のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『完全演技者』

2008-03-31 | KLAUS NOMI
まずは先日コメント欄にて教えていただいたこちらの映像をどうぞ。

eyeVio: ウラジーミル・マラーホフ『ラ・ヴィータ・ヌォーヴァ』?マラーホフの贈り物2008

ayumi様、ありがとうございました。
使われている曲は「Wayward Sisters」と「Cold Song」、ともに17世紀の作曲家ヘンリー・パーセルの作曲でございます。
災厄を起こそうとする魔女の呼びかけを歌った、まがまがしさ全開の「Wayward Sisters」。
ほぼ全曲をこちらの3分10秒あたりから聴くことができます。
映像はノミとも曲の内容とも全く関係はございません。自主制作ホラーっぽいですね。

また、上の映像とともに、Sven Bremerさんというドイツの作家がクラウス・ノミを主題にした短編小説をお書きんなった(もしくは執筆中)という情報も教えていただきました。
ノミにインスパイアされるアーティストがいらっしゃるということも、ノミ情報を集めているかたがいらっしゃるということも、のろには実に嬉しいことでございます。
Bremer氏の小説については、目下の所詳しいことが分かっておりませんので、今後ぼちぼち情報を集めていきたいと思っております。
その代わりとうわけでもございませんが、今回は日本で出版されたノミ小説について語らせていただきたく。



『完全演技者 トータル・パフォーマー』

ストーリー等はこちら様が書いていらっしゃるとうりでございまして、特に付け足すことはございません。
ただワタクシにとってひたすら重要なのは、本作の主要登場人物である「クラウス・ネモ」が、そう、クラウス・ノミをモデルとしたキャラクターであるという点でございます。
モデルにしていると申しましても、あくまでもフィクションでございます。
のみならずかなり荒唐無稽なお話でもあります。
実在の人物とその時代に寄託した、一種のファンタジーといってもよろしうございましょう。
まあ『義経千本桜』とか漫画の『日出処の天子』みたいなもんでございますね。

読んでいて思ったことは、この「ネモ」というキャラクターはひとつの「理想的ノミ像」なのかもしれない、ということでございます。
今のワタクシどもは映画やYoutubeのおかげでノミのプライベートの表情ってものを知ることができます。
つまりノミがこの小説の「ネモ」のような人物では全然なかったということを、知っております。
けれども思うのですよ、もしも80年代当時に、あの歌声とステージ上の姿だけでヤツのことを知っていたならば、「ネモ」のような人物を想像したかもしれないと。

尊大なほど落ち着きはらっていて、常に完璧な無表情。
オンステージでもオフステージでも全く違いのない物腰。
私生活は完全に謎に包まれているけれども、実は悲しい過去を背負っている。
そのパフォーマー魂で死さえも欺き、「ネモ」というキャラクターとして生き続ける。

もちろんこれはあまりにも非現実的なキャラクターでございますし、「ネモ・バンド」を構成する残りの2人、「ボブB」と「ジェニファー」(ジョーイ・アリアスとJanusがモデルかと思われます)も、ちょっと現実にはありえないようなキャラクターとして造形されております。
しかしプラスチックのタキシードを着込んでオペラを歌うノミや無表情でロボットダンスを披露するジョーイ・アリアスだけを見ていたならば、そうした、ステージ上と同様に私生活でも「ありえない」人たち、という人物像を、想像したくもなったことでございましょう。
彼らは普通の人間ではなく、根っからの異形の人物にちがいない、むしろそうであってほしい、と。
そして当時タイムリーにノミを目撃した雑誌記者たちはまさしく、そうしたイメージを書き立てたようでございます。

「年齢、性別、素性不明のニューウェーブ」 ソーホー・ウィークリー・ニュース
「人間の基準から判断すれば---ビニールのケープから頬骨まで---彼は完璧に異星人」 同上
「異星から降り立った大天使」 ス・ソワール・ブリュッセル紙
「自然が生み出したちょっとした間違い」 ニューヨーク・ロッカー
「ジェンダーを越えた生き物、地球外生命体の肉体を持った悲しき道化師」 リベラシオン
(引用は全て『ノミ・ソング』パンフレットより)

そして映画『ノミ・ソング』を見るかぎり、ノミ本人の意図はともかくとして少なくとも彼のマネージャーはこのような「異形/謎/近付き難い存在」というイメージを、クラウス・ノミというキャラクターのセールスポイントとして使ったようでございます。

ノミ自身の意図について保留をつけましたのは、このようなキャラクターが本来のノミ(というかクラウス・スパーバー氏)の性格とはずいぶんかけ離れたもののように思われるからでございます。そう判断する理由は映画『ノミ・ソング』内で記者アラン・プラットの語ったエピソードや、ブログに書かれたアン・マグナソンの証言から得られる、人懐っこく親しみやすい人柄という印象でございます。これについては当記事の最後にご紹介いたします。


小説の「ネモ」とノミの間には、実際にはかなりの隔たりがございますけれども、「ネモ」の風貌や衣装は、ほとんどノミそのまんまでございます。
白塗りの顔、黒い唇、ギョロ目、三方に逆立てた髪、プラスチックのタキシード。
作中で歌う曲もほとんど、実際にノミが歌った曲でございます。
「Keys of Life」「Cold Song」「Wayward Sisters」「Total Eclipse」「After the Fall」そして「Death」。

それだけに---こういう小説では通例のことなのかもしれませんけれども---、このキャラクターのモデルが実在の人物であることについて、どこにもひと言も触れられていないのが、ワタクシとしてはちと残念でございました。
ノミのことを知らない人がこの作品を読んだらまず間違いなく、「クラウス・ネモ」なるキャラクターは作者による完全な創作物だと思ってしまうことでございましょう。
無理もございません。
全身タイツにプラスチックのタキシードを着こみ、髪を三方に逆立て、真っ白い仮面のような顔に黒いルージュをひき、ソプラノでポップスを歌う男性が現実に存在するとは、思いません、普通は。
本編の前なり後ろなり、あるいはカバーにかけられた帯にでも、ひと言でいいからノミの存在に言及してほしかったと思うのは、ノミファンであるワタクシのワガママでございましょうか?
しかし、作中でも音楽シーンのイコンとして、あたりまえに実名で登場するデヴィッド・ボウイに対して、「この作品はフィクションであり、実在のいかなる組織・個人とも一切関わりのないことを付記いたします」という一文のもとにその存在をかき消されてしまっているノミ。
らしいといえばらしいんでございますけれども、ちと切ないではございませんか。

まあそんなわけで不満が無いわけではございませんけれども、面白い作品であったと思います。
そもそもは(失礼ながら)ノミがモデルであるというだけの理由で手に取った作品ではございましたが、主人公のキャラクターにも好感が持てましたし、小さな謎が所々に折り込まれたプロットも最後まで楽しんで読むことができました。
そして「ネモ=ノミ」ではないことは承知していながらも、「ネモ・バンド」に受け入れられて彼らと生活を共にする主人公が、ワタクシはちょっぴりうらやましかった。
心に残った一文もございました。

「私は生まれながらに誤った枡目に置かれたチェスの駒なんだ。正しい位置にまで自分で動いていかなければならない。生きているうちに行き着けるかどうかはわからないが、生きている間に少しでもそこに近づこうとしているだけだ」 p.159

「クラウス・ネモ」の台詞でございます。
「普通の人」という基準からなぜかズレている人間の、自分自身と社会に対する違和感、居心地の悪さを表現しているようで、印象的な一文でございました。


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映画『ノミ・ソング』より、記者アラン・プラットの証言1
After talking him a while,you realize overwhelming feeing that "What a nice person",and y'know,"What a nice guy".
It was just nice to sit in his apartment which was an ordinary little place and watching him ordinary guy.

彼と実際に話してみたら、僕はすっかり感じ入ってしまった。「何て気持ちのいい人だろう、何ていい奴なんだろう」って。彼のアパートメントはこぢんまりとした、ごく普通の部屋だったし、そこでごく普通の人として振る舞う彼と一緒にいるのは実に楽しかった。

映画『ノミ・ソング』より、記者アラン・プラットの証言2
I went with my girl friend and her daughter who was 6 ... Klaus Nomi was really looked like Sunday-going-to-Marsian-church-outfit... And he was standing there in a kind of cocoon of his own... totally unapproachable....little girl just go over to him and just like said, "Hi.Are you from outer space?"And he said"Yes"."Yes I have, as a matter of fact" And they sat down together and had a lovely little conversation. She was asking this questions like "What was it like on Mars?" "What 's the weather like?" and he was just answering as nice as possible way...

ガールフレンドと、彼女の6歳の娘と一緒に、ノミのステージを見に行った。ノミときたら日曜日に教会に行く火星人みたいな格好をして、ひとりぼっちで立っていた。なにしろ彼は近寄りがたい雰囲気を発していて、誰も声をかけられなかったんだ。でも6歳の娘はぜんぜん平気で、彼の所へ近づいて行ってこう尋ねた。「ねえ、あなたは宇宙から来たの?」ノミは答えた。「うん、そうなんだ。実を言うとね」それから2人で腰掛けて、微笑ましい会話を交わした。娘は「火星ってどんな感じ?」とか「お天気はどうなの?」と尋ねる。ノミはそんな質問に、この上なく優しく答えていたよ...

PAPERMAGでのアン・マグナソン(および”toni”の証言)

---I ... saw him often in the neighborhood, he was so happy to be greeted or told how good the last show was,so I never saw diva behaviour. (by toni)
---you're right - Klaus was a sweetheart - the diva stuff happened later - probably encouraged by those (ahem) managers!(by ann magnuson)

---家の近所でよくクラウスを見かけたっけ。挨拶に声をかけたり、この間のショーは良かったねって言うと、彼はすごく喜んでた。ディーバっぽい、お高くとまった態度なんて、私は見たことなかったな。(トニより)
---まったくね。クラウスはsweetheart(素敵な人、優しい人、愛すべき人)だったもの。...ディーバじみた態度になったのはあとになってから。...たぶん「マネージャー」とか称する連中に、そそのかされたんだと思うわ。(アン・マグナソン)


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もちろん「彼はエゴが強くて...」という証言もございますし、決していわゆる”Mr,Nice guy"ではなかったと思います。
しかし残された映像や証言からは、ヤツが基本的にサービス精神旺盛で人と一緒にいるのが好きな、人当たりのいい人物であったということが、忍ばれるのでございます。



『スターリングラード』2

2008-03-23 | 映画


と いうわけで
3/20の続きでございます。

*****以下、再び完全ネタバレ話でございます。*****

前回、本筋以外の部分についてはより控えめな描き方をしてほしかった、と申しました。
特に恋愛の部分はもっとあっさりさっぱり、サラッと描いていただきとうございましたねえ。
正直、全然無くってもいいくらいでございました。

始めのうちは、別に気にならなかったんでございますがね。
例えばヴァシリとダニロフがファンレターへの返事を書いている場面。
ヒロインのターニャ(レイチェル・ワイズ)が現れたとたん、二人とも微妙にカッコつけだすんでございますね。
ほのかな恋心とほのかなライバル心が画面に漂い、奥ゆかしくってなかなかいいシーンでございました。
しかしその後ストーリー上でこの三角関係がどんどん出ばってまいりまして「実はこれが本筋です」とでも言いたげに幅をきかせておりますのは甚だいただけません。
何よりいただけないのは、映画の最終盤に瀕死の重傷を負ったターニャ、横っぱらにあいた穴から血を流すターニャ、その青ざめた顔で観客の涙を誘ったであろうターニャが、結局は助かってしまうということでございます。
映画の中だって、人が死んで嬉しいということはございません。
しかし、はばかりながら申しますが、彼女は死んでしかるべきでございました。

ターニャはヴォルガ河を渡ろうとする群衆と共に、ドイツ軍の爆撃を受けて倒れます。
まさにオープニングの数分間で死んでいった、あの名も無き幾多の兵士たちと同じように。
ターニャとあの兵士たちとで違うのは、私達観客は彼女がどんな人物であるかを知っているということ、この1点でございます。
彼女が教養ある女性であるということ、ヴァシリを愛しているということ、両親をドイツ軍に殺されたということ。
彼女が個性と来歴を持ったかけがえのない人間であることを、観客は知っています。
にもかかわらず、そんな彼女の唯一性など全くおかまいなしに空から銃弾が浴びせられる。
これによって、「唯一の人物ターニャ」と「名も無き兵士たち」が同列に置かれるのでございます。
即ち観客は、いとも簡単に死んで行ったあの兵士たちもまた、ターニャと同じように個性や、来歴や、愛する人を持っていたこと、今あまりにもあっけなく死のうとしているターニャと同じように、紙くずのように扱われたあの命のひとつひとつもまた、かけがえのない存在だったということに思い至る・・・
はずでした。

一方、ターニャが死んだと思い込んで絶望したダニロフは、ケーニッヒの居所をヴァシリに教えるために自ら標的となって死にます。
隠れ場所から姿をあらわしたケーニッヒを、ヴァシリの照準が完璧に捉えます。
2人はこの時初めて、面と向ってお互いの姿を見るのでございます。
「ああ、君か・・」と言いたげな、撃たれる直前のエド・ハリスの表情が素晴らしいんでございます。
眉間に銃弾をうけ、泥の中に倒れるケーニッヒ。
死闘は終わった。青空を見上げるヴァシリ。



しかし友も恋人も失った彼の胸には、戦争の虚しさがこだまするばかりだった・・・
はずなのですが。

医師の「もう駄目だろう」という言葉にもかかわらず、どんな奇跡が起きたのやら、死んだと思われたターニャが生きていることがラストで明らかになるんでございます。(おぉいダニロフ)
で、病院でヴァシリと感動の再会、と。

はあ。

まあ、ね、観たときは「はあ。・・・よかったっすね」と思いました。
しかし考えているうちにだんだん腹が立ってまいりました。
これでは「有象無象の兵たちや、美人でもなければ天才でもない凡庸な狙撃手たちや、主人公の恋路の邪魔をするやからは死んじゃったけど、かっこいい主人公と可愛いヒロインは生きてるんだもの。めでたしめでたしだよね」と言っているようなもんではございませんか。
非現実的な娯楽アクションものなら、こういうことも許されるでしょう。むしろ奨励されますね。
しかし独ソ両軍と民間人あわせて100万人以上の死者を数えた、苛烈な市街戦を題材にしてやっていいことではございません。
そも、オープニングでは戦争映画であったものが、ラストでは甚だご都合主義的な恋愛映画になっているとはこれいかに。
こりゃケーニッヒ少佐じゃなくったって




どうもずいぶんけなしてしまったようでございますが
駄作だと言うつもりはございません。
むしろいい所が多かっただけに、悪い所も目についてしまうのでございましょう。

例えばヴァシリとケーニッヒを、小道具から色彩までこだわって徹底的に描き分けている点なぞ、たいそう面白うございました。
ヴァシリ陣営は全体的にカーキ色、というか土色で、ごたごたと猥雑な感じがいたします。
床に雑魚寝する兵士たちを横目に、ストーブの上で煮詰まったお茶(か何か)を汚いおたまですくい、カップに注いで飲むヴァシリ。
一方、戦車がおっそろしく整然と並ぶドイツ陣営は冷たいグレーの色調で描かれ、ひとりソファに身をうずめたケーニッヒは、お盆の上のデミタスカップでコーヒーを飲んだりいたします。
ヴァシリたちは適当な紙で巻いたいかにも粗悪な煙草を、まあ、煙草というより煙突といったほうが近いようなシロモノを吸っているのに対して、ケーニッヒの煙草は銀のシガレットケースにこれまた整然と並んだ、金の吸い口付きの見るからに高級そうなもの。
ウラルの羊飼いヴァシリは決して教養が高くはないけれども、純朴な愛すべき青年であり、みんなのヒーロー。自覚のないままにあれよあれよと祭り上げられ、権力者からの祝福を受けてとまどい、スターリンの肖像をきょとんと見つめる。
バイエルンの貴族ケーニッヒは、戦地に赴く間にも分厚い本のページをめくる教養人。同僚とも距離をおく孤高のエリートで、どうやらヒトラーに対しても懐疑的。
常に3人のグループで、どんどん移動しながら標的を狙う、いわば「動」スタイルのヴァシリ。
1人で隠れ場所に潜んで動かず、標的が姿を現すのを待ちかまえる「静」スタイルのケーニッヒ。

このあまりにも対照的な2人が、同じように瓦礫の中に這いつくばり、ひたすら相手の眉間を捉えようと火花を散らすというのが、本作の最大の見どころでございましょう。
こう考えてまいりますとますます、このテーマを描くことに集中して、三角関係やら何やらの要素はあんまり盛り込まないでいてくれたらよかったのに・・と思わずにはいられません。
もしくはもっと時間を長くして、それぞれの要素をメインテーマにつながるまでしっかり掘り下げて描くとか。
(メインテーマというものがあればの話でございますが)
長い映画は嫌だっていうかたもいらっしゃいますけれども、短くて薄っぺらい作品になるよりはマシだと思うのでございますよ。
せっかくジュード・ロウとエド・ハリスという素晴らしい役者を揃えたというのに、勿体ないことでございます。

でもまあ、アレです。
多分この映画が本当に言いたかったのは
脚本がまずかろうとも、ラストがご都合主義だろうとも、みんな英語で話すので「ケーニッヒ」が「コーニック」と発音されていようとも、軍服のエド・ハリスはサイコーだってことでございます。



うーむ納得。

『スターリングラード』1

2008-03-20 | 映画
花粉真っ盛りの時節でございますね。
ワタクシは今までの所なんともございませんけれども
エド・ハリス様はお怒りのようでございます。

YouTube - [MAD] 花粉症患者魂の叫び「ザ・ロック」版

いやあ、それにしても
エド・ハリスよりも軍服の似合う俳優なんているんでございましょうか。いや、いない。
トム・ベレンジャー?眠ってな!

と いうわけで 唐突ですが
『スターリングラード』を観ました。

↑ ” A N D エド・ハリス " でございますよ、” A N D エド・ハリス " 。ほっほっほ。

帽子 軍服 エド・ハリス
煙草 長銃 エド・ハリス
ああエド・ハリス エド・ハリス 

えっ 映画はどうだったのかって。
面白いうございましたよ。ええ。
ただ、ねえ。名作になりそこねた感が強い作品ではございました。
広い客層を取り込もうと欲張りすぎたのか、あるいは大感動の人間ドラマを作ってやろうと頑張りすぎたのか。
いろんなテーマを詰め込みすぎた結果、全体に薄っぺらい感じになってしまっておりました。

どういうお話か、冒頭のシーンとともにちとご説明いたしますと。

***** 以下、完全ネタバレ話でございます *****

時は第二次大戦まっただ中。
独ソ両軍の市街戦が熾烈を極めているスターリングラードに、ソ連軍新兵の一団が到着します。
着くや否や、右も左も分からぬ青年たちは、すぐさま最前線へと追い立てられます。
前線基地へと移動する間にも機銃掃射が雨あられと降り注ぎ、まだ銃を手にしてもいない新兵たちは、ヴォルガ河畔でどんどん死んで行きます。
基地に着いたって、そもそも物資が足りないもんですから、銃は兵の半数にしか与えられない。
残りの半数はどうするのかと言うと、銃弾だけ持って、銃を持ってる奴の後ろにくっついて、丸腰で敵陣に突っ込めと。
前の奴が倒れたら、そいつの銃を取って進めと。
無茶苦茶でございます。無茶苦茶でございますが、従わざるをを得ない状況でございます。
で、ウラーと叫びながらドイツ軍に向って突っ込んで行く。
当然、正面から掃射を浴びてみんなバタバタと死んで行く。
これはとても駄目だってんで退却すると、今度は何と味方の方から撃たれる。臆病者は死ね、と。

冒頭数分の間に繰り広げられるこの戦闘シーン。
兵士たちの命が紙くずのように軽く、道理もへったくれもなく吹き飛ばされて行くさまは凄絶でございます。
そうであるだけに、ここで非常に印象深く描かれた「戦場における命の軽さ」というテーマが
その後ぜんぜん展開されないのは残念でございました。
兵士の死はその後も描かれるものの、あくまでも主人公およびその恋人を引き立てるための道具立てとして使われている感がございます。

ともかく、そうして戦場に送り込まれて来た若者の一人が、天才的な狙撃の腕の持ち主、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)でございます。
その腕を見込んだ文官のダニロフ(ジョゼフ・ファインズ)のはからいで、狙撃班に編入されたヴァシリ。
ドイツ軍の将校を次々と、まあ、しとめていくんでございます。
腕もいい、ルックスもいい、しかも労働者階級出身。
ソ連軍としては、戦意高揚のための「救国のヒーロー」像にもってこいの人物でございます。
ヴァシリの活躍は連日、殺した将校の数とともに新聞やビラで華々しく報道されます。

ドイツ軍は焦ります。あの狙撃兵を何とかせにゃならん、と。
で、栄光のベルリンから助っ人として誰が来るかといいますと
ほっほっほ。
エド・ハリスが来るんでございますよ。
エド・ハリス、もといケーニッヒ少佐もまた、凄腕のスナイパーなんでございます。
ヴァシリの宣伝部長ダニロフの言葉を借りるならば「バイエルンの貴族V.S.ウラルの羊飼い」の戦いの幕が、ここに切って落とされるってわけでございます。
バイエルンかあ。いいなあ。バイエルン。バイエルン。

このスナイパー同士の対決を描いた部分は、緊迫感に溢れていて実に素晴らしいんでございます。
しかしその合間に挟まれるエピソードがちょっとウ~ムあれれ。
いえ、各々のエピソードそれ自体は、決して悪くはないんでございますよ。
しかしそれらが互いに食い合いをしてしまっている、と申しましょうかねえ。
つまり
友情と羨望と戦火の恋と、権力の欺瞞性と戦争の悲惨さと、あこがれと裏切りそして名声のプレッシャーに悩む主人公、A N D 凄腕スナーパー同士の対決、というあまりにも盛りだくさんなテーマの中にメインテーマが拡散してしまい、全体的には何が言いたいのやら分からない作品になっていると思うのでございますよ。
それぞれ、映画のテーマとして設定されたのだとすれば描き方が浅すぎるし、欄外の挿話にしては中途半端に深入りしすぎている感じがするんでございます。

各々のエピソードは面白い上に、俳優の演技もよろしうございますので、最後まで、飽きるということはございません。
しかし「あれっ、さっきの話を掘り下げて行くんじゃなかったの??」と肩すかしを喰らったような気分になることが、残念ながら一度ならずございました。
メインテーマを強く打ち出して、他の部分はもっとサラッと控えめな描写にしてくだすったら、よかったんでございますがねえ。

皮肉なことではございますが、主人公側ではなく敵であるケーニッヒ側を描いた場面では、語りすぎず抑制の利いた演出が大変いい効果を発揮していたと思います。
例えば、映画の終盤、ケーニッヒが司令官に自分の認識票(軍人さんが首にかけてる名札)を渡す場面でございます。

この場面に少し先立って、ケーニッヒが勲章を着け替えるシーンがございます。
黒地に銀の縁取りの光る、いかにもナチのエリートらしいパリッとした十字勲章を外し、代わりに薄汚れてさび付いた、あんまり見栄えのしない勲章を着ける。
この時点では、これがいったい何を意味しているのか観客には分かりません。
ともあれ、その汚れた勲章をつけたまま戦場に望むケーニッヒ。
その日は両軍の大規模な戦闘があって、死者も沢山出る。
累々と横たわる死体の中からヴァシリの身分証が見つかる。
で、どうやらヴァシリは乱戦の中で死んだらしい、ということになるわけですね。
そこでスターリングラード攻略にあたっていた司令官は、ケーニッヒを呼んでこう言う。
奴は死んだ。君の役目はもう終わったんだ。明日の飛行機でベルリンへ帰りたまえ。それまで君の認識票はこちらで預かっておく。もしも帰るまでの間に君が死んで、それが知れ渡ってしまったら、兵士たちの士気にかかわるから。

認識票が無いってことは、死んだら身元が分からなくなるってことでございます。
つまり司令官が暗に言っているのは「オマエがこれ以上ここをグズグズしていてうっかり死んだとしても、もうこっちの知ったことじゃなからな。いつまでも俺の縄張りでうろついていないでさっさとベルリンへ帰れ」ってことでございます。
そもそもこの司令官は、一匹狼で切れ者のケーニッヒが、苦戦中の自分を「助けに」やって来たことが気に入らなかったんでございます。
これもハッキリと語られるわけではございませんが、微妙な表情や態度からその心境が伺えます。役者さんもうまいですね。

ケーニッヒの方はヴァシリがまだ生きていると確信しているのですが-----「なぜなら、私がまだ殺していないからだ」-----黙って認識票を手渡します。
認識票と一緒に勲章も外す。あの、薄汚れた勲章でございます。そして、こう言うんでございますよ。

「この勲章もお返しします。この地で戦死した将校に、かつて贈られたものです。私の息子でした」

この冷たい目の、精密機械のような狙撃手が、何を思ってはるばるこの地へやってきたのか。
今までどんな思いで銃を握っていたのか。
それがこのひと言で、初めて明かされるんでございます。

と同時に、ケーニッヒ登場時のなにげないシーンに、見かけよりも深い意味が込められていたことも分かります。
負傷兵たちから目をそらして煙草に火をつける、その心境。
司令官の「君のような高官が来るとは思わなかった」という言葉。
映画の初盤に置かれた、こうしたさりげない伏線と、終盤のひと言。
ケーニッヒが息子の仇討ちをせんという沈痛な思いを抱え、おそらくは志願してこの戦場へやって来たということが、抑制のきいた演出でもって語られております。
抑制されているだけに、いっそう心に訴えるものがございます。

主人公サイドを描くにあたっても、主となるテーマ以外に関しては、このくらい控えめな描写をしていただきたかったのですがねえ。・・・



ちと長くなりましたので、次回へ続きます。



サポート・ダライ・ラマ

2008-03-18 | Weblog
折りに触れご紹介しております国際NGO、Avaazから、チベット問題についてのメールが届きました。
以下にご紹介いたします。


件名:Tibet - Support the Dalai Lama

中国政府からの何十年にも渡る弾圧により、チベットの人々の不満は限界に達し、抗議活動や暴動となって街路に溢れ出しました。
オリンピック開催を前にして中国が注目を集めている今こそ、チベットの人々は世界に対して、変革を求める叫びをあげたのです。

中国政府は、まだ抗議活動を続けている者は「罰せられるだろう」と表明しています。
政府指導者たちは今、極めて重大な選択を迫られています。暴力をエスカレートさせるのか、対話を始めるのか。彼らの選択が、チベットと中国の未来を決定すると言えます。

私達は、この歴史的な選択に影響を与えることができます。
中国は国際的な評判に注意を払っています。
「MADE IN CHNA」製品や来たるオリンピックが成功を収めるか否かは、胡錦濤国家主席が正しい選択をするか否かにかかっています。彼はこのことを認識しなければなりません。
しかし彼の注意を喚起するには、世界中の人々の大きな力が必要です-----今から48時間内に。

ノーベル平和賞受賞者でありチベットの精神的指導者であるダライ・ラマは、自制と対話を呼びかけています。
世界中の人々のサポートを、彼は必要としています。
下のリンク先から、どうか署名に参加して下さい。
そして大急ぎで、できるかぎり多くの人に、この署名のことを知らせてください。

Avaaz.org - The World in Action

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*署名の内容は以下の通りです*

胡錦濤国家主席へ
私達は地球に住むいち市民として、主席に以下のことを要請します。
チベットでの抗議活動に対して、暴力の自制と人権への尊重をお示しになること、
そして全チベット人の懸念に応えるため、ダライ・ラマとの有意義な対話を開始すること。
対話と関係改善こそが、永続的な安定へと導く唯一の道です。
中国の輝かしい未来は、調和のとれた発展と、対話、そして尊敬によってこそ築かれるのです。

-----------------------------

*のろ注*

下の Sign the petition 欄に Name:お名前、Email:メールアドレス、Country:国籍(選択)、Postcode:郵便番号 を入力の上、ピンクの Send:送信ボタンをクリックすると署名に参加できます。
右側に表示されている数字(*****are standing with the Tibet)は現在の署名の総計です。
送信後、ご署名ありがとうメールが届きます。

-----------------------------

中国の経済は、私達が日々購入している「MADE IN CHNA」製品の輸出に、完全に依存しています。
政府はこの夏の北京オリンピックを成功させたいと強く願っています。新しい中国、世界の牽引役を担う国の祭典として。
また中国は過酷な過去を持つ、非常に多様性のある国であり、安定を計られるべき国でもあります。
一部の暴徒化したチベット人によって、数人の無辜の住民が殺害されました。
しかし胡主席は以下のことを認識するべきです。
即ち、中国の安定と発展を脅かすものはチベット弾圧の強化を主張する国内の強硬派たちであり、対話と関係改善を求めるチベット人たちではないということを。

私達は皆さんからいただいた署名を、ロンドン、ニューヨーク、そして北京の中国政府当局者に直接届けます。
そのためには多くの皆さんの参加が必要です。
どうぞ皆さんのお友達にも、この署名の重要性を知らせてください。
署名を送信していただいた後に開くページの、 tell-a-friend tool  も利用できます。 

チベットの人々は長い間、苦しみながらも沈黙していました。
今ようやく、彼らが声を上げる時が来たのです。彼らの声が世界に聞こえるよう、手助けをしようではありませんか。

希望とともに。
Ricken, Iain, Graziela, Paul, Galit, Pascal, Milena, Ben そして Avaazの全メンバーより

P.S. この署名嘆願メールを受けて、中国政府がAvaazのHPへのアクセス禁止措置をとる恐れがあります。
そうした措置が行われた場合、何千という中国国内のメンバーたちは、Avaazの活動に参加できなくなります。
Avaaz内では先週末にかけて、この問題について投票を行いました。
その結果メンバーの80%が、このような大きな損失が見込まれるとしても、価値ある変化をもたらす可能性があるならば、チベットのために行動を起こすべきであるという考えを示しました。
政府のアクセス規制が実行された場合、私達は全中国国民の自由なネット環境を求めるキャンペーンにも参加します。
私達の仲間がいつか再び、活動に参加できるように。



以下、メール本文

Dear friends,

After decades of repression under Chinese rule, the Tibetan people's frustrations have burst onto the streets in protests and riots. With the spotlight of the upcoming Olympic Games now on China, Tibetans are crying out to the world for change.

The Chinese government has said that the protesters who have not yet surrendered "will be punished". Its leaders are right now considering a crucial choice between escalating brutality or dialogue that could determine the future of Tibet, and China.

We can affect this historic choice--China does care about its international reputation. China's President Hu Jintao needs to hear that the 'Made in China' brand and the upcoming Olympics in Beijing can succeed only if he makes the right choice. But it will take an avalanche of global people power to get his attention--and we need it in the next 48 hours.

The Tibetan Nobel peace prize winner and spiritual leader, the Dalai Lama has called for restraint and dialogue: he needs the world's people to support him. Click below now to sign the petition--and tell absolutely everyone you can right away--our goal is 1 million voices united for Tibet:

http://www.avaaz.org/en/tibet_end_the_violence/6.php

China's economy is totally dependent on "Made in China" exports that we all buy, and the government is keen to make the Olympics in Beijing this summer a celebration of a new China, respected as a leading world power. China is also a very diverse country with a brutal past and has reason to be concerned about its stability -- some of Tibet's rioters killed innocent people. But President Hu must recognize that the greatest danger to Chinese stability and development comes from hardliners who advocate escalating repression, not from Tibetans who seek dialogue and reform.

We will deliver our petition directly to Chinese officials in London, New York, and Beijing, but it must be a massive number before we deliver the petition. Please forward this email to your address book with a note explaining to your friends why this is important, or use our tell-a-friend tool to email your address book--it will come up after you sign the petition.

The Tibetan people have suffered quietly for decades. It is finally their moment to speak--we must help them be heard.

With hope and respect,

Ricken, Iain, Graziela, Paul, Galit, Pascal, Milena, Ben and the whole Avaaz team

PS - It has been suggested that the Chinese government may block the Avaaz website as a result of this email, and thousands of Avaaz members in China will no longer be able to participate in our community. A poll of Avaaz members over the weekend showed that over 80% of us believed it was still important to act on Tibet despite this terrible potential loss to our community, if we thought we could make a difference. If we are blocked, Avaaz will help maintain the campaign for internet freedom for all Chinese people, so that our members in China can one day rejoin our community.

Here are some links with more information on the Tibetan protests and the Chinese response:

BBC News: UN Calls for Restraint in Tibet

Human Rights Watch: China Restrain from Violently Attacking Protesters

Associated Press: Tibet Unrest Sparks Global Reaction

New York Times: China Takes Steps to Thwart Reporting on Tibet Protests
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『ドイツ・ポスター展』

2008-03-13 | 展覧会
ドイツ・ポスター 1890?1933 | 京都国立近代美術館 へ行ってまいりました。

ポスター展は実に楽しいものでございます。
ポスターにせよ絵画にせよ、共通している課題は
・3次元に存在しているものを、2次元上でいかに表現するか?
・かたちとしては存在しないもの-----思想、感情、雰囲気、物語など-----をいかに視覚化するか?
といったものでございますが
ポスターの場合はさらに、
・テキスト(文字情報)とイメージ(図像)との関係
・モチーフのデザイン化
・明確なメッセージ性
などの要素(あるいは制約)がからんでまいりますね。
この制約の中で、どれだけインパクトのある、いいものを創ることができるか?という所が面白いんでございます。
臆面もなく盛り込まれたケレン味も、楽しうございますね。
ウーム、そう来たか!と唸らされます。

おおむね年代順に作品が並んでいる本展。
そのデザインや内容の変遷に、19世紀末から20世紀初頭のドイツの世相や
流行の美術様式を見ることができます。

19世紀末のドイツあたりといったら、分離派であり、ユーゲントシュティールでございますね。ほくほく。
本展にはユーゲントシュティール(青春様式)という語のもととなった雑誌「ユーゲント」も展示されております。
驚くのは、そのデザインの自由さでございます。
ここ
バラエティ豊かな表紙デザインの一端を見ることができます。
(↑年代を選んでクリックしてください。 |zurück| をクリックするとはじめの画面に戻ります)
イラストもレイアウトもタイトルロゴさえも号ごとに異なっておりまして、同じ雑誌とは思えないほどでございますね。

傑作だったのがこれ。



おしおきでございましょうか、2人の若い娘さんが、小さな老人に耳を引っぱられております。
JUGEND(若さ、青春)をうたった雑誌にはどうも似つかわしくないイラストでございますねえ。
それどころか、何と誌名がALTER(老年、老人)になっているではございませんか。
これは一体...
と、よく見ましたらこれ、4月1日発行号なんでございます。
このデザインはそっくり、前々号↓のパロディだったのでございました。



ナイス遊び心でございます。


ポスターという広告媒体が広く普及し、そのインパクトと芸術性において
制作者たちがしのぎを削った世紀末。
都市ではポスターを扱う画廊が登場する一方、美術館や博物館でもポスターを蒐集し
高まるポスター熱の中、「ポスター愛好家協会」なるものまで発足いたします。
本展に展示されている「ポスター愛好家協会」の発行した雑誌「ダス・プラカーテ(=ザ・ポスター)」や
ポスタースタンプ(実際のポスターデザインをそのまま使った、切手状の印刷物)からは
多彩で上質なポスター文化の展開を見ることができます。

1914~1919年、第一次大戦下のポスターは、戦時公債や政治プロパガンダを扱ったものが多く
その後ドイツが辿った道-----敗戦、不況、ナチス台頭-----を思いおこさせ、胸が傷みます。

しかし20年代後半に至り、バウハウス的なデザインの登場を見ますというと
やっぱり何かこう、わくわくとしてまいります。
世紀末に登場したザッハプラカート(即物的ポスター)の、シンプルで力強いデザインの系譜を受け継ぎながらも
それまでとは全く違ったインパクトと美しさを備えたポスターの数々。
それは現代の優れた工業デザインにまで至る機能美への志向が
時代の荒波にもまれつつも、ドイツデザイン界に脈々と流れて来たことを物語っているようでございました。





メイシーさん

2008-03-07 | 映画
先月コーエン兄弟の話をちょっぴりいたしましたが
コーエン兄弟といえばまあ、『ファーゴ』ございますよねえ。
で、『ファーゴ』といえばまあ、ウィリアム・H・メイシーでございますよねえ。

いや そこはフランシス・マクドーマンドだろ とか
いやいや やっぱりブシェーミだろ とか
何言ってんでえ ピーター・ストーメアだろ などのご意見はとりあえず脇に置いといて。

ウィリアム・H・メイシーさん。
『ファーゴ』および『マグノリア』でのすばらしい演技のおかげで、
のろの中ではすっかり メイシーさん=ダメオヤジ のイメージが定着してしまい
そのイメージは『 エアフォース・ワン』でのかっこいい空軍少佐役を見てもなお、拭えなかったのでございます。

ですから、そのメイシーさんがアメリカの人気司会者オプラ・ウィンフリーの番組で
いとも軽々とウクレレを弾き歌いなさっているお姿は、のろには新鮮な驚きでございました。

YouTube - William H. Macy plays the Ukulele

ぎゃははは!

『WILD HOGS』(邦題『団塊ボーイズ』)という映画のプロモーションでございましょうね。
番組に出演しているのは、映画で共演したジョン・トラボルタ、ティム・アレン、そしてマーティン・ローレンス。
彼らを前にしてメイシーさんが歌うのは...

「君がバイクを借りたなら、バイク乗りらしいことをしてみなきゃね。
 『イージー・ライダー』をレンタルしなよ。
 『団塊ボーイズ』はやめときな。
 ジョン・トラボルタはセクシーじゃないし
 マーティン・ローレンスはタフじゃないし
 ティム・アレンは面白くない。
 いい仕事してるのはメイシーだけ。
 (観客大爆笑)
 まあ笑うがいいさ。
 でもバイクの上の僕のカッコイイことといったら...(観客爆笑)」

そしてボコボコにされるメイシーさん笑
おお、それでこそ貴方だ笑笑


いやはや、それにしても
この驚きは『ビヨンド the シー』を観て、
ケヴィン・スペイシーが歌手顔負けに歌が上手いということを知った時以来のものでございました。

ええ、『ビヨンド the シー』、サントラ買ってしまいました。
けびんさん好きなんです。ほっといてくださいまし。

閑話休題。
この動画、ウクレレを演奏している人の姿をネット上で探している最中に
偶然行き当たったものでございます。
この他に行き当たった、ウクレレ関連のおもしろものとしてはこんなのもございました。

のろの家にはファミコンなるものはございませんでしたけれども
このメロディは、なぜか懐かしうございますねえ。
こうして聴いてみますと、なかなかの名曲でございます。