のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ルーブル美術館展2

2009-07-30 | 展覧会
7/27の続きでございます。

アムステルダム風景の真向かいに展示されておりますのが、『金色の花瓶に活けられた花束とルイ14世の胸像』(←サムネイルをクリックすると拡大されます)。

太陽王の栄光と偉業を讃えているというこの作品。黄金に輝く花瓶には花々が溢れかえり、ルイ14世その人を表す胸像の足下にはたわわに実った葡萄やザクロと凝った装飾の鎧が置かれております。
華やかな作品でございます。技術的にもなかなかのものでございます。しかしのろの目を引いたのはその精緻な描写や見事な質感の描き分けよりも、華麗さの中にある、一抹の危うさと陰りでございます。

のろはこの絵を遠目に見た時、異様に立派なヴァニタスかと思いました。
ヴァニタス(ラテン語で「虚栄」)とは17世紀オランダを中心に流行した、この世のはかなさや虚しさ、移ろいやすさを寓意的に表現した静物画でございます。花瓶の中で咲き誇る花々や熟れきった果実はヴァニタスに好んで描かれるモチーフでございました。王を讃えるために描かれたこの作品では、花や果実は虚しさではなく国土の栄華と豊穣の象徴として表されたものでございまして、解説パネルにもそのように書かれておりました。にもかかわらずのろはこの絵から、次第にぐずぐずと崩れて行くもののような危うい印象を受けました。あたかも、来たる爛熟の時代の先触れのように思われたのでございます。

この危うさは何から発しているのでございましょうか。
明らかに開きすぎのチューリップや、しおれ始めている朝顔からか。自らの重みにうなだれて花瓶から落ちかかっているシャクヤクからか。あるいは、豪奢な見かけのわりにはぞんざいに床置きされている鎧の重たい輝きからか。

この絵が描かれた時フランスはどんな状況であったのか。ちと調べてみますと、1684年はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」が完成した年でございました。まさしく栄華の絶頂だったと申せましょう。翌1685年がこの絵の描かれた年でございます。この年ルイ14世は「ナントの勅令」を廃止し、プロテスタントへの寛容政策を止めたのでございます。これによってフランスからは大量のプロテスタント人口が流出することとあいなりました。要するに100年前のスペインと同じようなことをやらかしたわけでございますね。国内のカトリック信者たちは諸手を上げてこの措置を歓迎しましたが、度重なる対外戦争に加えて、勤労を美徳とするプロテスタントの商工業者を失ったことは、結果的にフランスの国力の衰退を招いたのでございます。

してみるとこの作品は、フランスが片足で栄光の絶頂を踏みしめつつ、もう片足で下り坂への一歩を踏み出した時に描かれているわけでございます。そう考えますと、この絵の華麗さの中からにじみ出る陰りにも納得がいきます。画家はこれからフランスがゆっくりとたどる下降線を、まさか予期していたわけではございませんでしょう。しかし結果的にこの絵はやはり「異様に立派なヴァニタス」だったのでございます。


ついでなのでオランダの話をさせてくださいまし。
花と果実が栄華の象徴ならば、鎧が物語っているのは太陽王が行った数々の対外戦争(=侵略戦争)でございます。
国力にあかせてばんばん戦争をしかけたルイ14世、当然豊かな隣国オランダにもその矛先を向けております。オランダでは「災厄の年」と呼ばれる1672年、フランスは12万人に上る陸軍をオランダに侵攻させました。海運国オランダは強力な海軍を持っておりましたが、陸の戦力においてはオランダをはるかに上回るフランス軍は瞬く間に諸州を制圧し、アムステルダムへと迫ります。
軍事に強い総督派(7/27参照)はこの機にがぜん勢いを得て政治権力を奪取。それまで中央集権的な総督派を抑えて軍縮を進めて来たデ・ウィットは危機を招いた責任をとらされて辞任に追い込まれます。
デ・ウィットは辞任の16日後、総督派に煽動された暴徒に襲撃され、兄とともに路上で惨殺され、遺体は辱められました。
2人の無惨な姿をご覧になりたいかたはこちらでどうぞ。
Johan de Witt - Wikipedia, the free encyclopedia
↑いきなりではございませんのでご安心を。中ほどまでスクロールすると小さめの画像が出てまいります。クリックすると拡大されます。

この事件は普段冷静でもの静かなスピノザをして、憤りの涙を流さしめたのでございました。

総督派は(ともに独立戦争の際の中心勢力でもあり、より思想的に統制された社会を望んでいた)カルヴァン派聖職者たちからも支持され、民衆の人気もありました。カルヴァン派と結びついた総督派が権力を握ったことにより、オランダの思想的寛容は(依然として他国よりもましだったといえ)後退しました。思想と言論の自由をうたい、デ・ウィット政権下で刊行されたスピノザの『神学・政治論』はデ・ウィット殺害の2年後に発禁となり、執筆から300百年以上を経た現代も読み継がれる『エチカ』はスピノザの生前に発行されることはございませんでした。

17世紀の話ではございます。
が、信仰と結びついた軍国主義や、苦境に対するスケープゴートを求める群衆、自由な言論の封じ込めといったパターンは、残念ながら今なお決して馴染みの薄いものでないと思われるのでございますよ。



次回に続きます。

ルーヴル美術館展1

2009-07-27 | 展覧会
牛乳を飲み
あんずをかじり
朝一番の自転車を駆って京都市美術館のルーヴル美術館展へ行ってまいりました。

ものすごい人出とはかねてより聞き及んでおりましたが、レンブラントとフランス・ハルスを見られるならば、そこにいかなる困難が待ちかまえていようとも行かねばなりますまい。
とは申せ、開館前から入り口に延々と並んだ修学旅行生の群れを目にしていささか怖じ気づいたのも事実でございます。



本展の副題は「17世紀ヨーロッパ絵画」。17世紀ヨーロッパと言えば一般的に絶対王政、中央集権の時代とも評されますが、のろにとっては何を置いても「オランダの世紀」でございます。
展示室に足を踏み入れると早速「アムステルダム新市庁舎のあるダム広場」が迎えてくれます。

額絵シリーズ「美の殿堂 Louvre ― ルーヴルに見る暮らしの情景 ―」
↑リンク先中ほどの「5月の額絵」の所で見られます。(画像が一番綺麗なのでこちらにリンクしたまでで、他意はありません。ちなみに某新聞社が関わっている展覧会は販促のために招待券が大量にばらまかれるのが常となっているようです。何も某新聞に限った話ではありませんが、これが超混雑の一因となっているのは確実で、苦々しく思うのが正直な所。ジャーナリズムを標榜するならオマケで読者を釣るのではなく中身で勝負していただきたいものです。芸術鑑賞の間口が広がることは大いに結構ですが、それならタダ券のばらまきよりもむしろ入場料金そのものを引き下げていただけないものか)

左手の大きな建物が市庁舎、広場を挟んで右側の賑わいのある建物は商品の計量所、市庁舎の向こうに見えますのが教会でございます。描かれたのが1655年かそれ以降ということでございますから、借金をどっさり抱えたアムステルダムの巨匠レンブラントも、彼のご近所さんであった青年スピノザも、おそらく日常的に目にしていた風景でございます。スピノザなどは父親が死んだ1654年から二年間、父の後を継いで貿易関係のあきんどをやっておりましたから、まさにここに描かれている計量所に出入りしていたやもしれません。
計量所の前では澄明な「オランダの光」が降り注ぐ下、商人たちが大きな袋を囲んで商談にいそしんでおります。あの中の一人に”ベントー&ガブリエル・デスピノザ商会”の若き共同経営者も混ざって、取引したり、交渉したり、ぽかぽか殴られたすえに帽子を踏んづけられたりしていたのかと思うと、孤高の哲学者も何やら身近に感じられるではございませんか。

解説パネルによるとこの絵は「ひとつの場面に共同体活動、宗教活動、商業活動を示すものが描かれ、オランダの黄金の世紀の縮図となっている」のだとか。なるほど、そう思って見るともう一つ面白いことがございます。
1655年はヤン・デ・ウィットが事実上の首相となって2年目に当たります。事実上、と申しましたのは、当時オランダには法的に明確に定められた最高責任者の地位が無かったからでござます。それがためにデ・ウィットら法律顧問の属する議会派と独立戦争の英雄オラニエ家を中心とした総督派との間の権力闘争が常態化しまして、対立が激化して権力者の処刑に至ることもあり、ついにはデ・ウィットもまたその犠牲になるのでございますが、それはまたのちの話。

ともあれデ・ウィットのもと、オランダは空前の経済的繁栄と、他国に類を見ない宗教的寛容を謳歌したのでございます。当時オランダで宗教的優位を誇っていたのはキリスト教カルヴァン派(プロテスタントの一派)でございまして、ここに描かれている教会もプロテスタントのものでございましょう。その教会勢力にとっては他宗派やユダヤ教を容認する「宗教的寛容」は全く面白いものではございませんでした。カルヴァン派が他宗派に対する弾圧を当局に求めることもございましたが、デ・ウィットは自身の自由主義的な思想と政治的な立場から、教会は国政に口出しすべきではないと考え、カルヴァン派聖職者の突き上げを抑えて寛容政策を取り続けました。おかげでさまざまな宗派の人々が自由に経済活動を展開し、彼の庇護のもと、「徳ある無神論者」スピノザは自由な思索と(そこそこ)自由な著作活動を許されたのでございます。

風景画家ベルクヘイデの絵は、別段政治的な意味を持ったものではございますまい。しかし上記のような背景を考えますと、堂々とした新市庁舎、即ち共同体活動の象徴が、宗教活動の象徴である教会の前にそびえ立ってその半分あまりを影で覆っている様子は、宗教に対する国家の優位というデ・ウィットの理念と政策をも象徴しているようにも思われるのでございます。


次回に続きます。

近美の常設展

2009-07-23 | 展覧会
何となく7/16の続きでございます。
ソビエト無声映画ポスター展と同じ会場で見られるコレクション展示の感想を少々。

京都近代美術館の常設展示室、以前はいつ行ってもほとんど代わりばえがしないという印象でございましたけれども、近年は外部団体とのコラボレーションなども行いつつ積極的に展示替えをなさっているようでございます。今回の近代日本画のセクションには、漁民や女工など、庶民を描いた作品が集まっておりました。
その中でとりわけのろの目を引きつけたのは梶原緋佐子の「唄へる女」でございます。

鼻緒のよれた高下駄を踏みしめ、濃い鼠の着物に長い前掛けを垂らした女が、木の格子の前で唄っております。
肩には薄汚れた手ぬぐい、それを握る両手は仕草こそなよやかではあるものの、太くずっしりとした量感があり、日々の労働を感じさせます。梶原緋佐子は菊池契月の門下生とのことですが、師匠の描く端正で清澄であくまでも上品な女性たちとは正反対の泥臭さ、そして何やらむくむくとした生命感がございます。
半開きになって歯茎ののぞく口元。身体は正面を向いているのに視線は鑑賞者を見据えることなくあらぬ方向へと漂い、開いた襟元と相まってくたびれたような、猥雑な印象を発しております。
あまりにも飾り気のないその表情は見る者をどぎまぎさせます。それはあたかも隠し撮りのスナップ写真のようであり、見てはいけないものを見ているような気がするのでございます。

ベンチに腰を落ち着けてこの作品を見ているうちに、のろはこれと全く対照的な作品である土田麦僊の「大原女」を思い出しました。
同じく庶民の女がモチーフでありながら、2つの絵の何と違っていることよ。おそらくは実際の風景に取材していながらも、西洋絵画の写実的技法と日本画の装飾性を融合させた「大原女」に描き込まれているのは、美と調和の支配する一種の理想郷でございます。陰りのない色彩で描かれた風景の中、しみ一つないパステルカラーの服に身を包んだ大原女たちは調和に満ちた世界の住人として、人形のようなやさしい顔をこちらに向けております。
対して「唄へる女」は濁世のぬかるみの中に足を踏みしめて生きる人間であり、愛玩品でもなければ美の理想を担わされてもいない、生身の女性像でございます。背景による演出を極力抑えた画面からは、決して理想郷ではない「この世」という場所に生きる人間の哀感と図太い生命力とが、風景の中に放電されることなくひたすら見る者へと迫ってまいります。

どちらがいいという話ではございません。
ただワタクシは、のちに梶原緋佐子がいたって端正な、いわゆる美人画ばかりを描くようになったことが、いささか残念なのでございます。美しい着物に身を包んだ白い顔のお嬢様たちはまことに絵になるモチーフであり、作品も実にうるわしいものに仕上がっております。
かつて彼女に描かれてた底辺の女性たち、老いた芸妓や唄う女は、決して「絵になる」つまり見目うるわしいモチーフではございません。その生の苦しみやわびしさ、やるせなさをも視野に入れたならばなおさらでございます。しかしその女たちには-----のちに主役の座に取って代わる美しいお嬢様たちには見られない-----何か恐いような迫力と圧倒的な存在感があったのであり、そこに注目したまなざしこそが、この画家の個性の最たるものではないかと思うからでございます。


そんなわけで「唄へる女」に圧倒されて日本画セクションと写真セクション(いつも長谷川潔の作品が展示されている所。今は東松照明の作品を展示中)をふらふら通り抜けて第四室へとたどり着きますと、涼やかなガラスの作品群が目に飛び込んでまいりました。
ガラスを使った作品はいつみてもいいものでございますが、暑いこの季節にはいっそうよろしうございますね。
氷河のような冷たい輝きを放つ立方体、中央に細かい気泡を閉じ込めた球体、プリズムとなって虹色の光りを身中に映し込む、透明なピラミッド。
造形の面白さもけっこうなものでございますが、その素材感を見ているだけでもひんやりと涼やかな気分になります。

ちなみに、近美一階ロビーには『前衛都市・モダニズムの京都』展に合わせて、大正時代の電気自動車「デトロイト号」が展示されておりました。自動車というより馬車のようなデザインでございます。



当記事も展示中にUPするつもりだったのでございますが、うかうかしているうちに会期終了してしまいました。


レイアウトのこと

2009-07-18 | Weblog
windowsでご覧いただいている皆様、レイアウトがおかしくはございませんか?

gooブログから「カスタムレイアウトがどうたらこうたら」というお知らせがまいりまして、わけが分からないながらもぽちっとクリックしたらこのざまでございます。何故こんなことになるやら、さっぱりでございます。うちのmacさんでは今まで通りのレイアウトで見られるんでございますがね。

だいたいカラムやらモジュールやら、のろの知らない言葉を注釈もなしにポンポン使わないでいただきたいもんでございます。
ぷんすか。

『無声時代ソビエト映画ポスター展』

2009-07-16 | 展覧会
無声時代ソビエト映画ポスター展 へ行ってまいりました。
常設展示室の一角を使っての展示で、ちょっとせせこましい感じがいたしましたが、420円という常設展料金で見られるのでございますから、まあ文句は言えません。

大胆なレイアウトと円や対角線を多様した独特のデザイン、鮮烈な色彩感覚に彩られたポスターはどれも面白く、映画の宣伝というだけでなく時代の芸術をも担っていたポスター・デザイナーたちの心意気を感じさせます。
とりわけ素晴らしかったのは、チラシにも使われておりますステンベルク兄弟作『カメラを持った男』でございます。



画面中央へと集中するビルの稜線と、不思議なポーズの、しかも手足と頭だけの女性が視線を引きつけます。女性は躍っているようでもあり、背景の高層ビルから落ちている真っ最中のようでもあり、目を見開いた曖昧な表情がいっそう興味をそそるではございませんか。カメラのレンズを思わせる文字の配置といい、黒い空へ向って伸びる色とりどりのビルといい、実に見事なデザインでございます。

同じくステンベルク兄弟の『帽子箱を持った少女』


これなども大変洒落ておりますね。上の顔は取って付けたような感じがいたしますけれども。
ステンベルク兄弟の作品は↓こちらでいろいろ見られます。
Katyusha-HD: stenberg brothers
Stenberg Brothers Posters at AllPosters.com
Speak Up Archive: The Stenberg Brothers in 200 Words

ソビエト無声映画と言えばのろは『戦艦ポチョムキン』くらいしか存じませんから、革命バンザイとかプロレタリアわっせわっせなイメージしかございませんでした。今回、ドタバタコメディや不倫のからむサスペンスもののポスターなどを見るに及んで、「ソビエト」に対して自分が持っているイメージがいかに大ざっぱなものであるかを痛感した次第でございます。
とりわけ驚いたのが『メアリー・ピックフォードの接吻』という作品。ポスターもソ連の横尾忠則が作ったのかと思うような仰天デザインでございましたが、ソ連映画にメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが出ているというのが何より驚きではございませんか。何でも、2人がモスクワを訪れた際のニュース映像をうまいこと編集して、別撮りした映像と合わせて一本の作品に仕上げてしまったのだとか。このしたたかな手法にもたまげますが、ハリウッドの大スターがソ連においても人気者だったということが、のろには意外でございました。考えてみれば米ソ両国、決してずっと一貫して仲が悪かったというわけではないんでございますね。
詳しくはこちらを。

また全体として面白かったのが、文字の入れ方でございます。
字体はみな同じような、太く角張ったゴシック体でございまして、瀟洒な字体はほぼ見当たりません。そんな中、デザイナーたちはいかに配置するかで差異化を図ったものか、縦に斜めに円形に、時には画面を埋めつくすように置かれた文字は、単に文字情報という機能を越えた絵的な効果を発しておりました。

常設展示室の一角で開催中と始めに申しましたが、3階の企画展示室を使ってもっと大々的にやってくれてもよろしうございましたのに。現在の企画展『前衛都市 モダニズムの京都』があまり面白く感じられなかっただけに、そんなことも思ったのでございました。


untitled

2009-07-15 | Weblog
周りの話に乗ろうともせず、場をしらけさせるようなことを言って人々を不快にさせる。これが宴会においてワタクシができることの全てでございます。必ずそうなるということが経験上よく分かっておりますので、宴会の企画が持ち上がると甚だ憂鬱でございます。にもかかわらず、毎度のこのこと出かけて行くのはおそらく、付き合いの悪い奴と思われたくないという過剰な自意識によるのでございましょう。同僚諸氏にとってはさぞかしはた迷惑なことであろうと存じます。
そもそも年齢やら恋愛やら結婚やら人の噂といった話題に乗れない奴は、酒宴の席に列するべきではないのでございましょう。
こうやって周囲の価値観に適応しようともせずにひたすら不快指数の上昇に尽力している奴を見ていると、本当に早くくたばればいいのにと思うことしきりでございます。

『ウェディング・ベルを鳴らせ!』

2009-07-13 | 映画
ピリッと辛いおつまみをお皿にたんまり盛って、かたわらに小瓶のビールをずらりと並べて、そいつを片っ端から空けてラッパ飲みしながらつまみをむしゃむしゃやりながら、時には立ち上がって踊りながらそして「ありえね~」だの「やっちまえ~」だの大声で茶々を入れながら観るのが、クストリッツァ映画の正しい鑑賞法なのではないかと思うのでございます。

ともあれ、『ウェディング・ベルを鳴らせ!』を観てまいりました。
↑公式サイトがいろいろと楽しいつくりになっております。(昨今流行りの”婚活”なる言葉を持ち出しているのは気に食わぬ所でございますけれども)

日本で長編のクストリッツァ作品が公開されるのは『ライフ・イズ・ミラクル』以来4年ぶりでございますが、この間カントクは映画学校を設立したり、フィルムフェスティバルを開催したり、マラドーナの伝記映画を撮ったり、渋るネレを説得して『ジプシーのとき』をオペラ化したり、さらにはノー・スモーキング・オーケストラの一員としてワールドツアーに出たりもしておいでですから、ずいぶんとお忙しかったはず。にもかかわらず本作からほとばしるバイタリティときたら、例えて言うなら一杯機嫌で好き勝手に演奏しまくるジプシーバンドを満載して突っ走る蒸気機関車のごとくで、クスツ親爺もはや恐いものなし(というかやりたい放題)の感がございます。

今回はコメディに徹したようで社会風刺は少なく、そのぶんドタバタハチャメチャぶりに更に磨きがかかっているのですが、カントクのこれまでの作品と比べるとやや求心力が弱いような気はいたします。登場人物おのおののエピソードがつぶ立ちしすぎているせいなのか、はたまた動物を含め無数に登場する小道具たちを活かしきれていないせいなのか。しかし、本筋と関係のない周辺的なことがらがいやに自己主張するというのもクストリッツァ作品の魅力のひとつでございますから、ここはひとつ赤瀬川源平風に「今回の作品はいつになく拡散力がある」とでも申しておきましょう。

揃いも揃ってアクが強く血の気が多い登場人物たちが、ベタなギャグやシュールな冒険を執拗なまでに繰り広げ、その合間にストーリーと全く関係のない小ネタが当たり前な顔をして割り込んで来る、要するに甚だクストリッツァ的なコメディでございます。よって、爪の先ほども面白さが感じられないという方もいらっしゃることでしょう。これはトムヤムクンのどこが美味しいのかわからないとか、ヘビメタの何がいいんだかさっぱり、というのと同様、好みと相性の問題でございまして、合わない方にはそりゃ残念、としか言いようがございません。



そう。
牛は走り、猫は飛び、煙突は倒れ、美しい山村には至る所にメカ仕込みの落とし穴が口を空け、懲りない求婚者を何度でも呑み込むのでございます。大男の頭突きで建物は倒壊しかけ、ロケット男は(案の定)ひたすら飛び続け、血の気の多い司祭様は鉄拳を振るい、結婚式は銃撃戦と化し、それでもなおウエディングベルは鳴らされねばならないのでございます。ちなみにベルはじいちゃんのお手製。このじいちゃんの作るヘンテコな、しかし意外と実用的なメカの数々もまた見ものでございます。
じいちゃん自身もなかなか隅に置けない人で、孫をお嫁さん探しに送り出す一方、自分は街から彼を追ってきた美女に結婚を迫られる日々。でもってこの美女もまた、彼女の美貌とダイナマイトバディに一目惚れした男に結婚を迫られる日々。主人公のツァーネ君は運命の人を見つけた喜びもつかの間、牛は盗られるわ、不良にボコられるわ、植木鉢に直撃されるわと散々でございます。
そこへおじいちゃん同士の友情やらセルビアマフィアやらがからんで来て、ああもうどうすんだこりゃどっこい何とかなるわないやいやそうは言ってもとりあえずGoツァーネGo!Go!てな感じでございまして、「ボクのお嫁さん探し」というシンプルなはずのストーリーは、怒濤のごちゃごちゃを擁して突き進んで行くのでございます。

風刺は少なめとはいえ、その矛先と描き方は実に明解(というかあからさま)でございました。
例えばマフィアのボス、バヨは娼館を兼ねたストリップバーのオーナーで、昔からある工場をつぶしてセルビア初の世界貿易センタービルを建てようと画策しております。御丁寧にも例のツインタワーとそっくりのものを。貧乏人からも容赦なく金をむしり取り、性的搾取と暴力で儲けているバヨが、俺の力でツインタワー-----経済グローバリズム/アメリカニズムの象徴-----をぶっ建ててやるぞと息巻く様には、経済グローバリズムに対するカントクの皮肉な見方が伺われます。またカントクの息子ストリボール・クストリッツァが演じる大男は「世界に愛と平和を広げよう」とのたまいながら、ランボー(詩人じゃない方)が持っているようなでっかいマシンガンを粛々と撃ちまくるのでございます。

ストリボールは前作『ライフ・イズ・ミラクル』に引き続き主人公の頼れる友人役でございまして、マッチョな風貌を活かして笑わせてくれます。今回は音楽も彼が担当ということで、ノー・スモーキング・オーケストラのクレジットは無し。
現在のノースモのギタリスト、イヴィツァ・マクシモヴィッチ氏がしつこい求婚者役で出ていたということは後で知りました。サイモン・ラトルのごとき鳥の巣頭の姿しか見たことがなかったので全く気付きませんでした。そういえば劇中で弾いておりました、ギター。


このおっさんがまた、いい味出してらっしゃるのですわ。

音楽は今までと比べると若干おとなしいように感じられましたが、世間の評判は上々のようでございます。ノースモのアクの強さ、わざとらしさとゴチャゴチャ感が好きなワタクシにはちょっと物足りなませんでした。まあ、これも好みの問題でございます。

そんなわけでございまして
100点満点というわけではないものの、のろは大いに楽しませていただきました。
ウンザ・ウンザ・サウンドに乗せてドタバタ人生讃歌を歌い上げたカントク、今後もどんな作品を見せてくれるのやら、のろは楽しみにしております。そろそろまた『アンダーグラウンド』や『ジプシーのとき』のような悲劇性のある作品を撮っていただきたいなあとも思いつつ。




ドイル忌

2009-07-07 | 忌日
本日は
サー・アーサー・コナン・ドイルの命日でございます。

のろはシャーロッキアンってわけではございませんが、かの『奇岩城』でのホームズ先生の扱いに憤激して「金輪際ルブランは読まねえ」と心に決めた程度にはホームズファンでございます。
またオリジナルストーリーの映画や、いわゆるパスティーシュ、贋作にも(この制作者たちはことごとく「自分が創作した聡明で美しいヒロインとホームズとの淡い恋」を折り込むという誘惑に抗することができんのか?と思いつつも)食指をのばしてみましたし、NHKで放送されていたグラナダTV制作ジェレミー・ブレット主演のドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』は可能なかぎり録りため、繰り返し繰り返し、飽きもせず見たものでございます。ちなみにこのドラマでは『ソア橋』と『ブルースパーティントン潜航艇』がお気に入りでございました。

あの素晴らしいホームズ像を残して、ブレット氏がお亡くなりになってはや14年。
色々な媒体で散々描かれてきたテーマである上に、完璧という言葉がふさわしいあのブレット・ホームズが世に出てしまった後では、映画やドラマにおいて新たな「シャーロック・ホームズの冒険」を描く試みはほとんど無謀なことにすら思われます。
だもんですから、ここに至って新たなホームズ映画が作られること、しかも監督はスタイリッシュな犯罪映画で知られるガイ・リッチーであることを知ってのろはちょっと驚きました。
キャストを知ってなおさら驚きました。
ロバート・ダウニー・Jr、あの人なつっこい顔の男がホームズ先生ですと?
ジュード・ロウ、あの抜きん出た美貌の持ち主がワトスン君ですと?
こりゃ何かの間違いではと思ったものの、ポスターを見たら何となく納得が行きました。


Copyright : 2009 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

つまりあれでございますね。
いわゆる「全く新しい現代的なホームズ像」を作ろうっていう試みなんでございますねこれは。

New Sherlock Holmes HD Trailer | Robert Downey Jr., Jude Law


これくらい大胆にモデルチェンジした方が、制作者も自由に作ることができるこってございましょう。
鑑賞する側も、ここまでやれば「これはこういうもんなんだ」と割り切って見ることができて結構かと存じます。
トレーラーを見るかぎり、なかなか面白そうではございませんか。もっとも映画そのものよりトレーラーの方が面白いという事態は往々にしてございますから、あまり期待を膨らませすぎずに年末の公開を待ちたいと思います。

それにしてもジュード・ロウはいい感じに禿げ上がってまいりましたね。
のろは特にファンというわけではございませんが、容色だけでなく演技力にも定評のあるこの俳優がどういう風に歳をとって行くのか、楽しみにしていなくもないのでございます。また中堅と呼ばれる中でもまだ若さの残る今のうちに、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのような、ガッと華のある極悪人を演じていただきたいとも思っております。
ちなみに彼は駆け出しの頃、上述のドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』にて『ショスコム荘』の見習い騎手役で出ております。トリックの上では重要な人物ながらセリフはほとんど無く、冒頭とラストにちょっと顔が出るだけのチョイ役でございました。それが今やホームズ先生の片腕たるワトスン君でございますから、これは随分な出世と申せましょう。
今後さらに生え際の後退が進んだら、しかめ面をしてモリアーティ教授を演じていただきたいものでございます。

何です。
モリアーティはもっと陰気な顔立ちじゃなきゃいかんって。
まあ、それはそうではございますけれども、ホームズ先生だって常に薄い鷲鼻と秀でた額と知的な顔立ちを兼ね備えた俳優に恵まれたわけではございますまい。思い入れのある作品の映画化を楽しもうと思ったら、多少のことには目をつぶらねばならないというのは鑑賞者の心構えとして

初歩だよワトスン君。




すみません。
言ってみたかっただけです。

『奇岩城』でのホームズ先生の扱い
アルセーヌ・ルパンものの最高傑作とも称される『奇岩城』、もちろんモーリス・ルブランの手になる作品ですが、「ホームズ」が登場します。ラストではルパンをかばって飛び出したルパンの(この話での)妻を射殺したあげく、逆上したルパンに首を締められて抵抗もできずじたばた、という醜態をさらします。原作ではシャーロック.ホームズSherlock Holmesのアナグラムであるエルロック・ショルメHerlock Sholmèsという名前で(あからさまにホームズのパロディと分かるとはいえ)いちおう別人ということになっているようですが、日本語版ではシャーロック・ホームズと訳されています。ワタクシがかつて読んだ『奇岩城』の挿絵には、ご丁寧にも鹿撃ち帽をかぶった鷲鼻の人物が、女を撃っちゃってああしまった!てな顔で描かれておりました。



たこのひ

2009-07-02 | Weblog
本日は
たこの日なんだそうでございます。
半夏生という節句で、たこを食べる日だからなんだとか。

というわけで
のろもたこを買ってみました。



うそです。
いすです。



空気圧で高さが調節できるやつでございます。
これでのろも電話帳や新聞の束で座高を調節する日々からおさらばでございます。やったあ。
組み立て前のたこ足の上にはもちろん乗ってみましたが、残念ながらたいして面白くはありませんでした。

ちなみにたこの消費量は日本が世界一なのだそうで。
さらに関西のたこ消費量は関東のそれの二倍ということでございます。
たこ焼き文化の盛んなることから見ても、おそらく大阪が世界一のたこ消費都市であると考えて間違いはございますまい。
そういえばいつぞやディスカウントストアか何かのちらしで、電気たこ焼き器のかたわらに「おひとり様一台かぎり」という注意書きがしてあるのを見て、のろは「何台も買おうとする人がいるのか...(さすがはたこ焼き文化圏だなあ)」と思ったものでございますが、考えてみればこりゃ単に転売防止のための措置でございますね。