のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『バーン=ジョーンズ展』

2012-09-27 | 展覧会
歳をとるにつれて
いかによく生きるかよりも
いかに楽しく過ごすかよりも
いかに心身を消耗しないかということばかり考えるようになりますな。
つまらないことです。実につまらないことです。

それはさておき

ワタクシがなぜバーン=ジョーンズの絵をあんまり好きではないかと言いますと、いまいちメリハリがないからでございます。とはいえケルムスコット・プレスの本が出るなら、一応見ておかねばなあという所ではあり、また第二次産業革命まっただ中の19世紀末という即物的な時代と、そのアンチテーゼとしての象徴主義やアーツ&クラフツ運動には興味があるわけです。
というわけで
兵庫県立美術館で開催中のバーン=ジョーンズ展 英国19世紀末に咲いた華へ行ってまいりました。

冒頭からいともロマンチックな、神話や騎士物語を題材とした絵がずらーりと並んでおりまして、なんだかこっ恥ずかしい。
同じようなテーマでもモローやルドンやウォーターハウスはOKなのに、バーン=ジョーンズだと何故こう、こっ恥ずかしいのか(飽くまでも主観でございます)、考えてみますと、バーン=ジョーンズは他の象徴主義に分類される画家に比べて、ちょっと丁寧に語りすぎると申しますか、象徴的というよりもむしろ説明的な感じがするのでございます。
勤勉で温和で極端を嫌ったというバーン=ジョーンズの人柄が忍ばれる画風ではあるのでございますが、ちと平板で穏やかすぎ、かつ絵解きが丁寧すぎて、見ているこちらとしてはあたかもポエムの一行、一行を説明されているようなムズムズ感がございます。上に挙げた三者と違って暗さや毒気がなく、闇と光のコントラストが低いというのも、ワタクシ的にはマイナスでございます。

そんな作品群の中で異彩を放っておりましたのが、ほとんど未完成のように見えるこれ。


「ステュクス河の霊魂」

どうです、この見る者の心に迫る絶望感!
ステュクスというのは要するにギリシャ版・三途の川でございまして、渡し賃がないので船に乗せてもらえない亡者たちが、延々と嘆きながら川岸をさまよっているわけでございます。あえて川の流れや亡者たちの表情を描かず、背景も茫漠とした闇に沈めることで、時間が流れることもない冥府の陰鬱さが、それはみごとに表現されているではございませんか。
こんなんばっかり描いててくれたらのろさんの大好きな画家だったであろうに、この作品はバーン=ジョーンズにおいてはかなりの異色作でございます。
で、バーン=ジョーンズらしい絵、ということになりますと



こうなんですよね。うーむ。

いえね、実際に「ラファエロ前」の時代であったら、これでいいと思うのですよ。彼らが目指した初期ルネサンス絵画はワタクシも大好きです。素朴で澄明な描写も結構ですし、時には深刻であったり残酷であったりする主題を奇妙に牧歌的な趣で表現したりするのも、よいものでございます。
しかしその後マニエリスムやらバロックやら、近世~近代に花開いた諸々の「〇〇主義」やらを経て来たというのに、たどり着いた所がこれでいいんかいな.....などと申しますと三途の川の向こう側で、癇癪持ちのウィリアム・モリスが、おとなしい親友に代わって頭からぽっぽかと湯気出して怒る姿が目に浮かぶようでございますな。

モリっさんに祟られないうちに本の話に移ることにいたします。
ケルムスコット・プレスに限らず、バーン・ジョンズが挿絵画家として関わった本が数点展示されておりましたが、やはり目玉はケルムスコット印刷、ダヴズ製本の『チョーサー著作集』でございます。
出展されていたのはこれ↓と同じもの。
[KELMSCOTT PRESS]. CHAUCER, Geoffrey. The Works of Geoffrey Chaucer. Edited by F. S. Ellis. Hammersmith, 8 May 1896. | Books & Manuscripts Auction | Books & Manuscripts, fine press books | Christie's
1800万円あれば買えるようですな。はっはっは。

表紙は空押し装飾を施した総白豚革装丁、綴じはかなり太い麻紐を使ったダブルコードで、立派な背バンドが中世の趣を見せております。小口には留め金が二つ。活字や本文紙と同様、わざわざこの本のために職人に依頼して作らせたものでございましょう。
産業革命の波をうけて19世紀初頭から、他の諸々の分野と同様に書籍業界においても、大量生産・大量流通がなされるようになったわけです。そして他の諸々の分野と同様、中にはしばしば経済性のみを優先した、粗悪な品がございました。モリスはこの事態を「犯意のようなもの」と呼び、彼の活躍した19世紀末を「醜いのが当たり前になっている時代」と評して嘆いております。本来は「印刷本であれ写本であれ、美しい物となる傾向を持つもの」である書物、「われわれにあのような限りない喜びを与えてくれる」書物に、しみじみと愛でるべき親密な美術品としてのステイタスを取り戻すべく奮闘したモリスと盟友たちの意気込みが伝わって来る一品でございます。
(上記引用はすべて『理想の書物』川端康夫訳 ちくま学芸文庫 2006 より)

閉じた状態でほぼA3サイズという並々ならぬ大きさの『チョーサー著作集』と同じ並びに、オランダで出版された『ユリアナ聖書』というものが展示されておりました。こちらは『チョーサー著作集』よりさらに一回り大きく、表紙全体を型押しの装飾画が覆い、中身に至ってはバーン・ジョーンズをはじめスイスのセガンティーニ、フランスのシャヴァンヌといった当代随一のアーティストが挿絵画家として動員されているというなかなかに大層な代物。が、中世マニアのモリッさんらが手がけたものと違って、こちらはいかにも19世紀らしい装丁でございます。表紙はこの世紀の中頃に普及した便利道具である「製本用クロス」を用いた「くるみ表紙」(本体と表紙を別々に作って最後に両者を接合する、簡易な製本方法)であり、花布も機械編みのごく味気ないものを貼付けただけでございます。こちらも豪華本ではあるのですが、総革装丁・手製本のケルムスコット本と並べられると、安っぽさは否めません。

とはいえ
『チョーサー著作集』がよくて『ユリアナ聖書』はイカン、ということではございません。ものとしての存在感、美術工芸品としての完成度でいえば、そりゃあモリッさん肝いりの『チョーサー著作集』に断然軍配が上がりましょう。しかしケルムスコット・プレスの本というのは要するにものすごく豪華な私家版であり、19世紀末当時の英国で一般に流通していた本ではありえないほどの手間と暇とお金と人材をつぎ込んで作られた「なんちゃってインキュナブラ(西暦1500年までに刊行された初期印刷本)」でございます。そりゃ、いいものができて当然ってもんでございましょう。
一方『ユリアナ聖書』は贅沢し放題の私家版とは異なり、当時としては最先端の素材と技術を使いつつ、量産体制の許す範囲で、最高の視覚的効果を上げられるようデザインされたものでございます。一冊の本のために国を跨いだ著名な画家の作品が集められたというのも、鉄道の登場と発展によって通信・物流環境がかつてないほどに整ったこの時代を象徴するようでございます。
「世界三大美書」(こういうの誰が決めるんでしょう)のひとつに数えられる『チョーサー著作集』と、いかにもその時代の産物である『ユリアナ聖書』では、おのずとその美的価値には差がございましょうし、ワタクシもどちらか貰えるとしたら、モリッさん本の方を選ぶことでございましょう。しかしその制作における真摯さ、そしてある時代を証言するものとしてとしての史的価値において、両者に優劣はつけられまいと、思ったことでございます。

さてバーン・ジョーンズはメリハリに欠けるから好きじゃないと冒頭で申しましたが、タペストリーに織り上げられると色彩や陰影がきっぱりとして、実際の絵よりものろごのみなものになる傾向がございます。本展には大きなタペストリーが2点展示されており、どちらもよいものでございました。そのうちの一点『東方三博士の礼拝』は去年の3月、美術館「えき」で開催された『ラファエル前派からウィリアム・モリスへ』展で見たものと同じ絵柄でございました。織物とは思えないほど見事な質感表現に感嘆しつつ、もう少し会場が広かったらもっと引きで見られるのになあと心中ぼやいて歩みを進めたあたりで、他のお客さんともども、会場を包む奇妙な揺れに気づいたのでございました。

雑記 - のろや

あれからたった1年半しか経っていないとは信じられないような心地がいたします。
京大カンニング事件なんて、もう10年以上も昔の出来事のように思われませんか。
長い長い1年半の間に変わったことやら変わらなかったことやら、変わってしかるべきなのに変わっていないことやらを考えるとそれはもう死の床のアーサー王のごとくぐったりしてしまうわけです。

そんなわけで
バーン・ジョーンズ展の会場を出たのちはそのまま同館ギャラリー棟で開催中の日カタール国交樹立40 周年記念「パール海の宝石」展へと進み、わあきれいだなきれいだな、ときらきらものでせいぜい目を楽しませてから帰路についたのでございました。

『もんじゃ焼きvs.お好み焼き』

2012-09-16 | 音楽
意外と知っている人が少ないようなので
『もんじゃ焼きvs.お好み焼き』をご紹介しておこうかと。

何かと申しますといわゆる和製ラップでございまして、もんじゃ焼き店におけるもんじゃ・お好み論争に始まって、東京人と大阪人がひたすらお互いをバカにしあうという内容でございます。最後はどこからともなく名古屋人が現れ、仲裁するのかと思いきや「きしめん食いに来たんだがや!」(もんじゃ焼き店なんですが)という浮きっぷりを発揮し、混沌を極めたままフェイドアウトという素晴らしい構成。

残念ながらネット上ではPVを見つけることができませんでしたが、全曲を↓で聴くことができます。

Yo!suke Ito vs.下町兄弟

「そんな俺らまるで意識しないのに、なんですぐに比較、カントーとカンサイ!」
「ちょっとボケかたひとつも知らんくせに、ほんでツッコミかたさえ分からんくせにゴチャゴチャ抜かすな!」

うむ、双方ごもっとも笑。

日中韓のミュージシャンがより集まってこういう曲を作ったら、すごく面白いと思うんですがね。明るく楽しくののしり合い。
『水餃子vs.焼餃子』とかどうでしょう。あるいは映画『プロデューサーズ』のように、登場するあらゆる面子がまんべんなくバカにされているようなタブーぶち壊しコメディもいいですね。
お隣同士でいいかげん付き合いも長いんですから、そろそろ三者とも、お互いを明るく笑い飛ばすくらいの成熟と余裕が見えてもよさそうなもんだと思うわけです。

『自然学 ~来るべき美学のために~』

2012-09-13 | 展覧会
考えすぎるのがいけないのか、考えなさすぎるのがいけないのか。

それはさておき

滋賀県立近代美術館で開催中の自然学|SHIZENGAKU ~来るべき美学のために~ へ行ってまいりました。
こちらで出品作家の概要を見ることができます。

滋賀県美、成安造形大学、そしてロンドン大学ゴールドスミスカレッジとのコラボである本展、成安造形大学の学長さんによると「地球環境がますます深刻化する中で、人間存在の基盤である自然と人間の関係をあらためて問い直し、『芸術』におけるグローバルなテーマとして『自然』を語ることで新しい時代の構築をめざす」プロジェクトの一環ということでございます。
大規模とは言えないものの、そのコンセプトにおいても、また単なる美術展ではなく、学者や大学を巻き込んだ多角的なプロジェクトの一部という点でも、意義深い展覧会でございます。

で。
そこでワタクシが思ったのは、言葉のことでございます。
人間と「自然」の関係を表す言葉の陳腐さを、つくづく呪わしく思ったわけです。
例えば、「自然を守る」「地球を守る」という言葉のおかしさ。簡潔で単純で分かりやすくて、唱えるとちょっといい気分になる、つまりスローガンとしては悪くないものであるために(あるいは、これ以上にうまい表現が見当たらないために)使われている言い回しではございましょうが、「守る」も何も、そもそも私たちは「自然」や「地球」がなかったら生きられないではございませんか。逆に「自然」や「地球」の方では、人間がいなくたって何の問題もなくやっていけるわけです。「自然」も「地球」も庇護の対象ではなく、むしろ私たちが全面的に依って立つものであり、それなしではいられないものであるはずなのに、便宜的に「守る」という言葉を使わざるをえない、そのもどかしさ。

展覧会や作品を批判しているのではございません。ただ、その場で表現されていることを言葉にしようとした時の、ものすごいちぢみっぷり、色あせっぷりに、我ながらがっかりしてしまったわけです。もちろんこれは受け手であるワタクシの感受性の低さ、語彙の乏しさ、そして表現力のなさに負う所もたいへん大きいのであって、ひとえに言葉の陳腐さのせいだけではないのではございますが。

というわけで個々の作品について駄弁を弄することは控えて、とりわけ印象に残ったアーティストをご紹介するにとどめたく。

石川亮
本展では「全体-水」という作品(↑の上から1~4枚目)が再展示されておりました。琵琶湖周辺の116カ所の水源から集めた水を氷にして金属の台の上に配置し、それらがゆっくりと溶けて一カ所に集まる様子の記録映像と、実際に使われた装置を見ることができます。隣の台に林立しているのは、めいめいの取水地の名前が記された116本の小瓶。

"馬場晋作
鏡のように磨かれ、松の枝が描かれたステンレス板が壁のそこここを飾り、あるいはつり下げられ 鑑賞者の姿を取り込みながらお互いの像を映しこむ、小宇宙めいた空間が構成されておりました。


で、また言葉の問題に戻りますけれども。
「人間も自然の一部」という言葉にも、もどかしさを感じるわけです。言葉の内容自体は全くそのとおりなのではございますが、「人間」と「それ以外のもの(=自然)」という明確な線引きが前提となっており、そこにはやっぱりどこか人間のみを特別視しているような、甘ったれたニュアンスがありはしないでしょうか。
そうはいっても人間である以上は、結局人間視点でものを考えざるをえないのであって...
単に言葉の問題なのかもしれませんけれども、今までの野放図な人間中心主義とも、人間を地球に巣くう害虫のように捉える極端な(それにより、かえって「自然」という概念を矮小化している)「自然保護」思想とも別の考え方を促すような、新たな言語表現が現れないものかと思います。

例えば
自然という名の<非-場(ユートピア)>への回帰や全自然との一致を目指すのではなく、極めて具体的・直接的な<喜び>の組織化を個別的な現場から行うプロセスの中で、活動力の増大を図ること。その中で、自己言及的なプロセスが始動するとき、すなわち自己原因としての、自己差異化としてのプロセスが現出するとき、その時にこそ私たちは真の意味で自然を生きるのであり、自然と一致するのではなく、自然を構成する、つまり新たな自然を創り出すことになる。私たちが活動する以前の状態も活動したあとの状態も自然であることには変わりはないからである。自己の本性と一致するものと私たちがより多く結びつくにつれ、私たちの活動力は増し、自己原因としての自然は新たな自然を形作る。したがってそこでは、私たちの活動力-----これはスピノザによればつまるところ、思惟の能力、身体の能力である-----を増大させるものである限りにおいて、あらゆるテクノロジーが援用されることになるだろう。自然はその時、超越的でも外化された「もの」であることも止め、真に内在的な私たち自身の生の組織化における過程(プロセス)そのものとなるのである。
浅野俊哉 『スピノザ 共同性のポリティクス』2006 第6章 <自然>の脱構築 p.159

...といった思想を簡潔に表現できる言葉が、生まれてこないだろうかと。
思うに、近代以降の人間中心主義ではもはや立ち行かない所まで迫りつつあるにも関わらず、そのことに気がついてからほんの数十年しか経っていないために、まだ言語表現が追いついていないのかもしれません。
歴史のある時点で「精神病」という言葉と概念が生まれて、それまでは「狂気」という言葉と概念で捉えられていたものを「ケアすべき疾患」へと転換していったように、あるいは、もともとは「大地」という意味しか持たなかった「EARTH」という語が、いつからか「地球」という天体と概念をも表すようになったように、これからの時代にふさわしい人間観・自然観を表現する新しい言葉と概念が、今生み出されつつあるのかもしれません。

本展はまさに、そうした新しい概念・言葉・表現そして人間/自然観を模索する試みと申せましょう。冒頭に述べましたとおり、その点でたいへん意義深いものでございます。
ただ、アートファン以外には「よくわからない現代美術」として敬遠されしまいそうな作品が少なくなかったのも事実であり(平日とはいえ、二時間半ほどの間に遭遇したお客さんはせいぜい5人ほど)、それもまたもどかしいことではございました。
説明的ならいいというものではございませんが、なにごとかを「表現」するだけではなく、人を惹き付けて「伝える」「訴える」力というのも大事だよなあ、と思った次第。
これまた受け手の問題でもあるのかもしれませんが。


ここで言及されている<喜び>とはスピノザ独特の語法のひとつであって、「具体的・直接的」といっても単なる快楽を意味するものではありません。スピノザにおける「喜び」および「悲しみ」は、心身の活動力の増加および減少を示す情動であり、同書p.168から引用するならば「スピノザの言う喜びは、自らの本性に沿って<存在する(ある)>ということ自体に伴う喜びであって、存在に付加される<所有(持つこと)>や<消費>に伴う高揚感とはまったく別」のものです。
また「自己の本性と一致するもの」とは要するに「喜び」を感じさせるもの=心身の活動能力を増大させるもののことであり、ドゥルーズはそのとっても分かりやすい例として「食べ物、愛する者、友など」を挙げております。(『スピノザ 実践の哲学』 2002 平凡社ライブラリー p.210
自己の喜びを追求する、といった時、あらゆる利害が衝突し合う食い合いの世界を想像することもできますし、『エチカ』にはゴリゴリの人間中心主義的な言説として読める一文もあることはあるのですが、むしろ「<生命>をその他の<生命>との<関わり>の中で肯定していく」(浅野俊哉 前掲書 p.288)思想として捉えることが、現代的かつ正当な読み方ではないかと思うわけです。

ネットで見つけたもの

2012-09-07 | 美術
今日も今日とて新鮮なネタがご用意できない当のろや、寿司屋さんだったらとっくの昔に廃業している所でございます。それにしても海洋汚染がえらいことになっているという予測もある中、本業の寿司屋さんや魚屋さんはこの先やっていけるんでしょうか。

明日うらしま: 100:人類的犯罪フクシマ事故の太平洋放射能汚染長期シュミレーション/ドイツ・キール海洋研究所

さておき。

本日はネット上で偶然に見つけたアーティストをご紹介しようかと。

まずはMehmet Ali Uysal というトルコのアーティスト。
こんな作品をお作りんなります。

緑の大地と洗濯ばさみ。何とも爽快でございますね。

ランドスケープ・アートが専門というわけではなく、彫刻やインスタレーションを中心に制作なさっているようです。
こちら
こちらで主な作品を見ることができます。

ミニマルな造形と、鑑賞者をハッと、あるいはドキッとさせる発想、そしてそこはかとないユーモア。
こういうものに出会いますと、頭の中を爽やかな風が通るような心地がいたします。
ぜひとも金沢21世紀美術館あたりに、洗濯ばさみを引っさげて、来ていただきたいものです。

続いては
「非」とのみ名乗っておいでのかたです。本名は不明。日本在住であること、作画(あるいは、手描き原画からの加工)がPCによるものということ以外は何もわかりません。

非: Archive

何でしょうねこの、雨の日の屋内のような鈍い階調と、縁日で売られているチープなおもちゃのような色彩ときらきらしさが同居する不思議な色彩感覚。
昨今はことさら病的な表現を売りにしているようなアーティストもおり、このかたも眼帯の少年や溶けかかったような頭部など、モチーフの点ではいささか病的な傾向がありはしますけれども、「さあビョーキでござい」といったあざとさは感じられません。むしろドイツの写真家ロレッタ・ルクスの作品のように、意識的に美化された対象を微妙に歪んだパースや不自然なほどの「きれいさ」で表現することによって、素朴なほどのあこがれやノスタルジアを感じさせる作品群でございまして、その表現力と独自性は大いにワタクシの心を捉えたのでございました。

それから
英国のコミック作家であるFrazer Irvingという御人。

Frazer Irving/I - J/ Comic Art Community GALLERY OF COMIC ART
Frazer Irving
I ART FRAZER IRVING

輪郭線、色使い、陰影のバランス、質感表現、構図のメリハリ、黒の使い方、ディテールの繊細さ、時に魚眼レンズ風に強調されたパース等々、どこを取ってものろごのみでございます。1970年生まれでコミック作家としてのキャリアは10年そこそこでございますが、その人気と芸術性が認められたということでございましょう、今年はじめには画集が出版されました。表紙を飾るのは自画像...



...というか
ほぼジョーカー。
ジョーカー好きなのかしらん。さもありなん。アーヴィングさん、それはそれは素晴らしいジョーカーさんをお描きんなりますもの。
つまり、こんなふうに。

Image of Joker - Comic Vine
Image of Joker - Comic Vine
Image of Joker - Comic Vine
Frazer Irving draws a sick Joker.

Batman and Robin must Die!より

ミイラ化した死体と楽しげにダンスするジョーカーさん、ぶん殴られて血みどろ姿でにっかりと笑いながら「俺はちっとも狂っちゃいない。違ったふうにまともなだけさ」とのたまうジョーカーさん、なんてセクシーなんでしょう。いえ、同意していただかなくても結構です。ワタクシがカワイイとかカッコイイと思うものにはたいていの場合、賛同者がおりません。

それにしても意外なことには、ネット上のレヴューで見るかぎり、この”Batman and Robin must Die!”の絵についてアメコミファンの間では評価が分かれているようなのでございます。「暗いストーリーによく合っている」と肯定的に見る読者もいる一方、劇画的な臨場感以上に絵としての芸術性を優先した、どちらかというと静的なアーヴィング氏のアートワークを、物足りないと感じる方も少なからずいらっしゃるようです。
ワタクシは諸手どころか諸足も上げて絶賛したい所なのですが。だって、バナナの皮で滑ってこけるというシーンにしてこの美しさですよ。

まあそんなわけで
血みどろジョーカーさん欲しさに、とうとうアメコミに手を出してしまいました。
くわばらくわばら。
深みにはまりませんように。深みにはまりませんように。