のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ねじれのこと

2013-07-24 | Weblog
ワタクシもすぐ斜めな気分になっては、世の中どうにでもなれバーローなどと思いがちな人間ではございますが、毎度毎度の投票率の低さを見るにつけ、みんなほんとに本気でそんなにも世の中どうでもいいのか?!と、驚愕の思いを新たにするのでございました。

さておき。

おとついの朝刊各紙には「ねじれ解消」の大見出しが踊っていおりましたね。
そこでワタクシは土曜日、つまり投票日前日に行われた、詩人アーサー・ビナードさんの講演を思い出さずにはいられませんでした。

愛媛9条の会第10回総会 アーサー・ビナード講演会 「ピカが教えてくれたこと―広島、長崎、原爆、原発」
(挨拶などを経て、ビナード氏の講演が始まるのは18:40から)

『蛍の光』が昆虫の歌ではないことを知って、もと昆虫少年としてたいへんがっかりしたというエピソードに始まり、エネルギー産業のありかた、「苔」をキーワードに考えてみた今の世のありよう、「焼夷弾」という言葉を辿って見えて来たもの、日本に落とされた2発の原爆にこめられたペンタゴンもといペテンタゴンの思惑(陰謀論の類いではございません)、「核兵器」「原爆」「原発」そして「ピカドン」という言葉と発話者の立ち位置の関係、などなど。
言葉と現象と印象操作にまつわるもろもろの欺瞞。ソフトな語り口で、全編をユーモアのオブラートでゆったり包みながらも、内容はたいへん真面目で示唆に富むものございます。片手間に見始めたのですが、用事を脇に置いてすっかり見入ってしまいました。

その中でいわく。

色々調べてみた所、「ねじ」や「ねじり」はさておき、「ねじれ」は否定的な意味合いでしか使われない日本語だ。
一方「解消」は、こじれたものが元通りになるという肯定的な意味合いで使われる言葉だ。
選挙というのはその時々の民意を反映するものだから、選挙ごとに勢力図が変わるのは当たり前、衆参両院の多数派が異なることは悪いことでもなんでもない。
ところが大手メディアは「ねじれ解消(悪い状態を良い状態へ)」という言葉をさも客観的な装いで使うことで、自民党が過半数を占めるのはいいことだ、という印象操作をして、本当の争点を隠している。
これでは報道の意味が無い。...


北海道新聞、東京新聞、琉球新報といった地方紙やフリージャーナリストは気を吐いておりますし、もちろん大手メディアの中にも、ジャーナリストの気概を持って誠実に頑張ってらっしゃる方々がいらっしゃることでしょう。
しかし全国紙が軒並みこうした有様である所へ、言論・表現の自由を統制するのにいっちゃん乗り気な政党が圧勝したというのは、何ともげんなりする話ではございます。

憲法改正で日本が「ブラック国家」化ー表現の自由弾圧、拷問フリー、戦争に行かなければ死刑(志葉玲)

いやはや、こうなると、世の中どうにでもなれ感がますます高まるわけではございます。
それでも、次も、その次も、投票へは絶対に行ってやりますとも。
電話恐怖で視線恐怖で希死念慮気質でただでさえ生きにくい性質なんです。
これ以上生きにくくされてたまるかってんだバーロー。



「子供や孫に死ね、殺せという覚悟」って。

2013-07-19 | Weblog
まずは、もう皆様とうにご存知だとは思いますけれども、念のためご紹介しておきますね。

2013年参院選 毎日新聞ボートマッチ「えらぼーと」

例えば「憲法改正に反対ですか、賛成ですか」といった設問に対して、あなたの関心の高さを示す3段階の度合いと、その設問に対して「賛成」「反対」「無回答」のどれかを選んで行くことで、あなたの考えに最も近い政策を掲げる政党を割り出せるというサイトでございます。
そのトピックに関する簡単な用語説明や背景解説を読むこともできます。最後に自分の回答を見直し・訂正できるページも設けられております。結果が白黒ではなくパーセンテージで示されたり、自分の選挙区の候補との一致度を見ることもできたりして、わりと面白いので、まだというかたはぜひ一度やってみてくださいませ。


さて。
本題でございます。
これももう皆さんとっくにご存知かもしれませんが、念のため。
以下、黄色い文字の部分は引用文。

「お母さん、あなたの息子やお孫さんが、あの小さな島のために死んでくれますか。人殺しをしてくれますか」
こうした国家からの重たい要請に、喜んでとまでは言わないまでも、少なからぬ決意を持って「わかりました」と応じてくれる国民が、どのくらいいるのでしょうか。少なくとも過半数はいないと、「毅然たる外交」なぞ、誰が総理になっても夢のまた夢です。  


今回の参院選に京都から立候補してらっしゃる、民主党・北神圭朗氏の文章です。
上の引用だけでもお分かりかとは思いますが、国土を守るための犠牲を払う覚悟が国民になければ、政権としては強気の外交などできないのだ、という文脈でのご発言です。
全文はこちら。

尖閣問題で感じた、我ら日本人のビビり根性 | 日本とはどんな国なのか? 「大きな物語」としての日本 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

ええと。

「私たちの子供や孫が、小さな島やなんかのために死んだり、人殺しをしたりしなくてもいいように、私たちは一生懸命、全力を尽くして、暴力以外の方法で外国とのトラブル解決に取り組みます」という覚悟をうたっているのが、今の日本国憲法の、あの有名な9番目のやつですよね。氏のマネをして「意訳」してみましたけれども。
ワタクシにはこっちの覚悟の方が、自分たちの子供や孫に、死ぬことや人殺しをすることを期待する「覚悟」よりも、よっぽどといいもののように思われるのですが。

(最大限好意的に考えるとすると)おそらくこの「死んでくれますか」の一節は単なるたとえとして持ち出したもので、わざと極端な言い方をしたものではございましょう。

けれども。
ワタクシはこれを読んでギョッといたしましたし、全文を読んでなおさら暗い気持ちになりました。

ワタクシには子供はおりませんが、知人にはまだ小学校へも上がらない小さい子や、中学校へ通い始めたばかりの子供を持つ人がおります。窓の外では今日も近所の子供たちが、「だるまさんがころんだ」に興じてきゃあきゃあ言っております。
よしんばたとえであったとしても、この子供たちに向かって「小さな島」のために死になさい、人殺しをしなさい、などと言う「覚悟」は、ワタクシにはございません。持ちたいとも思いません。
むしろ「小さな島」なんぞのために死んだり、人殺しをしたりしなければならないことになったら、全力で逃げなさい、隠れなさい、と言いたい。むしろ「隠れるところがないなら、何も持たなくていいから、うちへいらっしゃい」と言う「覚悟」ならば、持ちたいと思う。

加川良 「教訓 I」 Kagawa Ryo "Kyokun I" (Lesson One)


「青くなって 尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい」...とね。何と優しい旋律であろうか。

「小さな島」が問題なのではございません。ジョークならともかく、何であれ「それのために死ね、それのために人を殺せ」ということを真面目に語る気には、ワタクシはとうていなれません。「私はそれのためならば死のう」という覚悟なら、まだしも本人の勝手でございます。命を賭けて何かをなそうと、あるいは守ろうと、なさるのは結構です。しかし、そこで賭けられているのは自分の命であって、他人の、ましてや決定権を持たない子供たちの命であってはならないはずでございます。

北神氏はこのあとに
「事が起きたら、自衛隊や米軍が適当に頑張ってくれるだろう」という、甘ったれた、無責任な、傍観的な態度は許されないのです。
とおっしゃっておりますけれども、ワタクシは自衛隊や米軍の兵士たちにも、死んでほしいとも人殺しをしてほしいとも思いません。だから今の憲法の前から9番目を変えてほしいとも思いません。
また「子供や孫たちに”死ね、殺せ”と言う覚悟が国民にないようじゃあ、外交がままならなんだよね」とおっしゃるような政治家も政府も、全力で願い下げでございます。
もちろんこういう党↓も。
石破自民党幹事長「国防軍は戦争に行かなければ死刑か無期懲役か懲役300年」そんな党に投票しますか - Everyone says I love you !

でも、この夏以降、きっとだんだんそういう国になっていくんだろうな。
ずっと前にそうだったみたいに。
あらかじめたっぷり絶望しておいて、それでも、投票へは行きますよ。
振り返った時に「あの時私は何もしなかった」と思いたくないから。

ソーターさんがルーサーをやるかもしれないと。

2013-07-17 | 映画
まあ、なんです。
国内外のうんざりするようなニュースを見聞きしたり、ネット上で読むに耐えないような罵倒や差別主義むき出しの言説に出くわしたり、おとつい買ったばかりの小松菜が冷蔵庫の中で半分ぐずぐずになったりしておりますと、もう何もかも早いとこ滅んでしまえバーロー、と思ったりしてしまうわけですが、それはそれとして皆様、投票へは行きましょうね。選挙権なんて当たり前のように言いますけれども、志ある先人たちがたいへんな努力のすえ、ワタクシたち庶民に遺してくれた権利なのでございますから、それを自分から放棄してしまうのはいかにも馬鹿馬鹿しいし、もったいないというものです。


ということとは全然関係なく。

スーパーマンをカッコいいと思えたためしがないのでございますよ。
コミックをきちんと読んだことがない者がこういうことを申しますのは、甚だアンフェアなことではございます。けれども、とにかく子供の頃に見た映画にしても、ネット上で見られるアニメやゲームやコミックの断片にしても、ケントさんステキ、スーピーかっけえ、と感じられたことがいっぺんもございませんのです。
「いいひとだなあ」ぐらいなら思わないでもありませんが、弾丸よりも早く機関車よりも強く高いビルだってひとっ飛びの上に、透視できたり目からビーム出たり耳がものすごくよかったり、色々とパワーありすぎ便利すぎなわりにはクリプトナイト出されただけでへろへろになるのって、なんか非常にバランス悪くないですか。

そもそも正義のヒーローというやつも鳩胸ムキムキ体型も好きではないのろさんのことですから、その代表選手と言うべきスーパーマンを好きになれなくとももむべなるかな、ではございます。
が。
それに加えてケントさんの場合はコスチュームの問題もございます。
これまたファンのかたには申し訳ないのですが、あのコスチューム、ワタクシにはもはや生理的にダメというレベルでダメでございまして。かつてジョーカーさんがスーパーマンとフラッシュ(多分)を指してfashion disastersと呼んでらっしゃいましたが、まあおっしゃる通りだと思います。もっとも、スーピーさんに比べれば、真っ赤な全身タイツのフラッシュはだんぜんマシな方ではないかと。

それは「パンツはコスチュームの下に履くものだとようやく理解した」r2013年版映画のデザインでもたいして変わらず、当然のこととしてワタクシは映画『マン・オブ・スティール』を観に行くつもりもございませんでした。

ところが。
最近、マーク・ストロングが『マン・オブ・スティール』の続編にレックス・ルーサー役として出演するかもしれない、という噂が流れて来ているではございませんか。ケビン・スペイシーがひき続きルーサーをやるって話は立ち消えになったのかしらん。

Mark Strong Wanted as Lex Luthor in Man of Steel 2! - MovieWeb.com

そりゃあねえ。
ソーターさん、普通にスーツ姿で喋ってるだけでも充分ルーサーに見えますもの。ちょっと細長いけど。
とにかく、もし二作目にマーク・ストロング・ルーサーが出るんなら、ワタクシはどうしたって劇場に足を運ばねばならないわけで、それなら一作目からチェックしておいた方がいいのかなあ、と思った次第でございます。

『スーパーマン』でルーサーをやるとなると『グリーン・ランタン』のシネストロはどうなるんだって。あれはたぶんもう続編が作られないからいいんだろうってウワサです。ソーターさん自身も「続編があるとしたらびっくりだね、そんな話はぜんぜん聞かないもの」とおっしゃってましたっけ。
2015年公開予定の『ジャスティス・リーグ』には当然グリーン・ランタンが出て来るこってしょうけれども、キャストは総入れ替えになるんじゃないでしょうか。主役のライアン・レイノルズも乗り気ではないようですし。

問題は、制作者側からオファーがあったとして、ソーターさんの方でルーサーを演じるお気持ちがあるかどうかです。インタヴュー記事などでは、悪役へのタイプキャスト傾向については別に気にしてないよ、というご本人の言葉をお見かけしますけれども。
これとか。
Mark Strong Webchat(いつ読んでも心なごむ、ファンとのウェブチャット。)

とはいえ、もしルーサーをやるとなると『グリーン・ランタン』、『キック・アス』に続いて三度目のアメコミ悪役でございましょう。いかに悪役には一番いい衣装と一番いいセリフと一番いいシーンが与えられている---Mark Strong: 'Villains get the best lines... and clothes' ---としても、「またかー」ってお思いにになりゃしないかと、ちと気がかりでございます。『グリーン・ランタン』の時のインタヴューからして、ご本人はとりわけアメコミに思い入れのある方ではないようでございますし。

だけど見たいなあ、ソーターさんのルーサー。ぜひとも見たいなあ。
でもって、来たる『ジャスティス・リーグ』でこんなシーンが



こんなシーンが



あったら、ワタクシとしてはたいへん嬉しいのですが。


『ホーリー・モーターズ』3

2013-07-11 | 映画
『ホーリー・モーターズ』2 の続きでございます。

途中までは、役柄を演じるオスカーと、演じていない”素”のオスカーとは、見かけ上でも、その象徴するものにおいても、明確に区別できるものと思って見ておりました。即ち、リムジンの外でアポ(これこれの場所でこれこれの演技をせよ、という指令)に従事しているオスカーは、社会や家庭において何がしかの役割や人格を演じる個人を象徴し、逆にリムジンの中にいるときのぐったりしたオスカーは、何も演じる必要の無い”素”の状態の個人を表しているのだろう、と。

ところが話が進むに従って、アポと”素”との境が曖昧になるシーンや、リムジンの中においても緩いアポ的な指令が続いているのかと思われるシーンが出て来るんでございますね。昔の恋人との偶然の邂逅という、アポとは全く無関係なはずの一コマすらも、その出会いから突然のミュージカル化、そして別れに至るまで、いかにもいかにも映画的なわざとらしさでみっちり固められております。そこにいるのは演技をしていない”素”のオスカーというよりも、オスカーという人物を演じているオスカーでございます。

リムジンの外であろうと中であろうと、即ち、割り当てられたアポという形であろうと、自分で自分に課するものであろうと、「そこに在り、演じよ」という指令が止むことはないのでございます。
まさに、終わりなき舞台。監督の言葉を借りるならば「自分自身であることの疲労」と「新たに自分を創り出す必要」の間で板挟みになりながらも、生きること/演じることは続いて行きます。

演じ続けるオスカーの一日が人生の喩えであるならば、(どうやら上司らしい)アザのある男の「なぜこの仕事を続けるのか」という問いかけは、わりと究極でございます。それは、こんなにも疲労を感じ、時には顔の見えない誰かに批判されながらも、なぜそのように生き続けるのか、という問いかけでもあるからでございます。

対するオスカーの答えが、これまたわりと究極でございます。
「行為の美しさのためだ」
将来に掲げられた何がしかの目標のためではなく、物質的な充足のためでもなく、後世に何かを遺すためでもなく、今ここで生み出されては過ぎ去って行く、行為というもの、しかも、その美しさこそが、生きること/演じることの原動力であると。

アザ男が「美は見る者の目の中にある」と言うように、美は主観的なものでございます。そして生物が美を何かの目的に利用するということはあるにせよ、美それ自体は無目的なものでございます。
「何のために」という問いは、「答え→じゃあ、それは何のため? →答え→それは何のため?...」とどんどん後退していく余地のある問いでございます。が、「美しさのため」という答えには、その後退をぴたりと止めてしまう力がございます。

何となれば、美にそれ以上の目的はないからでございます。美を「何かのために」求める必要はない。
ちょうどこの映画における「インターミッション」が、作中の他のどの部分とも全くつながりを持たず、これ以外のパートにはまだしも感じられる背景やストーリー性もはなから用意されておらず、さらには唯一のセリフであるかけ声さえも、意味の通らない単語へとずらされているにも関わらず、問答無用に魅力的であるように。
そう、見知らぬ坊さんから「何の用ぞ(それでどうすんの?)」と問いつめられて窮してしまった道元禅師も「だってそれが美しいから!」と答えちゃえばよかったのですよ。

それを鑑みますと、セリフはおろか説明的な文言も一切ない、映像と音楽だけで構成されたドイツ版トレーラーは、不親切かついささか野暮ったくはあるものの、ひたすら「行為の美」にフォーカスしているという点で、本作をよく表現しているものと申せましょう。

HOLY MOTORS | Trailer german deutsch [HD]


ネット上のレヴューなどを読みますと、本作を評価していなくとも、「インターミッション」だけはよかった、という意見にちらほら遭遇いたしますが、それはこのアコーディオン隊ぞろぞろシーンにおける否みがたい「行為の美」が、理屈も意味付けも飛び越えて、見る者の心を揺さぶるからでございまよう。

アザ男いわく「だが、もし見る者が存在しなければ?」
いや、観客がいないということはありえません。私が行為する時、そこには必ず、その目から決して逃れることのできない、自分自身という観客がいるのですから。
倦むことなく街頭にくり出してはいくつもの役をこなして行くオスカーが、リムジンの中ではぐったりと疲労しているように、生きることの疲労もまた、そこ-----自分自身からの逃れられなさ-----に起因しているのかもしれません。しかし合目的性を要求するあらゆる問い、他者からのあらゆる批判を蹴散らす足場もまた、そこにあるのでございます。


とまあそんなわけでこんなにだらだら語ってしまいました。
ああカッコ悪い。
仕方がありません。
オスカーが演じることから逃れられないように、ワタクシはぐだぐだ考えることから逃れられないもののようでございます故。


『ホーリー・モーターズ』2

2013-07-09 | 映画
『ホーリー・モーターズ』1 - のろや の続きでございます。

「動きの記録」ということへの照準は、前の記事で映画へのオマージュと呼んだものの一端でございます。
パンフによると本作には、カラックス監督の自作を含めた過去の名作映画への言及とおぼしき部分が多数あるそうなのですが、ワタクシは他のカラックス作品を観ていないこともあり、せいぜいゴジラのテーマ曲と『顔のない目』のマスクくらいしか分かりませんでした。
それでも(あるいは、だからこそ)、映画という娯楽/芸術そのものに対する、監督のちょっと斜に構えつつの愛と讃辞とを、その絵から、語りから、しみじみと感じることでございました。

斜に構えつつと申しますのは、オスカーが演じる/生きる11の生というのが、キャラクター造形、見かけ上のシチュエーション、そしてセリフから音楽に至るまで、いかにも、いかにも、いかにも映画的な記号に溢れていて、言ってしまえば「ベタ」であり、その分ちょっぴり空虚だからでございます。
いさかい相手のもとにナイフ片手に乗り込んで行くやくざ者、死を前にした告白、帰りの車の中でばれる娘の嘘、20年ぶりに再開してつかの間の思い出に浸るもと恋人たち、美女と野獣、などなど。とりわけ「美女と野獣」であるところのメルドのパートは、端役までもわざとのわざとらしさに満ち満ちていて、ワタクシ大好きでございます。



こうしてわざと採用された紋切り型には、映画の語りに対するいささかの皮肉をも感じるわけでございますが、そこで繰り広げられる演技や絵作りは全く真摯かつハイクオリティでございまして、高まる緊張感であるとか、メランコリックな雰囲気であるとか、ほろ苦い感傷といった、そこで演出されるべきものがニクイばかりにばっちりと表現されており、しかも絵がやたらときれいだったりして、映画いいとこ詰め合わせの感がございます。
つまるところ、私たちは映画を見て感動するにも、ワクワクするにも、紋切り型というものをある程度必要とするのでございます。

もっとも本作では、セリフまでもがいかにも感に溢れている上に、本来持つべき文脈(その場面の背景をなすはずの物語)からは切り離されているため、シリアスなシーンであればあるほど虚しさが際立ち、それが時には滑稽なほどなのですが、これもまたわざとのことでございましょう。

そうして紋切り型(すなわち、送り手と受け手との間の了解事項、安心要素)をふまえつつ、各エピソードには観客の意表をつく展開が用意されております。
それは突然の静謐な美であったり、どこまでがオスカーの「演技」なのか分からなくなるような一コマであったり、逆にあたかも映画の真っ最中に「この物語はフィクションです」というテロップが流れるかのような、肩すかし的なやり取りであったり。
いずれにしてもそこには、映像と音楽の構築を通して、フィクション「を」語るということ、およびフィクション「で」語るということの愉悦がございます。

フィクションと当たり前のように申しましたけれども、もちろんフィクションであるこの作品には、「オスカーが演じる11の生の断片」(=演技のアポ)という11個の入れ子フィクションがございます。そしてそれらの小フィクションと、オスカーという人物の「現実の」生との境界は、時々ひどく曖昧になります。互いに全く関係のなさそうな「アポ」同士さえ、時に交錯します(銀行家とその殺害者、死に行く老人のテオへの言及など)。
この入れ子構造は「映画のポエジーは、映画の中にあるドキュメンタリー的な部分から生まれて来ると思う」という監督の言葉が表すように、映画というものにおける、現実とつくりごとの二重性を暗示しているのかもしれません。
...と、いうのはあくまでパンフを読んでからの後付けの発想でございまして、実際に映画を観ながら思ったことはもっと単純でございます。即ち、結局私たちは自分を演じるということから逃れられないし、人前で「ある私」を演じる自分と、一人になった時の自分とをハッキリ分けることなどできないのだろう、ということでございました。


次回に続きます。



『ホーリー・モーターズ』1

2013-07-07 | 映画
なんかもう人生も人類も保存の努力に値しないような気がして久しいわけですが
それはそれとして

『ホーリー・モーターズ』でございます。
監督自身が「編集の段階で初めてこの映画を発見した」とおっしゃってるくらいですから、たぶん、好きなように観て好きなように語ったらいい作品。というわけで臆することなくゴタクを並べようと思います。こういう作品って、あんまりくどくど語らない方がカッコいいんだろうなあとは思いつつ。

お話は、主人公であるオスカーなる人物が、楽屋よろしく衣装や小道具やメイク道具を満載したリムジンに乗りこみ、容貌も背景も様々に異なる人物に変身しては街頭に繰り出して、ある人生の一コマを演じて朝から晩までを過ごす、もうひたすらそれだけでございます。
それだけなんですが、これが大変面白かったのでございますよ。きっとわけわからん系の映画だろうと身構えておりましたので、こんなにもシンプルに楽しめるとは思いませんでした。笑いどころも多うございましたし。

何が面白かったのかと申しますと。
まず、全編を通じて散りばめられた、映画という娯楽/芸術へのオマージュ。
そして「人生は終わりなき舞台」というテーマ(このフレーズ自体は映画のキャッチコピーであり、つまりはコピーライターが考え出したものですが、インタヴューでの監督自身の言葉から鑑みて、これを本作のテーマのひとつと呼んでも差し支えないと思われます)を鼻先にぶら下げられつつ、それを取らせてなるものかという感じで振り回される楽しさ。
そして旋回し・愛撫し・よろめき・疾走し・襲撃し・時にはひっそりと息絶えて行く、ドニ・ラヴァンという小さな身体の引力、説得力でございます。

Holy Motors Official Trailer #1 - Film of the 21st century: reference



ソクーロフの『ファウスト』で事実上のメフィストフェレスを演じたアダシンスキー氏なんかもそうですが、マイム畑の人の身体には独特の引力めいたものがございますね。「肉体美」という言葉で連想されるのは、例えばボディビルダーやバレエダンサーの均整の取れた身体や、アスリートのがっちりとした筋肉でございましょう。しかしマイムや舞踏といった分野の人たちの身体には、そうした何か特別で彫刻的な美しさではなく、もっと卑近で、動きを伴った時に初めてその真価が分かるような、「用の美」とでも呼びたいものが備わっております。

オスカーが一日のうちに演じる/生きる11の生のうち、その身体性がとりわけ強く意識されるのは、まさしく「動き」が全てである、モーションキャプチャのスペシャリストとしてのパートと、それに続く下水道の怪人・メルドのパート、それからアコーディオン隊が無言で夜の教会を闊歩する「インターミッション」でございます。
また、映画の原点であり、映画における最も素朴な喜びである「動きの記録」ということ、それがことさら意識されるのも、オスカー自身のセリフが無いに等しいこれらのパートにおいてでございました。


次回に続きます。