のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

年賀状2012

2012-01-28 | Weblog
白い服を着たお迎えが腰の高さに両手を構えてやって来るのを見て
「あっ、これはもういかん」と思ったわけです。
呼吸が止まって前のめりに倒れ込んで行く数秒の間に、あー消滅ですか、消滅だわなやっぱり、まあしょうがねえや、とか、いやはやいざとなってみると怖がる暇もないもんだなあ、とか、予想はしてたけどイワン・イリイチが言ってたみたいに喜ばしいことなんて全然ねえや、などの思いがパッパカと脳裏を駆け過ぎて行ったのち、こと切れる瞬間に考えたことは「ま、こんなもんか」でございました。



こんなも~んよ~♪

まあ何事もなく目が覚めましたけどね。


それはさておき
今年の年賀状はこんなでございました。



ゴム版一色刷り、オレンジ色の部分は手彩色。
当初は星のデザインを、正三角形を上下に重ねたいわゆる「ユダヤの星/ダビデの星」の形にしようと思っておりました。あの形の安定性や、五芒星に比べてツンツンが穏やかで可愛らしい所が好きなので。
ところがいざ描いてみると「ユダヤの星に炎を吹きかける」という思いのほか不穏な絵になってしまったため、ツンツンの部分を少々尖らせたこのようなデザインに改めました。

いい年でありますように、というよりも、あんまりひどいことが起きない一年でありますように、と願わずにはいられなかった年明けからはや4週間、なんだかもう何もかもどうでもよくなりつつある自分がおりますけれども、とりあえずベン・シャーン展とソーターさんの新作群を観るまでは死なないようにしよう、とまたも志の低い抱負を抱くのでございました。

ああでもひょっとして、今朝夢を見ている間にのろは本当に死んでしまって、今のワタクシはただ死んだことに気付いていないだけなのかもしれません。だとすると、こっちの世界というのも、あちらと全然代わりばえがしないもんでござますねえ。寒いし乾燥しているし陽は沈むしお腹はすくし、自転車の前かごは壊れたままだし、おまけに明日は仕事ときたもんだ。なんだかなあ。
しかしこちらでもFMで週に一回『ウィークエンド・サンシャイン』と『世界の快適音楽セレクション』が放送されているというのは、なんとしてもありがたいことでございます。たとえ目覚めた所が地獄の釜の中であろうとも、毎週これらの番組を聴くことができるならば、それなりに心楽しく永劫の時を過ごせそうな気がいたしますよ。


1月24日

2012-01-24 | KLAUS NOMI
本日は
クラウス・ノミの誕生日でございます。
もうね、1月24日って書くだけでも嬉しいのです。あほだ。

さておき
調べてみるとこの日は宇宙科学関係のイベントが、けっこう色々と起きているんでございます。
1985年、スペースシャトル「ディスカバリー」打ち上げ&米国防総省の機密ミッションにて情報収集衛星を軌道上に乗せる。
1986年、ボイジャー2号、天王星に最接近。またこのちょうど7年前の1月24日には、先輩のボイジャー1号が木星の全体写真を撮影しております。
1990年、日本初の月探査機「ひてん」打ち上げ。
そして2004年には、NASAの火星探査機「オポチュニティ」が火星に着陸。オポチュニティさんは現在もあちらで火星の風土観測を続けていらっしゃるそうです。いつかスリー・ポイント・ヘアの火星人が散歩しているスナップ写真が送信されて来てくれることを、心待ちにいたしましょう。

そう、見てくれは奇抜、発想はヘンテコリン、真剣さはこの上なく、天上の歌声に、思いきってチープな舞台装置と、全体としてわりと常軌を逸しているノミではございますが、ただやみくもに目立ちそうなことをしていたのではなく「宇宙からやって来た歌うミュータント」というきちんとしたコンセプトがございました。そのコンセプトは「クラウス・ノミ」としてステージデビューした時から一貫しており、残された2枚のアルバムにおいても貫かれております。

「ナチからエジプトの奴隷まで」、とにかくパフォーミングしたい奴をかき集めたという「ニュー・ウェーヴ・ボードヴィルショー」の何でもありな空気のただ中で、クラウス・スパーバーがあえて宇宙人というペルソナを選んだのは、もちろん自身や友人たちのSF好きのせいでもありましょうが、彼の世の中への「馴染まなさ」ゆえでもあると思えてなりません。
馴染まない、といっても社会不適応ということではございませんで、自分では普通にしているつもりなのに、なぜか周りから浮いてしまう、ということでございます。異常ってんじゃないけれど、悪い人ではないけれど、あの人、ちょっと変だよね。私達はそういう人物のことを、宇宙人、と呼ぶのでございました。

映画『ノミ・ソング』から当時Adix誌のアラン・プラット氏に証言していただきましょう。

After talking him a while, you realize overwhelming feeling that "What a nice person", and y'know, "What a nice guy". It ws just nice to sit in his apartment which was an ordinary little place and watching him being ordinary guy. But he never really very ordinary.
しばらく彼と話してみたら、僕はすっかり感じ入ってしまった。「何て気持ちのいい奴なんだろう」って。彼のアパートはごく普通の、こぢんまりとした部屋で、そこでごく普通の人として振る舞う彼と一緒に入るのは、とても楽しかった。もっとも彼は普通にしていても、やっぱり少しヘンだったけど。

また皆様ご承知のとおり、ヤツは性的にも音楽的にも、いわば2つの異なるものの中間地帯におり、どちらの領域にも属しつつ、どちらにも属しきってはいない存在でありました。
子供の頃はからかわれることもあったという高いデコをあえて強調するようなあのヘアスタイル同様、日常における微妙な「ヘン」さ、馴染まなさといったものをあえて極限まで押し進め、属さない者、馴染まない者が演じる自己パロディ像として昇華したものが「宇宙人ノミ」という存在だったのでございましょう。



↑「2ヶ月ほど前に亡くなったクラウス・ノミ」と言っていることから、おそらく1983年秋に収録された番組でございますね。3:07~3:25、4:01~4:12、そして4:56~6:00にノミの姿が垣間見えます。
しかし80年代ニューヨークのイケイケな風俗がレポートされる中、ひとりLightning Strikesを絶唱するヤツの見事なまでの浮きっぷりといったらどうです。

テクノ・ポップ (THE DIG PRESENTS DISC GUIDE SERIES)でも「こんな格好が流行っていた訳ではけっしてなく、この人は始めっからこの姿だった」と書かれているように、ヤツのヘンさは「今見るとヘンだけど、80年代にはわりと馴染んでた」などという生半可なものではございません。ヤツの存在は80年代であろうと70年代であろうと2010年代であろうと、ひとしくヘンであり、ひとしく衝撃的で、ひとしくもの悲しく、そしてひとしく、奇妙に美しい。
それはあの、「教会へ行く火星人」のような格好をした、ちっぽけな人物、誰も見たことのないようないでたちで、誰も聴いたことのないような歌を歌うこのひとが、時代も場所も関係なく、全ての「属さぬ者・馴染まぬ者」たちの面影を宿しているからなのでございましょう。


というわけで
お誕生日おめでとう、クラウス・ノミ。



『北京故宮博物院200選』と『ゴヤ展』

2012-01-21 | 展覧会
久しぶりに世界崩壊系の夢を見たなあ。


それはさておき
日帰りで東京へ行ってまいりました。
東京国立博物館140周年 特別展「北京故宮博物院200選」で展示中の『清明上河図』を見るためでございます。結論から申しますと、見られなかったんでございますけどね。

6時半の新幹線に飛び乗ってなんとか9時半の開館前に国立博物館までたどり着いたものの、玄関口にはすでに長蛇の列ができており、まず入館するまで1時間かかりました。まあそのくらいなら何でもございませんが、館内に入ってみればさらに清明上河図専用の行列というのがございまして、これが孔子さまもびっくりの4時間待ち。少々割り引いたとしても3時間。3時間あればすぐ横の国立西洋美術館でゴヤ展を見て帰れるではございませんか。
しばしの葛藤ののち、清明上河図との対面は断念いたしました。お宝中のお宝でございますから、まみえる機会はもう二度とないかもしれませんけれども。是非もなし、でございます。

というわけで本命は拝めなかったにしても、展覧会自体はそれは素晴らしいものでございました。
ユニークな意匠の青銅器、緻密な彫りが施された玉(ぎょく)、ペルシャの水差しを思わせる姿の磁器など、長い歴史&広大な版図&東西交流の賜物と言うべき工芸品。孔雀の羽を敷き詰めた上に貴石で細かい刺繍を施した礼服、大粒の真珠と色の濃い翡翠を惜しげもなくあしらった頭飾りといった、手間も素材も贅を尽くした服飾品。ある時代に即した美意識や意図を跳び越えて、今の私達の心にまっすぐ切り込んで来る絵画や書跡。

そうした目もくらむような文物が居並ぶ中でも、ワタクシが最も喜ばしくありがたく見たのは世界史上に輝く風流天子にして北宋を滅ぼしたほぼ張本人、徽宗さんの書画2点でございました。思いがけず第一室で徽宗さんご自身の作品にお目にかかれて、清明上河図を諦めた口惜しさも文字通りふっ飛びましたですよ。
徽宗さんは芸術家としても歴史上の人物としても思い入れのある人でございますので、対話するような心地で臨みました。見ると、ごつごつとねじくれた奇妙な格好の岩が描かれているではございませんか。「祥龍石図」なんてカッコいいタイトルをつけておりますけれど、これも悪名高き”花石綱”で各地から取り寄せた奇岩のひとつに違いございません。こんなのに情熱を傾けるから国が滅ぶんじゃばっかもーん。

まあ君主としての適正はともかくとして、芸術家としてのこの人のセンスと力量は疑うべくもないのでございました。
何と鋭く、厳しく整った、しかもしなやかな書体でございましょうか。詩帖の一編である閨中秋月など、まさに秋の夜の月のように冴え冴えとした美しさ。ほんとにこの人は、単に風流な皇族として絵を描いたり、書を書いたり、道教に凝ったりして一生を送ることができたら幸せだったでしょうに。ご本人にとっても、人民にとっても、後世の美術ファンにとっても。その代わり、水滸伝という物語が語られることもなかったかもしれませんが。

さて東洋史専攻だった割に元以降の知識はすっからかんに近いのろとしては、今回展示品を通じて康熙帝・雍正帝・乾隆帝といった清代に輝くビッグネームとお近づきになれたことも有意義なことでございました。
近代版清明上河図とも呼べそうな『康熙帝南巡図巻』は二巻合わせて幅50メートルを超える大作なんでございますが、それはもう緻密に描かれているんでございます。またその細部の描写がいちいち楽しく、色彩も美しく、たいへん見ごたえがございました。↓で一部拡大したもの見ることができます。
東京国立博物館 - 1089ブログ

文人風・農民風・はたまた西洋の君主風とさまざまな立場の人物にコスプレした雍正帝の肖像画『雍正帝行楽図』など、こういうものを描かせた帝の真意はさておいて、たいへん微笑ましい作品でございました。ちょっと森村泰昌氏を連想しましたけどね。

私生活情景 : 故宮博物院展4 雍正帝

そんなこんなで
会場から出ますと依然として清明上河図待ちラインが長々と続いておりました。3時間待ちですと。物販コーナーの人ごみもあいまって、宵山の四条通界隈のような混雑ぶりでございます。とりあえず『「清明上河図」と徽宗の時代―そして輝きの残照』という本だけ購入して物販コーナーから這い出ますと、2時半になっておりました。
人の多さと展示内容の充実度にくたくたでございます。
しかしここでゴヤを見て帰らねばのろがすたるというもの。
というわけで、西洋美術館のベンチで『考える人』の背中を眺めつつキオスクのアンパンをかじったのち、さてとプラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影へ。

もちろんゴヤといえばスペインの押しも押されぬ宮廷画家であり、肖像画の名手でもあるわけでござますが、ワタクシは今までこの画家を時代や地域と関連させて考えたことがほとんどございませんでした。と申しますのも、ワタクシにとってゴヤとは人間の最暗部をえぐり出すような『戦争の惨禍』や『ロス・カプリーチョス』、そして連作「黒い絵」の画家であり、これらの作品におけるテーマは地域や時代といったものとはほとんど関係なく、まったく普遍的なものだからでございます。

本展でタピスリーの原画用に描かれた明るい作品を見て、ああ、ゴヤって時代的にはロココの画家でもあるんだ、と初めて気付かされました。しかし解説パネルによると、いかにも明るく、いっそ能天気にさえ見えるそれらの油彩画にも、実は社会批判がこめられているのだとか。ワタクシにはそう言われてみないと(あるいは言われてみても)分かりませんでしたが、猫の喧嘩を目にした時は一瞬、後年描いた殴り合いの絵の習作かと思ってぎょっとしましたけれども。

しかしまあ、何と言っても素描と版画でございます。完成した版画作品と共にその原案の素描が展示されているものもあり、画家がどこを強調し、何を削り、また何をつけ加えたかということが見て取れてよろしうございました。例えば、ゴヤの版画の中でも目にする機会の多い理性の眠りは怪物を生むなど、構想のスケッチでは机につっぷした男の斜め上に大きな鳥がぼーんといるばかりで、それほどまがまがしい印象をのでございますが、完成作品では鳥ともコウモリとも魔物ともつかない者どもが男の背後からぞくぞくと沸き上がるように描かれ、「理性の眠り」に乗じて諸々の暗い情念やイメージが生み出されて来るさまが雄弁に表現されております。

えっ
マハですか。
うーん。やっぱり、すっぽんぽんよりも何か身にまとっている方がセクシーですよね。『裸のマハ』が隣にいないので欠席裁判になりますけれど。
モデルが不明であることや、着衣と裸体のセットであることなど、人を惹き付ける要素のある作品ではあります。しかし数あるゴヤの作品中で『マハ』がそう飛び抜けて優れているとは、ワタクシには思われません。今回の展示に即して言うならば、「光」を全身にまとった長椅子のマハよりも、小品ながら『魔女の飛翔』に見られる鮮烈な「闇」の世界こそ、ゴヤの本領という気がいたします。



さてゴヤと別れると閉館までもう40分あまりの時間しかございませんでした。くたくたくたくたでございます。しかしせっかくトーキョーまで来たんだからと貧乏性を発揮して常設展示へと強行し、ヴァン・ダイクの肖像画にハハーとひれ伏し、ギュスターヴ・ドレのうまさにほとほと感心し、ウィリアム・ブレイクってやっぱり性に合わねえやと納得した所で閉館のアナウンスに追われて上野駅へと向かったのでございました。




『ポロック展』

2012-01-14 | 展覧会
ポロックというと画家本人の顔よりもエド・ハリスの顔が思い浮かぶのろではございますが
愛知県美術館で開催中の生誕100年 ジャクソン・ポロック展へ行ってまいりました。

回顧展の名にふさわしく、画業の最初期である20歳頃に描かれたものから最晩年(といっても42歳)の作品まで集められておりまして、ドリッピング技法の名品はもちろん、そこに至るまでにポロックが歩んだ、模索というか七転八倒の道のりをたどることができます。また、床に残る絵具跡もそのままに再現されたアトリエ(実物の床の写真がプリントされており、靴を脱いで上がることができます)や、制作風景を記録した映像からは、まさにアクション・ペインティングという言葉どおりの創作方法の、動的・身体的な要素の大きさがダイレクトに伝わってまいります。これは壁にかけられた完成作品を見るだけではちょっと味わえないものでございました。

1940年代半ばまでの作品を見ますと、キュビズムとフォーヴィズムのあいの子のような作品があったり、ピカソやミロからの影響がはっきりと分かるものがあったりと、まあこれはこれでいいんですけれども、ものすごくオリジナルということもございませんで、ポロックよりひと世代前のヨーロッパの芸術家たち、とりわけポロック自身の言葉を借りるならば「ピカソが何もかもやっちまった」後の世界で、新しい、独自の、「だれそれ風」ではない作品を創ることの困難さということがいたく感じられました。

で、その困難さからポンと抜け出た1940年代後半の作品はやっぱり非常によいものでございまして、米アートシーンで熱狂的に迎えられたのも頷けます。


インディアンレッドの地の壁画 1950 テヘラン美術館

この時代のスタイルに留まることをポロックが自らに許していたら、あるいは後年あのように激しいスランプに陥ってほとんど自殺のような最期を遂げることもなかったかも、などということを、ちらと考えました。こんなことをご本人に言ったら「おめーは芸術ってもんが分かってねえぇぇ!」とちゃぶ台ひっくり返されそうですが。

40年代前半にそれなりの評価を得ながらも、「だれそれ風」の良作では満足することができなかったように、独自の表現で名声を築いたのちも、自分自身の模倣に終ることは我慢ならなかったのでございましょう。
スタイルを変え続けたという点ではポロックが超えようと目指した巨人、ピカソも同じでございますが、ピカソは技術的な器用さもさることながら、取材に応じる前に綿密に応答の予行演習をしたり、「ピカソの贋作を描かせたら私にかなう者はない」と言ってのけるなど、心的余裕やメディアさばきの巧みさ、いわば生き方の器用さをも身につけておりました。ポロックは技術においても生き方においても、そうした器用さを持ち合わせておらず、しかもなお、成功と賞賛が約束されたスタイルに留まり続けることもできなかったのでございました。

破滅型天才を地で行くような人生を夏の夜の自動車事故で閉じたポロックが、亡くなったその時に履いていた靴(実物)も、最後に展示されておりました。何てことのない、普通の革靴でございます。画家の所持品であたことを示す痕跡は何もございません。そもそも彼は制作時には靴を履き替えていたようですので、普段靴に絵具がついたりはしなかったのでしょう。しかし、ほとんど新品のようにきれいな革靴、画家の痕跡のかけらもないその靴を見ておりますと、亡くなった1956年には作品を一枚も描いていないことや、映画『ポロック 2人だけのアトリエ』での、糟糠の妻リー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)の「ジャクソン・ポロックが絵を描かないなんて!」という悲痛な叫び、そしてこの映画のラストなどが思い出されてしんみりといたしました。

というわけで、ポロックのさまざまな側面をまんべんなく見られるという点でたいへん有意義な展覧会であったかと。ただ、欲を申せば、やっぱり大画面のドリッピング作品をもっと見たい所ではございましたよ。

『恋する静物』展2

2012-01-07 | 展覧会
「感動」とか「癒し」という言葉は決して安っぽい言葉ではなかったはずなのに、いつの間にか真顔で口にするのも恥ずかしいような単語に成り下がってしまいました。おそらく「絆」もそのうち同じ運命を辿ることでしょう。


それはさておき
1/5の続きでございます。

現代美術を集めた5F展示室へ行く前に、19世紀末の書物を描写したものとして興味を引かれたのが、アメリカの写実画家ジョン・フレデリック・ピートー作「学生の用具」でございます。



伏せて置かれているのは革装あるいはクロス装のソフトカバーのようです。本ではなくノートブックかもしれません。ヒラの部分が簡素なクロス装で背だけが革装のもの、全体がクロス装で背のタイトルラベルだけが革っぽいもの、革の部分の破損が著しいものなど色々ございますね。

それにしてもこれらの半革装本、あまりといえばあまりなボロボロぶり。
製本に使われている革の劣化についてちと調べてみますと、英国では早くも1900年には、過去一世紀ほどの間に製本された革装本の劣化の激しさについての問題意識が高まり、王立工芸委員会なる機関が委員会を設けて調査を行っておりました。それによると「一般に退化のはじまったのが1830年ごろからのことで、1860年以降になると退化がとくにいちじるしい」(『西洋の書物』A・エズデイル 1972 雄松堂出版 p.198)とのこと。その理由として考えられるのは、まず技術開発によるな革なめし方法の変化がございます。植物性で堅牢な仕上がりになる昔ながらの「タンニンなめし」から、鉱物性で時間がそれほどかからず、安価な上に発色よく仕上がる「クロムなめし」に移行したこと、また「燻煙なめし」に用いられたガスに含まれていた硫酸や亜硫酸も劣化の要因と考えられております。家畜の飼料や飼育環境の変化も、原料である皮の質の低下に寄与したと考えられましょう。要するに産業革命の大波を受けて、革という伝統的な素材すらも18世紀以前のようなクオリティを保てなくなったということでございます。
製本用クロスが普及しはじめたのが1820年代ということも考え合わせますと、この「学生の用具」はまさに当時の欧米製本事情を図示するものとして、史料的な面白さもございます。

さてキュビズムからビデオまで、20世紀以降の作品を集めた5階展示室、さすがに個性的な作品が揃っている中で妙に心惹かれたのがガラス作家
ポール・スタンカードの「精霊のいるわすれな草」という小品でございました。
高さ10センチほどのガラスの立方体の中央に、何製なのかは分かりませんがワスレナグサの青い花が浮かび、その下にはふわりと根が絡まり、根の間には小さな真っ白い人間のようなものの姿が見えます。何とも乙女ちっくなテーマではございますが、それを臆面もなく作ってしまうという所にちょっと心打たれたのでございます。そう、臆面もなくするって、けっこう大事なことだと思うのですよ。それに、きっぱりと滑らかでクリアなガラスの、量感を感じさせない透明さや、ほんの少しだけ全体が面取りされ、またほんのわずかに上部をへこませた立方体の、いつまでも溶けない氷のような不思議なたたずまいは、それ自体たいへん魅力的なものであったのでございます。

いわゆるモダンアートとそれ以降を扱ったこのセクションにおいては、モチーフの変遷と共に絵画や工芸の役割そのものの変遷をも考えさせられました。モチーフにつけ表現方法につけ驚かされることが多いこの展示室の中で、ワタクシが一番驚いたのはモーリス・ルイスの「無題(死んだ鳥)」でございました。
画像は見つけられませんでしたが、↓とほぼ同じ作品でございます。おそらく同時期に描かれたものかと。
Here Be Old Things: New York City Auctions: January 12?18, 2009

ころんと仰向けになった小鳥の死骸が描かれた小さな作品、ごく地味な色調で、ペインティングナイフで引っ掻くように描かれた圧塗りの肌あい。これがあの、ゆるく溶いた絵具を広大なキャンバスの上にさあっと流し、美しい色彩の調和と観る者を包み込むような広がりを生み出した抽象画家モーリス・ルイスの作品とは、にわかには信じられませんでした。解説パネルによると、この作品の修復の再、今の画面の下に鮮やかな色が塗られていたことが分かったとのこと。うーむ、何があったんでしょうか。
描かれた鳥は古代の壁画のように素朴な造形でございまして、前回の記事でご紹介したモチーフは同じでも「死んだ鳥と狩猟道具のある風景」とは全く趣が異なります。単に技法の変遷ということ以上に、死んだ小さな生き物へ向けられる画家のまなざしが、裕福な顧客のために腕を振るう17世紀の画家のそれと、「芸術家=表現者」と言う概念が当たり前になった20世紀の画家のそれとではずいぶん違うということでもございましょう。
2つの「死んだ鳥」の間の隔たりは、人間の社会のありよう、そして人間とその周囲(=人間以外のものの世界)との向き合い方の変化を示すようでもございました。



『恋する静物』展1

2012-01-05 | 展覧会
あけました。

というわけで
名古屋ボストン美術館で開催中の恋する静物-静物画の世界へ行ってまいりました。

ボストン美術館のコレクションの中からピックアップされた静物画や調度品が、静物画というジャンルが確立した頃の作品から現代美術に至るまで、時系列に並べて展示されております。
というわけで新年早々、17世紀オランダのヴァニタス(人生の虚しさ)絵画から。
果物と花々、あるいは髑髏・蝋燭・砂時計というお馴染みのモチーフを集めた作品から、当時オランダで流行したレーマー杯を描き込んだもの、画面いっぱいにどでーんと鯉が描かれた、いささか異様なもの(うろこのぬらぬら感のすごいこと)まで、さすがに17世紀オランダ絵画、これでもかとばかりの描写力でございます。

中でも凄かったのが、フェルメールより10歳あまり年下になるヤン・ウェーニクス作死んだ鳥と狩猟道具のある風景でございます。

はい、タイトルそのまんまな絵でございますね。しかしこの質感の描き分けの凄さといったら。革製ケースのしっとりと使い込まれた光沢、細い飾り房の繊細な素材感、ひんやりと重々しく光る金具の重量。それ以上に、死んだ鳥たちのいかにもくたっとして柔らかそうな首や胸の羽毛と、薄く軽いけれどもパリッと張りのある翼の部分の描写、またその解剖学的な正確さといったらどうです。狩猟の獲物となった鳥たちの姿は斜め上からの劇的な光に照らされ、誇張もなく媚びもなく、一種のしんとした荘厳さに包まれております。地面に転がっているカワセミなど、その可憐な、とはいえ即物的な死に姿があまりにも真に迫っていて、絵に中にふと両手を差し延べて拾い上げたくなるようでございました。
狩猟は贅沢なスポーツであったため、狩猟を主題とした絵は富裕層のステイタスシンボルであったということですが、本作のあまりにもリアルな死んだ鳥の描写は、むしろ髑髏や蝋燭と同様に、生のはかなさを表現しているように見えてなりません。

静物画だけの展覧会といいますとちと地味な印象がございますが、本展にはなかなか珍しい、というかケッタイなものも展示されていて面白かったですよ。
例えば、18世紀後半に活躍したアメリカ人画家ジョン・シングルトン・コプリーの釘にかかった栓抜き
何でもコプリーが招かれた先でワインの栓抜きが見つからなかった時、即興でその家の戸枠に描いたものなんだとか。その戸枠がこうして切り取られて、ボストン美術館に所蔵されるに至ったまでの経緯が気になる所です。それにしてもこの作品が描かれた1760年代にはまだチューブ式油絵具が開発されておりませんのに、コプリーが出先でこれを描いたということは、招かれた先まで大仰な油彩画の道具を持参していたんでしょうか。それとも招かれた先もまた画家の家だったんでしょうか。ともあれ、なかなか面白いエピソードではあります。

例によって「セザンヌ、ルノワール、マネを始め~」なんて印象派メインみたいな売り出し方をされておりますけれども、印象派の作品は展示のほんの一部でございます。ざまあみろ。いやいや。
上記のビッグネームの他、モリゾ、シスレー(シスレーの静物画なんて初めて見ました)、それに印象派周辺の画家としてファンタン=ラトゥールやクールベさんの作品も来ております。


花瓶のバラ 1872年

年明けからファンタン=ラトゥールの静物画を見られるなんて、まったく幸せなことでございました。この人の作品は素晴らしい技術や色彩センスを誇りながらも、どうだどうだと見せつけるような所がなくて、ほんとにいいですね。静謐さとみずみずしさが同居する画面からは、描かれている花や果物の香りがふわりとこちらに漂って来そうでございます。印象派の大御所たちほど知名度がございませんので、展覧会の広報に名前が出て来る機会は少ないのですが、モネルノワール大フィーチャー!な展覧会などで思いがけず出会うと、本当にしみじみといたしますよ。

予想外に長くなりましたので、次回に続きます。
今年はブログに割く時間をもっと短くしようと思ったのになあ。