のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『グッバイ・レーニン!』

2009-09-29 | 映画

を鑑賞いたしました。
おや、『ルナ・パパ』のチュルパン・ハマートヴァちゃんが出ているではございませんか。かわいいなあ。

お話の始まりはまだ壁があった頃の東ベルリン。主人公は平凡な青年アレックス。共産主義を信奉するお母さんが心臓発作で倒れ、昏睡状態の間に壁は崩壊、東西ドイツは統一。あれよあれよという間に資本主義が流入して社会が180度変わった所でお母さんが昏睡から目覚める、「少しのショックも命取り」の状態で...。やれどうする、アレックス。そこで彼はお母さんをショックから守るため、手を尽くして世の中が変わっていないふりをするのでございます。

家族愛ものと思って敬遠していたのろが阿呆でございました。面白いこと、面白いこと。その上、予想していたよりも深い話でございました。
街の風景から店頭に並ぶ商品まで社会が急速に変化して行く様子はコミカルに描かれておりますが、その流れから取り残された人々の嘆きやとまどいがチラリと挿入され、ビターな味わいを添えております。何より、今は無き東ドイツをお母さんの周りにだけ復活させようと友人隣人を巻き込んで奔走するアレックスの姿が、可笑しくて、優しくて、ほろ苦い。

アレックスは若者なだけに、激変した社会にもすんなりと適応しているように見えます。しかしなんちゃって東ドイツを作り上げる過程で、思いがけない現実やお母さんの長年の秘密に突き当たるんでございますね。その度にちょっとぐらつきながらも、こつこつと2つの日常-----統一ドイツに生きる自分の日常と、「東ドイツ」に生きる母の日常-----を築いて行く、その作業はお母さんのためであると同時に、アレックス自身が思い描いていたことと、それをいろいろな方向に裏切る現実との間に折り合いをつけて行く過程のようでもあります。

Good Bye, Lenin! - Trailer


アレックスが重ねる涙ぐましい努力には、そこまでやるかと思いつつもエールを送ってしまいます。中でも傑作なのは友人デニスと一緒に作る嘘ニュース番組でございます。実際のニュース映像と自前の嘘映像をうまいことモンタージュして作ったまことしやかな東独ニュースは、うまさとうさん臭さが入り交じって絶妙な可笑しさ。内容が単なる模擬東独ニュースから、アレックスが思い描いた理想の国のニュースへと次第にシフトして行くのも面白い。

ロバート・カーライルのドイツ版みたいな風貌のデニス、こいつがまたなかなかいいキャラでございましてね。生粋の映画マニアで、創作意欲を刺激されたのかノリノリで協力してくれるんでございます。西側出身の彼はしたたかでお気楽でノリがよく、真面目で少々もっさりとしたアレックスとは実にいいコンビでございます。
こう並べてみますと、二人の性格は東独と西独という互いの出身を戯画的に表現しているのかもしれません。東のアレックスが西のデニスと協力して「理想の国」を作り上げていくというのもなかなかに象徴的ではございませんか。

嘘番組を見せてまで真実を隠そうとするのは、やっぱりちょっと首を傾げざるを得ないことでございます。それはみんな分かっている。分かっているし反発もするけれど、大真面目なアレックスに付き合ってあげるんでございますね。隣人も、友人も、恋人も、そしておそらく、お母さん自身も。ある人は嘘をつくことに後ろめたさを抱き、ある人はかつて自分が暮らしていた東独という場所にノスタルジーを感じながら。
そういう可笑しいような哀しいような、甘苦い優しさに貫かれた作品でございました。


『神に選ばれし無敵の男』

2009-09-25 | 映画
最近伝記を読んだからでございましょうか、カルロス・クライバーとチャットしている夢を見ました。
残念ながら会話の内容はひとつも覚えておりません。
ニューイヤーコンサートのCDを買った時の夢では握手までして貰ったんだけどなあ。

それはさておき。


を鑑賞いたしました。

時は1932年、ポーランドの片田舎で鍛冶屋を営むユダヤ人青年ジシェは、その怪力を認められてベルリンに上京し「無敵の男ジークフリート」の名で力自慢の興行をすることに。興行主であるハヌッセン(ティム・ロス)は物事を見通し未来を予知する「千里眼の男」を標榜し、ナチスが新設するオカルト省への就任を目前に控えております。興行は大好評を博するものの、自らの出自を偽ることにいたたまれなくなったジシェは舞台上で自分がユダヤ人であることを明かし.....というお話。

神に選ばれし無敵の男 予告


往年のヘルツォーク映画とは趣を異にする、という評判を聞いていたので、何となく見るのが怖くて鑑賞を伸ばし伸ばしにしていた作品。観てみれば何の何の、佳作でございました。確かに南米を舞台にした2作品に見られた暑苦しいまでの迫力は影を潜めておりますが、その代わりに『カスパー・ハウザーの謎』や『ヴォイツェク』の殺害シーンのような不思議な透明感が全編を満たしておりました。その透明感のおかげか、舞台はナチスが政権につく1年前のドイツで主人公は実在したユダヤ人という重たい歴史的背景があるにもかかわらず、寓話のような趣きに仕上がっておりました。

運命を意のままに操るかに見えたハヌッセン。
虚ろな栄光の果てにようやく自分の使命を見いだしたジシェ。
聡明で清らかな彼の弟ベンジャミン。
やがて時代の渦に呑み込まれ消えて行くこの3人のうち、もっとも無力なのはジシェであったと言えるかもしれません。
と申しますのもハヌッセンのハッタリもベンジャミンの聡明さも持たないジシェは、時代がユダヤ人に課する恐ろしい運命をただ1人確かに予感していながら、それを人々に伝える言葉を知らないからでございます。この無力さ故に「無敵の男」は同胞である素朴な村人たちの素朴な疑いによって滅びて行くのでございます。
ホロコーストの予兆を感じつつも警告する術を持たないジシェの恐れと焦燥は、真っ赤な蟹の大群の夢で表現されております。線路上にわらわら群がる蟹、遠くからどんどん近づいて来る列車。その静かな悪夢が孕む無関心と破滅のイメージは強烈でございました。
このイメージを説得力ある言葉に変換できないジシェのもどかしさは、歴史がこれからどういう道筋を辿るか知っている、しかもそれに対して何もできはしない鑑賞者のもどかしさと重なります。



ジシェを演じるのはフィンランド人のヨウコ・アホラ、”World's Strongest Man Competition"(世界最強の男コンテスト)の優勝者で、つまりは本当の力持ちでございます。演技経験のない彼の朴訥な笑顔や立ち居振る舞いは、いかにも一癖ありそうなティム・ロス演じるハヌッセンと対照的で、田舎出の素朴な青年役にぴったりでございました。


『死刑執行人もまた死す』

2009-09-19 | 映画
ここの所レンタルDVDをよく見ております。
せっかくなので短めの鑑賞レポートを。



舞台はナチスドイツ占領下のプラハ。「死刑執行人」の異名で恐れられる冷酷な司令官ハイドリヒはある時狙撃され、命を落とします。犯人が見つかるまで毎日一定数の市民を殺して行く、という卑劣なやり口で犯人を探すゲシュタポ。自分のせいで市民が殺されることに苦悩する暗殺者。父をゲシュタポに連行された娘。プラハ市民ながら、ゲシュタポのスパイとしてレジスタンスに潜り込む男。そしてプラハ市民たちは?------というお話。

いやあ、こんなにサスペンスフルな作品だったとは。フリッツ・ラングが1943年に撮った反ナチプロパガンダ映画なのでございますが、娯楽映画としてもたいそう完成度の高い作品でござました。
前半は暗殺者をめぐるゲシュタポの苛烈かつ陰湿な捜索活動と、暗殺者をかくまった一家を中心としたプラハ市民たちの動揺と団結を息詰まる緊張感で描きます。後半は一転、レジスタンスらが、ゲシュタポのスパイをハイドリヒ暗殺者として陥れる策動が、畳みかけるようなテンポで展開してまいります。
ほんの小さなことからも情報をたぐりよせ、じわじわと包囲網を狭めて来るゲシュタポの恐ろしいこと。
単純に見るならば、ナチスは悪党に、プラハ市民はみな英雄的に描かれていると申せましょう。少し英雄的すぎるくらいに。見せしめ処刑のために捕えられた教授が幼い息子に宛てた「私のことは父としてではなく、自由のために戦った闘士として思い出せ」という言葉や、仲間の合唱に見送られながら処刑場へ赴く青年の晴れやかな表情には胸を打たれます。
しかしその一方で、これは監督が意図したことなのかどうか分かりませんけれども、市民やレジスタンスの行動の側にも何やらうそ寒い怖さがございました。父の助命のためゲシュタポに協力しようとした娘を市民が取り囲む場面や、後半に市井の人々が結束して裏切者を陥れて行く過程では、ある理念のために結束した群衆の不気味さも感じないではなかったのでございます。

一人でもゲシュタポのやり口に屈したら国全体が敗北したことになる。それは分かる、分かるけれども、屈しないことの引き換えに無辜の市民が日々処刑されて行くのはいいのだろうか。監督としてはシンプルに「非道なナチに対抗し自由のために戦った人々の美談」として作ったのかもしれませんが、何かそれだけに収まりきらない、正義という概念の矛盾を示す一面を持った作品でございました。

ちなみに本作は実話にもとづいており、ハイドリヒも実在の人物でございます。ちとネットで調べたかぎりでは「長ナイフの夜」や「水晶の夜」、ホロコーストにも深く関与したとされ、ナチスの中でも相当の実力者だったようでございます。また彼の暗殺をうけて行われたSSによる報復措置がまことに酸鼻を極めるものであったということはこちら→ラインハルト=ハイドリヒ略伝に詳しく書かれております。



キタイギタイ ひびのこづえ展

2009-09-14 | 展覧会
伊丹市立美術館/「キタイギタイ」 ひびのこづえ展 ー生きもののかたち 服のかたちーへ行ってまいりました。

へんてこりん大会でございます。
素材がへんてこであり、かたちがへんてこであり、何よりそれが衣服であるということがへんてこりんの極地でございまして、いやあ面白かった。
値札付きで展示されている衣服や家具たちは、それこそ極地に住まう未知なる生物のようでございます。
それ自身のルールを持った有機体さながらに秩序と不規則性とが調和しているモノたち、よく見るとその素材はビニールシートであったり、梱包用のプラスチックテープであったり、あるいは分厚いフェルトであったり針金であったり鏡の破片であったり。
そんな衣服たちは、のろの目にはもはや着物というよりもオブジェ作品として映りました。
衣服であるという指標にとぼしい彼らは、人によって着られることによってようやく衣服化いたします。一方身体はそれを着ることによって、不思議なオブジェの一部と化します。人によって着られるという用途を伴うことは、服飾というジャンル独特の面白さであり、強みであるということを改めて思った次第。

それ故「標本箱」と題された地下展示室の、アクリルケースの中に平置きした作品群は、ほんの少し物足りないような気もいたしました。作品自体はたいへん面白い、生物標本に見立てたというコンセプトもたいへん結構。しかし置いてあるだけではせっかくの「着られる」という服飾独特の強みと面白みが、鑑賞者の想像の中でしか達成されないことになってしまうではございませんか。ワタクシとしてはやっぱり身につけた時にどうなるのかを見たかったので、着られた姿の写真も一緒に展示してくれてたらなァと思いました。
もっとも一階ロビーの壁面に作品集の写真がずらりと並んでおりましたから、よく見ればその中に標本化された作品たちの写真もあったのかもしれませんね。

逆にたいへん動的・立体的で面白かったのが「人体の間」と題された2階展示室でございます。展示室の真ん中に、皮膚、心臓、肝臓など身体部位をモチーフとした作品がつり下げられており、壁面にはダンサーの森山開次氏がその作品を身につけて躍る映像作品が投影されております。
つり下げられている作品は、人体のかたちをなぞった「皮膚」以外は、身体のどの部分にどうやって身につけるのか想像もできないようなものばかりでございます。
立体作品としてそのかたちを楽しみ、映像ではそれら奇妙なかたちたちが「着られ」て衣装化することで見せる表情を楽しみ、さらにそれぞれの部位の働きを表現するオブジェ化人間の動きを楽しみ、実に一粒で三度おいしい展示でございました。


テキスタイル、服、バッグや家具など展示品はいろいろ、素材も固いものからモコモコしたものまでいろいろございましたが、空気が通り抜けて行くような軽やかさを感じるものが多うございました。穴空きや網状、骨組み風といった、作品の視覚的な印象もさりながら、何であれモチーフになり何であれ素材になるという発想の自由さが、風通しのいい、軽やかな印象を形作っているのかもしれません。



また一階の柿衞文庫で開催中の小企画展 戦場から妻への絵手紙-出征地フィリピンからもよろしうございました。

新婚まもなく太平洋戦争に招集された画家の前田美千雄氏が、出征地フィリピンから妻へと宛てた絵手紙が展示されております。戦地からとは思えないような、おどけた、しかし深い愛情のこもった文面。そして外国の風土や自分の暮らしぶりをさらさらと手慣れた筆さばきで描いた絵。その一枚、一枚が実に微笑ましく、中島敦がパラオから家族に宛てた手紙を思い出しました。
そんな手紙も昭和19年12月を最後に届かなくなり、美千雄氏の消息は翌20年8月に途絶えます。
展示されているのは、妻の前田絹子さんが柿衞文庫に寄贈された900点に上る絵手紙の一部でございます。夫からの手紙を大事に保管し、空襲のたびに手紙のつまったトランクを抱えて防空壕に飛び込んだというエピソードも、胸に迫るものがございます。
華やかなコスチューム展の影でひっそりと開催するのは、少々勿体ないような展示でございました。








The Beatles デジタルリマスター盤

2009-09-10 | 音楽
子供の頃から聴きなじんでいることもあり、ビートルズは好きでございます。
しかしいわゆるビートルマニアと呼ばれる人のような熱心なファンではございませんで、今回発売されたリマスター盤も、とりわけ好きな曲が入っているものだけぼちぼち買って良しとしよう、と思っておりました。

とこ ろが。

とりあえず「マジカル・ミステリー・ツアー」を買って聴いてみました所、その音質のよさにぶったまげまして。
結局ステレオBOXを購入してしまいました。
ずっしりと持ち重りのするBOXを、今までもらったことがないほどでっかいタワレコの袋にぶら下げ、脳内で鳴り響くビートルズナンバーに歩調を合わせて人ごみを歩くのは、なぜか無性に誇らかな気分でございました。



おお、立派。
そのそびえ立つ偉容たるやモノリスの如しでございます。



難を申せば、ちと取り出しづらい。箱はしまっておいて、CDは棚に収納する方がよさそうでございます。

ワーキングプアのろにはなかなかの出費でございましたが、考えてみるとこのBOXのお値段はのろの5日間の労働賃金と同じくらいでございます。たった5日ぶんの労働で一生大切にできるものを手に入れたのですから、決して高い買い物ではございますまい。

アラビアのロレンス

2009-09-08 | 映画
『アラビアのロレンス 完全版』を観てまいりました。

映画『アラビアのロレンス 完全版』公式サイト

長い話を縮めて言えば、第一次大戦中、アラブ独立の立役者となったイギリス人の話でございます。
何故イギリス人がアラブを助けるのかというと、当時アラビア半島はオスマントルコに支配されており、トルコはドイツと同盟を結んでおり、イギリスはドイツと戦争していたからでございます。つまり独立というエサをちらつかせてアラブ人たちを動かし、遠まわしにドイツに打撃を与えようという魂胆。さりながらその裏で、トルコがいなくなったら私らで半島を分け分けしましょうね、という密約をフランスと交わしているのだからタチが悪い。かの二枚舌外交でございますね。
英軍の将校でありながらもアラブの文化や歴史に造詣が深いロレンスは、砂漠の民ベドウィンの信頼も勝ち取り、アラブ人自身による独立国家を夢見て奔走するのではありましたが.....。

本作を語る際に最もよく使われる形容は「雄大」と「壮大」ではないでしょうか。それは音楽や映像のスケールは言うに及ばず、歴史の中における一人の人間の偉大さと卑小さとを描ききった、深みのある人間描写が見る者を圧倒するからでございましょう。



ロレンスとは誰だったのか?
映画の冒頭に示されたこの問いに、碓とした答えが与えられることはございません。
歴史を動かした稀代の英雄か、歴史に翻弄された弱い一個人か。
イギリスとアラブ、人道と大義、英雄と「ただの人間」、温厚さと嗜虐性。こうしたさまざまな二極の間を、ロレンスは絶えず行き来し、よろめきつつ疾走します。走りきったその果てに両極のどちら側にも居場所を見つけられず、抜け殻のようになったロレンス。呆然として地平線を見つめる彼を取り残し、時代は砂ぼこりを蹴立てて進んで行くのでございます。

終始柔らかな物腰で、ナイーヴな自信家ロレンスと弱さにまみれた「ただの人」ロレンス、そして狂気すれすれの「堕ちた英雄」ロレンスを演じ分けたピーター・オトゥールは素晴らしうございましたし、脇を固める人々の演技や人物造形も素晴らしかった。

抜け目のないファイサル王子を演じるアレック・ギネスはどっからどう見ても鷹揚なアラブの王子様であり、『戦場にかける橋』の英軍将校と同じ人物が演じているとはとうてい思われません。発する言葉がいちいち警句じみているファイサルはのちにイラクの初代国王となる人物で、結果的に一番動かずに一番おいしいところをいただく人物でございます。将来王位につく人間としてはこのくらいの老獪さは当然よ、とばかりに余裕で立ち回るしたたかな機略には、コノヤローと思いながらも感服してしまいました。

ハウェイタット族の族長アウダ・アブ・タイを演じるはザンパノ、いやさアンソニー・クイン。(本作公式サイトのキャスト紹介ページでクインの主要作品に「道」と「その男ゾルバ」が含まれていないのは一体どういうわけかしらん)これまた、生まれてこのかたアラブの族長といった趣きでございます。アウダ・アブ・タイは肖像画が残っております。見ると面長の鷲鼻で、そもそもクインと顔が似ております。ネット上で見かけた情報でございますが、クインがアウダの衣装を身につけて撮影現場に現れるとエキストラのベドウィンたちから「アウダ・アブ・タイ!」の大合唱が起こり、それを見たリーン監督思わず「あの役者は誰だ?今からクインを下ろして彼を使えないかな」と言ったとか。
ファイサルがいつもほんの少しふんぞり返っているように見え、後述するアリはいつも背筋をピンと伸ばし胸をはっているのに対し、アウダは若干前屈みでございまして、浅黒い大きな手で何かをグワシとつかむシーンが目立ちます。そのいかにも無遠慮な身振りは強欲そうでもあり、人懐っこそうでもあり、とにかく一挙手一投足に強烈な存在感がございました。
一歩間違えば単なる野卑な道化となってしまいかねない役を、粗暴ながらも洞察力と愛嬌のある人物として演じたアンソニー・クイン、さすがでございます。

しかしまあ
何と言っても、
何と言っても、
何と言ってもオマー・シャリフでございましょう!
漆黒のベドウィン民族衣装を身にまとい、鋭い眼光で砂漠を見はるかすその姿の凛々しさよ。
もちろんカッコよさというのは風貌のことだけではございません。
ロレンスはさまざまな二極の間を行き来した末に自己を喪失し、虚しさと失意を抱えて、もはや「home」と思うこともできないイギリスへと帰って行きます。それに対しアリは徹頭徹尾、誇り高きベドウィンの族長でございまして、その一貫性がたまらなくカッコいいのでございます。彼のブレのない在りようは、人格的な矛盾を抱えて政治や名声に翻弄されるロレンスを逆さに映す鏡像のようでございました。戦局が変わろうとも、またロレンス自身が変わろうとも、アリがロレンスに寄せる友としての忠誠心が揺るぐことはなく、彼の視点は本作におけるひとつの芯となっております。

まあそんなわけで
休憩を挟んで約4時間の超大作ではございますが、この作品を映画館のスクリーンで見られて本当によかったと思います。
休憩時間に飲み物を買った際、無意識のうちにレモネードを選んでいたのには自分でも笑ってしまいました。ロレンスがレモネードをね、飲むシーンがあるのでございますよ。
特定の食べ物のイメージと結びついた映画はままございますが、のろはこれからコカコーラの自販機で「リモナーダ」を見かけるたびに、砂まみれのアラブ装束で将校専用バーに踏み込んで行くピーター・オトゥールの姿を思い出すことでございましょう。



さとのたより

2009-09-01 | Weblog
郷土愛も家族愛も大気中のヘリウムガス並に希薄なのろは
この十数年というもの一度も帰郷しておりませんが
ワタクシの知らないうちに地元がたいへんなことに。




ううむ、やるなあ。
ちなみに1:25の所で映る丸井今井デパート、今年のはじめに経営破綻いたしました。ここの本屋さんで『銃夢』のコミックを初めて買ったっけなあ。

ちなみにその2。
2:03の所で破壊される五稜郭の右手に映っている緑地帯はおそらくのろの母校でございます。巻きこまれておりますな。

ちなみにその3。
函館人は誰もがイカ踊りを躍れるというのは真っ赤な嘘でございます。