ゆきっちゃん、すみませんでした。
ワタクシは貴方のことを何にも存じませんでした。
ほんとにえらい人だったのですね。
えらい人なのにゆきっちゃんなんて呼んでごめんなさい。しかし初めのセクションでいきなり「メガネをしょっちゅう紛失したので、沢山買って家のあちこちに置いていた」とか「禁酒する代わりにと喫煙を始めたが、結局どちらもやめられなくなってしまった」とか「塾生から有志を募り、”散歩党”と称して毎朝6キロ散歩をした」なんてエピソードが紹介されていたもんですから、大いに親しみを感じてしまったのでございますよ。
というわけで
未来をひらく 福沢諭吉展へ行ってまいりました。
遺品をはじめ、実に300点にものぼる展示品で構成された本展。展示品のひとつひとつに丁寧なキャプションが付けられ、その品の来歴や、まつわるエピソードなどを読むことができます。ひとえにグーテンベルクの42行聖書に釣られて足を運んだのろではございましたが、おかげでゆきっちゃんについていろいろ知ることができました。そしてその人柄に親しみを覚える一方、「独立自尊」の精神を重んじ人間の平等をうたった先駆的な思想に触れ、たいそう感銘を受けたのでございました。
なにせのろはゆきっちゃんと言えば「慶応、ノススメ、咸臨丸」くらいの知識しかございませんでしたから、へぇーと思うことが色々ございましたねえ。とりわけ男女平等を主張していらっしたのには驚きました。
ゆきっちゃんが『日本婦人論』なるものを書いていたことはチラリと知ってはおりましたが、どうせ明治の男が書いた女性論なんてロクなもんじゃあるめぇ、夫の3歩後ろを歩けとか何とか書いとるんじゃろう、と思っておりました。今回展示されていた直筆原稿にはしかし、原稿用紙に端正な字で(とはいえ枡目は無視して)「結婚したら男の姓しか名乗らないなんて変な話だし、二人の姓から一字づつ取って新しい苗字を名乗ったらいいじゃん」なんてことが書かれておりました。その他にも、教育や家庭をはじめ社会全体の価値観として男女平等を進めるべきという論陣を張ったということでございます。明治という時代にあっては実に驚くべきことではございませんか。
もちろん慶応義塾関連のものも展示されておりました。
国語の教科書のように折り目正しい楷書体で書かれた祝辞は、卒業生である犬養毅が515事件で暗殺される6日前に書いたものであったり。早稲田から慶応への、野球の果たし状なんてものもございました。おお、早慶戦ここに始まれりでございます。
おおむね、心中でへぇとかほぉとか感歎の声を上げながら楽しく見られる展示だったのでございますが、心えぐられる展示品がひとつございました。
昭和20年5月、特攻隊員として出撃して亡くなった学生の上原良司氏が、出撃前夜に書きつづった文章でございます。のろはこれまた恥ずかしながら全く存じませんでしたが、「きけわだつみのこえ」で有名な方だったのでございますね。
B5の原稿用紙7枚に渡って書き遺された「所感」からは、日本が間違った道を辿ってしまったこと、日本がほどなく敗戦するであろうこと、そして自分の死が犬死にであることもはっきりと悟っていながら出撃して行かねばならない青年の思いがつづられておりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
ドイツ、イタリア(そして日本)という「権力主義全体主義国家」が敗れることで「人間の本性たる自由」の偉大さが証明されるだろうと述べ、特攻パイロットは「人格も、感情も、理性もない」機械であり、自殺者であると語る、その語り口は驚くほど冷静でございますが、自分の信念に全く反するかたちで死んで行かねばならないことへの無念さが滲みでております。
末尾に記されたこの一文には、思わず目頭を押さえました。
明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
↓で「所感」全文を読むことができます。ちょっと読みづらいとお感じの方はWikipediaの「上原良司」頁をご覧ください。
福澤展のツボ:上原良司「所感」 ――「国賊福澤諭吉」の時代
なお↑には「書き起こし文は設置しませんでした」と書かれていますが、ワタクシが行った時は現物とともに、全文を書き起こしたものがパネル展示されておりました。
おおっと
42行聖書についても触れなければ。
何せ あ の 42行聖書でございますから、のろはそりゃもう拝むような気持ちで拝見いたしましたですよ。
ううむ、でっかい。
こんなにでっかかったとは。片頁だけで軽くB4くらいはありそうな大きさでございます。何という迫力。そして美しいこと。
迫力と申しましても単に大きさのことではなく、美しいと申しましても単に花ぎれや飾り文字といった装飾的な部分のみのことではございません。紙の肌合いと白さ、その上に整然と並ぶゴシック体活字の黒々とした圧力。紙の重なりがそのまま手間の重なりでもあることを感じさせる雄弁な厚み。西洋で始めての活字印刷本であるという歴史的重み。その「もの」としての存在感は実に圧倒的であり、かつて書物というものが持っていた、現在とは比べ物にならないほどの威厳を、今に伝えるものでございました。
この42行聖書は慶応が恐ろしい値段で購入したものであって、もちろんゆきっちゃんの蔵書ではございません。ゆきっちゃん自身の蔵書も、少しだけ展示されておりました。その中に、ハッと引き付けられるものが1冊ございました。正確には、本に引き付けられたのではございません。空欄の書き込みにでございます。
J.S.ミル著『功利主義』の1頁に、小さな字でこんな書き込みがあったのでございます。
世ノ中ニ悪人ハイナイモノダ 人ニ鬼ハイナイ
人々に学問ヲススメ、自由・平等・独立の精神を説きかつ実践したゆきっちゃん。
教育をはじめ政治、経済、報道など、広いフィールドに影響を与えたその思想と生き方は、人間に対する深い信頼に根ざしていたのでございましょう。
この短い書き込みの一文は、他の展示品を見ている間ものろの頭から離れませんでした。そしてこの一文に表されたゆきっちゃんのオプティミズム、「人間に優劣は無い、どんな人間も教育と修身によってよりよいものになることができるし、一人一人がよくなることによって、社会もよりよいものにすることができる」という全人類的な信頼が、その活動のあらゆる面に現れているように、のろには思われたのでございます。
最後にもうひとつ、のろが大変感銘を受けた言葉をご紹介させていただきたく。
「修身要領」と題された教訓集の26条目でございまして、これも自筆のものが展示されておりました。
(原文には句点はございません)
地球上立国の数少なからずして、各その宗教言語習俗を殊にすと雖も、其国人は等しく是れ同類の人間なれば、之と交るには苟も軽重厚薄の別ある可らず、独り自ら尊大にして他国人を蔑視するは、独立自尊の旨に反するものなり
ううむ、すごいや。
えらいやゆきっちゃん。尊敬してしまうよゆきっちゃん。
記事のどこかでゆきっちゃんという失敬な呼び方をやめようと思っていたのに、ついつい最後までゆきっちゃんで通してしまったよゆきっちゃん。語感が気に入ってしまったのですもの。でも本当にすごいと思っているのよ。
まあ、ゆきっちゃん自身は名前なんか記号みたいなもんだというお考えの持ち主だったようでございます。息子さんたちの命名なぞ、ものすごく安直でございましたし。
でございますから、こんな失敬な呼び方も、きっと許してくださることでございましょう。