のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

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2011-11-27 | Weblog
現代のファシズムは誕生時のそれよりもずっと巧妙でまつろわぬ者を収容所にぶちこむような派手なことはせずただじわじわと生きられなくさせていくのでございました。



「茶色の朝」か。

茶色の朝




『Puss In Boots』および『Black Gold』のこと

2011-11-26 | 映画
就寝以外のあらゆる行為が面倒くさく感じられる今日この頃。

それはさておき
知らぬ間に『シュレック』シリーズのスピンオフ作品『Puss in Boots』(長靴をはいた猫)が全米公開されておりました。ギレルモ・デル・トロ(『パンズ・ラビリンス』の監督、本作では製作総指揮)がチョイ役で声の出演をしているだそうで。どうでもいいけど笑。

Puss In Boots Trailer 3 Official 2011 [HD] - Antonio Banderas, Salma Hayek


うーむ。
ワタクシこのキザったらしいくせにどこか間抜けな長靴猫のことは大好きでございますけれども、これを主役にすえて90分引っぱるのは、正直ちと難しいような気もするのでございます。こういうクセの強いキャラクターって、脇役という立場にあってこそ光るものではないかしらん。
また、この長靴猫が、クセが強くしかも人気のあるキャラであるからこそ、ひたすら小ネタを詰め込む一方で映画全体の構成はぐだぐだ、といういわゆる”キャラ頼み”な作りになってしてしまう恐れもございます。トレーラーを幾つか見たかぎりでは、その気配がふんぷんとするのでございますが。
いや、あるいは、『シュレック』シリーズ同様にさまざまな映画のパロディで彩られるらしい本作のこと、キャラ頼みな作りそのものすらもドリームワークス的ブラックジョークの一環なのかもしれません。数バージョンあるトレーラーのひとつで、あのディズニー最大のキャラ頼み映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』とそっくりの音楽を使っていることからもその意図する皮肉は明白...

なわきゃないですね。はい。

そうはいっても『シュレック』シリーズとは長い付き合いではあり、おとぎ話のパロディというジャンル自体がけっこう好きでもあるのろのこと、日本で公開されたらいそいそと観に行ってしまうことでございましょう。2Dでいいけど。


さてこの長靴猫の声を演じているのは言わずと知れたアントニオ・バンデラス。
バンデラスといえば来月の北米公開を控えているのが、20世紀前半のアラブを舞台にした『Black Gold』でございます。主人公はアラブの族長Amarの息子で、子供のときに他部族との和平の条件として人質に出され、その部族長Nesibのもとで育った青年。ところがアメリカの採掘会社が2部族の係争地域であった土地で石油を掘り当てたことから、敬虔なAmarとリベラルなNesibとの間で対立が再燃し、主人公は二人の父親の間で引き裂かれることに。主人公の育ての親であるNesibを演じるのがバンデラス。主人公の実の父親Amarを演じるのがソーターさんことマーク・ストロングでございます。

Black Gold Movie Trailer


うひゃあ!
ソーターさん!
なんてかっこいいんだ!オマー・シャリフもまっつぁおさ!
お母さんがオーストリア人、お父さんがイタリア人で、ご本人は生まれも育ちも英国というヨーロピアンブレンドのソーターさん。キャリアをざっと見渡しただけでもロシア人、ドイツ人、イタリア系アメリカ人、ユダヤ人に宇宙人と様々な系統のキャラクターを演じていらっして、アラブ系の人物を演じるのはこれで3度目でございます。
ひところはミュンヘンの大学で法律を学んでいたということですからドイツ語ペラペラのはずなのですが、ドイツ語圏の役柄よりも東欧やアラブ系の役が多いのは、やっぱり風貌のせいでございましょうね。どうです、このターバンの似合うことといったら。



監督は『薔薇の名前』のジャン・ジャック・アノー。と申しますと期待が高まりますが、『スターリングラード』のジャン・ジャック・アノーでもあると思えば油断は禁物でございます。
imdbによると年内に劇場公開するのはカタール、フランス、クウェート、レバノンそして米国で、来年1月にはスペイン、2月になってようやく英国とオランダで公開されるとの事。日本に来るのは早くても来年の夏くらいでしょうか。何にしても楽しみなことではあります。


あなた自身は外国語を話せますかというインタヴュアーの質問に対しては「(母方の)おばあちゃんが英語を話せなかったから、おばあちゃんとコミュニケートするためにはドイツ語を話さなきゃならなかったんだ」との慎ましいお答えでした。
Robin Hood star Mark Strong| interview | From the Observer | The Observer
それにしても「子供の頃、外国人同士のハーフである自分をアウトサイダーだと感じませんでした?」だの「お母さんはあなたを5歳で寄宿学校に入れたけど、あなたもそうしますか?」(ソーターさんは誕生前に両親が別れたため母子家庭で育ちました)だの、「20代で禿げてきて辛くありませんでした?」だの、このインタヴュアー、ちと物言いが率直すぎるような気が。ソーターさんが他所でしたインタヴュー記事を踏まえた上での質問のようではありますけれどもさ。

『コンテイジョン』

2011-11-17 | 映画
このごろ時間的に余裕のないお仕事が舞い込むなあ。
生粋の怠け者にはつらいや。

とはいえ出先で中途半端な時間に用事が済んでしまい、たまたまその出先が映画館の隣だったりしたものですから、せっかくだからと『コンテイジョン』を観てまいりました。こんなことだから余裕がなくなるんだ。

映画『コンテイジョン』予告編


予告編を見ますと感染パニックもののようでございますが、本作が描いているのは伝染病の恐ろしさやそれに立ち向かう医療関係者の英雄的な振る舞いよりも、むしろふとしたきっかけから雪崩のように崩れて行く人間社会の脆さでございます。派手な演出がないだけにいっそう、こうしたことは明日にでも起こりうるのではないかと思わしめるリアルな恐ろしさが、底冷えのようにしんしんと迫ってまいります。
食料品や電池の買い占め、最前線で働く人の死、ネットを通じて広がる真偽の入り交じった情報、何をどこまで恐れたらいいのか分からないという怖さ、パフォーマンスのうまい奴に騙される大衆、オフレコな話がきっかけで足下を掬われる責任者などなど、とりわけ今の日本で見るには生々しいものがございましたよ。

スターでございと身を乗り出すことなく、与えられた役を過不足なくこなす豪華俳優陣の演技も見ものでございます。派手な見せ場やこれといった泣かせどころがないので「有名俳優の無駄遣い」とお思いんなった方もいらっしゃるようですが、主要な登場人物それぞれが強さと弱さ、賢明な面と愚かな面とをかいま見せる本作において、そうした人情の機微を過剰な演出無しに描き出すことに成功しているのは、名だたる俳優陣の堅実な演技あってこそでございましょう。
中でもワタクシに印象深かったのはCDC(米国疾病予防管理センター)の調査官Dr.ミアーズを演じたケイト・ウィンスレットでございまして、キャラクターの背景については全く描かれない上に登場シーンもさして多くないにもかかわらず、彼女がどういう人間であるのかが、ひとつの台詞、ひとつの所作ごとにどんどん掘り下げられていくような素晴らしい演技でございました。
余談ですがローレンス・フィッシュバーンの片耳イヤホン姿を見て「エージェント・モーフィアスかい!」と思ったのはワタクシだけではございますまい笑。

帰ってから辞書をひいてみますと、contagionという単語には「伝染病」の他に「(思想・評判などの)伝染、感化、悪影響、(道徳上の)腐敗」という意味がございました。ソダーバーグ監督が描きたかったのはむしろ後者の意味合いであろうかな、と思いつつ作品を振り返り、どっちの意味でのcontagionも人類の歴史においてこと欠かなかったし、本作に描かれていたような事態って明日にでも起こりうることだよなあとまたも思うにつけ、ひんやりとうそ寒いものが心底を流れるのでございました。

『榎忠展 美術館を野生化する』

2011-11-10 | 展覧会
兵庫県立美術館で開催中の榎忠展 美術館を野生化するへ行ってまいりました。

会場内は撮影自由だったのだそうで。あとになって知りました。
習慣でメモ帳以外の荷物を全てロッカーに預けてしまっておりましたので、当のろやでは残念ながら場内の様子はご紹介できません。まあこちら様をはじめ写真レポをしておられるブログさんが色々ございますからあえてここで画像を出す必要もあるまいというのは負け惜しみでございます。

さておき。
榎忠氏回顧展といえば2006年キリンプラザ大阪での『その男・榎忠』が思い出されます。
今はなきキリンプラザの3フロアに渡る会場に展示された平面や立体の作品、また当時の新聞記事や映像資料などによって、過激にしてユニークな榎忠氏の足跡が丁寧に紹介されており、非常に充実した内容の展覧会でございました。この展覧会によって、その2年前に京都近美で開催された『痕跡』展で氏の半刈り姿を目にして以来、ワタクシが氏に対して漠然と抱いてきた尊敬の念は決定的なものとなったのでございます。

今回の回顧展はと申しますと、『薬莢』や『ギロチンシャー』など、展示スペースを贅沢に使ったインスタレーションは大変見ごたえがあり、キリンプラザでのお披露目以降にさらなる増殖を遂げたらしいRPM-1200と再会できたことも感慨深いものがございました。

ただ、本展についてはひとつだけ不満な点がございます。キリンプラザと同じような展示をしてもしょうがないという理由からかもしれませんが、形として残っていない過去の作品については、紹介があっさりとしすぎであるという点でございます。
「最大規模の回顧展」と称する展覧会ですのに、ダイオキシン問題を作品化した『2・3・7・8・TCDD・PROPAGATION』』や、ひたすら巨大な穴(というか地下空間)を掘るプロジェクト『地球の皮膚(かわ)を剥ぐ』、総重量25トンにおよぶ廃材彫刻『スペース・ロブスターP-81』(いずれも展示終了後は解体又は埋め戻したため、現存しない)、そしてかの『BAR ROSE CHU』などの素晴らしい作品やパフォーマンスについて、きちんと解説のついた展示が無いというのはいかにも残念なことではございませんか。
『BAR ROSE CHU』についてはキリンプラザでも上映されていたビデオが一応本展でも見られますけれども、その他のドキュメンタリーや記録映像もひっくるめて、たったひとつの再生機器で繋げて流すというのは、あんまりいいやり方とは思えません。通りすがりにローズチュウの部分だけを目にしたおばちゃんなんか「うわ、こんな格好してはる人なん...」と素で誤解しておりましたよ。いや、そんな格好してはりますよ、してはりますけどね。
また上映機器の設置場所が会場内ではなく休憩スペースを兼ねた通路という場所なので、授業で連れられて来ただけの中学生どもが遠慮なくぎゃあぎゃあ騒ぎながら前を横切って行くではございませんか。これには閉口いたしました。

と文句を垂れるのはこのくらいにして。

榎忠氏の作品を言語化するのはとても難しくて、作品を目の当たりにすると脳みその言語野が「うをー...」と声を発したきり黙り込んでしまうのでございました。そもそも言葉では用が足らない所を作品化なさるんでしょうから、当たり前とも申せましょうけれども。

無理な所を無理矢理ながら言葉で表現してみるならば、氏の作品やその記録を前にしてしばしば感じることは、ほとんど冗談のような生真面目さ、そして「積み上げ感」でございます。しかも、同じ形では再構成されることのない、つかの間で一回限りの積み上げ。
積み上げ、と申しますのは単に「もの」の積み重ねというのみならず、作品化された「もの」に加えられた(時には膨大な)エネルギーの積み重ねであり、その「もの」が経て来た時間の積み重ねであり、当然ながら作者であるエノチュウ氏の時間と労力との積み重ねでもあります。
目の前に展示されたひとつの「もの」、空間、あるいは画像の背後に、目には見えねど累々と、緻密にあるいは大胆に、積み上げられた諸々こそ、いわばそれらの表層としてつかの間だけ存在する個々の作品に、あのように圧倒的な存在感を与えているのではないかと。

こうすると、こうなる。
こうすると、こうなる。
こうすると、こうなる。

そのあくまでも物質的な原因→結果の積み重ねと、「いや、普通そこまでしない」とつっこみたくなるような労力。その集積が作品としてドンと目の前に置かれ、あとは鑑賞者におまかせ。そこにおいては善悪や有用性、恒久性といった日常的なものさしは粉々に砕かれ、ただただ「もの」と「私」とが対峙する世界が立ち現れます。時にはその「もの」がアーティスト本人であったりするのがまた面白い所で。

切断された鉄材の、クリームのように滑らかな断面。
ひしゃげ、つぶれ、破裂して転がる、膨大な数の薬莢。
約4年かけて左右を入れ替えたという半刈り姿で、まっすぐにこちらを見つめる氏のポートレート。
これらはみな、私たちが日頃「まあまあこの程度であるはず」と何となく見切って過ごしている現実に対して「いやいやそんなものじゃないよ」と、日常と地続きな異世界をつきつけて来る不敵な「もの」たちでございます。
その表層の有無を言わさぬインパクトに浴したのち、作品が含む社会的・個人的意味についてじっくり考えるもよし、「今日はなんかエライもの見てしまった。以上」で日記を締めくくるもよし、アート好きもそうでもない人も、まずはお運びになって、氏の力強くもユニークな作品世界を体感してみていただきたいと思います次第。