のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

実況中継2

2008-08-31 | Weblog
室内で水を使っていなくても、元栓を開いただけで水漏れするんでございます。困ったものでございます。
とにかく早く直していただきたいので日頃の電話恐怖症もどこへやらの勢いで、始業時間の朝9時半に管理会社へ電話いたしましたら、先ほど、夜7時すぎになってようやく業者のかたが来てくれました。
やれやれと思ったのもつかの間、水漏れ部分をフムフムと御覧になって、ものの2分と経たぬうちに帰って行ってしまいました。おおい。
なんでも給湯器そのものがダメになっているので、すっかり交換しなければならないとのことでございます。

むむっ
つまり
それまでのろ宅は水道が使えないってことでございますね。これは難儀だ。
幸い一階の洗濯機のところに共用水道がございますので、トイレの水などはそこで酌んでくることにいたします。
しかしこうなると、つい先日の資源ゴミの日に、溜まっていたワインの空き瓶を全て出してしまったことが悔やまれます。
水溜に使えたのになあ。
どうもこうも
間の悪い時ゃしょうがございませんね。



実況中継

2008-08-31 | Weblog
我が家の給湯器が壊れて2つ下の階まで水漏れしております。
ううむ、参りますね。
夕方にあった地震のせいでございましょうか。
とりあえず水道の元栓を締めて朝を待つことにいたします。


『赤壁』に...

2008-08-28 | 映画
* 注:今回は三国志演義に興味のないかたにはさっぱり要領を得ない話であろうと存じますが、悪しからずご了承くださいませ。*



甘寧興覇 略して甘興覇が いないたぁ どういうことですか?

甘寧親分ではなく、代わりに中村獅童氏の演じる「甘興」なる架空のキャラクターが活躍するんですと?
なんじゃあそりゃあぁあ!!(ジーパン風に)

それからねえ、ジョン・ウー殿、鳩を飛ばせたければいくらでも飛ばしてくださいまし、
スローモーションも好きなだけお使いなさい、
2丁拳銃ならぬ2丁弩が登場してもワタクシは喜んで受け入れましょう、
しかし
赤壁の戦いにロマンスなんぞ挟まないでくだせえましよ!
タイトルロゴが密かにハート形になってるのはそういうことなんでございますか?!
よりによって赤壁でござんすよ、赤壁!まさしく天下分け目の大戦じゃございませんか。
勘弁してくださいましよ!
だいたい三国志に出て来る女なんて貂蝉と雛氏だけで充分でございまさあ!
この2人の傾国の美女が三国志の全お色気を担っているんじゃございませんか。
あとの美女連中は名前だけで結構でございますよ、 名前だけで。
閨房の周瑜と小喬なんぞ覗いてる暇があるんなら、連環の計をめぐる虚々実々の駆け引きですとか、甘寧と凌統の確執なんかをみっちり描いてくださいましよ!
って言っても甘寧はいないのか。ギャー!

あとねえ、孔明役には他の人はいなかったんでございますか?
金城氏が悪いってんじゃございませんけれども、どうも将来過労死する御人には見えないんでございますよ。
当初のキャスティングどおりトニー・レオンだったらドンピシャだったのになあ。
まあ身長と年齢に少々の難がございますけれどもさ...


と まあ
公開に先駆けてちと不満をぶちまけてみたわけではございますが。
ぶちまけたからにはこれ以降はおとなしくして、神妙に公開を待ちたいと思います。
こんだけぶーぶー言ってるくせに観に行くのかって。
ええ行きますとも。もちろん行きますとも。
ジョン・ウー演出の「長坂坡一騎駆け」だけでも、観に行く価値があろうってもんでございます。
ああ、長坂坡一騎駆け。
この言葉だけでもわくわくしてまいりますよ。
最初の10分で終わりですって?それでもよろしうございます。
ちょうはんはいっきがけ。
ちょうはんはいっきがけ。
わくわく



甘..

いや、もう黙りますとも。


孔明忌

2008-08-23 | 忌日
「あれ、あの煌々と見ゆる将星が予の宿星である。いま滅前の一燦をまたたいている。見よ、見よ、やがて落ちるであろう……」
言うかと思うと、孔明その人の面(おもて)は忽ち白鑞の如く化して、閉じた睫毛のみが植え並べたように黒く見えた。黒風一陣、北斗は雲に滲んで、燦また滅、天ただ秋々の声のみだった。


本日は
蜀の宰相、諸葛亮孔明の命日でございます。
しかし新暦8月23日はまだ残暑真っただ中でございますから、どうも「秋風五丈原」の趣はございませんねえ。

冒頭に掲げましたのは吉川英治の『三国志』より、宰相殿の没するシーンでございます。
15ののろの涙を絞った一文でございますよ。うをー

吉川三国志の底本である『三国志演義』は孔明の死後も話が続きまして、蜀がついえ、呉がくだり、三国が晋一国に統一されるまでを描いております。
吉川英治はその間の盛り上がりに欠けることと中心的人物の不在を嫌い、孔明の死をもって実質的に筆を置いております。
三国時代の終焉までは描かなかったことを片手落ちと見るかたもいらっしゃるようでございますが、ワタクシはこれでよかったと思います。
物語序盤~中盤の動乱期に綺羅星のごとくひしめいていた、個性的で魅力ある英雄たち、いわばスター選手たちは、物語が終盤へと向うにつれてある者は討ち取られ、ある者は病に倒れ、1人また1人と舞台から姿を消して行きます。
ようやく中盤になってから弱冠27歳で登場した孔明は、そんなスターたちの最後の1人でございました。
この壮大なドラマを、孔明という巨星の退場をもって幕引きとするのは至極妥当なことかと存じます。

また、個人的なことを言わせていただけるならば。
ワタクシが吉川三国志で孔明没のくだりを読んだ時の深い寂廖感と脱力とは、それまでの読書では経験したことのないほどのものでございました。それまで大したもの読んでなかったんだろうと言われれば、まあ、そうなのですが。
ともかくその時点では「孔明さんは死んじゃったけど、サァ気を取り直して」という心持ちには、到底なれなかったんでございますよ。

吉川英治は孔明の埋葬を簡潔に描いた後に「諸葛菜」と題した一編を寄せ、孔明の人となりを考察しております。
その筆致には偉大な友を哀悼するような、穏やかな敬愛が滲み出ており、ワタクシの傷心は大いに慰められたものでございました。
その中で孔明は、奇才でも天才でもなくむしろ「偉大なる平凡人」であった、と評されております。
几帳面で、簡素を好み、謹厳実直をこととした宰相。
しかしその生真面目さゆえに、かえって天下の人材を遠ざけたのかもしれない、とも分析されております。
あれほどの人材を集めた曹操は決して「生真面目」な人物ではございませんでしたし、財力も権力もないのに、多くの逸材をその「人徳」で惹き付けたとされる劉備は、実際はけっこう無頼漢でございました。
それに対して晩年の孔明、この清廉で生真面目な宰相の心をおそらく最も悩ませたのは、優秀な人材の不足ということでございました。
かつて劉備は自分と孔明との関係を水と魚のそれに例えましたけれども、水清ければ魚住まず...ということでございましょうか。

しかし、まさにその生真面目さこそが、後代にわたって人々の心を打ち続け、「長く英雄をして 涙襟に滿たしめ」たものなのではございませんか。
「演義」の中で空も飛ばんばかりの活躍を見せるスーパーマン孔明像も、この生真面目な人に寄せる民衆の深い敬愛があってこそ生まれて来たものなのではないでしょうか。
ワタクシはそう信じますし、宰相の生真面目さを愛する1人でもあるのでございます。



ところで孔明といえばこの秋、三国志の「赤壁の戦い」を題材とした映画『Red Cliff』が公開されますね。
孔明役は金城武氏ですとか。
むむむっ イメージと違う。 けっこう違う。 ずいぶん違う。
「赤壁」映画化の企画を知った時は、おおおジョン・ウーが赤壁!ジョン・ウーが赤壁!と大いに興奮しかつ喜んだものでございますが、色々と詳細が分かって来るに従って、不安や不満が心中にこんこんと湧いて出てまいりました。
まあ、それについてはまた別の機会に。






甘........

いや、別の機会に。

悪夢

2008-08-18 | 映画
『ノーカントリー』のDVDを発売日にさっそく購入しまして。
購入したはいいものの、手に入れたことに安心して特典映像も見ずにほったらかしていたんでございますよ。
そしたら何が祟ったのやら存じませんが、先日ノーカントリーがらみの実に嫌な夢を見ましてねえ。

どういう夢かと申しますと、のろが『ノーカントリ』の別バージョンを見ているというものでございます。
それはコーエン兄弟が「終わり方ががすっきりしない」「よくわからん」などなどの批判を受けて作った「ラストがすっきりするバージョン」なのでございます。

最後にシガーが殺されて、めでたしめでたし。


最悪でございました。


おお、夢でよかった。
いや、夢でも見たくはなかった。
たとえ脳内にせよ、かくもひどいシロモノを生産してしまって、コーエンズに申し訳ないような気がいたします。

ノーカントリーがらみの悪夢を見るんだったらせめて
こんなのとか




こんなのとか




こんなのが



よかったなあ。

二度と目覚めないかもしれませんが。
それもまたよし。

『下村良之介展』

2008-08-13 | 展覧会
下村良之介展---「日本画」再考への序章 へ行ってまいりました。

鑑賞にエネルギーを要する作品が多いかもしれないと少々身構えて行ったのでございますが、意外とユーモラスな作品もございまして、先入観はイカンなと改めて思った次第。

見るのにエネルギーを要する作品、とは飽くまでワタクシにとってという話でございますが、どういうものかというと例えばこういう作品でございます。



紙粘土で凹凸をつけた画面に顔料で彩色を施しております。
旧来の日本画に飽き足らなかった「反骨の画人」がその画業の後半に、独自に開発した技法でございます。
鋭い線と絵肌の重厚さがあいまって、ただならぬ雰囲気をかもし出しておりますね。
鳥の姿かたちを解体し、動きの印象へと還元したかのような造形は呪術的な感じもいたします。
ハトや雀といった特定の種類を描いているのではございませんで、鳥という生物の持つ造形的な鋭さや、自分の力で飛翔するという特性に託して、鋭く重厚なイメージを表現したようでございました。
それが具体的なある種の鳥、軍鶏や鷺や梟のかたちをとることもございますが、画家いわく、そういうのは心が弱くなっているときに描いたものであって、本当はよろしくないのだと。

そうは言われても俗物であるワタクシは具体的な鳥を描いた作品方が好きでございました。
緊張感の漂う画面でありながらも鳥たちの表情はどこかユーモラスでございます。
透明感のある色彩は、連日の熱帯夜にて寝不足気味な目には心地よいものでございました。

ユーモラスといえば、「やけもの」と題された陶芸作品も面白うございました。
やけに不機嫌そうな豚やシルクハットをかぶった小鳥たち、水玉模様の猿にひょっとこ顔の壷などなど、あんなこともやってみよう、こんなこともやってみよう、という画家の遊び心が伝わってまいりまして、見ているこちらまで楽しくなってしまいます。
また、自画像は展示の冒頭と最後に計6点ほどございまして、これまたどれも面白いものでございました。
ごく若いころの、ぐりっとこちらをねめつける表情も印象的でございましたし、身の回りのものを画面上に整然とちりばめた「還暦の自画像」は、古い引き出しの整理整頓風景のように、個人的でおもちゃ箱的な趣きがございました。
画家自身はわざとらしいほど真っ赤なジャケットを着込んで、赤い帽子をかぶり、自分の作品や古い写真、外国の工芸品、はたまた種痘の証明書なんてものにまで囲まれて、椅子に腰掛けております。
まっすぐにこちらを見つめるまなざしは「まだまだいろいろ造ったるもんね」という気概で輝いておりました。

氏が75歳で亡くなってから今年で10年。本展は初期のキュビズム的な作品から絶筆まで、かなりの点数を揃えた大規模な回顧展でございます。
日本画という概念にとらわれない自由で独特な表現を模索し続けた画家の生涯のモチーフであった鳥たちは、時には厳しいほどに鋭く、時にはひょうきんで可愛らしい姿で、「反骨の画人」の精神を語りかけて来るのでございました。






8月6日

2008-08-06 | KLAUS NOMI
本日は
原爆の日でございます。
ボリビアの独立記念日でもございますし
ベラスケスの命日でもございますし
アンディ・ウォーホルの誕生日でもございましょう。

しかしのろにとっては
本日は
クラウス・ノミの命日でございます。



ファンの皆様はご承知のことと存じますが、ノミにはお墓というものがございません。
ヤツの遺体は本人の遺言によって火葬に付され、遺灰は風に乗せてニューヨークの街に播かれたのでございました。
空高くそびえるビルの数々があの小さな宇宙人の墓標ってわけでございます。
そのうちの2つは、今はもうございませんけれども。

クラウス・ノミがみまかった1983年は、アメリカでエHIV感染者への差別が最も激しかった年でございました。
『エイズのセクソロジー』(木下栄造著  自由国民社  1994)によると、感染者世帯のゴミの回収拒否や職場での同室拒否、感染を理由に陪審員からはずされるといった事例のほか、病院でさえも看護士による看護拒否、配膳拒否、そして吐いたものを掃除してもらえないということまであったのでございます。

また、葬儀業者が感染者の遺体取り扱いを拒否するということもございました。
アメリカでは土葬するのが普通でございますが、衛生上の必要もございまして、埋葬に先立って防腐処理をいたします。その処理を葬儀屋さんがするんでございますね。
感染者の身体に触れただけでもうつるかもしれないと思われていた時代でございます。
葬儀屋さんを非人道的といって責めることはできません。
しかし、人としての最後の道行きを拒まれた遺体はどうなるのでございましょうか?
故人の家族や友人たちは、いったいどうしたらいいのでございましょうか?

ノミが火葬と散骨を望んだのは、遺された人々に面倒をかけまいとするヤツの心遣いだったのではないでしょうか。

もちろんヤツの心の内は、今となっては分かりません。
いつまでも、大好きなニューヨークの街とともにありたいと思ったからかもしれません。
あるいは、死んでもなお、どこにも属さないエイリアンを演じ続けたかったのかもしれません。
空へ向って問うてみたところで答えはなく、ノミがいない世界は今日でちょうど25年目を迎えたのでございました。







『色ー響きと調べ』展

2008-08-04 | 展覧会
京都市美術館コレクション展 色ー響きと調べへ行ってまいりました。

いやあ今回のコレクション展には、京都市美術館の収蔵品の中でものろがとりわけ好きな作品が多く展示されておりまして、大変嬉しうございました。
入ってすぐ左手に展示されていた竹内浩一さんの作品『丹』にはワタクシ今までお目にかかったことがなかったと存じますが、ひと目で氏の作品と分かる独特の色彩に対面して、のっけから心が浮き立ちましたとも。早朝の大気のごとく清澄な画面を前にして、館内に転がりこんでもなお身体にまとわりついていた蒸し暑さもさあっと引いていくような心地がいたしました。

第一室には「飛び動くもの」と題して動物や鳥を描いた作品が集められております。
のろがたまらなく好きな西村五雲の『園裡即興』と竹内栖鳳の『雄風』は並んで展示されておりました。

小さな画像ですが両方ともこちらで見られます。『園裡即興』は第8回、『雄風』は第2回のところ。

『園裡即興』、大きさは目算で80×100センチといったところでしょうか。
無造作に地べたに置かれた竹籠から、数羽の兎が耳をのぞかせております。
右はじの一羽は大きな眼を見開いて、鼻をひくひくさせながら辺りをうかがっております。
籠のかたわらではふわふわと柔らかそうな兎が、うつむいて毛づくろいをしております。
身体を丸めて毛づくろいする兎の、小動物らしいしぐさ。
足下に転がるかじりかけの人参がなんともほほえましく、兎たちの表情も実によろしうございますね。
グレー基調の中に赤茶と緑をふんわりと配した色調はいかにもやさしく、スケッチのような素早いタッチは見る者に生き生きとした印象を与えます。

一方、五雲のお師匠さん竹内栖鳳の『雄風』は二双の大きな屏風絵でございます。
この絵を初めて見たとき、のろはそのあまりの技量の高さに呆然としたもんでございます。
左手の虎はソテツの根元にかったるそうに横たわり、むすっとした顔をこちらにむけております。
右手の虎はソテツに身体をすりつけるようにして悠然と歩きながら、太い首を左手へ向けたところ。
捕食者のしなやかで堂々とした体躯と、猫らしい、どこか親しみのある表情と動きとがみごとに捉えられております。
肩の筋肉の盛り上がりも、しなやかに乱れるソテツの葉も、迷いの無い線でグングンと描かれてります。
水気をたっぷり含んだ筆で一気に描き上げたと思われる大胆な筆致は、淡い色彩と相まって、まさに吹き抜ける風のように爽やかな印象を発しております。

ところで『園裡即興』というタイトルは、文字通り、五雲が動物園へ行った折りに見かけた兎の姿に思わず興をそそられて描いたことからつけられたものでございます。
しかしなぜ「園内」ではなく「園裡」=裏の方、なのか。
実はこの兎たちは展示のために飼育されているのではございませんで、肉食獣の餌になる運命なのでございます。
動物を好んで描いた五雲。何も知らずにのんびり毛づくろいする兎を見て、哀れを感じたのでございましょうか。

栖鳳は旅先で出会った猫をどうしても描きたくなり、飼い主に再三頼み込んで、ついには作品と交換に猫を貰い受けたこともある人でございますが、いくら描きたいからといってまさか自宅で虎を飼いやしなかったでしょうから、この『雄風』のモデルもまた動物園の虎でございましょう。
『園裡即興』が描かれたのは1938年、『雄風』は1940年。
五雲も栖鳳も京都市動物園に通ったはず。
もしかすると栖鳳の絵の中でふてぶてしい表情を見せる虎は、五雲が描いた兎たちをその胃袋におさめているのかもしれませんて。
なんまいだぶ、なんまいだぶ。

それから第一室では富田渓仙の『伝書鳩』が見られたのも嬉しうございました。
ただ映画『プロデューサーズ』を鑑賞して以来、白い鳩を見かけると「アドルフだ」と思ってしまうのろの頭はちと困りもんでございます。

この後にも玉城末吉の『宇吉』や菊池契月の『友禅の少女』、徳岡神泉の『流れ』など、のろ的にはイヤーこの作品ひとつだけでも来たかいがありましたってな作品がぞろぞろ。
長くなりますのでこれらはごそっと割愛させていただいきますが、最後にちと語らせていただきたいのは吉仲太造の『或る時空間1』でございます。
↑リンク先左側の白い方の絵と同じ作風で、大きな縦長の画面の中に、真横を向いた椅子と椅子の上にぽつんと置かれた電球、そしてつり下げられた電球カバーのみを描いた作品でございます。
ワタクシはもし京都市美術館から収蔵作品からどれかひとつだけあげますと言われたら、この作品を選ぼうかと思っております。まあ言われないでしょうが。
白い画面からじわじわと滲み出るような、孤独と安心。
ものがただものとして存在していることの、危うさと確かさ。
ものたちはただそこに在るものとして何の叙情性も付与されずに描かれております。
しかし同時に、詩人・八木重吉が一粒の朝顔の実に対して「あ おまえは わたしじゃなかったのかえ」と語りかけるのにも似た、ものヘの親和性が感じられ、思わずキャンバスを手のひらで撫でたくなります。まあいたしませんが。


ときに本展のテーマは芸術の中の色彩の変遷といったものでございましたっけ。
のろは常のごとくテーマそっちのけで個々の作品に見入ってしまいましたが、より広い視野をお持ちの皆様は色彩と時代について思いを廻らしながら御覧になるといっそうよろしいのではないでしょうか。
のろも時間があったらもう一回行きたいと思っております。
だってコレクション展は友の会の会員証提示で何度でも入れるんでございますもの。
ありがたや、ありがたや。