のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『プラテーロとわたし』

2006-05-29 | 
プラテーロはまだ小さいが、毛並みが濃くてなめらか。外側はとてもふんわりしているので、からだ全体が綿でできていて、中に骨が入っていない、といわれそうなほど。ただ、鏡のような黒い瞳だけが、二匹の黒水晶のかぶと虫みたいに固く光る。(長南 実 訳 2001 岩波文庫)

アンダルシアの詩人、フアン・ラモン・ヒメネス著『プラテーロとわたし』はこうして始まります。

本日は
フアン・ラモン・ヒメネスの命日です。

散文詩集『プラテーロとわたし』は
1956年にノーベル文学賞を受賞したヒメネスの代表作で
世界中で大人から子供まで、広く親しまれている作品です。
しばしば「珠玉の」という言葉が冠されるこの作品は、まさに
たなごころで輝く小さな宝石のように、つつましやかで、えも言われぬ美しさをたたえているのでございます。

都会で健康を害したヒメネスは、静養のため、アンダルシアの田舎町モゲールに帰郷し
静かな田園生活を送りながら
銀の毛並みに黒い瞳の小さなロバ、プラテーロに語りかけます。

小さな田舎町モゲールで
生を見つめ、死を見つめるヒメネスの視線は、やさしく荒々しいアンダルシアの風物へと向けられます。

ある時は 薔薇の上の雨つぶに
ある時は 子を案じる母犬に
光り輝く蜘蛛の巣に 
純金のようにまばゆい空に
銀の籠の中で死んだカナリアに
よき理解者であった父が眠る、古い墓地の糸杉に
そして いつも彼の傍らにいる、甘えん坊の小さなロバに。

神はいま水晶の宮殿においでだ。それはね、いま雨が降っている、ということだよ、プラテーロ。秋が、かさかさした枝にしがみつかせたまま残した最後の花は、いまダイヤモンドをいっぱいつけているよ。そしてダイヤモンドの一つひとつに、天が、水晶の宮殿が、神が、宿っている。(p261)

散文詩というよりも詩的なエッセイといった印象でございます。
のろがこの作品を知ったのは、絵本作家 長 新太 氏の展覧会においてでございました。
子供向けに翻訳された本作の挿絵を、氏が描いておられたのです。

Amazoncojp: プラテーロとわたし〈春・夏〉 本 JR ヒメネス伊藤 武好伊藤 百合子長 新太JRヒメネス

のろが持っております岩波文庫版にも、長氏のではございませんが、挿絵が入っております。

Amazoncojp: プラテーロとわたし 本 JRヒメーネス長南 実

改装してこんなふうになりました。





これは一昨年の展覧会に出品したので、今年は出さない・・ 予 定 でございます。
期限までに10冊できなかったらまた出すやもしれません。

『今日の芸術』(書き直し)

2006-05-27 | 
*朝UPしましたが、その後若干書き直しました*


『今日の芸術』 (岡本太郎 著 光文社 1999)を改装しました。



そもそもは1954年に、同社のカッパ・ブックスで出版されました。
序文によりますと、この文庫版は横尾忠則氏の要請で、近年再版されたものなのだとか。
横尾氏の作品も岡本氏の作品も、あんまりのろ好みではございませんが(評価しないということではなく、好みの問題です)
ブックオフをさまよっていた折にこの本が目に止まり、何となしに「これを読まねばならないのう」という気がしたので
ふらふら買ってみました。
良書でございました。

「今日の芸術はいかにあるべきか、また、なぜそうなのか」を、平易に、具体的に、かつまた明晰に、論じておられます。
50年も前に書かれた「今日」じゃあ、今はもう古びているかというと、これが全くそんなことはございません。
と申しますのも、本書の論は、その時代のみに照準を合わせたものではなく
いったい芸術とはどんなもので、社会の中でどんな役割を果たして来たものなのか、そしてこれからはどうなのか
という、より大局的な観点の中で展開されているからでございます。
非常に読み易い文章でありつつ、内容は濃くエネルギッシュです。
「解説」では赤瀬川源平氏が本書を、消化吸収のいい、スポーツ選手の食べるバナナに例えております。

「一つの時代には、一定の芸術の課題があります。(中略)われわれにはわれわれに与えられた当面の問題があり、それは当然それにふさわしい新鮮な形式によって解決されなければならないのです。」(p.64)

芸術論のみならず、ものの見方について、読者に一考せしめる本でございます。



印象的な言葉が沢山ございました。
その中の一つを裏表紙に使ってみました。

芸術は、いわば自由の実験室です。芸術の世界では、自由は、おのれの決意しだいで、今すぐ、だれにはばかることなく、なにものにも拘束されずに発揮できるのです。(p.172)

そうと分かっても、拘束から逃れることはなかなか容易ではないわけでございますがね。

見返しと同じデザインで、しおりも作ってみました。



これも再三申しております、11月の展覧会に出品いたします。
詳しくはこちらを。↓

NPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会


最後に、本書の中から岡本氏御自身のエピソードをひとつ。

氏がパリとN.Y.で個展する前に、日本の講演会で
「あちらで何を得てこられるでしょうか?」と質問され
「いえ、こちらが与えに行くんです」と答えたという。

この気概、この真摯な、腹のくくりよう。
こっ れは カッコイイ。

しかし、この返事に満場の聴衆はドッと笑ったのだそうです。
うーむ。

ロバート・キャパ写真展

2006-05-25 | 忌日
本日は
ロバート・キャパの命日でございます。
1954年5月25日、インドシナ(現ベトナム)で撮影中、地雷に触れて亡くなりました。
享年40歳。

キャパの最期については、こちらの ↓ ブログで詳しく書いておられます。

THE EYE FORGET ロバート・キャパが地雷を踏んだ最期の場所が無くなる。

短い生涯の間に、数々のすぐれた報道写真を発表し続けたキャパ。
彼の写真展が、5月31日から6月12日まで、大丸ミュージアム神戸にて開催されます。

DAIMARU MUSEUM:神戸店スケジュール

↑ 画像をクリックすると、詳しい情報が見られます。

『ロバート・キャパ写真展 CAPA IN COLOR』
CAPA IN COLOR、そう、カラーなのでございます。
死の直前に撮影された有名なショットも含め、
近年発見されたという未発表カラー写真を「世界に先駆けて一挙公開」というのですから
これを見逃す手はございませんよ。

通常、当 のろや では、のろが観て来た、かつ開催中の展覧会をご紹介しているのでございますが
当方もちと先駆けて取り上げてみました。




ノミ話9

2006-05-23 | KLAUS NOMI
結局の所
死ぬまでの間しか生きないのででございますし
あまり長いこと生きるつもりでもございませんから
好きなこと喋らせていただこうと思います。
というわけで、ノミ話でございます。

短い人生の間に喋りたいのはこんなことなのかって。こんなことなんです。
Lass mich in Ruhe.

いえ ね。
先日、書店でノミっぽいものを見つけたんでございます。ほらっ。



このタイポグラフィはまさしく、



映画『ノミ・ソング』のそれと同じものではございませんか。
ちなみに、映画のパンフでは、ご丁寧に奥付け部分でもこの文字デザインを使っております。



『トランスジェンダー・フェミニズム』という本です。
「トランスジェンダー」という言葉は、広義には、生得の性別に違和感を持っている人、の云いです。
本書では「性別超越者」という訳語を使っています。
今回はジェンダーのお話には立ち入りませんが、本書の概要を申し上げておきます。
自身トランスジェンダーである田中玲氏が、フェミニズム、ジェンダー、トランスジェンダー、および
こうした枠組みでもって人を分類したがる社会について、体験に即して率直に論じておられます。
「何故世の中には、性別というメンドークサイ枠組みがあるのだろうか?」と常々思っているのろには、大変興味深い内容でございました。


「性別超越」といえば1981年当時、フランスの「リベラシオン」紙が、ノミについてまさしくこう書いておりますよ。

Asexual creature, sad clown with the body of an extra terrestrial, the love child of Callas and Elvis Presley
「性別の無い生き物、地球外生命体の身体を持った悲しき道化師、マリア・カラスとエルヴィス・プレスリーの私生児」


こう言われて嬉しかっただろうと思うのですよ、ノミ。
ノミも周りの友人/スタッフたちも、まさしくこういうものを作りたかったのだろうと、思うのです。

「作る」と申しましたのは、ノミが自身を「作品」として扱おうとしていたからです。

It sounds affected but I do see myself as a piece of living art.
「気取った言い方かもしれないけど、僕は自分のことをひとつの”生きるアート”だと見なしている」
(英語版ノミソング公式HP ノミ自身のコメントより)

映画の中でも、こんな証言がございます。

Klaus Sperber was left behind really quick...I mean,he became very artificial personality.And I think he needed to do that.
「(クラウス・ノミとしてデヴューした後、)ほんのわずかの間に、クラウス・スパーバー(ノミの本名)は姿を消してしまった。彼はものすごくわざとらしい、作り物めいたパーソナリティをまとったの。きっと、そうすることが必要だったんだと思う」(友人 ガブリエル・ラ・ファーリ)

This was the wild NW experience that was going to be tightly controlled.There was definitely a sense that I was up against the surface...a very interesting surface...very well designed surface,but the surface that I wasn't going to go into it.
「(ノミを撮影するのは)厳密にコントロールされている感じで、とんでもなくニューウェーヴ的な体験だった。何かの”表面”にぶつかったぞ、というような、確かな手応えがあった。その”表面”は、とても興味深くて、みごとにデザインされている・・でも、僕はその中へ入って行くことができない、そういう”表面”」
(アンソニー・シベッリ 写真家)

He was so done...and so put together.....He realized that a wonderful act he had.And put a sought of rather...flippant and superficial side to something actually felt really deeply.
「彼はすごく”作られ”ていた。・・・・彼は自分のパフォーマンスが素晴らしいものだと自認していた。そのままで出せばとても深い感動を与えるものに、わざと、軽薄でふざけた側面を持たせていたんだ」
(アラン・プラット 記者)

もしかしてこんなことも著作権侵害になるのかしらんとビクビクしながらも もう一丁。

When he became Nomi, he shed Klaus Sperber.....I had been given a stage name at some point in my career and whenever I went outside, I guess I became that person, but behind closed doors I was still Gabriele. But Klaus never became Klaus Sperber again.
「”ノミ”になって、彼は”スパーバー”を脱ぎ捨ててしまった。・・・・私も、芸名を名乗るようになってからは、外ではその顔でふるまったけれど、家に帰ればやっぱり、もとのガブリエルだった。でもクラウスは、二度と”スパーバー”には戻らなかったの」
(ガブリエル・ラ・ファーリ 英語版ノミソング公式HPより)

自分を「作品」として扱う。しかも、常に。誰の前でも。
これ即ち、自分はどういう存在であるべきかを常に意識していなければならない、ということでございます。
甚だ緩慢に生きがちののろは、この点だけ見ても(関西弁/関東弁 両方の意味で)ああ、エライなあ、と思うのでございますよ。

更にエライなあと思いますのは、そうして作り出した「作品 KLAUS NOMI」が、あんなにも
思い切ってバカバカしく、チープで、うそくさくて、わざとらしい、まあひと言で申せばナンジャコリャな像であったということです。
(あの、ほめてるんですよ)

オペラにせよ、ロックにせよ、またその他のあらゆる表現について言えることでございましょうが、
すでに「よいもの」として認められている表現形式に、忠実にあるいは上手に乗っかったならば、それなりの成功は
-----あるいは、少なくとも、それなりの容認と理解は-----享受できるのです。
しかし、そうした表現形式からはみ出して、しかも相当にバカバカしい表層を持った表現を
あ え て す る、というのは、大変なことだと思うのですよ。
とにかく新しいものを求める、という時代の後押しがあったにしても。
(実際、ブーイングの嵐に見舞われたコンサートもあったのですし・・)


感動的に バカバカしくて美しい、ノミのパフォーマンス。(エエ、何とでもおっしゃい)
あんなにも突飛でチープな表層を打ち出しながらもなお美しいのは、テナーからソプラノまでカバーする歌唱の力は言わずもがな、
「あえて、それを、する。しかも、大真面目に」という心意気が、そこに存在するからでございます。

突飛でバカバカしい表層を持つものは、まずはその突飛さゆえに衆目を引きつけることができますが
まさにそれゆえに、「それだけのもの」と見なされてしまうリスクがございます。
とにかく一発大当たりすればそれでよし、というような、本当にただ上っ面だけのもの、も存在するわけでございまして
その活動期間の短さゆえに(死んじまいましたからね)、ノミもこうした「一発屋」の同類と見なされる向きがあるようですが

「変な人が変なことやって一瞬ウケた」というレベルでは、決してないと思うのでございますよ、ヤツの場合。

ちと マジメにノミ語りしてみました。
実はマジメに考えてるんでございます。
ヤツもマジメにやっていたことですし。

のろがマジメしたってせいぜいこの程度のことしか語れないのでございますが
生きている間に好きなこと喋っとこうと思って
長々つぶやいてみた次第でございます。




『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』3

2006-05-19 | 映画
5月17日の続きでございます。一応。

本作のチラシには、ひざまずいて許しを請うメルキアデス殺しの犯人、マイク(バリー・ペッパー)と
拳銃を片手にそれを見下ろす、メルの友人ピート(トミー・リー・ジョーンズ)のスチールが使われております。

公式HPで見られます。↓
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

パッと見、「大西部の掟」とでも題したくなるような写真でございます。
しかしこれは、本作の中でも最も心に訴える、美しいシーンです。ここで描かれるのは
ピートとマイク、そして私たち観客の心にもたらされる、カタルシス(浄化)なのでございます。

ロードムービー的なゆる~いテンションを保って進んで行く本作の
最後の最後に置かれたこのシーンにおいて、観客は1人の人間の 死の重み
即ち 生命の重み を、強烈に意識することにあいなるのでございます。

*WARNING* 以下、ネタバレを含みますいわゆる「衝撃の真実」の部分には触れませんが、ラストシーンにまつわることを申します。ご了承の上、お読みくださいませ。

2時間2分の間に3度の埋葬を控えたメルキアデス、先に申しました通り、登場した時点ですでに死んでいます。

『モンパルナスの灯』のモディリアーニやら、『ライムライト』のカルヴェロ、はたまた忠犬ハチ公(あったんです、映画が)
などなど、スクリーンを通してそれなりに付き合いのあった登場人物が映画のラストで死んだなら
観る側もそれなりに、涙のひとつもこぼせましょうが、いきなり死体で登場するメルキアデスに
のっけから同情の涙を流せる人は、おそらくおりますまい。
映画が始まった時点では、メルの死は観客にとって飽くまでも他人事であり、世界にゴマンとある「早すぎる、不運な死」のひとつに過ぎません。
友を失って落ち込むピートの姿も気の毒ではありますが、やはり他人事なのであって、彼の悲しみに共感するには至りません。
だからこそ、法も国境も踏み越えて、約束の地ヒメネスを目指すピートの暴走を、ユーモアとして眺めることができるのです。

実際、犯人を突き止めた以降のピートのしていることは暴走と呼ぶにふさわしい、不法行為オン・パレードです。

国境警備隊員であるマイクの家に押し入り、妻を拘束、当人を拉致。
埋葬済みの死体を掘り起こし(掘り起こさせ)、死体とマイクをラバに積み
捜査の手をかいくぐりつつメキシコに逆密入国。

「俺は悪くない。あれは事故だった」というマイクの言いぶんは
腹は立つもののもっともで、彼はメルを殺すつもりでは決してなかったのですが
ピートは「もっとも」なんてクソクラエ とばかりに、悲鳴を上げるマイクを最後まで引っ張り回します。
それを笑って眺めるうちに観客は、この腹立たしい若造や、回想の中のメルキアデスと、つきあいを深めていきます。

メルの素朴で真面目な人柄、彼がとてもいいやつだったということ、また
年は離れていても、ピートにとってかけがえのない友だったということが、次第にわかってくるのです。
一方、自己チューで暴力的なエロジャリだったマイクが、のっぴきならぬ状況にひきずり込まれて七転八倒し、
また国境に住む人々の温く素朴な人情に触れるにつれ、ギスギスした内面を少しずつ変化させていく様も見て取れます。

傍観者たる観客としては、半死半生の目に遭わされ続けるマイクを見るのは、実をもうせば、ちと小気味いい。
なにしろ彼は実にイヤなやつでしたし、どんなひどい目にあった所で、まず最後までは死にゃせんだろう、という
安心感も手伝い、ザマーミロ、そのくらいの目にゃ遭いやがれ、という感じで観ていられるのでございます。

しかし最後のシーンに至って、この安心感は破られます。
3度目の埋葬を無事終え、マイクをひざまずかせ「メルに謝罪しろ」と言うピート。
ふてくされた返事をするマイクに向かって、至近距離から無造作に銃を乱射します。
ピートは、今や本当にマイクを殺してしまうかに見えます。
観客はここで突然、凶暴で薄っぺらな、このどうしようもない若造の、それでもかけがえのない、生命の重さを
強烈に意識させられます。
それと同時に、夢も人生も奪われてしまったメルキアデスの死の重み、
全く理不尽なかたちで友を亡くしたピートの悲しみと怒りが------この、たった数秒のシーンで-----、
観る者の心になだれ込んで来ます。

「すまなかった。君の命を奪ってしまった。・・・」

およそ映画が始まってから誰に対しても、”ソーリー”だの”サンクス”だのという言葉を口にしなかったマイクが
初めて口にした謝罪の言葉によって、メルの死にまつわる全てのことが浄化され、
収まるべきところへ  スーッ  と収まっていくような感覚を、のろは覚えました。
そして全てが終わった後、一人去って行くピートの後ろ姿を見て
「ああ、”葬る”というのは、こういうことなのだな」と思ったのでございます。


2度に渡って、単に「埋められた」だけだったメルキアデス。
約束の地に、友の手で、彼を悼む言葉と共に葬られて初めて、
彼は本当の意味で「埋葬」されたのです。


京都ではミニシアターのみの上映となっておりますが
人生と死をめぐるオフトーンな笑いと
心地よいカタルシスを兼ね備えた名作でございました。


『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』2

2006-05-17 | 映画
「登場人物は一人残らずいやなヤツだと思ってくれていい」
とは、監督と主演をつとめたトミー・リー・ジョーンズの言葉でございますが
まあ即ち、みんなごく普通の人間だということです。
このサブキャラクターたちがなんともイイ味なんでございます。



トミー・リーの娘と脚本を手がけたギジェルモ・アリアガも、ほんのチョイ役で出演しております。
(トウモロコシ剥きを手伝って、と言う少女と、熊の肉をくれるメキシコ人のおっさん)

監督として、俳優トミー・リー・ジョーンズをどう思うかと尋ねられ
トミー・リー、こう答えてらっしゃいます。

「なかなかいい俳優だと思うよ。こちらの意図が完璧にわかるし(笑)
  映画作りには金がかかるものだ。そこで思いついたんだ、”そういえば1人、安く使えるいい俳優がいたぞ”って」

なかなか面白いことをのたもうではございませんか。
しかしこの御人、面白いだけではございませんで(そらそうだ)
パンフ掲載の経歴によりますと
フツーに労働者階級出身で、油田で働いたのちにハーバード大に進学。
フットボールのスター選手として活躍して全米チームの一員に選ばれたこともある一方、
優秀な成績で英文学の学位を取得。卒業後は俳優を目指してオフ・ブロードウェーで演技を磨き
24歳の時に映画デヴュー(アーサー・ヒラー監督『ある愛の詩』。
相当な努力家と申せましょう。

こうした多彩なバックグラウンドゆえか、
ばりっとしたスーツも、今回のようなよれよれシャツのカウボーイスタイルも
それを着て生まれてきたかと思うほどにバッチリさまになっているのでございます。




もう一回続きます。

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』1

2006-05-13 | 映画
現代の映画界で「名脇役」といったら、誰を想像されます?
ジョン・マルコビッチ?
モーガン・フリーマン?
エド・ハリス?
エド・ハリスと答えた貴方、ちょっとこっちへいらっしゃい。
あの、常にどこかしら絶望感のただよう素敵に陰鬱な風貌について、ちょっぴりじっくり語り合おうではございませんか。


さておき。
この質問を映画好きに尋ぬれば、ほどなく挙るであろう名前がトミー・リー・ジョーンズ
ドラマ、コメディー、SF、パニック、戦争ものからバットマンの悪役まで幅広くこなす
ハーバード大卒のいぶし銀オヤジでございます。

この、サブが似合うトミー・リー・オヤジ、今回は主役をはっております。
のみならず監督も手がけて、初の長編映画監督作にして、あちこちの映画祭で受賞およびノミネートに与る
ハイ・クオリティな作品を作ってしまいました。
それがこの作品『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』でございます。



舞台はアメリカ-メキシコ国境沿いにある、テキサスの田舎町。
不法移民の若者、メルキアデス・エストラーダは
映画の冒頭のっけから、コヨーテに齧られる腐りかけの死体となって登場いたします。
射殺されたのち、いたってぞんざいに荒野に埋められていた彼の死体は、巡視中の警察によって発見されます。(1度目の埋葬)
どう見ても立派な殺人事件です。
しかし何せ不法移民のこと、警察は捜査する気など皆無なばかりか
犯人が判明してもなお、逮捕しようとはしません。
メルキアデスはまたもいたってテキトーに、共同墓地に埋められます。(2度目の埋葬)

ところがどっこい、トミー・リー。

メルキアデスの親友だったオールド・カウボーイ、ピート(トミー・リー)は
メル殺しの犯人を突き止め、そやつの家に押し入り、問答無用とばかりに力づくで拉致。
友との約束を果たすべく、犯人と、掘り起こした死体を伴ってメキシコへと向かいます。
生前、何気なく交わした言葉と、メルの故郷を示すわずかな手がかりを胸に。

「もし俺が死んだら、故郷のヒメネスに埋めてくれ。
       胸が張り裂けるほど美しい場所なんだ。」・・・

実話ものではございませんが、実際にあった事件が原案となっております。
国境沿いでヤギを放牧していたメキシコ人の少年が、麻薬取引中だと勘違いした米の海軍兵士に射たれた事件です。
少年は死に、射った海軍兵士は何の罪にも問われませんでした。

国籍や国境を云々するより、人間として一番大切なことは何かってことを
問題にすべきじゃあねぇのかい、と
オヤジカウボーイ・ピートは、ややうらぶれたその背中で、そして
いかにも頑固そうな光を放つその小っさい目で、語るのでございます。

と申しますとなにやら「重たい」作品のような印象を持たれるかもしれませんが
のろが特筆いたしたいのは、
全編にたゆまず漂うユーモアでございます。
とりわけメルの死体がらみのユーモアが、大変ようございました。
キモチワルイはずなのにオカシイ、という
古典落語に見られるような、死と笑いの健全なコンビネーションが実現されております。


せっかくでございますから3度に分けて語らせていただきます。
続きは後日。

ほら吹き男爵

2006-05-11 | 
本日は
カール・ フリードリッヒ・ヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の誕生日でございます。
そう、世に言う「ほら吹き男爵」。
どうせなら4月1日に生まれていただきたかったものですが。

これは数年前、展覧会用に制作したブックカバー。
中身は『ケストナーの「ほらふき男爵」』 池内紀訳 筑摩文庫 カラー図版、挿絵入り。



↑おもて表紙 ↓うら表紙



タイトルはこうですが、「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」や「長靴をはいた猫」といった
ポピュラーなお話全6篇で構成されており、ミュンヒハウゼンの話はそれほど多くありません。
全て『飛ぶ教室』などで有名なドイツの児童文学者、エーリッヒ・ケストナーが再話したものです。



ゴム版一色刷りしたものに、PCで彩色しました。
背表紙にはお月さん。



既に発表した作品ではありますが、気に入っておりますので
4月15日の記事でご紹介した展覧会にも出品するつもりでございます。


榎忠展 再び

2006-05-08 | 展覧会
4月10日の記事でもご紹介しましたが
榎忠作品集出版記念EVERYDAY LIFE/ART:ENOKI CHUが開催されます。
5/9(火)~5/13(土)、たった5日間の展示でございますが
前回のエノチュウ展を逃した方はぜひどうぞ。
↓News とGalleryの項にエノチュウ展情報がございます。 Artistの項では、若き日のローズチュウの姿を拝むことができます。

nomart

↑ギャラリーの場所と営業時間は Info の項を御参照ください。地図はこちら。

マピオン 「大阪府大阪市城東区永田3丁目」付近地図

解りづらいでしょうか。
のろ自身、行ったことのない所なので、行き方をご説明できないのが残念でございますが
駅から徒歩5分ということなので、とりあえず降車駅さえ間違えなければなんとかたどり着けそうです。

作品集の方は「内容をより充実させるべく、出版は6月以降となりました」とのこと。
ふうむ。
期待して待て、ということでございますね。

『大絵巻展』

2006-05-06 | 展覧会
『大絵巻展』へ行って参りました。(京都国立博物館 ~6/4、途中展示替えあり)

Kyoto National Museum

特別展覧会 大絵巻展 -国宝「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」など一堂公開-【京都国立博物館・東山七条】

いやもう、これは凄うございますよ。
日本のお宝をこれだけまとめて見られる機会など、そうはございません。
今回はとりあえず、まだ行っていらっしゃらない方向けに、鑑賞のココロエを講じさせていただきます。

1:行くことを決心しましょう。
ハイ、とにかく足をお運びくださいまし。行かねば損でございます。
「人が多いのは嫌だなあ」とお思いになるそのお気持ちは、よっ く解ります。
しかし重ねて申し上げますが、これだけの作品が一堂に会することなど、そうあるものではございません。
そして幸いなことに絵巻というものは、全体を見渡す必要は無いものでございますから
いかに混雑していようとも、自分の手もとにある部分さえ見えていれば、充分楽しめるのでございます。
もちろん、混雑していればうるさい御人もおります。また、少々すいている時には
作品に目もくれずに展示室をバタバタ馳せ回る修学旅行生なども、いないではございませんが
そうした方々にまみえぬためとてこの機会を逸するのは、あまりにも勿体のうございます。
日本史や古典文学についてウンチクを垂れるご年配の方々の声に耳を傾けるのも、また一興でございます。
のろが行った時には、お互いに対してウンチクを披露しながらも、互いに相手の言うことは全然聞いていないペア が
2組ほどいらっして、それはそれで面白うございました。
GWも終わりを迎え、少しは混雑も緩和されたのではと。上に貼付けました博物館のHPでは、混雑状況の確認もできます。
経験から申しますと、展覧会が最も混む時間帯は13:00~15:00ごろ、最も空いているのは平日・悪天候の午前中でございます。
貴方の休日の天気予報が雨や雪や嵐なら「しめた!」と思ってください。そんな日は、展覧会に行きどきでございます。

2:前の晩は早めに寝ましょう。
たった50数点、と あなどってはなりません。
なにせ絵巻でございますから、1点といっても、複数の場面が描かれております。作品のハイレベルさとも相まって、
鑑賞にはおそらく貴方の予想以上のエネルギーを要します。
途中でへたばらぬよう、前日から英気を養っておきましょう。

3:お目当ての作品の所在をチェックしましょう。
HPでも確認できますし、展覧会場の入り口には、作品リストが置いてございます。
上で申しました理由から、全ての作品に対して同じだけのエネルギーを注いで鑑賞することは少々難しいかと存じます。
「これだけは見ておきたい」という作品と、万全の体制で対峙するために
ポイントを押さえて鑑賞なさるのがよろしいかと。

4:1枚、多めに着て行きましょう。
天井が高いせいか作品保護のためか、会場はけっこう涼しくなっております。
じっくり鑑賞なさる方は、やや暖かめの格好で行かれることをお勧めいたします。

5:カバンは小さめのものを。あるいは、入り口で預けましょう。
貴方がよほど長身、かつものすごく目のいい方なら別ですが
今回の展示では、展示ウインドウから一歩下がって鑑賞する、ということは不可能です。
みなウインドウの前に行儀よくギュウ詰めになり、進行方向へじりじりと横移動、という鑑賞方法をとらざるをえません。
かさばる荷物は、混雑車両のごとく、自分にとっても他人にとっても邪魔になります。

最後に。
じっと立ち止まって見ていると、隣の人がやんわり押して来ることもございますが、そんなものは無視いたしましょう。
鑑賞者は、自らの時間の許すかぎり、見たい作品の前に留まることを許されるべきです。
他人の鑑賞スピードに合わせる必要など全くございません。
もちろん、作品の正面から一時的に退いて、また正面に戻る機会を伺いつつ待つ、というのも粋なマナーでございますが
隣の人に小突かれたからといって渋々先へ進むなんて、これほどつまらないことはございません。
そもそも、展覧会で鑑賞者に「早く先へ進め」と催促するなど、もってのほかだと思いますよ、のろは。

さあっ
気をしっかりお持ちになって、行ってらっしゃいまし。
かの絵巻たちは、他でもない 貴 方 と 出会うために、
800年もああして待っていてくれたのですから。


ベルケル話

2006-05-03 | 映画
いやあ かっこいいんでございますよ、クリスチャン・ベルケル Christian Berkel が。
クリスチャン・ベルケル、前回と前々回に取り上げました『ヒトラー最期の12日間』で
従軍医師シェンクを演じた俳優さんでございます。

のろや御常連のお客様は、のろが
「かっこいい」と申しますと



・・を 想像されるかもしれませんが、これとはまた、ちと異なるかっこよさなのでございます。

俳優がカッコイイ、ということは、とりもなおさず演じている役がカッコイイ、ということでございますが
与えられた役を魅力的に見せられるかどうかは、俳優の力量にかかっているのでございます。

映画で描かれているシェンク医師は、命令に背いて、戦場と化したベルリンに留まり
怪我人の手当てや医薬品集めに奔走します。
負け戦の戦場という極限状態において、多くの人々が 
命令 や、絶望感 や、かつては美しく見えたものの、もはや有効ではないことが明らかな 理想 に突き動かされる中、
彼のみは自らの倫理観に基づいて行動します。
美しい人物 である、と思いました。
「君の良心は何を告げているか?ーーー君自身であるところのものとなれ!」
とニーチェさんは言ったけれども、日常生活の中でさえ、そこに立ち返ることは難しい。
狂騒の中にあってはなおさらでございます。
実際のシェンク医師の行動がどのようなものであったのか?また映画では、それがどの程度脚色されているのか?
そういったことは、のろは存じません。
事実は映画のとおりではなかったのかもしれません。
しかしここに描かれているのは確かに 理想の人間像 のひとつのかたちであると申せましょう。




ベルケル氏、オリヴァー・シュピーゲル監督の前作、『ES』エスにも重要な役どころで出演しております。
こっ  れがまた、かっこいいんでございますよ。

重ねて申しますが こういう↓かっこよさではなくて、でございますよ。




うーむ。可愛いなあ。自作ながらうっとりだ。(馬鹿)
↑こういうお人のかっこよさにつきましては、とても ふたこと みこと で語り尽くせはいたしませんから
この場では割愛いたします。ただししつこく継続的に語って参る所存でございますから、お覚悟あるいはご辛抱のほどを。

『ES』については別の折に詳しくご紹介したいと思います。
ストーリーの概略はこんな感じでございます。

心理実験のため、刑務所を模した実験施設の中で数週間を過ごすことになった、見ず知らずの20人。
看守役と囚人役に分かれて実験開始。始めはなごやかだったものの、
統治者/被統治者の役割を演じるうちに、それぞれのメンタリティに変化が現れて・・・

ベルケル氏が演じるのはシュタインホフという名の謎めいた人物です。
いかなる事態にも冷静かつ的確に対処するその姿、なーんとまあーカッコイイこと。
来歴は語られませんが、心身ともに鍛えられた人物である、ということが見て取れるのでございます。
若干のネタバレになりますが 軍人さんでございまして、腕立て伏せ姿もサマになっております。

本作を見て「ああ!わたくしもシュタインホフみたいになりたいものだなあ!」と思ったのろ、
とりあえず「身」の方から鍛えようと決心して、その日から腹筋&腕立て伏せ生活を始めました。
それから4年ほどになりますが、まだ続いております。
「心」の方はどうしたって。
聞かないでくださいまし。

シュタインホフもシェンク医師も、極限状態、にもかかわらず  という点が共通しております。
自らの倫理観、道徳観を容易に見失い得るような状況のただ中にありながら、そこから心理的に距離を置いて
その状況に呑み込まれることなく考え、行動する。
理想的すぎてウソっぽい人物像になりかねない所でございますが、ベルケル氏、
抑制が利いた中にも人間味をにじませ、説得力のある演技で
大変魅力的なキャラクターを造形しておいでです。

シェンク医師は、歴史的には全くの「端役」でございます。
しかし映画の中では、 人間性 への希望を担うかのような、重要な役割を演じております。
監督も、シュタインホフでの冷静さと人情を兼ね備えた人物造形という実績があったからこそ、
ベルケル氏をこの役にキャスティングしたのでございましょう。


ええ ところで
のろや 非 常連 のお客様におかれましては、上の2人の不審人物が何者かご存じないやもしれませんね。
念のため申し上げておきますと、上の反ハゲ反長髪の人物は榎 忠えのき・ただし
下の方で歌っているのはKLAUS NOMIクラウス・ノミ。
さあっ、知らぬとおっしゃる貴方は、今すぐGoogleで検索してみましょう!
ついでに Christian Berkel もね!

『ヒトラー最期の12日間』2

2006-05-01 | 映画
風薫る5月ののっけからこんな話でナンでございますが

昨日がヒトラーの命日でございましたから、
本日は宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの命日となっております。
6人の子供を毒殺したのち、婦人と共に拳銃自殺したのです。
映画では「ナチス以外の世界で子供たちを育てたくない」と言うマグダ・ゲッベルス夫人が
眠った我が子ひとりひとりの口に、青酸カリのカプセルを含ませていくシーンがございます。
子供たちは、横たわったままわずかに痙攣し すぐに 静かになります。
婦人はひとり殺すごとに、その小さな額に最大の慈しみをこめて接吻し、毛布で身体をおおってやります。

壮絶なシーンでございました。


さて、ここまで読んで暗ーい気分になってしまった貴方様は
気分転換に愉快なFLASHでもどうぞ。
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東方千年帝国協会

すまんな宣伝相、のろも ペ だと思ってたよ。