のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

重吉忌

2008-10-26 | 
ひかる人

わたしをぬぐうてしまい
そこのところへひかるような人をたたせたい



本日は
八木重吉の命日でございます。
初めての詩集『秋の瞳(ひとみ)』が出版されたのは1925年。
その翌年、結核のため29歳で亡くなりました。
2冊目の詩集『貧しき信徒』が出版されたのは翌年の2月のことでございました。


鉛と ちょうちょ

鉛のなかを
ちょうちょが とんでゆく



のろが参加しておりますNPO法人 書物の歴史と保存修復に関する研究会では、一年おきに会員の作品などによる展覧会を催しております。
前回までは冊数制限がございませんでしたが、今回は1人1冊のみと決められております。
のろは『秋の瞳』と『貧しき信徒』の消しゴム活字本を1冊にまとめて出品することにいたしました。
文字およびカットを全て手製消しゴムハンコで制作いたしましたので、なにしろ時間がかかりました。
去年の年末から制作し始めたとはいえ、今年10月なかばの〆切に果たして間に合うか不安でございましたが、幸い無事期限内に提出することができました。

制作風景。




完成品の写真も撮っておいたのでございますが、どうやら誤って消去してしまったようでございます。
何をしているんだか。
展覧会についてはまた追って取り上げさせていただきたく。









untitled

2008-10-26 | Weblog
つまるところわたくしはただただ免罪符と目くらましが欲しいのであって、それだけを、といってさして熱心にでもなく、乞い求めているうちに一生が終わるのでしょうな。

ファンファーレ・チォカーリア

2008-10-19 | 音楽
愛するノー・スモーキング・オーケストラの面々が今年6月に来日すると知ったとき、のろは成層圏まで飛び上がらんばかりに喜びました。
しかし結局のところ、のろは行けなかったのでございますよ、東京で行われた彼らのライブに。
今となってみれば、やっぱり死んでも行くべきだったのにと後悔しております。
しかしこれはもう悔やんでもいたしかたのないこと。
その腹いせといっては何でございますが、びわ湖ホールにて行われたファンファーレ・チォカーリアのライヴに行ってまいりました。
席がなんと前から5列目のど真ん中。

いやっ
もう
最高。
でございました。

指に加速装置でもついてるんじゃないかと思うほどのスピードで ぶんちゃっ ぶんちゃっ ぶんちゃっ ぶんちゃっ と熱い演奏を、かなでるというよりほとばしらせ、会場を埋めた若い娘さんから白髪まじりのおっちゃんまで、熱狂の渦に巻きこんでくれたのでございました。
「世界最速のジプシーバンド」の看板に偽りなしでございます。
タラフとどっちが速いのかは存じませんが。
いや、躍りましたよ。躍りますよのろだって。
あれで躍らなきゃ無礼ってもんでございます。さもなきゃアホでござんすよ、ええ。

サックスは蛇を仕込んでるみたいな音でビラリラリ~ビラリラリ~とやってまいりますし、トランペットはバラバラバラバラバラバラバラバラと豪雨のごとく叩き付けてまいりますし、一番後ろではチューバやらホルンやらを抱えた、クラフトワークのごとく不動の4人が ぶんちゃっ ぶんちゃっ ぶんちゃっ ぶんちゃっ とやっておりまして、その間からビヤ樽状のオヤジ2人のパーカッションがやってまいりまして

だかだかだったん だかだかだったん だかだかだったん 
ぶかぶかぶんぶん
だかだかだったん だかだかだったん だかだんっ
いえ`~~~~い!!

と、
つまりこういうこと ↓ でございます。

FANFARE CIOCARLIA DVD "Gypsy Brass Legends"
メジャーな曲も。
コーヒールンバ
Born to be wild

クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』のサントラからも2曲演奏されてヤッホーなのろではございましたが、何たって嬉しかったのはノー・スモーキング・オーケストラの持ち歌である「Bubamara」の演奏ございますねえ。
ノー・スモーキング・オーケストラの演奏はこちら。↓映像はクストリッツァ監督の『黒猫・白猫』でございます。

Bubamara - Goran Bregovic

アンコールの後も鳴り止まぬ拍手に応えて、客席の間を通って退場...と思いきや、会場の外でもまた演奏!
こちらは路上ライヴのノリらしく、帽子を逆さにしたメンバーが回っていらしたので1000円提供。
貰ったお札をおでこに貼付けて演奏してらっしゃいました。
帰りにはやたらセクシーな女装ダンサーさん(ゲスト)によるヘナペイントコーナーがございましたので、のろも左手の甲にやっていただきました。



矢の刺さったハートマークにNのイニシャルの絵柄が「1~2週間続く」とはというのは甚だこっぱずかしいことではございますが、これもノリというもの。やっとかなきゃ損でございます。

楽しい思いをしたあとにはそれに見合う落ち込みや罪悪感がズドンとやってくるのがのろの常ではございますが、今晩はぶんちゃっぶんちゃっだかだかだったんいぇ~いのノリで、きっと夢見もいいことでございましょう。

『アーツ&クラフツ』展

2008-10-16 | 展覧会
生活と芸術 アーツ&クラフツ展 ウィリアム・モリスから民芸まで  へ行ってまいりました。

アーツ&クラフツのものがほとんどかと思いきや、運動に理念的な影響を受けたとされる中欧や北欧、そして日本の民芸運動の工芸品などもたくさん展示されておりまして、面白うございました。
ただその分、アーツ&クラフツの名の下にいろいろなものをまとめすぎと申しましょうか、ちと散漫な印象がないでもございませんでした。
アーツ&クラフツが広くおよぼした影響というのが、デザイン面ではなくむしろ思想的な面においてでございましたので、展示品からは直接その影響が読み取りづらいという難点があったかなと。まあ逆に考えれば、これまで個々の潮流として見ていたウィーン分離派や日本の民芸運動といったものを、同じ理念を受け継いだ美術活動として見る機会をいただいた、と申せましょう。

その理念とはひと言で申せば「アンチ産業革命」。
即ち、品質的にもデザイン的にも粗悪な工業品の大量流通に意を唱えたわけでございます。
生活と芸術の一致、自然・農村への回帰、職人技の尊重といったアーツ&クラフツの精神はしかし、ドイツ、オーストリア、中欧諸国に日本と、それぞれの土地においてこれでもかとばかり異なったデザインのうちに見いだされておりました。
ウィリアム・モリスの壁紙とコロマン・モーザーの椅子とスラヴ感満載なロシアの工芸品、それに棟方志功の版画が同じ展覧会場で見られるというのはなかなか珍しい体験ではないかと。

そう、あったのでございますよ、ウィーン分離派の展示も。
分離派バンザイなのろは大喜びでございました。
展示されているものは、おそらく全て去年サントリーミュージアムで開催された『20世紀の夢ーモダン・デザイン再訪』展にも出ていたものでございましたが、いいものは何度見てもいいもんでございます。
オットー・ヴァーグナーの家具、ヨーゼフ・ホフマンの花入れ、ウィーン工房の拝みたくなるほどカッコイイ葉書や封筒。




まあそんなわけで、ウィリアム・モリスの空間恐怖的なデザインが苦手な方でも、何かかにか楽しめるものがある展覧会になっております。
植物の図案化については大いに勉強になりますし、時代の気運と申しましょうか、各地での盛り上がりといったものも感じられ、振り返ってみればなかなかいい展覧会でございました。



『落下の王国』3

2008-10-10 | 映画
*** 今回はネタバレ話でございます。主にラストに触れておりますので、未見のかたはできればお読みになりませんよう ***




ロイが語る、6人の男の物語。
主人公である仮面の黒盗賊は、初めはアレクサンドリアの亡くなった父の姿で現れますが、物語が進み、中盤でいよいよ仮面を取るとロイの顔が現れます。
ここには二重の意味がございます。アレクサンドリアの側から見れば、彼女にとってロイが、父と同じように特別な人になったということ。そしてロイの側から見れば、アレクサンドリアの気を引くために思いつきで始めた物語、いわば他者の物語だったものが、ロイ自身の物語になったということ。
それ故、語りはじめた頃のロイはアレクサンドリアの興味に合わせて話を作っておりましたが、終盤になると、登場人物を殺さないでという彼女の頼みを振り切って「僕の物語」を語り続けるのでございます。仲間が1人また1人と死んでいき、最後に残された黒盗賊は、いつしか「娘」として物語の中に入り込んだアレクサンドリアを伴って総督オウディアス-----ロイから恋人を奪ったハンサムな主演俳優-----の前に立ちます。

この時ロイは、黒盗賊を殺してしまうつもりだったのでございましょう。
物語の中の黒盗賊は、カッコつけてはいても実は嘘つきのいくじなしで、恋人をオウディアスに奪われたダメな男であるばかりでなく、いたいけな「娘」を物語に深入りさせ、危険な所の中枢までつれて来てしまったエゴ走った男、まさにロイ自身なのですから。
自分のエゴのせいで無邪気なアレクサンドリアの心身を傷つけてしまったロイは自己嫌悪のどん底に陥っています。
現実の自殺には失敗したものの、いや失敗したからこそ、せめて自分の分身である黒盗賊にとびきり惨めで、ぶざまな死を与えるつもりだったのでございましょう。そしてこの時点ではやっぱりまだ自殺を決行するつもりだったのかもしれません。
オウディアスにボコボコに殴られた黒盗賊はなすすべもなく水に沈んで行きます。
鉄橋からはるか下の川へと落下して半身不随になったロイのように。そして絶望の淵に沈んで行くロイの心のように。
分身を殺そうとするロイに必死で抗議するアレクサンドリア。
物語を介して築かれて来た2人の関係が、この時はじめてはっきりと言葉で表現されます。

--盗賊を殺さないで。娘が悲しむわ
--2人は親子じゃない
--でも彼を愛してるのに
--これは僕の物語だ
--2人のよ

ロイはほとんど流すようにしか聞いていなかったことでございますが、アレクサンドリアはアメリカに移住して来る以前、馬泥棒によって父を殺され、家を焼かれるという辛い体験をしております。彼女はロイの物語をただお話として楽しむだけでなく、語り部ロイと黒盗賊を通じて亡き父に会っていたのでございます。即ちロイ/黒盗賊の死はアレクサンドリアにとって、愛する父の二度目の死を意味するのでございます。



これまでアレクサンドリアの流す涙にも、彼女の喪失体験にも全く関心を寄せずにいたロイ。医師や俳優仲間の励ましにも耳を貸さず、自分の不幸ばかりを拡大して見ていたロイは、どんなにさとされても自らの視野の狭さに気付くことがございませんでした。いつしか自分の物語/人生にアレクサンドリアを深く巻き込み、彼女にとってかけがえのない存在になっていることにも気付かきませんでした。物語を仲立ちとした象徴的な会話によってようやくロイは、彼の物語-----彼の人生と死と喪失の象徴-----が決して彼一人のものではないことに気付かされるのでございます。愛する人を失うという傷みが、彼だけに課された重荷ではないということにも。

もしもロイが他人のことなど全く意に介さず、どこまで行っても自分しか見えない人物であったとしたら、「物語」はここで終わりを迎えていたことでございましょう。
幸い、そうはなりませんでした。
あわや溺死とも思われた黒盗賊は水底から猛然と立ち上がり、オウディアスの顔に正面からパンチをお見舞いします。
たった一発、それで充分。「愛と復讐の壮大な叙事詩」の幕切れにしてはいやにアッサリとしておりますが、「復讐」という名の、自分の受けた傷に拘泥する行為はもはやロイの物語のテーマではないのでございます。今やロイにとって大事なことは、彼自身が(この時点では心理的に)自分の力で立ち上がり、彼を愛する娘/アレクサンドリアを安心させてやることでございます。
この直後、ハートのペンダントを投げ捨てるシーンは、ロイの物語で初めて「落下」が肯定的なイメージを持って語られた場面でございます。この時ロイは失った恋人への未練を、そしておそらく、自殺によって恋人と彼女を奪った俳優に復讐してやろうといういじけた心も、すっぱりと投げ捨てることができたのでございましょう。

物語ること、物語を共有することによっていわば「自分の足で立つ」心的な力を取り戻したロイ。のちに彼が身体的にも回復したことが、オレンジ農園のアレクサンドリアによって語られます。
アレクサンドリアはもうロイに会うことはございませんが、映画のスクリーンを通して彼を発見します。

ワタクシは初め、この作品の舞台が映画草創期である1915年のアメリカに設定されている意味がいまいち納得できませんでした。物語ることの双方向性とその力を表現するのがテーマなら、わざわざ時代を100年近くも昔に設定する必要はないと思ったからでございます。ラストシーンに至ってようやく分かったのでございますが、本作は語りと映像によって構成されたファンタジー、即ち映画というものへの讃歌でもあったのでございます。

アレクサンドリアはロイの語るファンタジーの中に父や身近な人々の姿を見いだしたように、映画というファンタジーの中にロイの姿を見いだします。ロイを見分ける記号、それは誰も真似できないようなすごいスタントをこなしていること。走り、飛び、何よりも、「落ちる」こと!
私達が映画という素敵な嘘においてスーパーマンやバットマンやブッチとサンダンスといったヒーローに出会うのと同様、アレクサンドリアはスクリーン上で、ロイという彼女だけのヒーローと出会っております。時計からぶら下がるロイドも給水塔から落っこちるキートンも、アレクサンドリアにとってはロイ・ザ・ヒーローなのでございます。

めくるめく映像美によって落下を描いて来たこの作品の最後を締めくくるのは、壮麗な宮殿でも息をのむ絶景でもなく、白黒サイレント映画を飾った数々のスタントシーン。何度も繰り返された落下のイメージが、まさか『恋愛三代記』(この邦題なんとかならないものか)の、両手で投げキッスをしながら落ちて行くキートンにつながるとは思ってもみませんでしたが、嬉しい驚きでございました。
私達が人生を投影し、泣き、笑い、時には生きる力さえ貰う「物語」への愛とリスペクトが詰まった本作。「映像美だけの作品」と称されるのはあまりにも勿体ないことでございます。監督は私財を投じて制作なさったということでございますので、しっかり資金が回収されて次回作へのはずみともなってほしいものと、心から願わずにはいられません。



『落下の王国』2

2008-10-06 | 映画
橋から落ちる。
窓から落ちる。
オレンジの木から落ちる。

棚から落ちる。
塔から落ちる。
宮殿のてっぺんから落ちる。

手紙が落ちる。
入れ歯が落ちる。
美しい妻が落ちる。

『落下の王国』にはそのタイトルどおり、落下のイメージが散りばめられております。
そも、お話は、鉄橋からの落下スタントのせいで半身不随になっている駆け出しのスタントマン、ロイと、オレンジの木から落ちて腕を折った5歳の少女、アレクサンドリアが病院で出会うことから始まるんでございます。

時は映画草創期、1915年のロサンゼルス。
下半身不随になった上に恋人を主演俳優に奪われ、失意のどん底のロイ。生きる気力もないまま窓際のベッドに横たわっている彼のもとへ、ある晴れた日、奇妙な手紙が落ちて来ます。手紙の主は上の階に入院しているインド移民の少女、アレクサンドリア。
かたことの英語を話すアレクサンドリアは、仲良しの看護婦に宛てたはずの手紙を勝手に読んでいるロイに腹を立てますが、ロイが即興で紡いでみせる物語にたちまち惹き付けられます。病室にしげしげ通うようになったアレクサンドリアに、ある日ロイはこう持ちかけます。
「眠くて続きが話せないよ。夜よく眠れないんだ。薬剤室に行って、眠るための薬を取って来てくれないか」.....

鉄橋からの落下によって恋人と身体の自由とを一度に失ったロイは人生に絶望しています。ロイにとって落下は即ち絶望のイメージであり、必然的に彼が語る物語にも悲しい「落下」が繰り返し現れます。しかしその「愛と復讐の壮大な叙事詩」はアレクサンドリアの想像を通じて、目もくらむほどの美しさをもってスクリーンの上に展開されるのでございます。



珊瑚礁の海を泳ぐ象。
青い街に取り囲まれた壮麗な宮殿。
紺碧の空の下、激しく炎を上げて燃える一本の樹。
4年の歳月をかけ20カ国以上で撮影された、この世のものとも思われない風景。
その中を不思議な衣装をまとった6人の男たちが、駆け、たたずみ、剣を振るい、叫び、微笑み、落下します。
公式サイトのフォトギャラリーを御参照ください)
この夢のような映像だけでも、劇場に足を運ぶ価値がございます。

映像美だけではなく、ファンタジーを通じて現実を乗り切る、というのろごのみのテーマも単純ながらきちんと描かれておりまして、話としても上出来と言ってよろしいのではないかと。もっとも、全然きちんと描かれちゃいないぞと思ったかたもおいでのようなので、貴方がどうお感じんなるか保証はできませんが。
どちらかというと「観客に預ける」タイプの作品ではございますが、例えばタルコフスキーのように観賞後じっくりと考えこむことを要請するほどではなく、はたまた『クリムト』のように監督が凝りに凝った(のであろう)耽美映像をただただ流して90分終了、というものではなく、語りすぎないエンターテイメントとして丁度いいさじ具合であったと思います。
しかもじっくり考えるといっそう味わい深い作品でございます。
それについては次回に語らせていただきたく。

のろは5歳のアレクサンドリアと一緒に時にわくわくと、時にうっとりと、ロイの語るおとぎ話の世界に耽溺いたしました。一方で、はたしてロイは絶望の淵から抜け出すことができるのだろうか、自殺してしまうのではないかとはらはらしながら。
そして終盤では例によって涙と鼻水にまみれ、ラストシークエンスでは監督の映画愛をひしひしと感じ、暖かく満ち足りた思いに満たされて劇場をあとにしたのでございました。


次回はちとネタバレ話をさせていただこうと思います。

『落下の王国』

2008-10-02 | 映画
タイトルだけで「観よう」と決めた作品なんてめったにございません。
この作品が初めてであったかもしれません。
現代は単に「落下」(The Fall)でございますから、秀逸な邦題をつけたかたに大いに感謝せねばなりますまい。

映画「落下の王国 - The Fall -」オフィシャルサイト

夢のような作品でございました。
そうそうたるロケーション、息をのむ映像美、繰り返される落下のイメージ。
絶望した青年が即興で紡ぎ出す幻想的な物語の、えも言われぬ輝き。
文字通り、鳥肌が立ちました。


後日もう少しまとまった感想を述べさせていただきたく。