のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『オフサイド・ガールズ』

2007-11-29 | 映画
『オフサイド・ガールズ』を観てまいりました。

イランでは、女性がスタジアムで男子スポーツを観戦することは禁止されているんだそうで。
しかしサッカー大好きな女の子たちが、サッカーW杯の本戦出場がかかった予選の大一番に
男装してスタジアムに潜り込み.....というお話。

いやー、サイコーでございます、ほんとに。
90分間、のろの口角は上がりっぱなしでございました。

楽しくて、おかしくて、そして切ない。
痛快で心温まるエンタテイメントであると同時に、
女性差別的な制度のバカバカしさ、不条理さを静かに訴える、社会的な作品でもございまして
見終わった後、空を仰いで口笛を吹きながら歩きたくなります。



人間を描く視点が、とても優しい。
場内で捕まった少女たちは勾留所に連行されてしまうのですが、
少女たちを連行する兵士らも、決して悪者として描かれてはおりません。

勤務中のくせに、少女から没収した携帯電話でカノジョのご機嫌をうかがう若造。
実家に残して来た家畜とお母さんのことが心配でならない、田舎出の現場責任者。
地元出身の選手が代表に選ばれなかったと愚痴る兵士は、
イランがゴールを決めると同僚に飛びついてキスを浴びせるほどのサッカー狂。
彼らは「兵士(=既存の制度従う者)」としてひとくくりにされるのではなく
あくまで、個性と来歴を持った「◯◯さん」として描かれております。

「敵」という悪者を設定して身内の結束を高めようとする風潮が世界的に広がっている昨今、
こういう視点は非常に大切であると思います。

しかしなんと申しましても見どころは
少女たちの「どーーーしても試合を見たい!」というバイタリティでございます。
捕まってしまった少女らは、分隊の留置所に搬送されるまで
スタジアム内の一カ所に集めて勾留されるんでございますが
その勾留場所が、観客席のすぐ裏という位置取りでございまして
歓声やら、ホイッスルやらがじゃんじゃん聞こえて来るんでございますね。
試合を見たい一心でここまでやって来た少女たちが黙っているわけはございません。

ちょっとでいいから試合を見せて!
どうせバレやしないってば!
見せてくれたらあんたの家畜の世話だってするよ!
見せないんならせめて実況して!...

分隊に搬送される車の中でも
やれカーラジオを直せ、アンテナをしっかり持ってろ...と、
危険物(花火)持ち込みで補導されたボーズも巻き込んで大騒ぎでございます。

おとなしい子も溌剌とした子もみな生き生きと、キラキラとしていて、とっても素敵でございましたねえ。
のろ的にとりわけ印象不深かったのが ↑ イラスト一番上の子。

余裕しゃくしゃくの自信に満ちた態度で、少々ケンカっ早いけれども周囲への気遣いを忘れない彼女。
タバコをとがめられれば「タバコを吸うのも試合を見るのも犯罪じゃないだろ」と切り返し
「なぜ女はスタジアムに入れないんだ?」とストレートな質問を兵士に浴びせ、
女だからという理由だけで少女たちを「ヒヨッ子ども」呼ばわりするボーズには強烈な


頭突き。
ボーズが「殴ればいいだろ、みんなが俺を殴るんだ」とふてくされると
「自分を哀れむんじゃねーよ。みっともない」と一喝。
いやあ実にオトコマエでございます。

かと思えば、落ち込んでいる子(や、兵士)に誰よりも早く気付いて
声をかけ、慰め、元気づけてやるのです。
オトナでございますねえ。

いわゆる「女らしい」振る舞いを全くしない彼女。
おろおろしてすぐに怒鳴ってしまう兵士や、言いつけを守らなかったからといって姪っ子を殴るジイ様よりも
よっぽど人間ができております。
そう、大切なのは「人として」どうであるか、なのであって
「女だから」どうとか「男だから」どう、というのは「人」としてのありかたの前には全く瑣末なことでございます。
そういうことをサラっと、しかししっかりと、
男性サイド・女性サイドのどちらかに肩入れするわけではなく、人間愛と適度な距離感を持って描いているのが素晴らしい。

しかし現在のイラン政府にとっては、本作は「大いに女性に肩入れしている作品」ということになってしまうようでございます。
パナヒ監督の前2作、それぞれカンヌとヴェネチアで受賞した『白い風船』『チャドルと生きる』と同様に本作も
イラン国内では公開が許可されておりません。

観る人の背中をそっと、ごくごく優しく押して意識変革を促すような本作。
ぜひともイランの男性にも女性にも見ていただきたい作品でございます。
また「イランは危ない国」というイメージが高まっている中、
世界中のひとりでも多くの人に、観ていただきたいものでございます。


ノミ速報

2007-11-26 | KLAUS NOMI



なんとまあ
死後24年を経て
クラウス・ノミの新譜が
発 売 さ れ ま し た 。

Klaus Nomi ? The Merchandise

おお、ご覧下さいまし、燦然と輝く”available now”の文字!
しかもポスター付きですってばさ!
今度という今度は、ワタクシもクレジットカードなるものを作らねばなりますまい!
それまでポスター残ってるかなあ!
キャー!走れ、のろ!走れ!!




永遠と いまここ

2007-11-24 | 忌日
本日は
スピノザの誕生日でございます。(忌日カテゴリに入っておりますがどうかお気になさらず汗)
1632年のことでございますから、今年は生誕375周年でございます。
きっと全世界のスピノザ研究者やワタクシのような単なるスピノザファンは今日

別に何もしないことでございましょう。
その方が、このつましくつつましい哲学者にはふさわしいように思われます。

ご存知の通り17世紀のオランダは黄金時代でございまして
世界史に冠たる逸材をたくさん輩出しておりますね。
国際法の父グロティウス、土星の輪を発見したり振り子時計を発明したりのホイヘンス(レンズつながりでスピノザとも交流がありました)、
それにレンブラント、フランス・ハルスピーテル・デ・ホーホヤン・ステーン、などなど。

ここにスピノザ誕生の約ひと月前(1632年10月31日)に生まれ、同じ自由な空気を吸って生き、
スピノザの亡くなる約1年前(1675年12月15日)に没した、つまりスピノザとまさに同時代を生きた超有名人がおります。
即ち、フェルメールでございます。


Copyright:Rijksmuseum Amsterdam

現在、東京の国立新美術館に↑の絵、『牛乳を注ぐ女』が来ておりますね。
それに合わせて、先週のNHK『新日曜美術館』ではフェルメールを取り上げておりました。
その中で『恋するフェルメール』の著者、有吉玉青さんが
「この女性は永遠に牛乳を注いでいるのではないか」とおっしゃった時、
ふと胸をつかれたような心地がいたしました。
フェルメールの絵の中の「永遠」に、スピノザの「永遠」がオーバーラップしたからでございます。


スピノザが「永遠」と言います。
「永遠の相のもとに」と言います。
「永遠にして無限なる実体」と言います。

私はどうしても、「永遠」という言葉でもって「長い時間」とか「終わりのない継続」といったものを
イメージしてしまうのですが-----、つまり、永遠に続く苦しみ、とか永遠の愛、とか
そういった文学的で時間的なものを思ってしまうのですが-----、

スピノザの言う「永遠」は全然そういうものではないのであって
時間の長さとは何の関係もない、「無時間的の永遠」でございます。
即ち「三角形の内角の和が180度であるのは永遠の真理である」という時の「永遠」でございます。
時が1億年前であろうと1億年後であろうと、三角形の内角の和は必ず180度でございます。
所がオランダだろうと日本だろうと冥王星だろうと、そこに三角形が存在すれば、その内角の和は必ず180度でございます。
スピノザの「永遠」はそういう永遠であって、つまりは「必然」と同義でございます。

残念なことに私は疑いようもなく頭が悪いんでございますが
三角形における永遠性(=必然性)までなら、なんとか話はわかります。
しかし、そこから先へ進むのがなんとも難しいんでございます。
そもそも「頭が悪い」と言うこと自体が、架空の完全性を前提としてるということであって、甚だスピノザ的ではないことのように思われますが。

スピノザがあらゆる事物を「永遠の相のもとに」見る、と言うとき-----つまり、あらゆる物質や現象を
「三角形の内角」と「180度」の間にあるのと同じ必然性でもって生起したものとして見る、と言うとき-----、
三角形の話の時にはしっかり捉まえていたはずの「無時間の永遠」が
私の手からカスミのように逃れて行ってしまうのでございます。

さらに「精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なるあるものが残る」などと言われた日には
「無時間の永遠」なる概念は跡形もなく雲散霧消し、言葉の意味すら定かではないものになってしまいます。
私の手の内に残っているのはスピノザの「永遠」とは全く似ても似つかない、あの文学的で時間的な「永遠」だけ、
即ち終わりなき継続、「◯◯ し 続 け る もの」としての「永遠」だけになってしまうんでございます。
「(時間的に)永遠に存在 し 続 け る 精神」なんてものを、スピノザは決して説きゃしないというのに。

ああ、言葉の意味の段階ですでにつまづいている者が
「永遠の相のもとに」ものごとを見ることなどできましょうか?

なおかつ、このスピノザの「永遠」は、ひとたび理解すればその後ずっと使える法則や数式のようなものではなく
常に「今、ここ」という個別的な状況の中に見いだされるべきもののようでございます。

ドストエフスキーの『悪霊』で、従来の神の不在を証明するために自殺するキリーロフが
風に飛ばされた木の葉や壁を這う蜘蛛といった何の変哲もないものものに見いだした「素晴らしさ」は、
きっと無時間の永遠、「今ここ」の永遠、スピノザの永遠に由来するものでございましょう。


「ある数秒間があるのだ、...(中略)...そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ。
...(中略)...それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。
まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といったような心持ちなんだ。
神は、世界を創造したとき、その創造の一日終わるごとに、『しかり、そは正し、そはよし』といった。
それは.....それはけっしてうちょうてんの歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ。
人はもはやゆるすなどということをしない。なぜなら、何もゆるすべきことがないからだ。
愛するという感覚とも違う、-----おお、それはもう愛以上だ!」

ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 米川正夫訳 河出書房新社 p.134

おお、この全き肯定!
もしもこのような目で世界をみることができたなら
きっと世界における自分をザムザ家におけるグレゴールのように感じずとも存在していられることでしょう。


「新日曜美術館』で有吉さんが「この女性は永遠に牛乳を注いでいる」とおっしゃった時の「永遠」もまた
終わることなくジョロジョロと牛乳を注ぎ 続 け る という意味ではなく、
スピノザの永遠、無時間的な「今ここ」の永遠の意でありましょう。

三角形レベルの永遠を理解するのがやっとなのろではございますが
のろにとって幾何学よりもはるかに親しみ深い、絵画というかたちで表現された「今ここ」の永遠は
いつもよりほんの少しだけ捉えやすい格好で
いつもよりほんの少しだけ長いこと、手の内に留まっていたのでございました。






ミャンマーのこと 再び

2007-11-20 | Weblog
以前ミャンマーのデモことで ご紹介したNGOから、緊急のメール署名の呼びかけが届きました。
とりいそぎ、以下にご紹介いたします。

ご協力いただけたなら幸いでございます。


以下、メール和訳文


ミャンマーの軍事政権に対して最も大きな影響力を持っているのは、私達アジア諸国の政府です。
現在、アジアの首脳たちは21日の東アジアサミットのため、シンガポールに集まっています。

私達にあるのは36時間の猶予だけです。(のろ注:メール受信時点)ASEANサミットの最後に開かれるこの会議は、極めて重要です。
国連のガンバリ特使による報告の後、アジアの主要なリーダーたちは、ミャンマー情勢を進展させるために何をするべきかの決断することでしょう(もし、何がしかの決断をするのであれば)。
アジアを挙げて、彼らASEANの首脳たちにメッセージを送ろうではありませんか。
首脳たちは国連に実践的なサポートを提供する必要があります。
ミャンマー軍事政権に圧力をかけ、拘束された人々を解放し、現実的な対話をはじめるよう促すためです。
アジアのリーダーたちに、あなたからのメッセージを送っていただけませんか?

Asia: Act Now for Myanmar\'s People

↑お名前などを打ち込んでそのまま送ることもできますし、メッセージの文章をあなた独自のものに変えることもできます。
(のろ注:右側の  2 Personalise Your Message (optional) という部分がASEAN首脳宛のメールです。
 そのままで送る場合は、 1 Your Details に入力の上、ピンク色の SEND ボタンをクリックして下さい。)



政権や自らの率いる政党の人たちとの面会を数年ぶりに許された、民主的に選ばれたリーダーであるアウン・サン・スー・チーさんは、スケジュールがきちんと定められ、かつ意義あるものであれば、政権との対話をする用意があると表明しています。
しかし、希望が見えてはいるものの、いまだに仏僧の指導者 U Gambiri さんや、活動家 Su Su Nway さんをはじめ、何千もの抗議者たちが拘束状態にあります。

ミャンマー軍事政権は、以前にも同様のトリックを使いました。
国際社会の目が注がれている間は対話に応じるそぶりを見せ、その後、態度をひるがえすのです。
今週、ミャンマー政府は(のろ注:ASEAN会議主催国である)シンガポールに対し、会議におけるガンバリ特使の演説を止めさせるよう圧力をかけました。

東アジアサミットに参加している中国、インド、韓国、日本、オーストラリア、ニュージーランドは、ASEANという枠組みにおいて、ミャンマーの隣国でもあります。
ミャンマーにおける対話がほんとうに実りあるものになるか、あるいは、またも詐欺的なトリックに終始するのかは、アジア諸国による圧力にかかっているとも言えます。
アジア諸国は、軍事面、外交面、経済面、エネルギー面、そして経済面の関係において、軍事政権に対して多大な影響力を持っています。
ミャンマーがよりよい道を歩むようになるまでは、この政権と「通常のビジネス」を行うべきではありません。
アジア諸国のリーダーたちに呼びかけようではありませんか。
この水曜日に、本当の転換のための行動を促すのです。

目下、Avaaz (のろ注:このメールを配信しているNGO)のメンバーたちは、ミャンマーと、その友好国である中国やシンガポールの要人に働きかけをしています。
シンガポールは、国連による制裁を無効とせよ、という軍事政権の要求を拒否しました。
シンガポールにある、軍事政権支援者たちの銀行講座は目下の所、規制を受けています。
中国も何らかの動きを見せるかもしれませんが、今の所、その動きは緩慢です。
さらなる働きかけが必要とされています。

ミャンマーの人々は、もはやデモ活動をできない状態にあります。
彼らの声を国際社会に伝えるためにも、私達の支援を必要としています。
彼らをがっかりさせてはなりません。


以下、メール本文

Between them, our governments hold most of the leverage over the military dictatorship in Myanmar. Now Asian leaders are coming together at the East Asia Summit in Singapore this Wednesday 21st November.

We have less than 36 hours to act. This expanded meeting at the end of the ASEAN summit is vital. After one-on-one briefings from United Nations envoy Ibrahim Gambari, Asia's key leaders will decide what -- if anything -- they will do to help progress in Myanmar/Burma. Let's send a wave of messages from around Asia: these leaders need to offer practical support to the UN effort, and take real steps to press the Myanmar junta into freeing the prisoners and entering into real dialogue. Click below to send your own message to Asian leaders right now ? you can personalise the wording, or just fill out your details and hit send (then tell your friends!):

http://www.avaaz.org/en/myanmar_needs_asia/1.php

Allowed to meet with the regime and her own party colleagues for the first time in years, democratically elected leader Aung San Suu Kyi says she's ready to engage in dialogue if it is time-bound and meaningful. But despite the hope, thousands are still in jail after September's protests, with monk leader U Gambiri and labour activist Su Su Nway among the latest to be imprisoned.

The Myanmar junta has tried such tricks before ? pretending to engage in talks while the world's eyes are on them, then backing out later. Just this week, it has pressed Singapore to stop the UN's Gambari from addressing the East Asia Summit directly.

China, India, Japan, South Korea, Australia and New Zealand are joining Myanmar's ASEAN neighbours at the East Asia Summit. Coordinated Asian pressure could decide whether dialogue in Myanmar will be genuine, or just another con-trick. These leaders between them hold huge influence over the military and its supporters, through a web of military, financial, diplomatic, energy and economic relationships. Until Myanmar is on a better road, "business as usual" cannot continue with this regime. So let's ask our Asian leaders to pledge action for a real transition this Wednesday. Remember, we only have 36 hours - so click here to send your own message, then send the link to friends and family and ask them to do the same:

http://www.avaaz.org/en/myanmar_needs_asia/1.php

Avaaz members have already targeted key Myanmar allies like China and Singapore. Singapore has refused to rule out UN sanctions, and key junta allies have found their Singaporean bank accounts under pressure. China may be starting to move, albeit too slowly thus far. Much more is needed.

Driven off the streets for now, the people of Myanmar/Burma depend on us to make their voices heard. We must not let them down.


『パンズ・ラビリンス』2

2007-11-18 | 映画
もうね、悪文だろうが駄文だろうがいいことにしました。人間あきらめが肝心でございます。
何をいまさらでございますね。
はっはっは。

というわけで
11/8の続きでございます。

前回の記事の最後「この作品は悪と暴力がはびこる「現実」の世界に生きる無力なオフェリアが
ファンタジーを経ることによって、そうした悪や暴力に加担しない心的な強さを育んだお話ではなかろうか」と申しましたが
これについてもうしばし語らせていただきたく。

*以下、若干のネタバレを含みます。*


おとぎ話----とりわけ再話され、道徳的に飼いならされたおとぎ話----の中に登場する悪は
往々にして、善である主人公からは切り離された悪、悪として独立した悪でございますね。
そうした悪を担っているのは、鬼や悪魔、魔女、継母、妖精、兄や姉、年老いた王などなどで
彼らはいわば根っからの悪、純粋な悪、象徴的な悪でございます。

他方現実において私達が直面する悪は、もっと複雑でやっかいなものでございますね。

ファンタジーの世界と現実の世界が錯綜する『パンズ・ラビリンス』において
観客は主人公オフェリアと共に、おとぎ話的で象徴的な悪と、現実の具体的でやっかいな悪の間を行き来します。
つまりほぼ全編にわたって悪と暴力、そして心身の傷みを目の当たりにせねばならず、見ていてかなりしんどさもございます。
しかし、ファンタジーを単なる夢の世界、「現実からの避難所」として設定するのではなく
ファンタジーにおける象徴的な悪と現実の具体的な悪とを共に描いた所にこそ、
この映画の肝があると思うのでございますよ。

ファンタジーの世界における悪の体現者は、巨大ひきがえるや、くだんの泥田坊といった
いかにもワルモノらしい姿のモンスターたちであり
現実における悪の体現者は、オフェリアの継父であるヴィダル大尉でございます。


まあこの格好もいかにもワルモノらしいんでございますが...。

泥田坊の体現する悪は、何度も申しますが、悪として独立した象徴的な悪でございます。
それは、彼らの領域に踏み込む等の禁忌を犯した時にはじめて発動する悪であり、
「3枚のおふだ」の山姥や「ジャックと豆の木」の巨人や「ヘンゼルとグレーテル」の魔女のように
やっつけるか、あるいはその手から逃げおおせるかすれば、それで一件落着する悪でございまして
この点、いかにもおとぎ話的な悪でございます。
他方、ヴィダル大尉が体現する悪は非常に現実的なものでございます。
それは、こちらが何も禁忌を犯していなくとも不条理に襲いかかって来るという点でも、
単純な対処法や解決法があるわけではないという点でも、また、私達自身が時に加害者にもなりうるという点でも
非常にリアルで、やっかいな悪でございます。

男性原理に凝り固まった、ゴリゴリのファシストであるヴィダル。
傲慢で、嗜虐的で、「弱者や」「敵」に対して暴力を振るうことを当然の権利と思っている人物でございます。
彼の命令に従う部下たち---それがどんなに非人間的な命令であろうと、唯々諾々と従う部下たち---もまた、
消極的な悪を体現しております。彼らの悪は消極的ではあるものの
ヴィダルのような積極的な悪を下支えしている悪でございます。
また見かけ上は消極的なだけに、私達自身が簡単に陥りうる悪でございます。

別に「私達はみなファシストだ」てなことを言いたいわけではございません。
ただ、例えば「ファシズム」を別の、もっと耳心地のいい言葉に置き換えて
正義を行っているつもりで悪を行うことは私達にはあまりにも簡単であり
そのような現実のただ中にいる時、自らが行っている/行おうとしている悪に気付くことは非常に難しいと思うのですよ。

啓蒙と民主主義運動のヒューマニズム的目的はそれ自身まったくの反対物に転化するということも可能であった。
なぜなら、啓蒙的な意図と民主主義のためでさえ、私たちは人間を---他の目的を追求するような人間を---殺すことができるからである。
世界的に広く承認された価値や規範体系は存在しないので、私たちの善への意志はつねに分裂したままであり
”私たち”はあらゆる”他者”に自分自身の持つ善の観念を押しつけようとし、
こうした”善の強制”によってむしろまたもや悪のみに頼る、といった汚点にとりつかれる。

『人はなぜ悪にひかれるのか』 フランツ・M・ヴケティッツ 新思索社 p.264-265


ヴィダルとその部下たちの体現する悪は
泥田坊らファンタジーの住人が体現するような「善である主人公/私達」から切り離された悪ではなく
私達を取り巻き、私達の内にあり、私達が常に被害者にも加害者にもなりうる悪でございます。
劇中、レジスタンスたちを密かに支援している医師が「大尉を殺しても、また別の奴が来るだけだ」と言う場面がございます。
これは直截的には、司令官一人をやっつけたところで弾圧や独裁体制がなくなるわけではない、という意味でございましょうが
彼らの悪は決して彼らのみの悪ではない、ということも含んでおりましょう。

レジスタンスたちが大尉ら政府軍と戦い、彼らの鼻を明かし、勝利しても
そこにあるのはハリウッド的な爽快さではなく、おとぎ話し的なハッピーエンドでもございません。

私達はファンタジーの中で「泥田坊の悪」から逃れることはできても、
生きている以上、「ヴィダル大尉の悪」から逃れることはできないとも申せましょう。
なんとなれば、それは外にある悪ではなく、私達の内にある悪だからでございます。

オフェリアは現実においてよりも、むしろパンから課された試練という
ファンタジーの中において、悪と対峙してきたのでございますが
彼女が挑んだ最後の試練こそは、現実の悪の最もやっかいな面との対峙を迫られるものでございました。

即ちオフェリアが受けた最後の試練は、現実的なやっかいな悪、私達の内にある悪を発動させるという誘惑に
抵抗できるか、否か?ということであったと、ワタクシは考えております。
彼女はそれまでの2つの試練の中で、利己性と暴力性を発動させることの醜さやその代償を
(おとぎ話的な、象徴的な、明快なかたちで)目の当たりにしてきました。
だからこそ、自分も悪の一端に関わりそうになった時に「否」を言うことができたのでございましょう。

本作におけるファンタジーを単に「ひどい現実からの、心の逃避先」として見るならば
本作はあまりにも救いのない、悲惨な話としか言いようがございません。
それは制作者の意図した所ではございませんでしょうし
それだけの話であったならば、ワタクシの心にこれほど深い印象を残すこともなかったろうと思う次第でございます。







untitled

2007-11-14 | Weblog
ううむ
すみませんねえ
何故ワタクシはこんなにも
悪文をひねり出す能力に恵まれているのか

頭をかかえている次第でございます。
もうしばし御猶予をくださいまし。

『パンズ・ラビリンス』1

2007-11-08 | 映画
もう11月だというのにまだ生きておりますよ。
まったく何なんだか。

ところで

ワタクシは泥田坊について誤った認識を持っていたようでございます。

泥田坊といえば、泥の中から痩せこけた上半身を突き出して「田んぼをかえせ~ 田んぼをかえせ~」と叫ぶ妖怪で
顔には目がなくて、その代わりに両手のひらに目玉がついている奴、と思っておりましたが
手のひらに目があるのは泥田坊ではなく、手の目という妖怪でございました。
この誤りに気付いたきっかけは、映画『パンズ・ラビリンス』に登場していたこのひとでございます。



この姿を見た時、のろは心中で「ああっ泥田坊!」と叫んだのでございますが
しかし後で調べてみました所、むしろこのひとは「手の目」であることが判明したという次第。

と いうわけで
『パンズ・ラビリンス』を観てまいりました。

ストーリーを大ざっぱに申しますと
舞台は独裁者フランコ政権下のスペイン。
内線で父親を亡くした読書好きの少女オフェリアは、母親とともに、母の再婚相手であるヴィダル大尉のもとへ赴きます。
山深い陣営で、フランコ将軍に対するレジスタンスの掃討作戦を指揮しているヴィダル大尉は
自己中心的で冷酷な人物で,オフェリアには全く愛情を示しません。
その上、身重の体で無理な旅をした母親の容態も思わしくなく、オフェリアは暗澹たる思いにとらわれます。

しかし、そこで彼女は大地の神であるパンと出会います。
パンは、オフェリアが、実は遥か昔に死んだ地底の王女の生まれ変わりであるということ、
そして彼女の故郷、悩みや苦しみの存在しない地底の王国に戻るためには
3つの試練を経なければならないことを告げ、彼女に1冊の不思議な本を手渡します。---------

と、こう書きますと無害なファンタジーのような感じがいたしますが
予想以上に凄惨な描写の多い作品でございました。
視覚的にも、心理的にも。
R-12のダークファンタジーということで、それなりに心構えはしていたのでございますが
残酷さに目をつぶりたくなる場面が何度もございました。

オフェリアが体験する幻想世界の描き方はまことに素晴らしく
不思議な本や金の鍵や魔法のチョークなど、
ファンタジー好きのツボを刺激する小道具使いも心憎い。
全編を通じて流れる、鎮魂歌のような、美しく物悲しい子守唄のメロディが耳に心に残ります。

しかしファンタジーの世界においても、また「現実」の世界においても
オフェリアは悪や暴力や傷みに、容赦なく直面させられるのでございます。

この作品を「ファンタジーの中に幸せを求めた無垢な少女のお話」として観ることもできましょうが
ワタクシはむしろ、悪と暴力がはびこる「現実」の世界に生きる無力なオフェリアが
ファンタジーを経ることによって、そうした悪や暴力に加担しない心的な強さを育んだお話、と観ました。

本作で描かれている悪については、また次回に語らせていただきたく。