のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『マン・レイ展』

2010-10-26 | 展覧会
国立国際美術館で開催中のマン・レイ展 知られざる創作の秘密へ行ってまいりました。

全体的にポートレート(肖像写真)が多かったなあという印象。オブジェやフォトグラムによるすっとぼけたシュルレアリスムの作品がもっと見られるかと期待していたワタクシには、やや肩透かしでございました。とはいえ、ピカソやコクトーやモンパルナスのキキといった名だたる人々のポートレートはその人物独特迫力や繊細さ、華やかさといったものがどんぴしゃりと捉えられておりまして、一枚一枚見ごたえがございました。
イサム・ノグチにもお目にかかれて眼福眼福。ワタクシはこの彫刻家の40代のころの風貌が大好きでございまして。ある折に、土門拳が撮影したイサムノグチのポートレートを同僚氏に示して、どうです男前でしょう、と申しましたら一言「はげてるね」と返されたわびしい思い出もございますけれども。はげがなんだい。おかげで歳取ったらバスター・キートンに似て来るんだい。

閑話休題。
ポートレートの対象はマン・レイのミューズをつとめた女性たちをはじめ、レジェ、エルンスト、パスキンやジャコメッティといった造形芸術家から、ヘミングウェイやレイモン・ラディゲなどの文学者、サティにストラヴィンスキーに、バレエ・リュス(ニジンスキーが参加していたバレエ団)のダンサーたち、そして銀幕からはエヴァ・ガードナーにイヴ・モンタンと、各界において一時代を作った人々。ああ、この人もこの人も同時代だったんだなあと思って見ますと、これはこれで感慨深いものがございます。

しかしマン・レイ本人は、実は写真家ではなく画家として認められることを切望していたとのこと。マン・レイといえばまずはフォトアーティスト、と思っておりましたので、これは意外でございました。
ご本人の意図はさておきワタクシとしては、ドローイングや絵画やリトグラフも展示されているこの展覧会で「やっぱりマン・レイは写真とオブジェだわな」という思いを新たにしてしまったのでございました。

オブジェで面白かったのは、代表作のひとつである『天文台の時-----恋人たち』の大空に長々と横たわる唇をそのまま立体にした作品でございます。


『天文台の時-----恋人たち』

↑の唇が金属製のオブジェになったものとご想像ください。大きさは約2.5×10cmと小さいものでございます。
黄色みをおびて鈍く光る色あいからすると真鍮製かしらん、と思ってパネルを見ましたらば、素材の説明にはただひと言「金」とだけ記されておりました。誰もが欲しがる高価な素材でもって、アクセサリーにも実用品にもならない、冷笑的な形をしたクチビルのオブジェを作るという突き抜けた無意味さには、清々しい感動を覚えずにはいられませんです。

上記のクチビルもしかり、マン・レイは気に入ったひとつのモチーフを、写真やドローイングや立体といった異なるいくつかの媒体において作品化する傾向があったようでございます。例えば螺旋形はある時はランプシェードに、ある時はイヤリングに、またある時はぜんまいやスプリングのおもちゃの姿を借りてフォトグラム作品に現れます。眼や手といった人体のパーツに関しては、単にお気に入りというよりフェティシズムの域に突入しているとお見受けしましたが。

本展には未公開の作品の他、愛用の品やフォトグラムの製作に使った小物類、また篠山紀信氏の撮影によるアトリエ風景の写真なども展示されておりますので、マン・レイのファンならいっそう楽しめるのではないかと。

アマデウスのこと

2010-10-18 | 映画
モーツァルトが「少し休もう」と言ったとき、サリエリが「私はちっとも疲れてない、続けよう」と答えますでしょう。あれ、単にモーツァルトを憔悴させるためだったのでございましょうか。それとも、目の前で生み出されていく神の音楽に夢中になるあまり、本当に相手の状態に気付かなかったのでございましょうか。普段の軽薄さのかけらもないモーツァルトと、まるで徒弟のように熱心に、従順に、モーツァルトの指示を譜面に書きつけて行くサリエリ。あの鬼気迫るシーンを見ますと、ただ単にモーツァルト憎しの感情に動かされて「続けよう」と言ったとは思われないのでございます。

というわけで
午前十時の映画祭で『アマデウス ディレクターズカット版』を観てまいりました。180分という上映時間は長いようでございますが、この素晴らしい作品に関して申せば、もっと長くてもいいくらいだとワタクシ思っております。
↓当ブログでの『アマデウス』の記事はこちら。たいしたこと書いてませんけれど。
モ忌 - のろや

ワタクシが前にこのディレクターズカット版を観たのは、みなみ会館においてでございました。老舗ミニシアターと比べるものなんでございますけれども、5年前にできたばかりのTOHOシネマズ二条はさすがに音響がよろしうございます。特に ずん ずん という低音が効いているドン・ジョヴァンニや最後のレクイエムのシーンはたいへん結構でございました。

それから臨席のお客さんがけっこう笑っていらしたのが、ワタクシには新鮮でございました。例えば、サリエリが作った歓迎の曲をモーツァルトが即興で作り替えてしまうシーンなどで。



確かにサリエリの表情といい、調子に乗りすぎなモーツァルトといい、ちゃっかり「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のフレーズが入っていることといい、改めて見るとコミカルなシーンでございますね。しかしサリエリに少なからず感情移入してしまう我が身としては、笑っていいやら悪いやらといった所。

ところでハリウッドには「F・マーリー・エイブラハム症候群」という言葉があるそうでございます。これはサリエリを演じてアカデミー主演男優賞を受賞したF・マーリー・エイブラハム同様、オスカー受賞後に映画界でのキャリアが低迷する現象を指す言葉なのだそうで。近年ではハル・ベリーやキューバ・グッディングJrあたりもこれにあたると申せましょう。そういえばキム・ベイシンガーも最近さっぱり名前を聞きませんね。ミラ・ソルヴィーノなんてどこ行っちゃったんだろう。エイドリアン・ブロディは最近.....ああ、『プレデターズ』に出てたっけ。.....ううむ。
古くはフェイ・ダナウェイも含まれるこの症候群、こうして見るとけっこう根深いものがございます。一方当のエイブラハム氏ご本人は『アマデウス』後、主に舞台俳優として活動なさっていることもあってか、映画界におけるキャリア低迷は別に気にしていらっしゃらないご様子。これまた笑っていいやら悪いやら。


『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』

2010-10-12 | 映画
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』を観てまいりました。 実話を基にした作品で、タイトル通りのスパイものでございます。スパイと言えば冷戦ってなもんで、舞台はソ連。と申しましても、西側諸国からソビエトに侵入した切れ者エージェントがあの手この手で諜報活動をする、というようなお話ではございません。主人公のグリゴリエフ大佐はKGBの重要なポストに就いているれっきとしたロシア人でございます。妻があり、息子があり、そこそこ居心地のいい家もある。そんな身でありながら、国家の機密情報を持ち出しては密かに敵国フランスの情報局へと渡すという、銃殺隊がお待ちかね級のスパイ行為を何度も遂行するのでございます。

実話に基づいているだけあって、銃撃戦もなければ変装もカーチェイスもなくひたすら書類や図面をかすめ取っては運び人に渡すというグリゴリエフのスパイ活動はいたって地味。その分、日常生活と隣り合わせになったリアルな緊迫感がございました。屋内での会話は盗聴されているのが前提、外国人やその家族には当たり前のように監視人がついて身辺を探るというとんでもない監視社会のただ中で、危険を冒して情報を流し続けるグリゴリエフ。コードネームは「フェアウェル(さらば)」。



情報を「売る」ではなく「流す」と申しました。もしもばれたら命はないというほどの危険を背負っているにもかかわらず、グリゴリエフは報酬を求めません。フランスの諜報局からいくら欲しいと尋ねられても「お前らときたらすぐ金銭の話だな」と、ここは実に共産主義国の人らしいセリフで一蹴。では、いったい何のために? 「かつてこの国は素晴らしかった。だが今では行き詰まってる。体制を変えなきゃならない」スパイでもなんでもないのにひょんな事から「運び人」になってしまったフランス人技師のピエールに、グリゴリエフは言います。「俺は間に合わないが、息子は新しい世界で生きてほしい」

その息子はといえば反抗期まっ盛りで、親爺との仲はあまりかんばしくございません。ろくに顔も合わせず、言うことなすことにつっかかり、まさに家庭内冷戦状態。それでも、日常においてはなんとか息子と仲良くやろうとし、陰では何よりも息子の将来を思って、命をかけたスパイ活動を続けるグリゴリエフとうちゃん。孤独で不器用なその姿はいじらしくもあり、また哀しくもあるのでございました。かくのごとく本作は、20世紀最大級の情報漏洩事件とも称されるグリゴリエフのスパイ活動、およびその情報を受け取る米・仏の思惑という歴史上の動きを縦糸に、グリゴリエフと家族の関係という繊細な横糸を織り交ぜながら進んでまいります。

グリゴリエフを演じるのは何とまあ、のろの大好きなエミール・クストリッツァ監督でございます。無骨を絵に描いたような風貌はもとよりもっさりしたヘアスタイルもそのままに、KGB幹部やスパイである以前に一人の不器用な父親であり、頑固なまでにロマンチストでもある男を映画初主演とは思えぬ存在感で演じております。感情を抑えた演技であっただけに、最後に息子を固く抱擁するシーンでは期せずして涙がこぼれましたですよ。ううむ渋い、渋いよカントク。しかしこの人相で『黒猫・白猫』や『ウェディングベルを鳴らせ!』のようなハッピードタバタコメディを撮ったりするんですから,人間見かけでは分からぬものでございます。



平凡な技師でありながら世界を揺るがすスパイ事件に巻き込まれて行くピエールを演じるのは、クストリッツァとは対照的にソフトな風貌のギヨーム・カネ。妻や幼い子供たちのことを思えば、危険な運び人の役割からは一刻も早く身を引きたい。その一方でグリゴリエフの人柄や真摯な思いに惹かれ、葛藤を抱きながらも最後まで協力を続ける心優しい「ど素人スパイ」を好演しております。

世界を変えるなんてたわごとだと言い、面倒に巻き込まれることを嫌がっていたピエールがしぶしぶながらも協力を続けたのは、不器用な夫/父親であるグリゴリエフという個人に対して友情めいたものを抱き、息子のためによい世界を残してやりたいという彼の願いに感じる所があったからであり、国家やイデオロギーといった大仰なもののためではございませんでした。

しかし哀しい哉、スパイ活動の突端にいる彼らの間でどんな繊細な感情の往来があったとしても、情報の受け取り手である大国のお偉いさんたちにとっては、グリゴリエフは情報源のひとつに過ぎません。さんざん利用した挙句に彼を見捨てるCIAの長官を演じるのはウィレム・般若顔・デフォー。本作にはミッテランやレーガン、ゴルビーといったまさに国を動かす大物(の、そっくりさん、もちろん)も登場いたしますが、政治というもの-------今をときめく哲学者コント=スポンヴィルが、かの明晰さで「愛や道徳とは全く別の秩序に属するもの」と論じた-------を体現しているのは、むしろこの般若デフォー長官でございましょう。

『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル著 紀伊国屋書店 2006

結局グリゴリエフは超大国の政治に利用されただけだったのでございましょうか。
いえいえそうではございません。たとえ政治の非情さに絡めとられ、歴史の狭間に消えていく運命であることを知っていたとしても、グリゴリエフはやはり同じ道を選んだことでございましょう。それが愛するもののためにできる最大のことだったからでございます。彼の潔い生き様は、劇中で度々口にする「狼の死」という詩の中で、子どもたちを逃がすために犠牲となる父狼の姿にも重なり、観客の心に深い余韻を残すのでございました。



ランプルさんのこと

2010-10-06 | 映画
先日ご紹介したランプルスティルスキンさん(映画の表記に従ってこちらの名で呼びます)、何とご自身のウェブサイトをお持ちのようです。
 


まさかねと思いつつも”rumpeldeals.com”で検索してみましたら、これが本当にあるじゃございませんか。
さっそく覗いてみると...



超悪趣味
BGMにはディスコ風にアレンジされたバッハの「小フーガト短調」が流れております。映画のサントラに使われている曲らしいのですが、いったいどんなシーンで流れるのやら、ものすごく気になる所でございます。

マイク・ミッチェル監督が言うことには、ランプルさんのキャラをひと言で表すと「宝くじで2億円当たったものの使い道がいまいち分かってない奴」なのだそうで。要するに成金でございますね。してみれば、このサイトの趣味の悪さも彼の成金テイストがいかんなく発揮された結果と申せましょう。

お買い得な冥王星の物件情報や、借金で首が回らない人向けの金策、「あなたの財産を3倍に増やす方法」などを紹介してくれるとっても楽しいサイトでございますので、ぜひ一度覗いてあちこちクリックしてみてくださいませ。何度行っても「あなたは100万人目の訪問者です!」とお祝いしてもらえますよ。
ただし冒頭にご紹介したビデオの最後にえらい速さで流れるサイト利用規約によると、閲覧者は「所持するすべての土地、金、ユニコーン、ならびに初子の所有権」をランプル側に譲渡せねばならないようでございます。実直に生きたいかたやこれからご出産のご予定があるかたは近づかない方がいいかもしれませんね。ワタクシはむしられるような財産もございませんので大いに遊ばせていただきましたとも。「ランプルとお友達になりたい?」と聞いて来たのでYESをクリックすると、ランプルさんのフェイスブック↓に飛びました。下から3番目の「億万長者も運動しなきゃね」エントリがツボ。

Rumpeldeals.com | Facebook

プロフィールより
政治傾向:マキャベリズム
趣味:お金儲け(言うまでもなく)、あとポーカーとか、賭け事全般。砂山をバギーで走り回るのも好き。
愛読書:『強欲なのはいいことだ』(もちろんおいらが書いた本)
    『内なる”やり手”を解き放て』(これもおいらが書いた本)

どうです、制作スタッフの並々ならぬ愛情を感じるではございませんか。単発悪役の分際でこんなに色々してもらえたキャラクターが今まであったかしらん。
では最後に再びランプルさんのほれぼれするような巻き舌とキュートな”怒りのウイッグ”姿をどうぞ。ゼペット爺さんを売ろうとする最低ピノキオもナイスでございます。



かわいい。かわいすぎる。しかも邪悪だ。その上お茶目だ。かてて加えて巻き舌だ。これ以上何を望んだらいいのか。
ああこうやってまた悪役に惚れてしまうのだな。




シュレックのこと

2010-10-03 | 映画
本日は
ウィリアム・スタイグの命日でございます。

誰だか知らんって。
ええ、ワタクシも存じませんでしたが、映画『シュレック』の原作となった絵本『みにくいシュレック』の作者さんでございます。2003年、95歳で老衰のため死去ということでございますから、大往生と申せましょう。

で、シュレック。
再三申しておりますように、ワタクシこのシリーズの4作目が公開されたら劇場に足を運ぶつもりではありますが、作品の出来にはいささかの不安を抱いております。ストーリーもギャグも全てにおいて薄味であった全作『シュレック3』に、少なからずがっかりさせられたからでございます。中でも最も残念だったのは悪役の物足りなさでございまして、これについては以前当ブログでくだくだ述べさせていただきました。
『シュレック3』 - のろや

エンターテイメント作品は悪役がキモでございます。
最新作でもワタクシが一番気にかけておりましたのは悪役のキャスティングでございます。今回の悪役は...



ルンペルシュティルツヒェン!おおっとこいつぁ期待できそうだ!
しかも



巻き舌!!
いいですね。くらっと来ますね。

ルンペルシュティルツヒェンという奴は要するに、ドイツ版「大工と鬼六」の鬼六でございます。
かいつまんで申しますとこんなお話。
難題を仰せつかって困っている娘が不思議な小人に助けてもらい、王様と結婚する。数年後、王子を授かった所へ小人がまた現れて、三日の間に自分の名前を当てられなかったら、あの時の代償として生まれたばかりの王子をもらって行くと告げる。八方手を尽くしても小人の名前は突き止められず、絶望する王妃。そこへ王様が外出から帰って来て、山の中で「おいらの名前はルンペルシュティルツヒェ~ン♪」と歌っている変な小人(ああ馬鹿)を見かけたと言う。さてその晩小人がやって来て、
「そんじゃ名前を当ててみな。3回だけチャンスをやるよ」
「ええと...カールかしら?」
「はい~はずれ~。あと2回」
「それなら、ハンスかしら?」
「ブッブー。あと1回ねキヒヒ」
「お前の名前はルンペルシュティルツヒェンだあ!!」
「うっきゃーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!
というわけで、ルンペルシュティルツヒェンは悔しさのあまり自分の身体を引き裂いて死んでしまいましたとさ。
めでたし、めでたし。

子供をよこせというルンペルもまあひどいのですが、わざと間違えてルンペルの期待をあおる王妃様もたいがいなご性格の持ち主ではあります。

しかしどうです、「人の苦境につけ込んで恐ろしい契約を交わす」という悪の古典ともいうべき卑劣行為を演じてくれる、とはいえちょっと間抜けなルンペルシュティルツヒェン。シュレックシリーズ最後の悪役としては大いに期待が持てるではございませんか。

ちなみに「ルンペルシュティルツヒェン」はドイツ語読みでございます。英語圏では「ランプルシュティルスキン」となるらしく、『シュレック4』ではこの名前で紹介されております。またこのルンペル氏は挿絵などによく見られる、白いあご髭を垂らした老人という従来のイメージよりも大分若作りでございます。これはおそらく、
・爺さまにすると容貌が邪悪になりすぎるおそれがある
・爺さまが王位についても「これから先ずっとこいつの天下が続く」という危機感がない(ぶっちゃけた話、数年の辛抱)
・いくら邪悪な爺さまでも、ご老体をこてんぱんに痛めつけてハッピーエンドというのは絵的によろしくない
以上の理由からかではないかと。

若作りの理由はどうあれ、トレーラーを見るかぎりではこのルンペル、憎々しい表情といい、TVショッピングさながらのソフトでうさんくさい喋り方といい、王になったとたんにロココ調の衣装に身を固めてカツラまでかぶり出す調子の良さといい、悪役として実に魅力あるキャラクターとなっております。映画よりもトレーラーの方が面白かったという現象は往々にしてあることなので期待しすぎるのは禁物とはいえ、ワタクシとしては魅力的な悪役を見かけるとワクワクせずにはいられないのでございます。
ああ楽しみだ『ルンペルシュティルツヒェン』。じゃないや『シュレック4』。