のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『モホイ=ナジ/イン・モーション』1

2011-07-27 | 展覧会
いや~ブログやツイッターの監視を称して「不正確情報対応」って、オーウェル作『1984年』ですか?「暫定許容量」いつまで暫定なのかなあだの「風評被害」なんて便利な言葉だの「高経年化原発」要するに老朽化原発だの、”ニュースピーク”かと見まごう用語をこの所よく見かけますね~あっはっは~。


さておき

京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyotoで開催中の『モホイ=ナジ/イン・モーション 視覚の実験室』へ行ってまいりました。

秀逸デザインなチラシ



トリミング前の写真はこちら
これもカッコイイ。この空間の取り方ったら。

ときにワタクシこの人は「モホリ=ナギ」だとずーっと思ってたんですが、モホイナジの方が正しい読みなんでしょうか。しかしwikipediaにはこれは誤読だと書いてあるし、ううむどうなんだ。

ハンガリーに生まれ、ベルリン、デッサウ、ロンドン等での活動を経てシカゴに客死したモホイ=ナジ。本展は 時系列にセクション分けされておりますが、それがそのまま彼が拠点を置いた都市を辿る格好になっております。拠点が移ると作風もがらりと変わるのが面白い。
いや、作風が変わるという言い方は適切ではないかもしれません。もともとこの人は芸術家の個性を強く打ち出す「作風」というようなものを確立するつもりは毛頭なくて、ただひたすら、ものの見え方、現実の切り取り方、そしてその再構成の仕方を追求した研究者であったという感じがいたします。 
 
モホイ=ナジという移動する実験室が、そのときどきで出会ったものを捉えては作品化していった軌跡はいきおい非常に多彩・多方面であり、51歳の若さで亡くなっていなければ、その後どんな展開を見せていただろうかと、つくづく早世の惜しまれることでございました。

展示はごく若い頃に描かれたハガキ絵から始まります。
第一次世界大戦従軍中に、仲間の兵士の姿をスケッチしたもので、超絶うまいというわけではありませんが、なかなか味わい深いものでございます。「望遠鏡をのぞく兵士」など、兵士はざーっと慌ただしいタッチで描かれているのに対して望遠鏡の三脚は妙に丁寧に描かれておりまして、ちょっと微笑ましい。三脚は動かないから描きやすいということでもありましょうが、後年、写真や映画を始め機械的手段を活用した造形に力を入れたモホイ=ナジですから、早い時期からの機械への関心を示すものと言えるかもしれません。

輪郭線が強調された素描やキュビズム風ステンドグラスといった風情の油彩画もなかなかのものでございます。素描は肖像画が多く、どの顔もモデルの個性をよく捉えつつも、一様に強い眼差しと固く結んだ唇が印象的な絵となっております。

この初めのセクションだけ見ると、この人はこの後キルヒナーっぽいバリバリ表現主義な方向に進むんかな、と思われないでもない。ところが次のセクションに入りますとガラッと趣が変わりまして、そりゃもう素敵に無機質な抽象作品がずらりと壁に並びます。どこからか「バウハウスファンの皆様、お待たせいたしました!」という声が聞こえてきそうでございます。


次回に続きます。

追悼

2011-07-24 | 音楽
エイミー・ワインハウスが亡くなりました。享年27歳。
才能のある人だったのに。
惜しいのひと言でございます。

Amy Winehouse - Rehab
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ああ、いい歌声でございますね。
歌の中では「リハブ(アルコール依存症のリハビリ施設)に通ってる暇なんかない、あそこで教わることなんか、みんなダニー・ハサウェイ先生が教えてくれる」とうそぶいた彼女ですが、断続的ながらもリハビリを続けているというニュースは時折伝えられておりました。とはいえ小耳に挟むのがそんなニュースばかりなので、この人は今後ミュージシャンとして活動を続けていくのは難しいのかなあ、いっそ田舎で静かに余生を送るなりした方が幸せなのかもしれんなあ、などと思っておりました。
まさかこんなことになるなんて。

雑感

2011-07-18 | Weblog
森田浩之著『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』を朝な夕なにしきりと思い出す今日この頃。

スポーツをはじめ、映画、漫画といった娯楽において、一般に広く人気がある(あるいは、人気があると喧伝されている)ものについて、批判的な感想や意見を述べる人はもちろんおります。それに対する「素直に楽しめばいいのに」という反論あるいはアドバイスを、ネット上にみかけることがままございます。
しかし批判を述べた当人にしてみれば「自分には楽しめない/楽しめなかった」というのがまさに素直な感想なのでしょうに、それを「楽しめないのは素直に見ていないからだ」と断じるのは、無茶という以上にそらおそろしいことのようにワタクシには思われます。
というのは、「素直に...」という一見ごくソフトな言葉が使われてはいるものの、ここで断罪の対象となっているのはある個人の意見や行動ではなく、その人の「感じ方」そのものだからでございます。とりわけこの言葉がポピュラーなものへの批判に対して向けられるとき、それは多数派であることを後ろ盾にしたやんわりとした”上から目線”であり、無意識のオブラートにくるまれた全体主義の萌芽のように思われてならないのでございました。

そんだけ。

『ヴォルテールの世紀』

2011-07-16 | 
この所リアルな夢を一晩にいくつも見るのでさっぱり寝た気がいたしません。
先日など、「”寝た気がしない”をキーワードにネット検索した所、どうでもいい広告やツイッターばかりヒットして来るのでひたすらイライラしている」という夢の途中で目覚めました。もうなんなんだか。

それはさておき

保苅瑞穂著『ヴォルテールの世紀 -精神の自由への軌跡-』が面白くて面白くて。



帯の文言
激しくも伸びやかなる「精神」
18世紀に燦然と輝く「自由」への軌跡
権力や盲信との闘い。農奴解放のための奔走。そして、共同体の建設。啓蒙の世紀を代表する作家を稀代の政治家でもあらしめたのは、この時代のヨーロッパでこそ生み出されえた「精神の自由」を目指す行動と言葉の力にほかならなかった。膨大な書簡とともに激動の後半生を描く本書は、その力を甦らせる。

18世紀を代表する作家、啓蒙思想家、または本人の自嘲的な言葉によると「ヨーロッパの宿屋の主人」ヴォルテール。
『ヴォルテールの世紀』は彼の名を後世に残すことになる歴史的事件や、このいささか喧嘩っ早い啓蒙の闘士をめぐる興味深いエピソードの数々を時系列に描き出しつつ、それらの事件の歴史的意義、またその顛末や人々の反応によって表現されている18世紀ヨーロッパの時代精神が綴られております。

ハードカバーで470頁という大著でありながら、これがたいへん読みやすい。慎ましい文体の中にもヴォルテールの才能や、皮肉屋でもあり熱血漢でもあり、またどこかいたずら小僧のようでもあったその人柄への愛着と敬意がしみじみと感じられる文章でございまして、読んでいて楽しい。読み終えてしまうのが残念なほどでございました。

また帯の文言にもあるように、本書にはヴォルテール自身や彼の友人たちの書簡が多く引用されております。これがまた読みものなんでございます。

この世は幻想を持たずには生きていけないものです。そして、すこしばかり生きてみると、あらゆる幻想は飛び去ってしまいます。 p.95

といった言い回しなど、『カンディード』の作者の面目躍如たるものがございます。
いたる所に散りばめられた軽妙かつ辛辣な悪態にも思わず笑ってしまいます。

身体のことをいえば、私はかれの脳みそが心配になる。 p.244(←「かれ」とはルソーのこと)

口では人間なんてラララなことを言いながらも、本当は人間大好き!人生大好き!なヴォルテール、寸鉄人を刺す毒舌を吐き、「あまり人間というものをあてにしてはいけない」などとうそぶく一方で、広い人脈を最大限に生かして冤罪事件の被害者救済に力を尽くし、農奴解放に奔走し、異国の大災害のニュースには心からの同情を寄せ、戦争を憎悪し、宗教的不寛容と全力で闘うかたわらで権威を笑い飛ばし、文芸や社会的活動を通じて思想・信仰の自由を訴え、ひいてはフランス革命へと通じる精神的土壌を築いたのですから、なかなか壮大なツンデレぶりと申せましょう。言葉巧みな人ではありますが、決して口だけでは終らず、ガンガン行動していく所がすごい。

本書のおかげですっかりにわかヴォルテールファンになったのろ、中公文庫の『寛容論』に続いて中公クラシックスの『哲学書簡・哲学辞典』に取りかかっております。『哲学書簡』、別名イギリス便りはイギリスの風俗を面白おかしく紹介するエッセイを装いながら、その実フランスの現状を批判する内容でもあったので、出版後ただちに発禁処分ならびに焚書の栄誉に浴し、ヴォルテールは官憲の手をかわすため、愛するパリからすたこらホイと脱出しなければならなかったのでございました。ちなみに『ヴォルテールの世紀』には、この『哲学書簡』発禁にまつわる興味深い逸話も紹介されております。

すいすい読める『ヴォルテールの世紀』と違って、『哲学書簡』には注の助けを借りないと背景や含意が分からない部分もありますが、簡潔な文体の中に鋭いユーモアと風刺をこめるヴォルテールの書きぶりに触れるだけでも大いに楽しめます。
宗派対立の馬鹿馬鹿しさを一文で表現した三つか四つの宗派が神の名のもとにはじめた内乱 p.21 といった言い回しや、肩書きをむやみに重んじる社会への腹立ちを諧謔たっぷりに綴った次の文など実に痛快でございます。

(イギリスでは商人が卑しまれてはおらず、例えば有力な貴族の肉親が普通のあきんどとして暮らしていても、そのことは何ら恥にはならない、という点について)
自分の「古い家柄」を後生大事にしているドイツ人にはそら恐ろしく思えるらしい。ドイツでは誰でも彼でも王侯貴族であるのに反して、イギリスでは貴族の子息がせいぜい金持で有力者の市民でしかないのが、ドイツ人にはどうも納得がいかないのであろう。彼らの国では同じ名前を名乗る殿下が三十人もいるが、その全財産といえば、家の紋章と傲慢な態度だけである。
フランスでは、なりたければ誰でも公爵になれる。そしてむだづかいしてよい金と、アックとかイーユとかで終わる名前を持っていて、辺鄙な片田舎からはるばるパリにやって来る者は誰でも、「わしのような者は、わしのような身分の者は」と言うこともできれば、商人を虫けらのようにばかにもできる。商人自身が自分の職についてしょっちゅうばかげた口調で話されているのを耳にしているので、愚かにも自分の職業を恥じて顔を赤らめてしまう。しかしながら、この両者のいずれが国家に有益であるかは、私にはわからない。頭に念入りに髪粉をふりまいた貴族は、国王のお目覚めとおやすみの正確な時間を知っており、また大臣の控えの間でさも偉そうな顔をしながら、やっていることは奴隷のような役柄であるのにたいして、商人のほうはその国を豊かにし、その事務室からスラットやカイロに指令を送って、世界の幸福に寄与しているのである。
 p.75

人間に与えられる運命の過酷さを嘆き、また人間同士が互いを迫害し合うのにうんざりしながらも、思想・信条の自由を何よりも重んじ、全ての人間が人間らしく生きられる社会の実現を夢見たヴォルテールが今の世に生きていたら、いったいどんな箴言を吐き、どう行動したかしらん。
2007年(日本では2008年)出版の『ヴォルテールの現代性』も気になる所でございます。

そんなわけで
原発関係以外のあらゆるものを読むことが罪悪のように感じられる今日この頃ではございますが、片目を21世紀に注ぎつつ、もう片方の目ではもうしばらくこの18世紀の賢人の追っかけをしてみようかなと思っております次第。


被災文書クリーニング

2011-07-08 | Weblog
次の休みは午前中に『ディア・ハンター』午後に『10万年後の安全』と、人類の愚かさ2本立てでしんどい充実感を味わおうかと思っていた所へ、震災関係で人手を募集しているとのメールが入ってまいりまして、ちょっと迷ったのち、そちらに参加することにしました。ここでちょっと迷ってしまう所がのろでございます。

というわけで

東日本大震災の津波で泥をかぶった文書のクリーニング作業に参加してまいりました。
泥まみれカビだらけになった冊子を1頁1頁めくりながら、ひたすらブラシをかけて汚れを落としていきます。
作業手順レジュメの表現を借りると「野戦病院式」のスピード重視の作業で、10数名の有志が9時から5時まで黙々とブラシがけに従事しました。

等しく泥をかぶったとはいっても、やはり地域によて被害状況は異なるとのこと。ワタクシが手がけさせていただいたものは、泥のほかにはせいぜい木の葉が挟まっているぐらいのものでしたが、中にはページの間から海藻やヒトデが出て来るものもあったとか。乾燥しているとはいえなにしろ死後3ヶ月超のヒトデでございますから、匂いもたいへんなものだったそうです。

数日間に渡る作業のうち、ワタクシが参加できるのはこの1日だけでございました。膨大な文書が処置を待っている状況で、いったいどれだけ役に立てたのかは分かりません。
そもそも人類なんてそう長くは持たないだろうに、ものを作ったり、直したり、保存につとめたりすることにいったい何の意味があるのかとは常々考える所ではございます。
メフィストフェレスが言うように、初めから何もなかったらその方がよっぽどよかったのかもしれません。
しかしとにもかくにも現実にそうはならなかったのであり、私どもや世界といった諸々のものが存在し始めてしまった以上、その保存と記録につとめるのが、存在してしまっている者に課せられた宿命でございます。「在る」ということは「在り続けようと努力する」ということと同義だからでございます。

ところで作業中なぜか-----別に心弾むような作業ではなく、あるいはだからこそだったかもしれませんが-----、ワタクシの頭の中では「オブラディ・オブラダ」がエンドレスに流れておりました。
らいふごーずぉーん ってことでしょうか。

Cover Tune Grab Bag - "Ob-La-Di, Ob-La-Da"


↑無性に楽しい動画でございます。こういうのを見ますとたちまち「まー生きてるものいいか」と思ってしまうのですから、のろのニヒリズムも知れたものでございます。