のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『大エルミタージュ美術館展』3

2007-04-28 | 展覧会
4/25の続きでございます。

仕事で当地に来た父とカウンターでしまほっけをつつきながら
フランシスコ・ピサロはあほんだらで今年の桜はしょぼいが中村晋也展はすごくよさそうだところで生産サイドと消費サイドがあまりにかけ離れてしまっているのが問題であっていったいワタクシは魚の顔というものが好きなんですがやっぱ呂布がイイよなあ という話になったわけです。

要するに何を話したやらあまり覚えていないわけでございますが
「日曜日の11:00ごろに『エルミタージュ展』に行ってみたのだが
人の列が美術館の外まで続いていたので、辟易して引き返した」
と父が話しておりましたのは覚えております。
 
世の中は連休でございますから、当面の間、美術館も人でごったがえすことでございましょう。
しかし、ここでめげてはいけません。
だって本展におこしの面々は
この機を逃したら、はるばるサンクトペテルブルクまで出かけないと会えない作品たちなのですよ。

美術館が最も混雑する時間帯は13:00~15:00ごろでございます。
混雑を避けたいなら、一番いいのは開館と同時に入ってお午ごろには出るコース。
また、鑑賞時間は限られますが、15:00ごろに乗り込むというのも手でございます。
入った時はぎゅうぎゅう状態かもしれませんが、しだいに人がはけてまいります。
また最近は金曜日のみ、開館時間を延長している所もございますね。
聞いた話では、そうした遅めの時間帯は混雑することもなく、なかなか快適に鑑賞できるということですが
残念ながら、京都市美術館ではこのシステムを採用しておりません。ちぇっでございます。
というわけで皆様、人波を上手に避けて
タヒチの女たちや、野原で花摘む少女や、本を片手にまどろむお嬢さんに会いに行ってくださいませ。

それからぜひとも会っていただきたいのが、最後のセクション「都市の肖像」にいらっしゃる ↓ この人たちでございます。

ヌーヴィル『上官のご馳走』

仏陸軍のカッコイイ制服を身につけたお2人が、屋外のテーブルについております。
後方には一般客らしき気難しそうな爺様と、給仕の女性の姿。

くつろいだ上官のグラス(というよりコップ)に、ちょっぴりかしこまってワインを注ぐ若い兵士。
タイトルからすると、彼が握っている空のグラスにも
このすぐあと、同じビンからワインが注がれるのでしょう。手酌かもしれませんがね。
きらきらしい兜もサーベルも脇に置いて、
上官は上着のボタンをすっかりはずして足を組み、リラックスしております。
それに対して前屈みになった若い兵士の、神妙な姿勢は何ともユーモラスでございます。
いかにもほのぼのとした雰囲気の作品でございますが
正確なデッサン、シックにまとめられた色彩、軽いタッチながらみごとな質感表現などなど
ほのぼのな外観をまといながらも作者ヌーヴィルさん、相当な手だれでございます。

優しく柔らかな色合いの背景に、仰々しい赤黒の軍服。モスグリーンのフェンスと、鮮やかな赤のズボン。
こうした色調によって、2人の兵士のやや場違いな感じが表現されている一方
都市の中の単なるいち風景であった「小料理屋でくつろぐ兵士」が
戯画的でもありいかにも人間的でもある彼らのポーズや表情によって
親しみある情景として、暖かいまなざしで捉えられておりました。


ところで
去年の『ルーヴル美術館展』でもなかなかに遊んでおりました京都市美術館、今回はゴーギャンの『果実を持つ女』をこんなふうに活用しておりました。




いいと思います。

『大エルミタージュ美術館展』2

2007-04-25 | 展覧会
「ソビエト連邦」という列車が走っている途中、いきなり停車した。
見てみると列車の前のレールがない。
レーニンは自分でレールを敷いた。
スターリンは鉄道関係者を粛正し、囚人たちにレールを作らせた。
フルシチョフは「後ろのレールを外して前につければいいや」 と言った。
ブレジネフは周りに言った。「カーテンを閉めろ。そしてみんなで列車をゆするんだ。ほれ、走っているような気がするだろう?」
アンドロポフとチェルネンコは「レールが直らなければすすめない」と言って、何もしなかった。
ゴルバチョフは「レールがない!レールがない!」と世界に向けて叫んだ。
最後のエリツィンは列車をぶちこわした。

というロシアジョーク(ソ連ジョーク)がございましたっけ。
ぶちこわしたエリちんがお亡くなりになりましたね。
後をついだプーさんはこの列車をどこへ向わせているんでございましょう。
自分の乗っている列車の行く先も 甚だ 不安な昨今ではございますが。

さておき。
4/22の続きでございます。

人物が主役であった「家族の肖像」セクションを抜けて
第二セクションのテーマは「人と自然の共生」でございます。
大画面の風景画が多い中、見逃していただきたくないのが
22.5×29cmと、本展の中で最小を誇るファンタン・ラトゥールの 花瓶の花 でございます。

小さいながらも充実した美しさを放つ作品でございます。
ササッといとも簡単に描かれたように見えますし、事実そうなのかもしれませんが
花々の、それぞれに異なる花びらの質感がそれはもうみごとに表現されておりまして
飽くことなくいつまでも眺めていられます。
バランスのとれた色彩構成に清楚な白づかいがたまりませんね。

解説パネルのよると、ラトゥールは「花を魂のある生き物と見なしていた」ということですが
さもありなんと思わせる、花たちがひっそりと息づいているような名品でございます。

さて、ラトゥールといえばギュスターヴ・クールベに指事し、
マネモネといった印象派の巨匠たちと同じ時代を生きた人でございます。(『オルセー美術館』に彼らの集団肖像画が来ていましたっけね)
クールベさんや印象派が出て来たあたりから
画家はモチーフの選択をより自由に、自らの裁量でもって行うようになったわけでございますが
その後印象派への反動を経てキュビズムが登場する頃には
さらに一歩進んで、モチーフの何を描き、何を描かないかの取捨選択を
画家がより自由に、意識的に行うようになっていったのかしらん と 思いましたのは、
同セクションにピカソの『農夫の妻』(←中ごろまでスクロールしてください)が展示されていたからでございます。
人物の表情も、背景も、小道具類も、全く描かれてはおりません。
身につけている衣服の質感も、繊細な陰影の描写もありません。
しかし
幾何学的なまでに簡略化された手足や、重厚な色彩は
どっしりとした、この人物の大地に根ざすがごとき存在感を
余さず描き出しております。


そうそう、それからこのセクションには
ギュスターヴ・ドレの油彩もございまして、のろはびっくりいたしました。
ドレといえば銅版挿絵画しか存じませんでしたので
大画面で、勢いあるタッチの風景画には実にもって驚かされました。



あと一回続きます。



『大エルミタージュ美術館展』1

2007-04-22 | 展覧会
当地では桜も散り木々が芽吹き
急速にあたりが青々としてまいりました。
イワン・カラマーゾフを思い出す季節ではございませんか。
粘っこい若葉に瑠璃色の空ですよ、まったく。
「神さま」なんていやしませんよ、イワン。
だけど全てが神なのさ。

というわけで
というわけでもございませんが
『大エルミタージュ美術館展』 京都市美術館 へ行ってまいりました。

15世紀の聖母子像からピカソまで、年代的にずいぶんと幅広い展示でございました。
「都市と自然」というテーマにのっとって選ばれた80点、
3つのセクションには各々「家庭の情景」「人と自然の共生」「都市の肖像」とうタイトルがつけられております。
そうしたテーマに即して鑑賞してみますと
絵画というメディアに求められるもののの変遷、人間の自然に対する要求・態度の変遷、
時代・地域における好みの違い、といったものが見てとれ、興味深いものがございました。

各セクションにおいてとりわけのろの心に残った作品をご紹介いたします。

まずは
『オランダの室内』 ピーテル・ヤンセンス・エリンハ

数年前公開された『オランダの光』という素晴らしいドキュメンタリー映画の中で
17世紀オランダ絵画の専門家は
「”オランダの光”を壊すことは誰にもできない。なぜならそれは変わらずそこに、絵画の中にあるのですから」
と言い、ロッテルダム在住のアーティストは
「”オランダの光”は我々芸術家の遺伝子に組み込まれ、容易に作品の中に取り入れることができます」
と語っております。
そんな”オランダの光”、独特の陰影を持つ自然光は、エリンハの作品においてもみごとに捉えられております。

窓から斜めに差し込む光も、繊細に描き込まれた椅子の影も、画布の上でこうして永遠に止揚しておりますが
実際は、見ている間にも刻々と位置を変えていくものでございますね。

ハルス、レンブラント、フェルメールに代表される17世紀オランダ絵画。
年代的にはバロックにカテゴライズされるわけでございますが
いわゆる黄金時代のオランダ絵画は、単にバロックという大きなくくりでは捉えられない
独特の輝きがあるように、のろには思われます。

その独特な輝きを担っているのは
ひとつには、画家たちの高度な技術が、王侯貴族や神話・聖書の登場人物といった「天上の人々」ではなく
(寓意が含まれているにしても)市井の人々や生活の場を描くために用いられているという点であり
またひとつには、これらの、いわゆる「オランダの光」を封じ込めた絵画は
「瞬間/うつろいを定着させる」ということに殊更力が注がれているという点でございます。

当時流行したヴァニタス画(この世のはかなさや時の移ろいやすさを表現した寓意画)の
みずみずしい切り口を見せる果物や、今を盛りと咲き誇る花々といった、直接的な「うつろい」の描写だけでなく
生活の一コマを切り取った、フェルメールやデ・ホーホ、そしてこのエリンハの作品の中にも
今いっときだけの輝きをとどめようという画家の試みが感じられるではございませんか。

空前の経済成長を遂げた国で束の間の繁栄を謳歌した人々の、
できることなら今の輝きを永遠にとどめたいという思いと
栄光はいつまでも続きはしないだろうという予感が
画家をして「刹那の定着」へと向わしめたのであろうかと
のろは想像いたします次第。

ちなみに
『オランダの室内』が描かれたのは1670年頃とのこと。
「災厄の年」1672年にはイングランド、フランス、そしてドイツにおけるカトリック勢力が手に手を取ってオランダに戦争をしかけて来ます。
自由主義の保護者であり、国の実質的な最高責任者であったデ・ウィットは
彼の軍縮政策がこの危機を招いたというかどで、煽動された暴徒により殺害され
以降、オランダは経済的にも文化的にも衰退の道をたどることになります。
してみると、『オランダの室内』に描かれている光は
かの国が「栄光の17世紀」の最後に放った輝きとも言えのではないでしょうか。

ちなみにその2。
スピノザは1965年、ライフワークである『エチカ』の執筆を中断し、『神学・政治論』の執筆に取りかかったのですが
書簡によるとそれには以下のような動機があったためです。
1:神学者の偏見を解消するため 2:無神論者であるというスピノザ非難への反駁 3:思想の自由を擁護するため
3つ目の動機について、スピノザはこう書いています。

「私を動かしてこれを書くようにさせたものは・・・(中略)・・・哲学することの自由並びに自分の考えたことを発表する自由です。私はこの自由をあらゆる手段を通じて守ろうと思います。この自由は、当地では説教師たちの極端な権威と厚顔のために、さまざまの仕方でおさえられております」
(書簡30 上記引用は『人類の知的遺産』35 p277より)

『神学・政治論』は1970年に出版され、轟々の非難を浴びながらも版を重ね
発売後一年間で第四刷まで発行されましたが、デ・ウィット死後の1674年には発禁となりました。
翌1675年完成した『エチカ』は危険思想の書とみなされ
スピノザの奔走にもかかわらず、出版することすらできませんでした。
1677年、スピノザが亡くなったこの年の12月に、遺稿集として友人たちの手により出版されたものの、即座に発禁処分となりました。

こうして年代を追ってみると、スピノザの出版事情に
当事のオランダが次第にその自由な気風を失っていったさまがあらわれております。

スピノザが『神学・政治論』で以下のように讃えたオランダは、デ・ウィットの死をもって終わりを告げたのでございました。

「我々は、判断の自由と神を自らの意向 に従って礼拝する自由とが何人にも完全に許されている国家に、ーーー自由が何ものにもまして高貴であり、甘 美であると思われている国家に生を享くるという稀なる幸福に恵まれている」




・・・ううむ エルミタージュ美術館展の話だったはずですが・・・


ともあれ、次回につづきます。


ノミ話14

2007-04-19 | KLAUS NOMI
昨年ポスターを描かせていただいたイベント 楽町楽家 が、今年も開催されます。

今回もワタクシのイラストを使ってくださることになりました。





昨年の絵をベースに、人数を増やしたりイベントを代えたりしているんでございますが
このサイズではよくわかりませんね。
上のリンク先で大きな画像をご覧いただけます。



去年ひそかにご登場いただいたクラウス・ノミ氏。
もちろん今年もおりますとも。
ええ、ええ、もちろん。ほっほっほ。
ほら、ここ。



腕に巻いているのは これ。



ああ、何と か細い二の腕なんでしょう。うっとりです。
いや、深爪には注目しないで。


今年はクラフトワークご一行様(現メンバー)にも、ひそかにご登場いただきました。




本当は、赤シャツ&黒ネクタイ&一直線横並び&フローリアン完全坊主 にしたかったのでございますが
あまりにも周囲から 浮く ためと、
明らかに彼らとわかるイラストでは肖像権侵害になるんじゃなかろうか と恐れましたため
涙をのんで断念いたしました。




他のノミ話もまとめてしちゃおうかなあ 
後々にとっとこうかなあ



うーん
とっとくことにいたします。

LORDI

2007-04-14 | 音楽
ワタクシこの12日、13日と連休でございまして
12日に彼らがはるばる北欧の地フィンランドから
大阪に彼らが来るってんでございますよ。(その前に東京に寄りましたけど)
これはもう、神か悪魔が「行け」と言っているんでございます、のろに。

と いうわけで

LORDI を見てまいりました。



いやー ものっすごく 面白うございましたよ。
容貌からもお分かりいただけると思いますが、
たいへんエンターテイメント精神、サービス精神をお持ちのかたがたです。
80分の上演の間に、B級ホラー映画テイスト満載のいろいろな小道具が飛び出しました。



ヴォーカルのMr.LORDIはあんな怖いカオをしながら「アリガト~」「オオサカ~」を連発。
まあ、他に日本語で言えるセリフが無かったものとは思いますが
何だか律儀でほほえましうございました。

ワタクシはかなり後ろのほうに陣取っていたのですが
彼らの凝りに凝った衣装およびメイクはよく見えました。
と言いますのも、ステージから最後列まで
10歩も歩けば届いてしまいそうな小さな会場だったので。

「人口わずか500万人のフィンランドで、10万人のオーディエンスを集める」
というLORDIさんたちですが
残念ながら、日本での知名度はまだまだのようです。
最近国内版が一枚出たばかりですから、いたしかたないことやもしれません。
ああそれにしても
輸入版を買ったとたんにDVDつき国内版が出たことの悔しさよ。

バンドとはかかわりのないことですが、ひとつ残念だったのは
会場にロッカーの類いが全く無かったことでございました。
ワタクシは大荷物ではなかったので
足下に置いておいてもたいした邪魔にはならなかったのでございますが
大きいデイパックなどお持ちの方はお困りだっただろうと思います。
かく申しますワタクシも
Mr.LORDIの「JUMP!」の声につられてピョンと跳んだら、もののみごとに自らのカバンを踏んづけましたもので
盛り上がりに貢献できなくて申し訳ないと思いつつも、それ以上のピョンピョンは諦めたのでございました。


さておき
狭い会場、決して多くないお客にもかかわらず
手抜きのテの字も感じられない、
サービス精神に溢れたステージを展開してくだすったLORDIさんたち。
のろはなんだか感動してしまいましたよ。

おかげで、当初はおとなしく観戦しようと思っておりましたのに
お待ちかねの 『HARD ROCK HALLELUJAH』 に至る頃には
ワタクシもしっかりこんなこと ↓ しておりました。




ぜひともまた日本に来ていただきたいものです。


おまけ。
検索するといろいろと彼らのオモシロ画が出てまいります。


くつろいでみたり。
lordid pevitamas:) | DELFI blog

アビイロード歩いてみたり。

Beatles Coffee Shop in London near Abbey Road

最高なのはコレですね。

snuf.dk Blog Archive Strk pege- og lillefinger, bedstemor





コレに対抗できるものといったら、もう、アレしかございませんとも。ええ。

OHMS Photo Gallery - Klaus Nomi in Akron Ohio from newspaper/pg-4ph-1

しかもドナルドダックのクッションですぜ、買ってるの。

まあそんなこんなで
ライヴまでにできるだけ歌詞を覚えようと、この所LORDIばかり聴いていたので
そろそろ普段のノミ生活に戻ろうと思っている今日この頃ののろでございました。


放哉忌

2007-04-07 | 忌日
本日は 尾崎放哉の命日でございます。
享年42歳。

咳 を し て も 一 人

ワタクシが放哉の句に出会ったのはたしか高校の教科書でのこと。
「頭を殴られたような衝撃」とはよく使われる比喩でございますが
この一句を目にした時のろを見舞ったのは、頭に釘を打ち込まれたような衝撃でございました。
おかげで、山頭火も斎藤茂吉も頭からふっとんでしまいました。
啄木は残りましたが。


こちらは数年前に制作した、豆本放哉句集。(写真がきたなくて申し訳ございません)


中はこんな感じでございます。



3ツ目綴じというやり方でございまして、真ん中のみ、綴じ糸が見えます。



蟻 が 出 ぬ や う に な っ た 蟻 の 穴

机 の 足 が 一 本 短 い

白 い 子 犬 が ど こ 迄 も 一 疋 つ い て く る

死 に も し な い で 風 邪 を ひ い て い る

あ る 昼 ほ が ら か に 花 が 散 り そ め し

読んでいるとたまらないような心地になります。

蟻 を 殺 す 殺 す 次 か ら 出 て く る

花 が い ろ い ろ 咲 い て み ん な 売 ら れ る

好きな句を挙げて行くときりがございませんので、これにて。

鞠 が は ず ん で 見 え な く な っ て 暮 れ て し ま っ た

『ダリ展』2

2007-04-04 | 展覧会
なにゆえ野村アナは降板なのでございましょうか。降板というより単に移動なのかもしれませんが。
いえね、NHK「新日曜美術館」の話でございますがね。
かの ”はな”嬢、即ち、多くの番組ファンの眉根を大々的に寄せしめた彼女ですら
3年あまりもーーーそれ以上だったでしょうかーーーあのポジションを去ることがなかったというのに
ナンジャコリャな服装をすることもなくナンジャソリャな発言をすることもなく
まっとうに任をはたしていた野村アナがたった1年で移動とは。
もしかして好評につき石澤アナが復帰したりして と
むなしい期待を抱いてみましたが、これはむなしいままに終わりました。さすがに出戻りはないようでございます。
ま、いたしかたございません。今は後任のかたの司会センスに、期待を寄せることにいたしましょう。

さておき
3/31の続きでございます。

本展を締めくくっておりますのは、ダリが発表した最後の絵画
『無題(燕の尾とチェロ)』(←上でぴかぴかしている”Click Here”は無視してください) でございます。

画面いっぱいに
四方を鋲でとめたキャンバスを描きこんでいるような。
またワタクシはこの四方の縁取りが、キャンバスの縁であると同時に
舞台における袖幕やどん帳のようにも見えるのでございます。
キャンバスの縁にしても舞台の幕にしても、日常と非日常(絵画空間/芝居)の境目にあるものでございます。
絵画の限界点であるキャンバスの縁は、日常と、絵画の中の世界を空間的に仕切るものである一方
幕は日常と芝居を時間的に仕切るものでございます。
幕が上がれば芝居が始まり、幕が下りれば芝居は終わる。
キャンバスの縁、あるいは舞台の幕は、「お芝居は、創造された世界は、ここを持って終了します」というサインでございます。

ダリ最後の作品である、という前知識ゆえの先入観かもしれませんが
ワタクシにはこの作品が「これでもう、ダリ・オン・ステージはおしまいですよ」という
ダリのメッセージのように思えるのでございますよ。

ちなみに本作が描かれたのは1983年5月のこと。 (1983年・・か・・・・・)
ダリが亡くなったのは、1989年1月23日です。
最後の作品制作から没するまでの6年間は何をしていたのかと申しますと
プボル城という所に引きこもって、ひたすら隠遁生活を送っていたのでございます。
このお城は、ダリのミューズであり守護神であり支配者でありマネージャーであったガラ、
1982年に他界した妻、ガラに、ダリ自らがプレゼントしたお城でございます。

絵を描き、文を書き、デザインをし、世界にその姿をさらし続けた人が
それら全てのことから身を引いて、6年の間、何を思って暮らしていたのだろう?
と 考えますと、なんともやりきれぬような、切ない心地になるのでございました。

と まあ しんみり いたしましたところで
会場を一歩出ますとそこはミュージアムショップ。
「売れるキャラクターとしてのダリ」が炸裂しております。
ダリの白黒顔写真をそのまんま使ったダリうちわなぞもあり。
即ち、こういうもの ↓ でしたが。



ダリというキャラクターだからできるこってございますね。

のろはものを失ったり捨てたりするのがずいぶん嫌なたちでございますので
そもそもなるべくものを持たぬようにと、日頃から(一応)心がけているのでございますが
今回はなかなかに心くすぐられるものがございまして、購入してしまいました。いえ、うちわではございませんで
これでございます。



ダリグラス&ダリカップ。
この写真では見えづらいのですが、ショットグラスの方にもしっかりヒゲがはえております。
そしてこのグラス、ちょっとしたいたずらが仕掛けられているのです。
即ちこのような。

ずん




ずんずん




うきゃーーーーーっ




蠅。