のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

楽町楽家08

2008-04-30 | KLAUS NOMI
過去と現在と未来におけるあらゆる瞬間はのろという人間の駄目さを証明するために存在しているような気がするわけでございますがもちろんそんなことは自意識過剰な妄想にすぎないのであってそうこうしているうちにもはや4月も終わりでございます。

今年も楽町楽家のポスターを描かせていただきました。

ちなみに去年のものと繋がっております。




今年もノミいるのかって。ええ、ええ、もちろんおりますとも。

ほらっ



着ているのは例の北京シャツでございます。



ポスター完成品では「楽町楽家」のロゴで隠れてしまっておりますがね。
この人はよくプライベートで、水玉模様のジャケットですとか、バスローブみたいなコートですとか、将棋の駒柄のシャツですとか「........それ一体どこで買ったんだね??」と訊きたくなるような服を着ておりますが、これもその一枚でございます。


ノミの周りにあるレコードは左から順に、
・『KLAUS NOMI』(邦題『オペラ・ロック』)
・『SIMPLE MAN』
・ボウイの『MAN WHO SOLD THE WORLD』、サタデー・ナイト・ライブで共演した時の曲でございますね。
・マレーネ・ディートリッヒの『FALLING IN LOVE AGAIN』。ノミ、歌っておりますね、」はい。
・クラフトワークの『TOUR DE FRANCE』。クラフトワークとノミの間には直接の関係はございません。まあ、ドイツでテクノってぐらいの話でございます。ただね、TOUR DE FRANCEのシングルが発売されたのが、1983年なんでございますよ。...
・プレスリーの『ブルー・ハワイ』
でございます。
ノミが手に持っているのはマリア・カラス。これも完成品ではロゴで隠れておりますがね。


その他にも描いた本人にしか分からないゲストが数名おります。

来日を記念して ノー・スモーキング・オーケストラの中から、代表して4人だけ。
メンバー全員描くとここだけ異様にオッサン率が高くなってしまいますので。
ヴォーカルのドクトル・ネレとギターのクストリッツァ(のろの大好きな映画監督でございます)と彼の息子でドラムのストリボールとバイオリンの”レオポルド”でございます。



それからLORDIにもTシャツの上で参加していただきました。

こんなどうでもいい所に凝るぐらいならもっとましなものを描けないのかとおっしゃるのはごもっともでございます。
そのとうりでございます。
本当に。



ポスターの出来はともかくとして、イベントはいろいろと楽しく、かつ、ためになるものががいろいろ企画されているようでございますので、京都近郊の皆様はぜひとも気軽にご参加いただければと思います。




徽宗忌

2008-04-21 | 忌日
本日は
徽宗さんの命日でございます。
徽宗さんは中国・北宋の事実上最後の皇帝でございます。

「彼の人生最大の悲劇は、統治者の家に生まれてしまったことだ」
こんな言葉の似合う統治者は世界史上にゴマンといらっしゃいましょうが、徽宗さんはその最たるものであろうかと存じます。
北宋の第六代皇帝神宗の第三子であった彼は、非常に才能のある画家であり書家でございました。そのまま「芸術の才ある皇族」として生涯を送ることができたらよかったのでございますが、兄・哲宗の早逝と皇太后の思惑によって思いがけなく皇帝の座に即いてしまったのでございます。
これが彼にとっても、宋という国にとっても、大きな悲劇でございました。

芸術文化の黄金時代とも称される宋において最高権力者になってしまった芸術家は、もともとあんまり興味のなかった政治をお気に入りの側近にまかせきって、美術品や奇石の蒐集に莫大な国費と民の労力を費やし、文化政策を押し進める一方で悪法によって民を搾取し、改革によって一時は立て直るかに見えた国力を再びがっ つりと疲弊させました。
堪忍袋の緒を切らした民衆が各地で起こす暴動や反乱(『水滸伝』の元ネタ)をすぐに鎮圧できるはずもなく、ただでさえ国力が弱まっている所へ場当たり的で無節操な外交・軍事政策によって同盟国の怒りを買い、北方民族の新興国、金に攻め込まれます。

徽宗さんは退位することで政治を顧みなかったことのツケを支払ったつもりだったかもしれませんが、ことはこれで終わりではございませんでした。金軍による首都開封の再びの包囲を経て、皇帝自身が家族や官僚ともども北方の地へ連行されるという中国史上前代未聞の事態にまで至ってしまうのでございます。

ここにおいて軍人趙匡胤がクーデターによって建国した宋(北宋)は終焉を迎えました。
徽宗さんはといえば、873年前の今日、極寒の地五国城(現在の黒竜江省)において失意のうちに亡くなりました。享年54歳。
史実かどうか確証はございませんけれども、のろをして運命の残酷さを思わせずにはおかないのは、晩年の徽宗さんが失明していたということでございます。
北へと向かう途上で皇太后を亡くし、失意のあまり両目の視力を失ったのだとか。



こんな絵を描く人が。美術品の蒐集で国を傾けた人が。見るということを何よりも愛した人が、その目を失うとは。

彼のせいで塗炭の苦しみを嘗めた民衆からしてみれば、このくらいの報いは当然と言えるかもしれません。
しかしワタクシはこの人の絵を見るにつけ、鋭く美しい書を見るにつけ、彼が「芸術にかまけた」ことを責める気にはなれないんでございます。

そう、ただ皇帝の座に即いてしまったことだけが、彼の、そして国家の、不運だったのでございますよ。




前世ですって。

2008-04-18 | Weblog
「面白そうですね」
「行きますか」
「行きましょうか」

とノリで言ったのが現実になりまして
「前世カフェ」なる所へ行くことになり、「三世代前まで」見ていただくということにあいなりました。
その場の勢いに抗しきれないのろ。
これだから訪問販売のあんちゃんに布団を買わされたりするんだ。

前世カフェと申しますのは通称でございまして、まあ要するにコーヒーや紅茶をいただきつつ「前世」なるものも教えていただけるという喫茶店でございました。
で、のろはどんなだったのかと申しますと

100年くらい前はイギリスの会計士で
200年くらい前はタイの修行僧で
300年くらい前はオランダの文筆家の妻
だったんだそうでございます。

「100年前のイギリスの会計士」ってのは、別の日に行った同僚が言われたことと全く同じなんでございますが、まあそういうことをつっこむのは野暮というもんでございます。
で、小乗仏教の修行僧だったので、今でも人との交流が苦手で精神が内向きなんだそうで。
ほっほっほ。そうかもしれませんて。
まあワタクシとしては、上の二つには「ははあ、さようで」としか言いようがございません。
しかし「300年前のオランダ」ってのは、実によろしうございますねえ。


『ノーカントリー』3

2008-04-15 | 映画
4/8の続きでございます。
引き続き、何でシガーはあんなにも怖いのかって話でございます。

*以下、引き続きネタバレでございます*


シガーと知り合いである殺し屋ウェルズは、シガーはどんな人物かと訊ねられて「奴はユーモアの解らん男だ」と言い、また「金やらドラッグやらそういったものを超越したprinciple(原理、原則、行動指針、主義信条)を持っている」とも言います。
ユーモアがないとはつまり、あらゆることを大真面目に受け止めてしまうということでございます。これはガソリンスタンドの店主との対話シーンで、おそろしい緊張感とそこはかとない可笑しみをもって描かれておりますね。
初盤のこのシーンと、エンディング近くのモスの妻カーラ・ジーンとの対話シーンで、シガーは例のコイントスをいたします。この二つの対話とコイントスのシーンから、ウェルズが言及しているシガーのprincipleの一端を伺うことができます。
即ち、「偶然も、必然も、人が意図してたどり着いた状況も、意図せず成り行きで陥ってしまった状況も、ひとしなみに見なす」ということ。そして「ほんのささいに見えるあらゆるものごとが生の大きなターニングポイントとなりうる」ということでございます。これらはシガーのユーモア感覚のなさとも関係しております。

ガソリンスタンドの老店主は、妻の父の持ち家でこの商売を始めたのはほんの数年前のことで、それまでは別の土地で暮らしていたと言い、「財産付きの結婚をしたわけだ」というシガーの言葉を否定します。店主にしてみれば家と店が自分のものになったのは偶然と言ってもいいようなものであり、少なくとも結婚当所に計画していたことでは全然ないのでございますから、否定するのは当然でございます。
しかしシガーは店主の意図がどうであれ、結果的には彼が義父の持ち家と店舗を手に入れて今に至っている、という事実だけを見ます。実際、偶然と言おうと何と言おうと、今ある状況は老店主が人生のある時点である選択をした、その結果として存在するものでございます。
シガーは苛立たしげにため息をついてコインをはじきます。

--言え、表か裏か。
--私は何も賭けちゃいませんよ。
--賭けたさ。お前は生まれたときからずっと賭け続けてきた。自分では気付かなかっただけだ。このコインがいつ鋳造されたか分かるか?
--いいえ。
--1958年だ。22年間旅をしてここへたどり着いた。そのコインがここにある。表か裏のどちらかだ。お前は当てなくちゃならない。さあ言え。

店主がここにいて、シガーがここにいること。
1958年製のコインが今シガーの手の下にあること。
それが表であること、あるいは裏であること。
そのコインの裏表いかんに店主の命がかかっているということ。

これらを偶然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょうし、必然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょう。シガーが自らの意志でコイントスを望んだからだと言ってもよろしうございましょうし、店主が「特に意味のない世間話」で思いがけずシガーの機嫌を損ねてしまったからだとも言ってもよろしうございましょう。
経緯や理由が何であれ、ひとたび起きたことは変えることも取り消すこともできず、そうした不動の過去の積み重ねの結果としてある”今”という一点。店主の意図も来歴も人格も感情も全く意に介さないシガーが見ているのはこの”今”の一点だけでございます。ちょうど死や運命なるものが、人間の意図も来歴も人格も感情もなにひとつ斟酌することなく、ただ時間と場所のある一点において行き当たった者をさらって行くのと同じように。

もちろん人間には全ての因果の連鎖を見渡すことなどできやしませんから、そうした運命の一点になぜ、どのようにして行き当たってしまうのかを見通すこともできません。
かくて人間はそれと気付くことなく日常的に、生死に関わるような決定をするわけでございます。
道を渡るか、渡らないか。今すぐ家を出るか、10秒後に出るか。そんな些細なことでさえも生死の分かれ目となり得ます。シガーはコイントスというあまりにも軽い行為に命を賭けさせることによって、このことを象徴的に語っております。

何でもないような出来事が生死を決する機会になりうるということ。“今”という一点が、ほとんど無限と言ってもいいほどの重量を持つ”過去”の積み重ねから成り立っているということ。
これらはまぎれもない事実とはいえ、人が生活の中で意識するようなことではございません。
しかし運命あるいは死の擬人化とも呼ぶべきシガーにおいては、これこそがprincipleなのでございます。

そして全ての些細なことが運命的な重みを持っているシガーの世界には、ユーモアや軽口や「特に意味のない世間話」などが入り込む余地はありません。ユーモアという意味での笑いに値するものなど、何ひとつ無いのでございます。

またユーモアが成り立つためには、送り手と受け手の間にある程度共通した精神的基盤が必要でございますね。ワタクシが冗談を言っても貴方がくすりとも笑わなかったり、かえって怒り出したりしたとすれば、それはワタクシと貴方のユーモア基盤がズレているということでございます。
しかしユーモア感覚そのものが無いとしたら、これはもはやズレどころの話ではございません。

ことほど左様に逸脱した精神の持ち主でありながら、それ意外はごく普通の人間であるということが怖いんでございます。

不死身ではないし、感情が無いわけでもない。
不機嫌そうだったり嬉しそうだったりする。
撃たれれば血が出るし、傷も痛むらしい。
ナッツを食べ、牛乳を飲み、両手できちんとハンドルを握って車を運転する。
ロボットでもエイリアンでもない生身の人間、というか、もそもそと喋る、生真面目な、普通のおっちゃんでございます。
髪型はアレですが。




またシガー自身自覚しているように、彼もまた決して見通すことのできない因果の網の中の住人であり、この点においてはモスやベルや私達と何ら違いのない、ただの人間でございます。運命はシガーひとりを特別扱いすることなく、交差点で車をぶち当てて来るのでございます。

シガーにおいて普通さと異常さが並立していることの不気味さは、「普通の真面目な人」や「おとなしい子」が見知らぬ他人や自分の家族を惨殺したというニュースの不気味さに通じます。
(4/19追加 ↑とは言ったものの、こうして身近な例に引き寄せてしまうと、あの得体の知れない不気味さを型にはめて矮小化してしまっているような気もいたします)

不可解な犯罪が増えたと嘆く保安官ベルは、シガーという不可解きわまりない怪物との遭遇が決定打となり、職を辞します。
理解できない程の破壊性とモラルの崩壊を前になすすべもないベルにとって、そして私やおそらく貴方にとっても、シガーはこの世の不可解と不条理の集大成のような存在なのでございます。



いつでもどこでもピンポイント視点なのろゆえシガーばなしに終始してしまいましたが、コーエンズ作品ならではの美しく冴えた映像は、殺伐としたストーリーにもかかわらず一貫して静謐さを漂わせておりますし、音の使い方も素晴らしく、演技も演出も文句のつけようがなく、全体としてものすごく完成度の高い作品でございます。
完璧と称されるに値する作品かと存じます。
昨日もう一度観に行って、つくづくそう思った次第でございます。


ちなみにYoutubeを漁っておりましたらパロディ映像クリップにもいくつか遭遇いたしました。
あんまり面白いものはございませんでしたが、唯一ヒット作がございました。
即ちこれ
ううむ
何度見ても笑ってしまいます。

『ノーカントリー』2

2008-04-08 | 映画
死亡事故や通り魔殺人のニュースを耳にする度に「どうして私ではないのだろう?」と思わずにはいられません。
突然の不条理な死に見舞われたのがどうして「被害者◯◯さん」であって、私ではなかったのか。
あるいは、被害者を死の淵に叩き込んでしまったのがどうして「××容疑者」であって、私ではなかったのか。
悲惨な事故や、ほんの数分の間に自分と他人の人生を破壊しつくしてしまう衝動は、どうして私を見過ごして他の人を襲ったのだろう?
不測の出来事によって命を落とす人は世の中に大勢いるというのに、そうした出来事は一体どうして私ではなく他の人を見舞ったのだろう?

もちろん理由などありはしないんでございます。
それが分かっていながらも、何故か?と思わずにはいられないんでございます。
それはおそらく、自然(人間を含めたこの世界全体)を支配しているのが無秩序や偶然ではなく、人間の道理にのっとった法則や基準であってほしい、という無意識的な願望があるからなのでございましょう。
私の感覚をそのまま人類全体に敷衍するのは暴論ではございましょうが、人間にとって都合のいい理(コトワリ)が自然をも支配していてほしいという願望は、おそらく全人類的なものでございます。
宗教というものが人間によって発明され、かつ、今もって求められているものであるからには。
宗教とはつまり世界を説明する方法のひとつであって、他の方法と違って特徴的なことは、その中に善悪の判断がからんでくることでございます。
悪い行動、間違った行動をとる奴らは罰せられ、善い行動、正しい行動をする人間はむくわれるものだ、と。
そうであるべきだ、と。

しかし実際に世界を動かしているのは、人間に好意的な理(コトワリ)なんかでは全然ないのでございます。
少なくともワタクシはそう思います。
だからこそ「あんなにいい人だった◯◯さん」、みんなに愛された◯◯さん、夢も希望もあった◯◯さんが残酷な死に見舞われ、一方で早く死ねばいいのにと常々思っているのろのようなのがいまだに生きているというわけでございます。

前置きが長くなりましたが、4/6の続きでございます。
*以下、再びネタバレでございます*



前回の記事を読みなおして、ウーム我ながらいつもながらポイントがズレておるなあ、と思いました、はい。
そもそもシガーについて語らずにこの映画について何か喋ろうとしたのが間違いだったような気がいたします。
と申しますのも、この作品のメインテーマはシガーひとりによって表現しつくされているからでございます。
即ち、不条理で不可解で悲惨で暴力的なこの世界と、それでもなお生きて行く人間なるもの、というテーマでございます。


殺し屋・シガーというキャラクターについては「レクター博士以来の衝撃」であるという前評判を聞き及んでおりました。
そのとうりでございました。
『羊たちの沈黙』に少なからぬ思い入れのあるワタクシとしてはちと悔しいのでございますが、レクター博士がまともな人間に思えるほどでございました。
怖かったのですよ。本当に怖かったのですよ。
で、この怖さは一体何なのだろうかと考えたんでございます。

シガーは自分自身の理(コトワリ)にのみ従って行動する人物で、一般的な価値や道理といったものが通じません。
しかし倫理観とファッションセンスが完全に欠如している他は、いたって普通の人間のように見えます。
ものすごく手際がいい、いわば凄腕の殺し屋でありつつ、派手さは全然なく、カッコよくもない。
こうした要素が複合して、シガーのあの得体の知れない怖さをかもしだしていると思われます。
それは人の生と死が、人間の基準や価値観には全く無頓着なものによって決められている、ということを目の当たりにする怖さでございます。
また、突然の不条理で無慈悲な死が、悪魔や死神や天災やエイリアンなどではなく一見普通の人間によってもたらされるということの怖さでございます。

シガーはどんどん人を殺します。
引き出しを開け閉めするのと同じくらい簡単に、非常に手際よく。
そこには強い憎悪や欲望といった、私達が納得しやすい動機はございません。
殺しを楽しむことすらありません。
彼にとって殺しとは、別に快楽なわけではなく、仕事上の義務ですらなく、単なる作業でございます。
映画の冒頭で保安官補を手錠で絞め殺したあとにさも嬉しそうなため息をついておりますが、これは殺しそのものが楽しかったからというよりも、計画通りにことが運んだのを喜ぶ「やったね」の笑顔でございましょう。
(ちなみに原作ではこの時シガーが大人しく捕まっていたわけが、殺し屋ウェルズ(映画で演ずるはウッディ・ハレルソン。ナチュラルボーンキラーじゃ笑)との対話シーンで語られております。シガーいわく、脱出できるかどうか試してみるためにわざと逮捕されてみたとのこと)

シガーはどんどん人を殺します。淡々と、粛々と。
あまりにも淡々としているので「冷酷」とか「非道」とか「残虐」というものとも、ちょっと違う感じがいたします。
こうした言葉にはまず「人命はかけがえのない大切なものだし誰もそれを奪われたくはない」という前提があり、それを承知していながらあえて踏みにじる行為に対して適用されるものでございます。
一方シガーの理(コトワリ)には、この「人命は大切なのだよ前提」というものがございません。ほんの少しも。
悪とすら呼べないような気がいたします。
台風や地震を「悪」と呼ばないのと同様に。
自然災害を「悪」と呼ばないのは、それらが人間の善悪や倫理観を超越した現象だからでございます。
シガーが金や麻薬やその他もろもろの価値観や倫理観を全く超越しているのと同様に。

長くなりそうですので、次回に続きます。

『ノーカントリー』1

2008-04-06 | 映画
いえ、安藤忠雄さんではございません。



『ノーカントリー』を観てまいりました。

ラブコメにせよ、サスペンスにせよ、ロードムービーにせよ、コーエン兄弟の映画を鑑賞した後に心中にこだまするのは「ああ、人間って...」という声でございます。
...」の後に句を継ぐことができないのは、「可笑しいもの」とも言い切れず、「悲しいもの」とも言い切れず、「愚かなもの」とも言い切れず、かつそのいずれにもよく当てはまるということが映画の中で鮮明に示されているからでございます。
強いてひと言に押し込めるならば「滑稽なもの」というのが一番妥当な所でございましょう。

コーエンズは常にその作品を通して、人間といういとも滑稽な生物の戯画を描いて来られました。
あるいはむしろ、人間の道理や思惑など全くおかまい無しにのし歩き、私達を突き動かし、押し流していく「運命」なるものを描いてきたとも申せましょう。
運命、あるいは偶然、あるいは神の見えざる手と言ってもよろしうございます。同じことでございます。
何であれ、登場人物たちはその無慈悲な流れの中でジタバタいたしますが、いかようにもがけども、流れ着く先を自分で決めることは出来ません。
その様子が時に喜劇的に見えたり、悲劇的に見えたりするわけでございます。

『ノーカントリー』には、人間に対して完全に無慈悲で無頓着なこの「運命」なるものが、人の姿を得て具現化したかのようなキャラクターが登場いたします。
おかっぱ頭の殺し屋、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)でございます。この人物については次回に語らせていただきたく存じます。
とにかくいろいろと強烈でございましたので、印象をうまくまとめられるかどうか分かりませんが。

シガーによって運命の無慈悲と不条理を思い知らされるのが、ひょんなことから麻薬がらみのヤバい金をネコババしてしまった一般市民、モス(ジョシュ・ブローリン)。
そしてモスを殺し屋の手から保護するために追いかける老保安官、ベル(トミー・リー・ジョーンズ)。
それから彼らの巻き添えを食らって死んでいく、無数の人々でございます。
なにしろシガーはモスを追う道々、言葉を交わした相手をほとんど余す所なく殺していきます。
全然言葉を交わさなくっても殺していきます。
モスが逃げれば逃げるほど、その後ろには累々と、見知らぬ人たちの死体が横たわって行くんでございます。
ふと振り返ると死屍累々、というのはいかにもコーエン節な感じがいたします。

*以下、ネタバレでございます*

しかし本作には、バラバラになった円環が最後にはピチンときれいに閉じられるような、あの緻密に計算されたプロットや収まりのいい終幕は、用意されてはおりません。
主人公モスはエンドロールまでまだ大分時間を残した所で、あっさり殺されてしまいます。
モスを助けられず、誰も助けられなかったベルは、世の中にはびこる不条理な悪への無力感にかられて職を辞します。
モスがらみの殺しの道行きをいとも几帳面に締めくくったシガーは、思わぬダメージをこうむった身体を引きずり、いずれともなく姿を消します。

円環は閉じられません。

物語は退職したベルが見た夢の話で締めくくられます。
雪の降りしきる冬山を、昔ながらのたいまつを掲げて進む父親。父親の後を進む、今や父よりも老年となったベル。

冬山が無慈悲な現実世界の比喩であり、たいまつが昔ながらの正義や秩序といったものの比喩であることは間違いないと申せましょう。
この夢の意味するものを「希望」という明るい言葉で呼ぶのも、けっこうではございます。
しかしワタクシはむしろこの夢もまた、これまでのコーエンズの作品において見られるように、理由も目的地も分からぬままやむにやまれず突き動かされていく、人間の性(さが)というものを表現しているように思えてなりません。
最終盤に登場する老人が言っているように、世界の不条理と残酷さは決して今に始まったものではございません。
世界は常に「雪の降りしきる冬山」のように厳しく、油断のならない場所であり続けたのですし、これからもそうでございましょう。
昔ながらのたいまつ、即ちOLD MEN風の正義が、世界をくまなく照らし暖めることは決してないことでございましょう。
今までも、これからも。

それでもなお、たいまつを掲げて進むのは、一体何のためなんでございましょう?
世界の根本的なありようを、その残酷さを、変えることなどできはしない。
それなのに何故?何のために?何の意味があるんでしょう?
吉なのか凶なのか、一体そもそも意味があるのか?
危険と分かっていながら大金をネコババしてしまうことも、徒労と知りながらも「正義」や秩序のために自らの命を危険にさらすことも、なべて、結果も意味も分からずに行動に突き動かされる人間の性(さが)の一端なのではございませんか。

そんなわけで、やっぱり思わずにはいられないのでございますよ。

ああ、人間って......。




次回に続きます。


ジャンとタラフとアフガンの少女

2008-04-03 | 音楽
美術館へ行ったらほとんど垂直に近い所をあっちこっちよじ上ったりにじり降りたりしなければならかった上、帰り途では冷たい雨に降られる、という何ともくたびれる夢から目醒めたらもう時刻はお昼近くで、何でこんなに寝過ごしたんだと慌てたものの、時計をちゃんと見たら実際はまだ午前3時だったんでございます。で、もうひと眠りしようと思ったのに、なかなか寝付けなくて床の中で寝返りばかりうっている。
...というのが全部夢だったんでございます。
入れ子状の夢ってのは勘弁してほしいですね、ほんとに。
特に「寝付けない夢」ってのは最悪でございます。


それはさておき
久しぶりに街中へ出かけましたら、いろいろ買い物をしてしまいました。

いろいろ。


顔 三態。
右上の、突き刺すような視線をこちらに向ける少女の顔は、きっと皆様どこかで御覧になったことがおありかと存じます。
この写真集『ポートレイト』はそのタイトルどおり、『ナショナル・ジオグラフィック』誌のフォトグラファーを20年に渡ってつとめられたスティーブ・マッカリー氏が、世界各地で出会って来た人たちのポートレイトを一冊にまとめたものでございます。
(Amazonで表紙画像をクリックすると、拡大画像&内容の一部が見られます)
表紙を飾るアフガン難民の少女をはじめ、子供たちのまなざしがとりわけ印象深うございます。

CDはジャン・コルティの『クーカ』とタラフ・ドゥ・ハイドゥークスの『仮面舞踏会』でございます。



フィルムをはがしたての、傷ひとつないCDのケースがねえ、こう、きゅんきゅんと光るさまったらございませんね。
まあ『クーカ』の方は紙ですが。

そもそも河原町のタワレコへと足を運んだのはザッハトルテの3rdアルバム、『おやつは3ユーロまで』を買うためだったのでございますが、残念ながら店頭に置いてなかったんでございますよ。
せっかく久しぶりに街中へ出てきたというのに、何も買わずに帰るというのもシャクでございます。
とりあえず洋楽ROCK&POPSコーナーにクラウス・ノミが置いてあるのを確認して心を和らげたのち(パブリックな場所でヤツの姿を拝むのはなかなかいいもんでございます)ワールドミュージックのコーナーへとふらふら漂って行ったわけでございます。
何故ワールドミュージックの方へ寄って行ったかと申しますと、ノー・スモーキング・オーケストラの初来日に合わせて
もしや彼らのライヴ盤が入荷されていないかと期待したからでございます。

来日。来日。チケット買っちゃったもんね。うわあい。
彼ら見にトーキョーまで行くんだもんね。うわあい。ウンザウンザ。
のろよお前ワーキングプアなのにそうやって遊んでいていいのかね。
いいの。どっちみち将来は野垂れ死にをする予定なのだからせめてそれまでは楽しく過ごすのさ。

閑話休題。

結局彼らのCDは置いてなかったんでございますが、がっかりする間もあらばこそ、以前から買おう買おうと思ってそのままになっていた『クーカ』と『仮面舞踏会』、発売年にずいぶん開きのあるこの2枚が奇しくも同時に”当店のお勧め”扱いになっておりましてね。
こりゃあ何かの縁ってもんだ、と思ってこの機会に購入したわけでございます。

『クーカ』は72歳のアコーディオニスト、コルティさんのソロデビューアルバムでございます。
時に弾むような、時に唄うような深みのある音色は、粋で優しく暖かく、耳に心に心地よく、一日中でも聴いていられる一枚でございます。
ちなみに”クーカ”とはコルティさんの愛犬のお名前で、当アルバムには同名の曲が収められております。
ライナーノーツの写真でお見受けするクーカちゃんは可愛らしいむく犬なんでございますが、曲のほうなジャズ風味のクールなナンバーでございます。

『仮面舞踏会』は、民族音楽やジプシー音楽の要素を取り入れて作曲された『ペルシャの市場にて』や『ルーマニア民族舞曲』といったエキゾチックな雰囲気のクラシック曲を、最強のジプシー・バンドと称されるタラフ・ドゥ・ハイドゥークスが演奏しているものでございまして、曲の方にしてみれば「里帰り」とでも申せましょうかね。
ライナーノーツにはタラフのプロデューサー、ステファン・カロ氏のインタビューが載っておりまして、楽譜の全く読めない彼らがクラシック曲の演奏にまでこぎつけるのがいかに大変だったかを語っておられます。
この苦労話がのろにはかなりツボでございまして、声を上げて笑ってしまいました。
しかしご苦労のかいはあったことと存じます。
正装の紳士淑女の前で奏でられたのであろう曲が、躍り出したくなるようなガチャガチャジプシーサウンドに生まれ変わっておりまして、痛快でございます。

ちなみに彼らは『耳に残るは君の歌声』という映画に、ロマの楽団として出演しておいででして、主人公のスージー(クリスティーナ・リッチ)が彼らの集落を訪れて、歌を歌うシーンがあるんでございます。
スージーはもともとはロマの出身だったのですが、訳あって「イギリス人」としての教育を受けて育ったので、タラフたちの奏でる自由で活気のある旋律を口ずさむことができないんでございます。
彼女が歌うのはいかにも端正な西洋音楽の一節で、ロマたちにとっては全く聞き慣れない旋律なもんですから、それまで楽しげに演奏していた彼らは黙りこくってしまうんですね。
しかし1人、また1人と、彼女の歌声に合わせて楽器を奏で始めて、しまいには西洋的な旋律がすっかり陽気さと哀愁のごたまぜになったジプシーサウンドに取り入れられてしまうんでございます。
音楽だけでなく彼女自身が受容されていくさまを優しく端的に描いた、素敵なシーンでございました。

このアルバム『仮面舞踏会』もまた、単に東欧のジプシーバンドが西欧文化の産物であるクラシックの曲を演奏してみた、というだけのことではないことが、お聴きいただければお分かりになることでございましょう。(↑リンク先で数曲視聴できます)
ジプシー音楽に種を宿して西欧の文化の中で実を結んだ音楽を、タラフが刈り入れ、呑み込み、糧とした上で、彼ら自身のサウンドとしてどりゃーーっと出して見せた、そんな演奏でございます。
とにかくうきうきするような音でございまして、いつ聴いてもいいんでございますけれども、一杯ひっかけてグラスの横っ腹をを爪でチンチン叩いたりしながら聴くのがまあ、最上かと存じます。

今調べて分かったことでございますがパーセルのオペラ『ディドーとエネアス』の一節、「私が土のなかに横たわるとき ...」でございました。即ち、おお、クラウス・ノミの『DEATH』でございますよ。ううむ、気付きませんでした。なにせこの映画観た当時は、ノミのことも存じませんでしたからね。
この映画、関西ではミニシアターのみの公開でございましたが、たいそう秀作でございます。お話もキャストも音楽も大変よろしうございます。
ちなみに映画の善し悪しとは全然関係のない話ではございますし、のろは映画を見てはすぐ泣いてしまう方なんでございますが、開演5分で泣いちまった作品は後にも先にもこれだけでございます。今の所。