手錬れ感を光らせつつも、かたちと色彩の自由さゆえでございましょうか、子供の絵が持つ問答無用な雰囲気も漂っております。
ビルや高架といったなんて事のない都市風景をこんな風に料理してしまう感性と力量はまことに素晴らしく、今後のご活躍も大いに期待したい所でございます。

日本画をもうひとつ。
JR札幌駅の出入口を描いた上田とも子さんの「旅への入口」(残念ながら画像は見つけられませんでした)は暖かく落ち着いた色使いとてらいのない風景描写が印象的な作品でございました。画面の中ほどにはデイパックの若者や家族連れなど旅姿の人々が描かれ、その奥の、改札口があるであろう方向は、人々の期待を呼び寄せるかのように、オレンジ色に明るんでおります。ガラスや金属のとぅるっとした輝きの表現や、柱や標識やエスカレーターによって形成される、縦横斜めに画面を交錯する線のバランスも心地いい。とりわけ感傷をかきたてる風景ではございませんし、ごく都会的な直線や光沢といった冷たい印象のものものが画面を占めてしているにもかかわらず、何となく心温まる絵でございました。

単に好みの問題かとは存じますが、日展の洋画部門にはあんまり期待しないのがワタクシの常となっております。しかし今回はぐっとくる作品が、ひとつと言わずございました。
わけてもぐぐっと来たのが
岡田猛さん「生命」
(↓こちらで見られます)
日展 - 主な作品 洋画
画面のそこかしこに配されたシダや蝶や鷺のシルエットは、生物の造形性、その力強く均整の取れた美に、改めて眼を開かせてくれます。そうした強靭なシルエットと重なり合いながら描かれた女性は、片手を胸に当て、何か思いがけないものに出会ったかのような表情で立ち尽くしております。自らの心臓の音、生命の流れる音に驚いているのか。人間もその一端を担っているはずの、生命の連環に思いを馳せているのか。どくどくと、みしみしと、内側から脈打っているような、心をざわつかせる作品でございました。

そんなわけで洋画部門で思いがけず時間をくい、工芸部門をえいやっとひとおおり駆けぬけて、書道はもとよりすっとばし、彫刻部門へとたどり着いたのがもはや閉館30分前。ううむ、やっぱりきちんと鑑賞しようと思ったら最低4時間は見積もらねばいかんかと後悔することしきりでございました。
悔しいほどの駆け足鑑賞の中で印象に残ったものをだだっと挙げさせていただきますと。
(以下の作品は全て↓で見られます)
日展 - 主な作品 彫刻
欠けたる美にサモトラケのニケを連想させる、野間口泉さんの「アプサラII」
アルカイックな微笑みを浮かべた楠元香代子さんの「サラスヴァティー(弁財天)」
生身の人間のような繊細な肌合いを見せる勝野眞言さんの「江」
そして前回のろに大変強い印象を残した片山康之さんは「夜ノ化身」と題された、謎めいた詩のような作品を出品しておられました。
型通りの、と申してはなんですが型通りの裸婦像たちがずらりと並んで、あるいは誇らしげに胸を反らせ、あるいは足を一歩踏み出して、均整のとれたぴちぴちの肢体を誇示している中、空豆のように身を丸めてひとり瞑想しながら宙を漂う「夜ノ化身」の内省的な表現は、今回も異彩を放っておりました。
黒い胴体部分は継ぎ目のない一木で作られており、むき出しの枝々によって支えられたその姿はそのまま、痛ましくもその身に枝を突き立てられた姿でもございます。樹木がその身の内に、一年ごとに繰り返す激しい寒暖の痕跡として年輪を秘めているように、この人間とも精霊ともつかぬ像は、丸めた黒い身体の内に、諸々の痛みと忍従に根ざした語り得ぬものものを秘めているようでございました。

かくして、日展観に行くときはお昼には美術館に入っておかねばならぬなあと悔やみつつ、なんか前も同じとこで同じことを考えてたよなあと軽いデジャヴュを覚えつつ、閉館アナウンスに追われて展示室を後にしたのでございました。




2009日展1

2010-01-20 | 展覧会
うかうか、という言葉は語感も意味合いもなかなか面白い言葉でございます。
「うっかり」ほど突発的ではなく、かといって「だらだら」ほど意識的でもなく、一定期間に渡って視界の中にあり、何とな~く、ああ、あそこにあれがあるな、あるな、と思っているくせに何故か放置してしまう、微妙な状態を表現するのにもってこいでございます。しかも放置している期間中のいささかのんびりとした状況認識と、いつの間にか事ここに至ってしまったという切迫感とが一度に表現できる、まことに便利な言葉でございます。
小学館の「日本国語大辞典」によると漢字表記は「浮浮」なのだそうで。送り仮名がありませんとむしろ「うきうき」と読んでしまいそうな。「うかうかしているうちに終わってしまった」と申しますと大層ながっかり感でございますが、「うきうきしているうちに終わってしまった」ですと、何やらとても楽しそうではございませんか。

というわけで

うかうかしているうちに京都での日展が終わってしまいました。
京都在住の皆様には大いに今さらな話ではございますが、せっかくなので印象に残った作品についてふたことみこと述べさせていただきたく。

まずは去年の日展レポートでも取り上げました古澤洋子さんの「地球に棲む貌」。
(↓こちらで見られます)
日展(日本美術展覧会) - 主な作品

そびえ立つ岩山。その表面にへばりつくように建ち並ぶ家々。山頂にたたずむ古城は一国を治める領主のような遠い威厳を持って、眼下にひしめく家並みを見下ろし、空には巨大な赤月が黙として空に浮かんでおります。抑えた色調でひとつひとつ描かれた家並みの上を、薄い絵具の層がたなびく霧のように覆い、下に行くにつれて激しい筆致となってごうごうと街の上を流れて行きます。
身を寄せ合う家々の境さえ定かに見えなくしてしまうこの流れの下では、建物よりもむしろ、そこかしこにはためく小さな洗濯物の方が碓とした存在として描かれております。容赦なく過ぎ行く時の流れの中でも、そこに人がいるかぎり続いて行くであろう素朴な日々の営み、その永続性を表すかのように。
厳然とした空の赤月と、激しい流れの中に垣間見える小さな小さな洗濯物たちは、見かけ上は対照的でございます。しかしちっぽけな、それでもきっぱりと描かれた窓辺のはためきは、人の営みという永続性の一端を担うものとして、月の向こうを張って振られる小さな旗のようにも思われるのでございました。

時は流れない。それは積み重なる。と言ったのはウイスキーのCMでございましたが、流れる時と積み重なる時、その双方が共に表現されている、そんな作品でございました。


ううむ結局長くなってしまうなあ。
次回に続きます。


今年の年賀状

2010-01-10 | Weblog
あろうことか
年を間違えました。



刷って初めて気がついたとは。
つまりデザインの段階でも彫りの段階でもこの誤りに気付かなかったということでございまして、自らの馬鹿さ加減にはそこそこ慣れているつもりのワタクシをもってしても、これはなかなかに新鮮な驚きでございました。

彫りなおす気力はもちろん無いので、但し書きを付けてこのまま出しました。



宛名を書く面に紙を重ね貼りしている所。
たくさん並ぶといっそ愉快でございます。

青春18きっぷの旅・冬編2

2010-01-07 | 展覧会
というわけで、日ごろの行いにもかかわらず、無事に戻ってまいりました。
ドン・キホーテはどうにか前編を読み終えました。
↓は1/3の写真でございます。


1.金沢駅。冷たい風にみぞれという荒れた空模様でございましたが、大きなガラスドームが演出する開放的で温かみのある空間は心地よく、「いらっしゃいませ」とワタクシを迎え入れてくれるかのようでございました。京都駅ビルもこんなふうになれば.....よかったのですが...。
2.21世紀美術館。中央に見えるのはかのレアンドロのプール
3.ウサギイス。

17:00に美術館を出てデパ地下で職場へのお土産を買い、東横インへ。いったいのろは東横インが大好きでございます。朝食付きシングル4000円台、お部屋はきれいでネットも使えて、これ以上何を望めましょうか。うむ、ラジオがあればもっといいですね。

翌日は気持ちよく晴れました。
県立美術館の開館まで時間があるので、金沢城公園をぶらぶらすることに。



4.石垣はいいもんです。特にかどがよろしい。
5.これは何かの使い回しでは。
6.こずえの上でカラスが「あっはっはっはっは」と陽気に鳴いておりました。ちなみにワタクシが実家にいた頃、近所には「ばかっ、ばかっ」と鳴くカラスがおりました。
7.枝から落ちる水滴で雪上にクレーターができております。蒸しパンみたいですね。
8.同じ足跡がひとつ所にいくつも重なっております。朝方、ここで誰かが雪景色の写真を撮っていたに違いございません。
9.石垣と雪釣り。とりあえずこれだけあれば金沢って感じがするではございませんか。



10.石垣の様子から察するに、お堀の水は通常よりだいぶ少なくなっているようでございます。石垣の上に貼り出した出窓のような所がございますね。ここから、石やら何やらを落として敵を撃退するのだそうです。
11.隙間にきっちり詰め込まれた小石がいじらしい。
12.軒下の漆喰が波うっておりますね。どういう意味があるんでしょう。
13.お堀は昨日からの雪をたっぷり吸い込んで、半凍りの状態。石垣をぼんやりと映し込むマットで均一な水面が、何とも趣き深い。と思っていたら向こうからやって来た観光客とおぼしき方が、磨りガラスのような水面に雪玉を ぼっちゃん と投げ入れて見事なまでに不粋な大穴を開けてくださいました。
14.杭の上にはひとつずつ雪見大福が乗っかっております。

日も高くなった所で石川県立美術館へ。平成に入ってから描かれた日本画を集めた展覧会遠き道展---伝えたい日本画の今---を年初から開催中でございます。
花鳥画の典雅なイメージを受け継ぎつつ新しい表現を試みたものや、「日本画」というジャンルに捕らわれないテーマや表現方法で力強い画面を構築したもの、具象とは完全に決別したものから決別しかけているものなどなど、いろいろございました。日展でお見かけした作品も多うございましたが、改めて見ると、多様なテーマと表現に今更ながら新鮮な思いを抱いたものでございます。
とりわけ印象深かったのは宮いつきさんの作品でございまして、構成力といい色彩感覚といい、独特のノスタルジックな作風といい、この方は当代の天才であろうと、のろは思っております次第。

また常設展では、やりすぎ感がたまらない古九谷の皆さんや、もう10年も前になりますが、日展でのろに衝撃を与えた中町力さんの『Lex Avenue』(氏の作品は企画展の方にも展示されています)、そして鴨居玲の『1982 私』などの作品に再会できまして、ああ新年早々、よいものを見させていただいたものよと感慨を深めつつ美術館を後にしたのでございました。

かくて晴天のもと、てくてくと金沢蓄音器館への道をたどり、40分ほど行った所でどうやら道を間違えたことに気付き、そこからまたてくてくと戻って2:00前に到着いたしますと、ちょうどうまい具合に蓄音機の聴き比べ実演に滑り込むことができました。
蝋管レコードのでこぼこした音や、和紙製のラッパから発せられる包み込むような音色、発売当時は家二軒分のお値段であったという、タンスのような蓄音機が奏でる迫力の『トッカータとフーガ』と、色々楽しませていただきました。

お隣の菓子文化館にも蓄音機の展示があるということでございましたが、今回は時間がございませんので駅へ直行、15:29の鈍行に飛び乗り、21:00ごろ帰京いたしました。



15.21世紀美術館のミュージアムショップで購入した活字スタンプキット。箱にタイプライターの絵があしらってあるのは、タイプライターの字体を模した活字デザインだからでございます。活字をはめるレーンが上下二段ございますので、二行スタンプを作ることができます。こいつの存在をモチベーションに、また何か作れればと思っております。
16.蓄音機館で購入した鉛筆削り。ハンドルを回すとレコードが回転くるくる回転いたします。この楽しい仕掛けで鉛筆も削れるのかといとそういうわけではなく、穴に挿し込んだ鉛筆をぐりぐり回して削る、鉛筆削りとしてはごく素朴なタイプでございます。他所でも入手できる品ではございますが、蓄音機館で買ったということに意義があるのです。
いえ、言い訳はよしましょう。こういう小物に弱いのです、はい。

そんなこんなの金沢行でございました。



青春18きっぷの旅・冬編1

2010-01-03 | 展覧会
『ドン・キホーテ』全編を携えて金沢へやってまいりました。
文庫本6冊持ち歩くってどこの馬鹿だと思うことは思ったのでございますが、途中で読むものがなくなってはと大事をとって。目下のペースですと前編も読み終わりそうにありませんけどね、ええ。
というわけで、今東横イン香林坊のパソコンからこの記事を打っております。

JR湖西線に乗りごとごと揺られる道行き、しばらくは車窓右手に広がる琵琶湖が旅の友でございました。滋賀県下を進む間は、湖の上にはからりと晴れ渡る空、陽はさんさんと降り注ぎいかにも冬の一好日といった趣でございましたが、北へ北へと進むにつれ雲が厚くなり、地表は白くなり、車外は雪国の様相を呈してまいりました。そのうち空はすっかり蓋をされたようになって、寒々とした冬枯れの木立の上に雪がちらつきはじめたのでございます。ほんの2時間ほど移動しただけで、同じ日の同じ国土とは思えないほどの変貌をみせた車窓の風景に、いやぁ日本ってオモシロイのうとつくづく思った次第でございます。

昼過ぎにしぐれる金沢駅に降り立ち、さっそく21世紀美術館で開催中↓のオラファー・エリアソン展へ。
http://www.google.com/search?hl=ja&num=20&q=21世紀美術館&lr=&aq=0r&oq=21せ

知覚に訴えかける作品で、色々と遊ばせていただきました。部屋いっぱいの霧や虹色の光彩に包まれて、しまいにはちょっとくらくらいたしましたけれど。
明日は石川県立美術館と金沢蓄音機館を覗いて岐路に着く予定でございます。