のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『北斎展』(前期)

2012-02-21 | 展覧会
京都府京都文化博物館で開催中の北斎展(前期)へ行ってまいりました。

いや~~面白かった。
何かと目にすることの多い富岳三十六景から、「春朗」と名乗っていた頃の役者絵や北斎漫画あれこれ、途中で規格倒れになったという百人一首シリーズに名滝・名橋シリーズと、お馴染みのものやら初めて目にするものやら、盛りだくさんでございました。しかもまだ半分。

初期の作品には後年に見られるような遊びや自在さは少ないものの、「鴻門之会」のように100%空想で描いているはずの場面においても、まるで実際に見て来たかのようなディテール描写と構成力が発揮されておりまして、今更のように舌を巻きました。

北斎漫画の闊達な線にホレボレと見入っておりますと、すぐ隣で見ていらっしたお嬢さんが「これ、彫ったのは(北斎とは)別の人?刷ったのも別の人?色つけたのも?なーんだ、自分何にもしてへんのに一人だけ有名になってずるいわ」などとおっしゃりだしたので、全世界の北斎ファンを代表してぶん殴ってやろうかと思いましたが、お連れのかたの「分業なんやろ、今の出版と同じ」というごくまっとうなフォローに心中矛を収めた格好となりました。
それにしても、展覧会場で話すにしては少々声がお高めであった上記のお嬢さんをはじめ、あちこちで携帯電話の着信音が鳴ったり、読書に使うようなルーペを作品すれすれにかざして鑑賞するおじさんがいたりと、鑑賞マナーのもうひとつなお客さんが多かったのは残念なことでございました。これはおそらく普段展覧会に行かない人も足を運んでいるからであって、博物館経営の面から見れば喜ばしいこととはいえ、おもむろに通話を始める人や触れんばかりの近さで作品を指差す人なども一人ならずおりまして、監視スタッフさんたちのご苦労もしのばれることではありました。

愚痴はさておき。
線描にホレボレの北斎漫画に対して、視線誘導の巧みさにハハーと唸らされるのは富岳三十六景でございます。
富士山が遠景で描かれている作品では、手前にリズムよく並んだ人々の頭やら、画面を横切ってたなびく霞やら、遠ざかって行く鳥、あるいは描き込まれている人々の視線を辿っていくうちに、自然と画面奥の小さな富士山へと視線が行き着きます。富士が大きく描かれたものでは、すらっと左右に駆け落ちる稜線を辿って行くと、これまた自然に近景の細かい描写へと視点が移ってまいります。またその細部の描写がうまいんですな。北斎つかまえて「うまい」もありませんが。

冒頭申しましたように初めてお目にかかる作品もございまして、その中でとりわけ印象深かったのが、和漢の有名な詩歌に着想した連作の中の一点、『李白』でございました。
画像はこちら↓の何だかものすごいサイトさんのものです。
無為庵乃書窓

絵の中の李白が食い入るように見ているのは『望廬山瀑布』という七言絶句のモチーフとなった廬山の滝なのだそうで。「飛流直下三千尺 疑是銀河落九天 飛ぶような流れが真っ直ぐに下ること三千尺、天のてっぺんから銀河(天の川)が落ちて来たのかと思った」という李白らしい豪快な喩えで描写された瀑布を、北斎は負けじと豪快に、縦長の画面の右半分を覆うストライプで表現しております。始点も終点も描かれないことで、滝の大きさは「天の川が落ちて来た」という李白の詩句と鑑賞者の想像とに委ねられます。
滝の手前、斜めに突き出した崖の傾き具合と対応するような格好で、反対側の崖から身を乗り出して滝を見つめる李白先生、杖と童子によりかかって体重を支えつつ、首をめいっぱい前に突き出して三千尺の天の川を凝視しております。ヤレヤレ先生ときたら、と言いたげにうつむいた童子たちも可愛らしいのですが、崖っぷちまで来てもなお飽き足らずに身を乗り出す、李白の子供のような熱心さが何とも微笑ましい。
絵を描くこと以外のあらゆる物事に無頓着であったという北斎自身も、こんなふうに、端から見れば可笑しいほどの熱心さで対象を見つめていたのではないかしらん。

後期の展示は2月28日から。今から楽しみでなりません。
前期の半券を持って行くと割引になるというのもありがたいことでございます。

『サラの鍵』

2012-02-14 | 映画
キレイに作り過ぎと申しましょうか、あざとく感じられる場面が所々ございました。しかし語られている内容そのものは重く、子役を含め俳優陣の演技は申し分なく、全体としてはまあ良作であったかと。



物語の背景である「ヴェルディヴ事件」(フランス政府がナチスの歓心を買うために自国のユダヤ人を検挙・監禁し、強制収容所へ送った)は現実にあったことですが、少女サラの存在はフィクションでございます。もちろんサラの逃避行や納戸の弟をめぐる悲劇もフィクションなわけで、それだけに、列車で隣の席にナチの将校が座るといったいかにもすぎる展開や、とりわけ厳しい環境下に育ったわけでもなさそうなのに色々と機転がききすぎるサラの主人公特性など、振り返ると「ちょっとな~」と思う部分も少なくはございません。

おそらくこの作品の要はサラの悲劇そのものではなく、歴史という大きな流れの中で個別的な悲劇とどう向き合うか、という点なのでございましょう。

サラの足跡を追い続けるジュリアに対して、夫ベルトランは「それで誰かが幸せになったか、世の中が少しでもよくなったのか」と吐き捨てます。
ジュリアの同僚の一人は「このパリでそんなひどいことがあったなんて、吐き気がする」という言葉でもって、過去の醜い事件と今の美しいパリに暮らす自分とを切り離します。
もう一人の同僚は、遥か彼方の傍観者に留まろうとする自分を少なくとも自覚してか「(その時代にいたら)僕ならテレビで見てたろうな、イラク爆撃を見てたように」と言います。

ベルトランにとっても、同僚たちにとっても、ヴェルディヴ事件とは歴史の中の単なる1項目でございます。政府が認めて謝罪したし、どこで何があったのか分かってるし、それでおしまい、もう過去のこと、あとは現在生きている自分たちがいかに幸せでいられるかが肝心。
あるいは多くの人にとって、歴史というのはこういうものなのかもしれません。
しかしそこで起きた個別的な悲劇を掘り起こし、そこに生き・死んで行った人たちの個々の悲しみ、苦しみに共感を持って耳を傾けないかぎり、悲惨な歴史は何度でも繰り返すことでございましょう。



個人の歴史を闇の中から引き上げてみたところで、誰も幸せにはならず、世の中がよくなるわけでもないかもしれない。しかし、未来の世の中をこれ以上ひどくしないために、小さく、個別的で、決して癒えることのない「サラの物語」の掘り起こしは、何度でも必要なのです。なぜなら、そうした個々の物語には「◯◯事件」や「◯◯問題」という大文字の歴史には果たし得ない役割があるからでございます。

大文字の歴史の下で押しつぶされていった人々の苦悶と、それに加担してしまった人々の弱さや愚かしさ。それらは事件の名前や、年号や、「犠牲者◯◯万人」という数字からは決して伝わっては来ません。
その苦悶、弱さ、愚かしさを人類の一員である自らのものとして引き受けることからやっと、少しずつでも、いい世の中が築かれて行くのでございます。そうした共感的反省がなければ、どんなに科学や技術が発展した所で、ひとたび何かが起きた時の悲惨の度合いが増すだけではないかとさえ思います。

とはいえ。
こうしたメッセージが劇中でしっかり描かれているかというとそうでもございませんで、サラの物語とジュリアの人生はいまいちシンクロしきらないまま「命は大事に」とか「自分の気持ちに正直に」といった大ざっぱでごく口当たりのいいテーマのもとに終息してしまった感がございます。(その口当たりのよさが受けているのかもしれませんが)
かつてサラの住まいだったフラットを真新しく改築することや、そのフラットの来歴をおばあちゃんに知らせずにいることに、悲惨な歴史の忘却を象徴させているのは分かります。しかしここにジュリアの妊娠がからむと、俄然お話がメロドラマ寄りになってしまいます。

いかんせん、「家族と引き離され強制収容所に入れられたユダヤ人少女」と「夫に出産を反対されている裕福なキャリアウーマン」では取り巻く状況の重みも、彼女らを行動へと突き動かす動機も、違いすぎるのでございます。そのためジュリアの「真実を知るには痛みが云々」や「こんなのすべて嘘」という台詞も、いまいち平行度の低いサラとジュリアを何とか結びつけようとする演出と感じられ、台詞としてはこじゃれてはいるものの、取って付けたような納まりの悪さがございました。
制作者の意図としては、辛い真実を受け入れることで一歩前に踏み出すということと、ジュリアの決断とを関連づけたのかもしれませんが、歴史的事実を受け入れることと自分の気持ちに正直になることとは、やっぱり全然レベルが違う話ではございませんか。

サラの物語を掘り起こし、過去から目をそらす人々に事実をつきつけ、(過去を切り捨てもせず傍観者に甘んじもしないという)倫理的役割を演じ、かつサラの人生と感応しつつ、挫折も味わいつつ、思いがけない妊娠と向き合う、などなど、ジュリアというキャラクターに多くのことを背負わせるために、話を「うまく」作り過ぎた感もございます。それでいて、事実の受け入れと痛みを伴う前進、というおそらく最も重要な部分は、ジュリアではなく話の終盤になってから突如登場するサラの息子が担ってしまうというのが何とも。

とまあ
褒めてるんだかけなしてるんだかよく分からない鑑賞レポになってしまいましたが、あまり知られていないフランス史の暗部を取り上げたという点で、制作される意義はあった作品であろうと思います。ただネット上のレヴューがあまりにも高評価に偏りすぎのような気がしまして、「そんなにもの凄い映画かコレ?」と反発する気持ちもあり、以上のような共感反感相半ばする感想になった次第でございます。

ノート製作

2012-02-06 | 
政治のショー化がよいこととは全然思いませんけれども、毎度毎度アメリカ大統領選に見られる熱気というのが、実はいささか羨ましくなくもありません。熱狂できるということは、少なくとも託せるだけの希望があるということであり、「どーせ何も変わらんし無駄無駄」という実験動物のような無気力状態よりはまだしもマシなもののように見えるからでございます。

それはさておき

2004年から使っている鑑賞記録ノートがそろそろ残り少なくなってきたので、新しいのを作ることにしました。
↓左端が今のノート。8年の間にクロスの紺色が随分褪せてしまいました。

まず本体を作ります。今のノートに使ったのと同じ無地の紙を折丁にして重ね、折丁同士を繋ぐための支持帯を背に渡しつつ綴じていきます。写真(上段中央)は綴じ終わった本体の両側に緑の見返し紙を貼り、背の丸み出しをしたのち寒冷紗を貼った所。

せっかくなので少しは凝ったものを作ろうという気になり、表紙で遊ぶことにしました。普通ハードカバーの表紙には2ミリ厚の板紙を使うのですが、今回はまず約0.7ミリ厚の厚紙を使います。表紙サイズにカットして、色々な大きさの窓を切り抜くとこんな感じ。



切り抜いた部分のエッジがツンツンしているので、へらで押さえて落ちつかせます

表からエンジ色のクロスを貼って窓の部分で折りこむつもりなのですが、何しろやったことのない作業ではあり、隙間から厚紙の白が見えてしまわないか心配な所。そこで隙間にあたりそうな角の部分に、クロスの色と似た暗色を塗っておきます。
下段右端はクロスを貼った所。

クロスに切れ目を入れ、織り込み、表から見るとこんな感じに。



さてここで取り出したるは、くだんの0.7ミリ厚紙を2枚貼り合わせて、表紙大にカットしたもの。窓から見える位置に端切れを貼ります。これを上の窓つきクロスでくるむと、標準通り約2ミリ厚の表紙が出来上がるという寸法です。背表紙の部分にも芯として紙を貼り、丸みを出しておきます。
こんな感じで表紙の準備もできた所で、本体にはしおり、花ぎれ、クータを貼付け。

あとは本体と表紙を接合させて完成。



まあまあ悪くないものができたような。
こうした手作業のよい所は、どんなネガティヴな雑念や無気力の嵐に見舞われようとも、ともかく目の前の作業をひとつひとつ自分でこなして行かないことには何も進まないということであり、またそれをひとつひとつこなして行けば(ほぼ)確実に完成へと近づくということ、さらにはその進捗具合がはっきりと目に見える、という点でございます。
この点、自転車のいい所にもちょっと似ているなと思います次第。