のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『富本憲吉展』

2006-08-29 | 展覧会
『富本憲吉展』へ行ってまいりました。

富本憲吉氏といいますと、のろの頭に思い浮かぶのは
かの、「伝統」と「モダン」の雰囲気を併せ持った
赤地に金銀彩の羊歯文様 ↓ でございます。




と 申しますか
これぐらいしか思い浮かばなかったのでございますがね。
あとは「京都近美の常設展に、いつも出てるよなあ」とか。


というわけで
のろは本展にて初めて、氏の多彩な創作活動について知ったのでございます。
木版画に 掛け軸に 本の装丁も手がけておられた上に
磁器の分野においても、白磁に 色絵に 金銀彩 と
ジャンルも手法もさまざまな活動をなさっておいででした。
本展では、バラエティに富んだ氏の作品約200点を鑑賞できます。

器の形と調和するように、富本氏オリジナルの花弁文様が配された壷や
小九谷を連想させる、華麗な彩色の飾り箱の魅力もさることながら
のろの心に残ったのは、白磁 でございました。

絵付けが全く施されていない、本当にまっさらな白磁でございます。
模様や彩色が無いぶん、かたちの美しさが立ち現れております。
また、その肌合いの美しいこと。
もちろん手に取ってみることはかなわぬのでございますが、
見るからに ひんやり しっとり と手に馴染む、すべらかな触感が想像されます。

ちょっと普段使いしたくなるような、気取らない美しさ。
そこに惹かれてでしょうか、平日にしてはなかなかお客さんの入りがよろしうございましたよ。

↓ かつてはかなりの がっかりもの だった京都近美のHPも、最近はなかなかの充実を見せております。
会場内の様子も見られますので、どうぞ訪れてみてくださいまし。

京都国立近代美術館 The National Museum of Modern Art Kyoto

そもそも

2006-08-25 | 忌日
ああ 神様! 心を入れ替えるには どうしたらよいのでしょうか?

神様:「心を入れ替えなさい」


ああ 神様! やる気を出すにはどうしたらよいのでしょうか?

神様:「やる気を出しなさい」



うーむ
神様って頼りにならないなあ。




はい。

本日は
フリードリヒ・ニーチェの命日でございました。

『三つの個展』

2006-08-23 | 展覧会
何ですと。
米タワレコ が倒産ですと。
これ即ち、あの タワレコ様 が無くなってしまうということでございますか?

のろが クラウス・ノミやガレージシャンソンショーやノー・スモーキング・オーケストラやザッハトルテのCD、および
ヘルツォークのビデオや『SUPER8』、そして おお、『ノミ・ソング』のDVDを買い求めたあの タワレコ、
他の店には無くてもここならきっとあるという期待をいつも裏切らなかったあの タワレコ が
無くなってしまうと?

いやいや、日本国内タワレコはすでに米本社からは独立していて、経営に問題はないとのこと。
いやはや。
ほっ。

それはさておき。

ご報告が遅くなってしまいましたが、

『三つの個展 伊藤 存 今村 源 須田 悦弘』(国立国際美術館 ~9/18)に行ってまいりました。

NMAO:国立国際美術館

ひとつのテーマに基づいた展示、というわけではございまでんで
個性も表現手段も異なる、3人の若手アーティストの作品を一堂に集めた展覧会でございます。

断片的なイメージの重なり合う大画面の刺繍とアニメーションで
独特の世界を展開する、伊藤 存氏。
炊飯器やTVといった日用品をベースに、控えめで時にミニマルでありながら
ユーモアの漂う作品を制作する、今村 源氏。
スーパーリアルな木彫で、身近な植物の繊細かつ堅牢な美を表現する、須田 悦弘氏。

こう申しますと、てんでバラバラな印象をお持ちんなるかもしれませんが
美術館HPや本展のチラシの紹介文にもありますように
三者の間には緩やかなつながりと申しますか、共通した雰囲気が感じられます。

有機的な造形
浮遊感
静謐さ
あるいは、物語性を感じる方もいらっしゃるかと思います。
共通項が何であるかは、鑑賞者のアンテナがどんなものにより強く感応するかに依っておりましょうね。

のろのアンテナにひっかかりましたのは、途上にある感でございます。

生成から消滅に至る、あるいは、ある状態から別の状態へと移行する
今まさに、その途上にあるような感じでございます。

伊藤氏の画面に散らばるイメージ-----木のこずえ、草むら、魚、山なみ、動物の足跡、などなど-----、
それ自体ではとりわけ何を象徴するでもないパーツたちは
断片化され、互いに重なり合い、不思議な色彩感覚で展開されることで
それぞれが、語られない物語の一部分のような雰囲気を帯びて現れます。
私達には知らされない、おのおのの「今まで」と「これから」の狭間で
ふと邂逅したかのように。

今村氏の作品は、無機的なものから有機物が生成しつつある現場をとらえたかのようであり、
もともとの機能から解放されて別のものになりつつある、日用品たちの胎動の場面のようでもあります。

朽ちかけた葉や虫食いの痕までも緻密に表現され
しばしば、高所から はらり と落ちかかった姿勢で展示される須田氏の作品は
すでに死へと向かっている、あるいはこれから生の盛りへと向かう
進行形の生の途上にある植物たちのポートレイトです。

こんなわけで
のろには、いわば「途上/移行中」感がとりわけ心に残ったのでございますが
これは、のろが未だ「おおこれからどうして生きてゆこう、何処へ向かっているのだろう」
などと考えているせいやもしれません。

どんな感想をお持ちになるかは鑑賞者しだいでございますが
広い展示室に散らばる作品たちは、全体にさわやかな印象でございまして
処暑にはぴったりの展覧会でございますよ。
同チケットで入場できる『金子潤展』とコレクション展もよろしうございました。
(のろの好きなモランディもドナルド・ジャッドおりますし)
9/18まででございます、ぜひお運びくださいまし。






                                                                                                                                                                                                                                                                    


美術館めぐり

2006-08-21 | 展覧会
青春18きっぷのシーズンでございます。
と いうわけで、のろ恒例の美術館めぐりに行ってまいりました。
今回足を運んだのは4カ所。

・千葉市美術館 「イギリスの美しい本」展
・ジョン・レノン・ミュージアム (埼玉)「ジョン・レノンに見えていた世界~イマジン」展
・静岡県立美術館 「時代を超える個性」展
・岐阜県美術館 「ルドンとその時代」展



お許しください、まとまったレポートは無しでございます。

J・レノン・ミュージアム以外はもはや会期末、ということもございますし
精神はともかく身体はいつも元気なのろ、
この度ばかりはもろもろの要因が重なって、体調が万全ではございませんでしたので
残念ながら常よりも散漫な鑑賞となってしまいました。
よって、いつにも増して散漫なレポートになってしまうことを恐れます。

しかし印象深いものは色々とございましたので
おいおい、美術ばなしの中で触れさせていただきたいと思います。

代わりにと申してはナンでございますが
旅先で出会ったものをご報告。

1:すいかパン

千葉みなと駅前のパン屋さんで遭遇したものでございます。
「かぼちゃパン」と「ももパン」の間に並んでいる、さわやかな若草色のパン。
値札の横の一文を読んで、のろはおののきました。

「すいか味のパンに、チョコチップを練り込みました」

すいか味のパン。

おお、何考えてるんだ千葉!
なかなかやるではございませんか。これを買わねば、のろがすたるというものです。
ブツはこれでございます。↓


うををををこの赤さ。何もここまでしなくても。(うっとり)
しかしまあ、お味の方はよろしうございました。のろの味覚ですから、あまりあてにはなりませんが。
発売に至るまで、おそらくあまたの試作品を経たものと想像されます。
開発班にはアッパレの言葉をお贈りしたい。

2:とび出しひき出し

豊橋のビジネスホテルで遭遇いたしました。

なんだか


みたいな語感ですが、そんな便利なものではございませんで
これです。↓


これで、閉まった状態なのですよ。
どーーーーー見ても、とび出ているのでございますがね。しかも、両方とも。
あっても無くてもいいような、いやむしろ無い方がよかろうというほどの小さなひき出し、
しかしなお、閉められている時でさえ「ここにいます」と主張するいじましさ。
なんとも健気ではございませんか。
邪魔だけど。

3:みんなのうた『これってホメことば?』

いや まあ 単に
旅先で初めて見た、というだけなんでございますがね、普段はラジオ生活なので。

アナウンスルーム

NHKの梅津アナウンサーが
「なにげに上手い」や「フツーにおいしい」は、果たして褒め言葉なのか?!
と、熱く歌っております。

よいぞ、よいぞ、NHK。(水鏡先生風に)

ここ数年、残念な不祥事が取りざたされておりますが
せめて発信するものにおいては、放送界の良心であり続けてくれよ、NHK。

♪ これってホメことば~? これってホメことば~? ♪




布団セールス

2006-08-19 | Weblog
ええ
本日 旅先から帰ってまいりまして
明日から仕事だし、早めに夕食を済ませてゆっくりしよう
と 台所に立ったとき
ピンポ~ンとやって来たのが布団のセールスマン。
それから4時間にわたって
彼はワタクシの部屋で、くたびれたワタクシに向かって
彼の会社の布団がいかに素晴らしいかを
とくとくと語ってくださり
とうとうのろのサインの入った契約書を
カバンにつめて、たった今帰って行かれました。

電話をかけることが非常に苦手なのろではございますが
気持ちがくじけないうちに
明日さっそくクーリング・オフの措置を取らせていただく所存です。

というわけで
本日は旅のご報告をUPしようと思っていたのですが
今はもう綿のごとく疲れきっておりますので
後日にさせてくださいませ。

エルヴィス忌

2006-08-16 | 映画
本日は
エルヴィス・プレスリーの命日でございます。

と いうわけで、『エルヴィス・オン・ステージ』を観てまいりました。
と 申しましても、のろは別にプレスリーファンではございませんで
それどころか彼については全く一般的な知識しか持っておりませんし、曲も超有名どころしか知らないというありさま。
しかしのろの敬愛するクラウス・ノミ氏は、プレスリーが大好きでございましたから
ノミファンののろといたしましては、こっちも押さえとかにゃならんなと思った次第でございます。


松竹映画館ドットコム:エルヴィス・オン・ステージ/スペシャル・エディション

映画はオフステージでのセッションシーンから始まります。
スリムな身体にネオンサインのような色彩のいかしたシャツを着込んだエルヴィス氏、
しかし首には白タオル。
曲にノリすぎてこけたり、撮影クルーに冗談をとばしたり。
「スター」としてのプレスリーをあまり知らないのろには、
「めちゃめちゃ音楽好きの、お茶目なあんちゃん」に見えました。

しかしひとたびステージに立つと、そこにいるのはもはや「あんちゃん」ではなく
キング・オブ・ロックンロール、泣く子も黙る大スターのエルヴィス・プレスリーなのでございます。

重ねて申しますが、のろは別にプレスリーファンではございません。
あのモミアゲは何としても剃った方がいいと思いますし
CDは1枚も持っておりませんし
ついでに申せば、お顔もちっとも好みではございません。

しかしねえ親分、
カッ  コようございましたよ!

全身から発するカリスマ性とでも申しましょうか、
まさに「ワン&オンリー」なオーラで、きらっ きらと輝いているのでございますよ。
昨今あまりにも安売りされている「カリスマ」という言葉は
本来こういうレベルの人にのみ捧げられるべきでございましょうね。



はいはい。

小ネタも面白うございましたよ。
控え室にいる時、鼻をほじりかけて「やば、撮影中だった」と、危うい所で手を下ろしたり
ステージで「これは僕が子供の頃、初めて弾いたギターです」と言って取り出したのが
全長20センチぐらいの、どう見ても弾けそうにないおもちゃのエレキギターだったり。

ライブコンサートの映像ですから、一曲終わるごとに、スクリーンの中の客席から
大きな歓声と拍手がわき起こります。
印象的だったのは、スクリーンの外の客席、つまり映画館の客席からも、しばしば拍手や手拍子が挙がったのでございます。
おそらくはファンのかたがたであろうと思われますが
そうでなくとも、熱いノリノリ曲オン・パレードで
じっとしているのが勿体ないようでございました。
のろも足踏みくらいはさせていただきましたよ、隣席に人がいないのをいいことに。

最後のナンバー、「好きにならずにいられない」Can't Help Falling In Love の熱唱のあと
短いエンドロールが流れ、それも尽きた時
客席全体から、つつましいながらもやさしい感情のこもった拍手が、自然にわき起こったのでございました。



ええ、ところで
これより数日間お出かけをいたしますので
コメント等およせいただいたても返事が遅くなるやもしれませぬ。
悪しからずご了承くださいませ。

『ヨコハマメリー』

2006-08-14 | 映画
まさかこのヒネクレのろがねえ
『マイ・ウェイ』を聴いて涙することがあろうとは、思いもいたしませんでしたよ。
人生賛歌を馬鹿にする気はございませんが、流布しつくし消費されつくしたこの歌を
斜に構えずに聴くことは、のろにはちと難しいのでございます。

しかし、自身の死を目前にひかえた、シャンソン歌手の永登元次郎(ながと がんじろう)氏が
「ハマのメリーさん」のために歌う『マイ・ウェイ』は
初めて聴いた曲のように新鮮で、深い感動をもってのろの心を打ったのでございますよ。

やがて私も この世を去るのだろう  長い年月 私は幸せに
この旅路を 今日まで越えてきた  いつも 私のやりかたで

こころ残りも 少しはあるけれど  人間(ひと)が しなければならないことならば
できる限りの 力を出してきた  いつも 私のやり方で

あなたも見てきた 私がしたことを  嵐もおそれず ひたすら歩いた
いつでも 私のやり方で

人を愛して 悩んだこともある  若い頃には はげしい恋もした
だけど私は 一度もしていない  ただ ひきょうなまねだけは

人間はみないつかは この世を去るだろう  誰でも 自由な心で暮らそう
私は 私の道を行く
  (岩谷 時子 訳)


『ヨコハマメリー』は戦後50年間、何者にも属することなく
フリーの娼婦という生き方を貫いた女性、「メリーさん」を巡るドキュメンタリーでございます。

ヨコハマメリー公式サイト TOP

歌舞伎役者のように顔を真っ白に塗り、真っ白なドレスに身を包んで
横浜は伊勢佐木町の街角に「立ち」続け、横浜の風景の一部になっていたメリーさんは、1995年のある日忽然と姿を消します。

メリーさんはどこへ行ったのか?
そもそも、メリーさんとは誰だったのか?

映画はメリーさんと関わった人たちーーー彼女を支えた人、彼女とケンカした人、
彼女を拒否しなければならなかった人、彼女をモデルに創作した人、などなどーーーの証言で綴られて行きます。

実を申せば、観る前には若干の不安がございました。
のろは横浜の街を知りませんし
証言の中で主に語られる「戦後の混乱期」も、その後の高度経済成長の時代も経験しておりません。
舞台となっている土地も時代も知らないのろが、監督の「地元・横浜への親しみがこもった作品」(紹介文より)を観ても
共感も理解もできないのではなかろうかと。
他人様のノスタルジーをスクリーン越しにチラと覗き見する程度の体験にしかならないのではないかと。

それでも劇場に足を運んだのは、全財産の入ったカバンひとつをたずさえ、住む場所も持たない身でありながら
プライド高く義理堅く、「ほどこし」は決して受けなかったという
メリーさんの生き様を見たかったからでございます。

結論を申しますと、観る前の不安は全くの杞憂でございました。
素晴らしい作品でございました。
本作は 戦後・横浜 という、ある街のある時代の記録であると共に
何よりも、自分の生を精一杯生きた人間の記録なのであって
人の営みや人情の機微に含まれる 悲しさ、温かさ、不思議さ は、場所も時も選ばない普遍的なものでございます。
その営みが、どんな特殊な道筋を辿ろうとも。

自分について語ることがほとんど無かったメリーさん。
証言をかき集めても、彼女の多くの部分は謎のままに残されております。
しかと分かったことは、彼女が高いプライドを常に保ち続けていたこと、美しいものを愛する人であったこと、
そして、あるアメリカ人将校を愛し、彼の思い出を大事に持ち続けていたこと。

おそらくは米国へと帰って行くその将校とメリーさんの別れの場面を、
舞踏家の大野慶人氏(大野一雄氏の息子さん)が回想しておられました。
船と波止場の間に色とりどりの紙テープが渡され、船がいよいよ出ようという時
「きんきらさん」ーーー大野氏はメリーさんをこう呼んでおられますーーーが
息せき切って駈けて来て、去り行く将校と抱き合い、口づけを交わしたと。
まるで映画のワンシーンのようだったと。

全身を白く塗り込めてパフォーマンスをする大野氏は
演じる際に身体を白く塗るのは「自分」を消すためだ、とおっしゃっております。
真っ白いドレスをまとい、地肌が見えないほど真っ白くおしろいを塗り重ね、
本名も年齢も明かさず街角に立ち続けたメリーさん。
彼女は、横浜伊勢佐木町という舞台の上で、”街の女・メリーさん”というパフォーマンスを演じ続けていたのでしょうか。

映画のいちばんおしまいに、横浜から身を退いて故郷の養老院で暮らす
メリーさんの姿が、スクリーンに現れます。
末期がんに冒された身である親友、永登元次郎氏の歌声に
うなずきながら耳を傾ける、”メリーさん”をやめたメリーさんは
ハッとするほど美しいおばあさんでございました。

あの、きれいというよりむしろグロテスクな白塗りの仮面で
いったい何を隠していたのですか、メリーさん?

やがて私も この世を去るのだろう  長い年月 私は幸せに
この旅路を 今日まで越えてきた  いつも 私のやりかたで
あなたも見てきた 私がしたことを  嵐もおそれず ひたすら歩いた
いつでも 私のやり方で・・・

メリーさんの生が幸せなものであったのかどうか、のろには分かりません。
むしろ辛いことの方が多かったのではないかと思われるのです。

けれども
緩慢に生き、生きたという感覚も無いまま死んで行きそうなのろにとって
「自分を演じ続けた人」の生涯は
傷ましくも強烈に輝いて見えるのでございますよ。

ううむ
いつもながら、はなはだまとまりの無い文章になってしまいました。
この作品の魅力をよりよくお伝えする能力を持たないことが口惜しうございます。
思い入れが深くなるのと比例して、感想が書きづらくなってしまうのでございますよ。
そういえば『グッドナイト&グッドラック』も『ホテル・ルワンダ』も『アマデウス ディレクターズカット』もご紹介せずじまい・・・
言い訳でございました。
失礼。


昨日まで普通に暮らしていた

2006-08-09 | Weblog
あなたの家に、こんな通達が来たらどうします?

「即刻立ち退きなさい。この町をもうすぐ爆撃します。残っている人には、命の保証はありません」

そして実際、着の身着のまま避難しなければならないとしたら。

あなたのお気に入りの服も
あなたの大切な本も
なつかしい思い出の品も、何も持たずに。

毎日水をやらなきゃいけない鉢植えも
大事なデータが入ったパソコンも
長年あなたと連れ添った家具も
全て「もうすぐ爆撃される」家に残して。

ご承知の通り、今まさにこうした境遇に
レバノンとガザ地区の人々は置かれています。
残念ながら私達には、今すぐイスラエルとヒズボラの間に割って入って
”ツマラナイカラヤメロト云フ”ことはできないのですが
できることが全く無いというわけでもありません。

先日のろ宅に、日本UNHCR協会から中東危機レバノン緊急支援のお願いが届きました。
それによると、7月末時点で約70万人の市民が避難を強いられているとのこと。
また、攻撃が始まる前からレバノンにいた、イラクやスーダンからの難民も保護を必要としており
今回の緊急援助活動のため、今後3ヶ月で約21億7000万円の資金を要するとのこと。

募金というのは、した時もしなかった時も
何やら後ろめたい気持ちになるものですが
どうせなら「して、後ろめたい」方を選ぼうではありませんか。
世の中の全ての募金活動に応じていたら、多分生活していけませんし(そうでなくても薄給だし)
家計に響かない範囲でお金だけ出す、というのは偽善的かもしれない。
それでもやっぱり、何も行動しないよりは
した方がいいんです。

UNHCR Japan - News

右上の「ご寄付の受付」から、各種難民支援活動への寄付ができます。
郵便局やコンビニからも送金できます。
レバノン危機への寄付は、指定先「緊急1」です。


ヤツの死んだ日。

2006-08-06 | KLAUS NOMI
本日は
このひとの命日ですよ。


このひと とはすなわち、このひとのことであって



すなわち、このひとのことであって


うーむ資生堂の広告みたいですね、

すなわち、このひとのことですよ。



そうですとも。
本日は
クラウス・ノミの命日なのですよ。

1983年8月6日
エイズによる合併症で、
逝っちまいやがりましたよ。
遺体は本人の希望どうり火葬に付され
N.Yの街に撒かれたのだそうです。

医療関係者を除いては
おそらくヤツと最後に言葉を交わした人物、友人ジョーイ・アリアスの証言を以下にご紹介します。

*注 当時エイズは治療法はおろか感染源さえも分からない謎の病気で、病院も手のほどこしようがありませんでした。
   患者は隔離病棟に入れられ、面会者はマスクや防護服を身につけねばならず、患者に触れることは禁じられました。


(病状が進むにつれ)、彼はモンスターのような容貌になっていった。
目は紫の裂け目にしか見えなかったし、体中に斑点ができて、完全に消耗しきっていた。
8月5日の夜、彼は言った。
「ジョーイ、僕どうしたらいいんだろう?病院はもう、僕を置いておきたくないみたいだ。
すっかり見放されてしまったんだ。こんなこと、もう止めなきゃいけない。僕はもう、良くはならないんだから」
僕はクラウスが回復して、また歌えるようになるんじゃないかと夢見てた。
容貌は崩れてしまっていたから、幕か何かに隠れて歌わなきゃならないけれども。
「君は”オペラ座の怪人”ってことになるね」僕は言った。「また一緒にショーをしようよ」
「うん、そうだね」彼は笑って答えた。
このアイディアは彼の気に入って、その時は本当に具合がよくなったように見えた。
これが金曜の夜のこと。
僕は次の日の朝また彼を見舞うつもりだったけれど、病院から電話がかかって来た。
クラウスがその夜のうちに死んだ、という連絡だった。


Klaus Nomi -- from ATTITUDE
Klaus Nomi, biographie romance

私のことを忘れないで 
私のことを忘れないで
だけど ああ 私の運命は忘れて

2ndアルバム 『シンプル・マン』所収『DEATH』より。

ヤツのことを書いた記事などをネットであさっておりますと(エエ何とでもおっしゃいまし)
「このひと本当に宇宙人だったのではなかろうか、
実は自分の星に帰って行っただけで、今もどこかで歌っているんではなかろうか」
といったコメントをちらほらお見うけします。

のろもそう思いたいなあ。
でもね、もう、いないんですよ、このひと。



こんなにかわいいのにね。

『ローズ・イン・タイドランド』2

2006-08-04 | 映画
8/2の続きでございます。
『ローズ・イン・タイドランド』上映中の京都みなみ会館では
本作の公開を記念して、先日オールナイト上映会が催されました。
題してアリス&ザ・ワンダーランド Night
ギリアム監督の『ラスベガスをやっつけろ』に始まり、チェコの巨匠シュヴァンクマイエルの『アリス』、
英国発のクレイアニメーション『親指トムの奇妙な冒険』、そしてトリは再びギリアムの大傑作、『未来世紀ブラジル』というラインナップ。
4本中3本はすでに観た作品でございましたが、大変楽しそうなので行ってみました。
大変楽しうございました。
夜通しシュールレアルな世界にさらされた脳味噌に、『未来世紀ブラジル』のラストシーンが
じんまりとしみ込んで参りまして、ああ気分はすっかりサム・ラウリー。
↓これは来場者全員にプレゼントされた『ローズ・・・』のシールでございます。



かわいらしうございますね。使う機会は一生無かろうとは思いますが。

さて、本題でございます。
チラシや公式サイトには、主人公ジェライザ・ローズが「パワフルな想像力で運命をたくましく切り拓いていく」と書かれておりますが
これ、ちと違うのではないか?と、のろは思いました。

弱冠10歳のジェライザ・ローズにとって、運命はいまだ「切り拓く」ものではなく
いやおうなしに与えられるもの、あるいはその中に彼女自身が投げ込まれるものです。
そして与えられた過酷な運命/状況をいかに最小ストレスで受け入れるかが、彼女の腕の見せ所なのです。
無力な者に残された最後の兵器、ファンタジーを縦横無尽にふるう彼女のたくましさとは
言ってみれば、現実に働きかけて運命を切り拓いていくだけの力を持たない、無力な者であるが故のたくましさでございます。
否むしろ、それはたくましさと言うよりも、タフなしなやかさなのです。

ここでひとつ申し添えておかねばならないことは
本作は決して、「つらい時でも想像力さえあれば大丈夫」ということをうたった楽天的な物語ではない、ということです。
そういう話もいいものではございますが、本作においては、ファンタジーの限界や
ファンタジーに固執することの悲劇性も描かれております。

ジェライザ・ローズが草原で出会う黒ずくめの女、デル。
動物の剥製づくりをこととする彼女は、まさしく剥製のごとく硬直したファンタジーの中に生きています。

デルは常に高圧的で、時に魔女のように恐ろしく、と同時に哀れな人物です。
デルの弟、精神年齢10歳の青年ディキンズとジェライザ・ローズは、力を持たないが故に
現実という大地とファンタジーという大海の間の干潟ーーータイドランドーーーで、大地と海を行きつ戻りつ遊びます。
対して、彼らほど無力ではないデルは現実という大地の上にファンタジーの砦をがっちりと築き上げ、その中で生きています。
砦に他者が侵入することは絶対に許されず
その禁が破られたと感じた時、彼女は怒り狂います。

「愛するものが、永遠に自分の側にいる」という、彼女にとっては神聖なファンタジーを
現実化し、かつ、かたくなに守ろうとしたことが、彼女の悲劇でございます。
彼女のかたくなで激しい態度が、ディキンズが切り札的に持っていた魅惑的なファンタジー即ち「世界の終わり」を
思わぬかたちで現実化してしまうのです。

♪ しなれば折れない ゆずってばかりじゃ勝てない・・・♪

映画の冒頭、ジェライザ・ローズは、自分に捧げられたこの歌を口ずさみながら登場します。
(彼女のパパはロックミュージシャンなのです、一応)

しなって しなって 生き延びる、ジェライザ・ローズ。
しかし、ファンタジーを手段にして現実と折り合いをつける、という点においては
彼女とデルの間に、何ら違いは無いのです。
タフでしなやかな妄想で現実を泳ぎきるジェライザ・ローズと
堅牢な妄想の砦にこもって現実に対抗するデルは
実はボタンをひとつかけ違えただけの、一卵性の姉妹なのでございます。


「ローズ・イン・タイドランド』1

2006-08-02 | 映画
テリー・ギリアム監督最新作「ローズ・イン・タイドランド』を観て参りました。
ギリアム節と申しましょうか、現実とファンタジーの交錯する世界が展開されておりました。

ローズ・イン・タイドランド




現実とファンタジーの交錯といえば、近年ヒットした
ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』も思い出されるところでございますが
『ビッグ・フィッシュ』において、ファンタジーが平凡な日常生活を美しくいろどるための手段だったのに対し
ギリアム作品の登場人物たちにとっては、ファンタジーとは
堪え難い現実をなんとか生き抜くための、必死の対抗手段なのでございます。

彼らはーーーサラリーマンにしろ、大学教授にしろ、ジャーナリストにしろーーーファンタジーで武装して
ままならぬ現実と戦い、あるいは現実から身を守るのです。
わたくしたちが、子供の頃にそうしたように。

そして本作は、まさにそうしたファンタジーの大家である、「子供」が主人公でございます。

上映が始まってものの15分と経たないうちに
主人公の少女ジェライザ・ローズは、とんとん拍子に孤児となり、頼れる人はおろか食料すら無く、
大草原の真ん中の荒れた一軒家にたった1人取り残されます。
彼女の境遇は、はたから観るとかなり悲惨です。
しかし彼女は素晴らしい想像力/妄想力を発揮して
その絶望的な現実の中を、唯一の友たるバービー人形(の、頭)を片手に軽々と泳いで行きます。

オソロシイことに、彼女以外の登場人物ーーー大人たちーーーも全員、
おのおののファンタジーにどっ ぷりと浸かって生きております。
それぞれのファンタジーがぶつかり合い、交錯した時
事態がとても良い方向へとスパークすることもあれば
急転直下に悪い方向へと転がり落ちて行くこともあり。

「潮時」や「歯止め」というものを知らなかった子供に頃に、しばしば体験したあの感覚
楽しかったはずのものが、次の瞬間には恐ろしいものに変わる
というあの感じがしっかり描かれております。

一方、かわいらしい少女が主人公とはいえ
アルプスの少女ハイジや少女パレアナ的な、「純真無垢で健気な少女」という幻想は、ここにはみじんもございません。
まあ、テリー・ギリアムにそれを期待する人もいないこってしょうが。
(↑ハイジ等お好きな人はごめんなさいね。きっと貴方は良い人間なのですよ。のろはヒネクレ者の悪人でございまして、こういうのダメなんでございます。)

げにも、いまだ善悪の彼岸の住民である子供に於いては
純真 は 残酷 と同義でございます。
子供の世界には
嘘も、秘密も、打算も、悪意も、無邪気さと矛盾することなく存在しております。
それと共に、あまたの暗いファンタジーの住人たちもまた、ビビッドに存在しているのでございます。
魔女、死神、吸血鬼、幽霊、巨大サメ、殺人虫、おそろしい陰謀、そして世界の終わり。

この、清濁併せ持つ残酷な純真と
しなやかな妄想力があるかぎり、どんなに意地悪な現実も
ジェライザ・ローズに手出しはできないのでございます。

続きは次回。

『美のかけはし』展

2006-08-01 | 展覧会
さあさあ急いで!
今週中に、京都国立博物館へ行かねばなりませんよ!
俵屋宗達『風神雷神図屏風』の展示は8月6日までなのですから!

いえ ね。
京都国立博物館開館110周年記念展 『美のかけはしーーー名品が語る京博の歴史』 へ行って来たのでございますよ。

京都国立博物館

「おぉっと 貴方とは、いつぞや教科書でお会いしましたね?」
と話しかけたくなる超有名作品が、複数展示されております。

美的観点のみならず、歴史的観点からも
興味深いものがいろいろございましたよ。

「木曾義仲による法住寺殿焼き討ちの際に討ち死にした、院側の有力武将のものと思われる」武具ですとか。
(出土品。典雅な装飾が施された馬具や兜のくわがたに、戦が一種の「晴れ舞台」であった時代がしのばれます。)

織田信長が今川義元から奪って、以降愛蔵した剣ですとか。
(柄に差し込まれる部分の表裏に、きっちり義元と信長の名前が彫られております。)

後陽成天皇が豊臣秀吉の朝鮮出兵を諌めた手紙ですとか。
(幅広い紙に余白を大きく取って、ひらり ひらり と流麗な字が散らばっており、政治的な内容の手紙にはとうてい見えないのでございます。キャプションが無かったなら、歌の一節でも書いてあるものかと、のろは思ったことでしょう。論理的に攻めるのではなく、行間/余白に書き手の心情を込めた手紙と言えましょうか。)

坂本龍馬が親族に宛てた手紙ーーー結婚前のおりょうに触れているーーーですとか。
(字がやたらと隣の行に重なっております。坂本さん、もうちっと行間をあけるなり字を小さめに書くなりしては如何か。)

しかし。
それもこれも、第4室「魅せる」セクションに入ったとたんに
のろの頭から吹き飛んでしまいました。

展示室にぶらぶら歩み入り、ふと左方に目をやると
あったのです、いたのです、そこに
『風神雷神図屏風』が。

ぎ ょ っ としました。

本でもテレビでも切手でもチラシでもさんざん見かけている作品でございますから
今更驚かなくってもよさそうなものだ、とお思いかもしれませんが
何度でも申しましょう、
オリジナルとコピーとは 全 く 別 の も の でございます。

風神雷神が画面の左右から、風を巻いて ぐわっ とたち現れ
何も描かれていない金箔の背景は、画面の奥へと無限に広がって行き
同時にその無限性が圧倒的な存在感となって観る者に迫ってまいります。

「絶妙の構図」「無限を表現している」「永遠と刹那の邂逅」「宗達一世一代の傑作」

おお!
いかなる言葉も、この作品の迫力を表現するには遠く及ばないのでございますよ。
遠く遠く及ばないのでございますよ。

あたりまえのことを申しますが
作品の価値は、教科書で学ぶだけではダメでございます。
オリジナルを目の当たりにして、その迫力にじかに触れてこそ
その素晴らしさも分かろうというもの。

ここで京博HPより、本展のコンセプトに触れた一文を引用させていただきます。

昨今、誌上を賑わしているように、博物館のおかれている状況は決して易しいものではありません。そういう時だからこそ、本展が博物館の役割について再確認し、多くの方にご理解いただく機会となることを希望してやみません。また、過去から未来への「かけはし」でありたいと願い続ける京都国立博物館の歩みを通じ、皆さまの心の中に奥深い美の世界への「かけはし」をつなげることができましたら幸いです。


経営難の博物館/美術館には、収蔵品の売却や閉館という運命が待っております。
極端な話ーーーものすごっく極端な話ではございますがーーー、もしも『風神雷神図屏風』が売却され
二度とわたくし達の目に触れることのない個人コレクションに収まってしまったとしたら。
あるいは、良好な保存状態を保つことができなくなって
あの華麗な画面が黒ずみや剥落に見舞われたとしたら。
それは未来の人々にとって大きな損失であり、即ち、今に生きるわたくし達が未来に対して犯す大きな罪なのです。

皆様、博物館に、美術館に、行こうではありませんか。
わたくし達が支払うささやかな金額と、作品を前にして育んだ美への感性は
歴史と美を未来へと橋渡す、「かけはし」となるのですから。