のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

なくなった映画館3

2013-02-27 | 映画
2/26の続きでございます。

観賞後に重い余韻を残したマフィア映画『フェイク』も、エド・ハリス渾身の『ポロック 2人だけのアトリエ』も、弥生座で観たのでございました。コーエン兄弟による、キャストが無駄に豪華なコメディ映画『ディボース・ショウ』を観たのもここでした。
この作品、世間的にはあんまり評価が高くないようですが、ワタクシはわりと好きでございます。そつなく抜け目ないようでいてコロッと騙されるジョージ・クルーニーも、魔性の女オーラ全開のキャサリン・ゼタ・ジョーンズも、無邪気な田舎っぺ大富豪のビリー・ボブ・ソーントンも、ちょっとだけ出て来て濃ゆい濃ゆい演技を繰り広げるジェフリー・ラッシュも、みんないいじゃございませんか。なんだかんだでハッピーエンドというのもよろしい。コーエン兄弟だからって何が何でもひねらねばならないということはありますまい。

『アメリカン・スプレンダー』みたいな変な映画もやっておりましたっけ。「あなたを“輝かせて(スプレンダー)”くれる人が、きっと見つかるはず...」なんて、可愛いらしいラヴストーリーみたいなコピーですが、全然そんな映画ではありません笑。劇中で流れるジャズが心地よくて、観賞後はサントラを求めていそいそと近くのタワレコへと歩いて行ったものの、アメリカンのアの字もなくてガッカリしたものでございます。そもそも国内盤の発売すらされていない模様。なんでえ。

ガッカリというのとは違いますが、行こうかなあと思いながら見逃してしまった作品も色々ございます。特にクストリッツア監督の快作『黒猫・白猫』を観に行かなかったのは、ワタクシの人生における大きな後悔のひとつでございます。『アララトの聖母』も、入り口に張り出されたポスターに気を惹かれつつも、結局行かずじまいとなりました。

弥生座で観たものの中でワタクシにとって一番思い入れ深い作品は、シャラントン精神病院におけるサド公爵を描いた『クイルズ』でございます。官能だの倒錯だの愛欲だのとやたら扇情的な文句で売られておりますけれども、この作品は表現するということを巡るたいへん真面目な物語であり、一人の強い個性を持った人物があくまで彼自身であろうとする戦いの記録であり、奇妙なしかし真剣な愛の話であり、舞台劇らしく洗練された喜劇であり、その上主役の3人(ジェフリー・ラッシュ、ケイト・ウィンスレット、ホアキン・フェニックス)はもちろん端役に至るまで、俳優陣の素晴らしい演技が堪能できる、要するに傑作でございます。

The Quills Trailer


上映が終わり場内が明るくなっても、感慨に打ちのめされたのろさんはにわかに座席から立ち上がることができませんでした。サド公爵が劇中で何度もハミングする童謡「月の光に」が頭の中をこだまするに任せたまま、悲しいような嬉しいような心地で、劇場のすすけた壁や変な形の照明をしばし呆然と見つめていたのでございました。
数年前にDVDを購入し、時々取り出しては観ておりますけれども、PCの小さな画面ではなく、映画館という空間でどっぷり身を浸すようにしてこの作品を鑑賞できたことは、まことに有意義な経験でございました。

ワタクシが最後に弥生座で観た作品は落下の王国でございました。してみると、もう4年以上もこの劇場に足を向けることがなかったということになり、結果的に単館の没落に自ら加担してしまったかと思うと、心苦しいものがございます。

弥生座閉館の理由は「デジタル化への対応が困難」とのこと。地下のロビーから覗き見ることができた、あの立派な映写機はどうなるんでしょう。同様の理由で閉館する老舗の映画館があちこちにある、またはあったのではないかと想像されますけれども、そういった劇場で長年活躍してきた映写機たちは、これからどこへ行くんでしょう。

せめて外観だけでも記録しておきたいと、お思いになった映画ファンの手によるものでございましょう、閉館二日前の弥生座を新京極通りから撮影したものが、Youtubeにupされておりました。

新京極シネラリーベ (2013.2.13)


さようなら、京極弥生座、新京極に残った最後の単館。
今まで本当にありがとう。


なくなった映画館2

2013-02-26 | 映画
2/25の続きでございます。


三条河原町を少し上がった所の朝日会館4階にあった、ほんとにちいさなミニシアター、朝日シネマが閉館すると聞いたときのワタクシのショックは、並々ならぬものでございました。幸いなことにこの劇場は場所を移して京都シネマとして復活なさいまして、今ではワタクシが最も足繁く通う映画館となっております。

朝日シネマではいちいち挙げられないほどたくさんの佳作・名作に出会いましたが、体験としてとりわけ記憶に残っているのは、『ぼのぼの クモモの木のこと』でそれはもう恥ずかしいほど号泣したことでございます。なにしろ狭い劇場で、観賞後はなるべく速やかに退散するのが常でございましたから、この時もうるうるの涙目とずるずるの水っ鼻のまま、人目をはばかりつつ狭いエスカレーターを下りて行ったのでございました。

また朝日シネマでは、スタッフさんから受けた親切にも思い出がございます。
『グレースと公爵』を観ようとでかけたのろさん、こういう渋めのヨーロッパ映画をやるのは、みなみ会館でないなら朝日シネマに違いないと思い込んで、上映時間をなんとなく調べただけで朝日シネマへと赴いたわけでございます。ところがカウンターのお姉さんは『グレースと公爵』はここでは上映していない、とおっしゃるじゃございませんか。意表をつかれて目が点状態のワタクシの前で、お姉さんはサッと市内の映画館の上映予定表を取り出して、美松劇場で○○時から上映だから急げば間に合うかも、と案内してくだすったのでございます。

前の記事で申しましたように、当時この界隈は映画館密集地帯でございました。その劇場群の中では一番離れていた朝日シネマと美松劇場さえ、せいぜい徒歩で10分ほどの距離でございます。お姉さんがおっしゃるように、走ればギリギリ間に合わなくもない時間ではございました。が、その時は恥ずかしさと自己嫌悪が相まってもはやダッシュするような気力もなく、あたりをぶらぶらして何も観ずに帰りました。
結局『グレースと公爵』は今に至るまで未鑑賞のままでございます。しかし、自館の得になるわけでもないのに、そそっかしいいち映画ファンのためにすかさず上映館を調べてくだすったスタッフさんの心意気は、長く温かい印象をワタクシの心に残したのでございました。

さて朝日シネマは別格として、消えて行った映画館の中で一番愛着があったのは京極弥生座(新京極シネラリーベ)でございました。そう頻繁に足を運んだわけではないものの、こぢんまりとした雰囲気がなんとも心地よく、また良作と出会う確率が高かったからでございます。

中でもキム・ギドク監督作品『悪い男』は、全く思いがけない拾い物でございました。
全く思いがけないとはどういうことかと申しますと、そもそもワタクシはこの作品を観るつもりはなく、画家志望時代のヒトラーを描いた『アドルフの画集』を観るつもりで弥生座に赴いたのでございます。ところが、ビルの3階と地下に一つずつあった劇場のうち、何を間違えたのか『アドルフ~』を上映中の地下劇場ではなく、上の方へ行ってしまったのでございます。

予告編がひととおり終わったのち『悪い男』のタイトルがゆっくりとスクリーンに浮かび上がり、うわしまったと頭を抱えたものの、席は空いているし時間もあるし、せっかくだから観てみるか、とそのまま座り続けました。そうしましたらこれが非常にむごく哀しく面白く幻想的かつ壮絶な作品でございまして、鑑賞前のやっちまった感もどこへやら、上映後は奇妙な爽快感と納得のいかなさを等分に抱えつつ「なんかすごいもの観てしまった...」とよろけるようにして席を立ったのでございました。
続いてもはやこちらがついでという感じで『アドルフの画集』も鑑賞しましたが、こちらはつっこみ不足と申しましょうか、わりかし薄味な作品でございました。

ちなみにのろさんが上映館または劇場を間違えたのは、上に述べましたようにこれが初めてではなく、また最後でもございません。
自爆テロへと向かうパレスチナの青年を描いた『パラダイス・ナウ』を観るつもりで京都シネマへ行ったはずが、気がつけばスクリーンでは想田和弘監督のドキュメンタリー映画『選挙』が始まっていたということもございました。あのコンパクトな京都シネマで、3つしかない劇場をどうやって間違えることができたのか自分でも不思議でございます。
しかしこの『選挙』がまた、たいへん面白い作品でございまして、そのうえ上映後には主役(と言うんでしょうか)の山内和彦氏の舞台挨拶までございまして、怪我の功名とばかりにワタクシは大いに楽しませていただいたわけですが、映画館側からすれば甚だ迷惑な客であることは間違いございません。
すみません。以降、気をつけております。


次回に続きます。

なくなった映画館1

2013-02-25 | 映画
京極弥生座改め新京極シネラリーベが、2月15日をもって閉館しました。
ワタクシ自身もここ数年というもの、準新作の上映が主となった弥生座からは足が遠のいてはおりましたが、新顔の大手シネコンがショッピングモールと手を取り合って幅を利かせる一方で古顔の小さな映画館がなくなっていくというのは、やはり寂しいかぎりでございます。

振り返ればワタクシが京都に来た1995年には、あの界隈にはずいぶん映画館があったものです。
この度の弥生座を最後として、その全てが姿を消すか、シネコンへと転身してしまいました。

大きな手描き看板で三条通を飾った東宝公楽
『シンプル・プラン』のギョロっと目をむく3人や『スカーレット・レター』の涙を流すデミ・ムーアの顔が、濃ゆすぎてちょっと怖かった。

東宝公楽から数メートル西、河原町三条の交差点まで来れば、片側アーケードの下に(これまた今はなき)駸々堂書店、『カフカとの対話』や『ポオ詩集』や『魍魎の匣』を買った駸々堂が、そして上には京都スカラ座のネオンが目に入ったものです。

少し奥まった所にある美松劇場には、近隣のピンク映画上映館(八千代館)のポスターがずらずら並んでいる脇を通り抜けて『楽園をください』や『タイタス』や『耳に残るは君の歌声』といった佳品を観に行ったものでございました。

美松にほど近い京極東宝で観た映画には、なぜか「駄作とまでは言わないけどなんか微妙」なものが多く、しばしば釈然としない思いを抱きつつエスカレーターを下りて行ったものでございました。絵はいいもののストーリーがアレであった『スプリガン』や『スチームボーイ』、それからワタクシがアカデミー賞というものに対して疑問を抱くきっかけとなった作品、即ち『タイタニック』もここで観たような。
フランス発サスペンス・アクション時代劇withカンフー風味な『ジェヴォーダンの獣』を観たのもここであったはず。色々と(確信犯的に)無茶な映画ではございましたが、エンターテイメントとしてはなかなか上出来であり、何より悪役のジャン・フランソワ兄さんを演じる長髪のヴァンサン・カッセルがそりゃもう最高にイケていたので何もかもよしとして、パンフまで買ってしまったのでございました。

スカラ座と東宝公楽の間あたりに位置していた京都ロキシーでは『フェノミナン』や『イングリッシュ・ペイシェント』を観たはずなのですが、この劇場のことはほとんど覚えておりません。ここではよくも悪くも印象に残る作品と出会わなかったからかもしれません。MOVIXになった今もあんまり行っていないなあ。


次回に続きます。

よだか

2013-02-17 | Weblog
よだかは実にみにくい鳥ですなんて誰が言ったんですか、まったく。

Owl Is Not Impressed


youtubeのコメントがまたナイスでございます。

0:02 「すまない、何か言ったかね?」
0:07 「それ、本気じゃないだろうね?」
0:13 「君のいささか大きな頭が邪魔なんだ。どかしてくれないか」
0:18「やあ、レディたち...」
0:25 「聞きたくないね...」

なんだそうです笑。

ひな。

Cute Baby Frogmouth Chick at Woodland Park Zoo


よだれが出るほど可愛いですね。

『フィンランドのくらしとデザイン』2

2013-02-09 | 展覧会
2/3の続きでございます。

フィンランド版アーツ&クラフツな、手仕事感溢れるつくりの椅子やクッションカバー、そして「それ勢いで作ってみたけど後でシマッタヤッチマッタと思わなかった?」と問いたくなるような、ちょっと独特すぎる建築意匠を含むパネル展示などを挟みまして、通路の向こうに控えているのはトーヴェ・ヤンソンでございます。

日本初公開の油彩画2点というのは自画像と、『ファンタジー』と題された大判の作品でございました。雄大なモチーフに小ぎれいなまとまり方で、なんだか市民ホールの壁画の下絵みたいでございます。
しかしまあ、ここはやっぱりムーミンでございましょう。
原画10点余りのほか、フィンランド語の初版本がずらりと表紙を並べておりまして、可愛いけれどもほのぼの一辺倒ではないムーミンキャラのデザインの秀逸さ、彼らの個性や物語の世界観を表現する挿絵の絶妙さということを再認識したことでございました。
原作者自身が絵を描いているのだから、うまく表現されているのは当然だろうって。いやいや、そうとは限りません。エンデの手によるモモのイメージ画などは実になんともムニャムニャ。(エンデが描いたモモの絵は全集の口絵に載っております)

さて、木版画調に描かれて誇らしげに表紙を飾るムーミンパパや、雨の中をやって来るスナフキンになごみつつ進んで行きますと、満を持して現代の工業デザインのご登場でございます。5年前の『北欧モダン』展 でお見かけしたカラフルなグラスセットも展示されておりました。

まず見た目のかっこよさありきという姿勢ではなく、すべての人が快適に使えるように、という生活と実用を第一に考えるデザイン哲学ゆえでございましょうか。解説パネルの言葉を借りれば「森に解を訊く態度」ゆえでございましょうか。シンプルでありながらも決してぶっきらぼうではない、おっとりとした雰囲気を漂わせる椅子や食器や照明は、何とも言えない暖かみがございます。機能的でミニマルという点ではバウハウスの後輩といった位置づけになりましょうけれども、バウハウスほど禁欲的な感じはいたしません。(もちろんバウハウスはあの禁欲的なところがいいのですが。)

とりわけカイ・フランク氏が手がけられた食器類は、そのあまりのなにげなさ、恣意的な匂いのなさに、デザイナーとしてよくぞここまで”我”をなくせるものだと不思議な心地すらいたしました。すとんとしたかたちのグラスやピッチャーや深皿は、あたかも石ころや切り株のような、つまりそのかたちで存在しているるのが当たり前であるかのような、自然で慎ましい存在感をまとっております。
本展冒頭に置かれた絵画のセクションでは、個々の作品の個性の薄さにいささか物足りない印象を抱きもいたしましたが、モダンデザインにおいては「いかによけいなことをしないか」という点に心を砕くその姿勢が、人々が日々手にするであろう日用品に、それはそれは美しく結実しておりました。

最後にワタクシがもうショックと言っていいほどに感銘を受けたことに、1935年創業の家具メーカー、アルテック社による自社製スツールの再利用プロジェクトがございます。

Artek 2nd cycle

「2nd Cycle」、第二の生と名付けられたこのプロジェクトでは、放っておけば廃棄を待つばかりという古い椅子たち、蚤の市に出されたり、公共施設や個人宅の倉庫で眠っている椅子たちを、アルテック社がわざわざ買い取り、あるいは新品と交換して回収したのち、再びの利用に供するというものでございます。素晴らしいのはこのプロジェクトがただのリサイクル活動ではなく、「年代や来歴など、それぞれのスツールに固有な情報を特定したうえで、販売やリースを行う」ものであるという点でございます。

とりわけ注目すべき点は、それまでスツールを慈しんできた持ち主による、オリジナルとは異なる塗装やパーツ交換、ユニークな修繕を温かいまなざしで受け止め、それもまた、普遍的なデザインが社会に及ぼす「よき効果」の浸透と捉える発想だろう。曰く、「一見、古くて不格好なスツールは今、生まれてこのかた、もっとも美しく輝いて見える。」
解説パネルより

メーカーとしてはもちろん、大量生産・大量消費・使い捨て文化で新品をじゃんじゃん買ってもらう方が儲かるはずでございます。にもかかわらず、「もの」が経てきた歴史それ自体に価値を認めた上で、再びの利用に供するという、使い捨てひゃっはあな方向とは正反対のことを、いち民間企業がやっているわけです。
単なる経済的利益以上に、社会の持続可能性ということ、そしてそこから還元される無形の利益というものを射程に入れた経営理念に、ワタクシは本当に頭が下がるようでございました。

持続可能性といえば、アメリカのNGO、Fund for Peaceが毎年発表している「失敗国家ランキング」というものがございまして、内戦の続くソマリアやコンゴがトップに来る2012年版ランキングにおいて、フィンランドは177カ国のリストの一番下に位置しており、つまり最も失敗度が低く、持続可能性の高い国家と評価されております。2005年のダボス会議で発表された「環境持続可能性ランキング」では146カ国中これまた第一位、加えて子供の学力、国民の図書館利用率、そして報道の自由度も世界一ときております。うーんなんだかものすごい。

ちなみに2012年の「報道の自由度ランキング」では、原発関連の報道で透明性に欠けると批判された日本は去年の22位から53位へと急落したということは、皆様ご承知の通りでございます。
原発ついでに申せば、映画『10万年後の安全』で描かれているように、フィンランドは核廃棄物の最終処分の場所も方法も、現在の技術では最も妥当と考えられるシナリオに則って処理を進めております。といっても、結局のところ固めて埋めて蓋をする、ということしかできず、それだって安全が保障されているとは言い切れないわけですが。

東京新聞: 使用済み核燃料を埋設するフィンランドのオンカロは、日本に何を教えてくれるのか。

原発関連ではこんな動きも。

原発推進派の名を連ねたフィンランドの『利己責任の碑』 - 市民メディア[レアリゼ]

フィンランドの団体が来県 新規設置の反対訴え : とある原発の溶融貫通(メルトスルー)


つい話が「くらしとデザイン」から離れてしまったようでございます。
ともあれ、本展は美術やデザインのみならずフィンランドの歴史や文化、社会についてもっと知りたくなるような展覧会でございました。後日、図書館でフィンランド関係の本を手に取ってみたところ、拾い読みしたただけでも、住宅政策、社会福祉、刑罰、教育などに見られる成熟した人権意識に、またもやああと頭が下がる心地がしたのでございました。

『フィンランドのくらしとデザイン』1

2013-02-03 | 展覧会
NHK-FM「名曲のたのしみ」でひたすらシベリウスを聴かせていただいたおかげで、昨年からなんとなくシベリウスづいているのろ。
そうはいってもいまだに『フィンランディア』を聴いて真っ先に思い浮かぶのはジョン・マクレーン刑事の顔なのでありました。これは”ホフマンの舟歌”を聴けば必然的に「ボンジョ~ルノ、プリンチペッサァ~!」と満面の笑みで呼ばわるロベルト・ベニーニを連想し、『熊蜂の飛行』を聴けば必然的にピアノの鍵盤の上にかがみ込むくわえタバコのジェフリー・ラッシュを思い浮かべるのと同じことであって、要するにいたしかたのないことでございます。

それはそれとして
兵庫県立美術館で開催中の『フィンランドのくらしとデザイン ムーミンが住む森の生活』へ行ってまいりました。

優しいかたちの家具や照明、明快で飽きのこないデザインのテキスタイルといった、思わず両手で撫で回して愛でたくなる展示品の魅力もさることながら、その背景にあるデザイン哲学、ものづくり精神、ひいては「もの」と関わる姿勢そのものに、いたく感銘を受けました。

展示冒頭に掲げられたご挨拶文などは、通常ならば読んだ端から忘れてしまうものでございます。しかし本展のそれは紋切り型の謝辞には留まらず、デザイナーでも何でもないワタクシが読んでもはっと背筋が伸びるような心地がするものでございました。と申しますのもそこには、かの地のデザイン哲学の根幹に流れる「実用性と普遍性への志向」がきっぱりと述べられており、あたかもアーティストの宣言書のような矜持と、皆にとってのよりよい社会を模索し続ける謙虚な姿勢とが表明されていたからでございます。

私たちは問題解決するためにデザインしているとも言えます。(...)私たちは「問題解決精神」で、デザインと実用性を結びつけ、日常生活をより過ごしやすく且つ自然に配慮した環境を追い求めています。
ヤン・グスタフソン大使

何よりも優先するその(注:フィンランドのデザインの)哲学は、誰でも優れたデザインの権利を有するという点です。誰もが美的なものを選ぶ責任があり、それが日常の環境を生み出すことになるのです。「フィンランド・デザインの真髄」と題された本展はフィンランド文化の鍵となる特徴を明瞭に跡づけています。芸術に関する基本的な質問を何度も問い直すとき、フィンランドの芸術や建築、工業デザインの歴史に新たに光をあてることになるでしょう。つまり「優れた芸術とは何か?時の試練に耐えるのは何か?」、そして何よりも「なぜ芸術はわれわれにとって重要なのか?」という質問です。この最後の質問に答えることは簡単です。1947年にアアルト(注:20世紀フィンランドを代表するデザイナー)はこう答えています。「もし芸術が存在しなければ、生命は機械となり、死んでしまうだろう」
フィンランド美術館・博物館協会常任理事スザンナ・ペテルソン

さて「くらしとデザイン」というタイトルから、家具調度の展示がほとんどかと思いきや、最初の展示室には19世紀末から20世紀初頭に描かれた油彩画がずらりと並んでおりました。
さすがに雪景色を描いたものが多うございます。湿った雪の重みでずっしりと枝を垂れる針葉樹や、曇天の下に広がる凍りかけた池の絵などに囲まれておりますと、曲がりなりにも北国育ちのワタクシには、照り返す雪のまぶしさや、しんとした林の中で時おり雪がさあっと流れ落ちる音などが思い出され、鼻孔からは冷たい空気が流れ込み、口の中にはきんきんとしてちょっぴり埃じみた雪の味がするようでございました。

特徴的だと思いましたのは、雪景色に限らず風俗画も夏景色も、角のとれたフォルムとふんわりくすんだ色彩で描かれており、あんまりシャープな所がないという点でございます。かといって印象派のようにもやもやーんのきらきらーんの感覚バンザイな画面なわけではなく、ナビ派っぽいけれどもナビ派ほどに装飾的だったり象徴的だったりするわけでもない(挿絵などは別として)。むしろ、親しい風景や風俗に余計な手心を加えるのをよしとせず、畏敬と愛情を込めつつも淡々と描写しているという印象を受けました。
一点一点にの作品には、一目で分かるような強い個性はございませんので、その点ではやや物足りなくもありますが、並んでみるとなかなか独特でございます。


次回に続きます。