のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

ブレーキシュー交換

2011-02-22 | Weblog
「我々は充電済み、今やエネルギー満タン」って本当ですかラルフ?
でも、たとえ新譜が出ようとも来日しようとも、フローリアンはもういないのですね。
kraftwerk (Kraftwerk) on Twitter

それはさておき

愛車の無印自転車のブレーキが恐ろしい音をたてるようになりましたので、ブレーキシューを新しいものに付け替えてみました。

古いブレーキシューを外してみて驚いたことには、新品では1センチほどの厚みがあるゴム部分が、ひとつは8割がたすり切れ、もう片方は跡形もなくなっておりました。つまり金属製のリムを金属製のブレーキで押さえつけていたことに。こりゃキーキーいうわけでございます。



新品に取り替えたところ、今までの悲鳴が嘘のように止み、下り坂でも快適にしゅーーーーーっと走ることができるようになりました。やれ、ありがたい。まあ、そもそもキーキーいいはじめた時点で交換しておけば、ブレーキシューをここまですり減らすことも、金属のこすれでリムを傷つけることも、すさまじいブレーキ音で道行く人々を振り返らせることもなかったって話でございますね。
いつもいつも苦労をかけるのう、無印君。そういえば最近さっぱり遠出をしていないねえ。やっと暖かくなってきたことだし、今度の休みには大山崎山荘美術館まで行こうか。もしそれまでに用事がきれいに片付けば。いや、ブログなんぞ書いてないでまずそっちを片付けろって話でございますね。

とりあえず、気分だけでもサイクリングサイクリングヤッホーヤッホーということで。

Kraftwerk - Tour De France

『キック・アス』

2011-02-17 | 映画
去年の記事で取り上げました『キック・アス』を観てまいりました。

『Kick-Ass』のこと - のろや


うーーーー む。

公開を心待ちにしていた作品でもあり、マーク・ストロングの出演作でもありますので、大絶賛 といきたい所ではあったのですが。
残念ながら、ワタクシにはそれほど良作とは思えませんでした。期待を高くしすぎたのもマイナスに働いたのでございましょう。所々グッと来るシーンもあり、ソーターさんがイカすのは言うまでもなく、無敵の殺人少女ヒットガールは確かに可愛かったのでございますが、全体的にはいまいちスカッとしない映画でございました。

そもそも主人公は、ボンクラ高校生でも正義のヒーローになりたい!なれるさ!という思いで「キックアス」としての活動を始めたはずでございます。ひょろひょろの身体を間抜けなウェットスーツに包み、屈強なチンピラたちにこてんぱんにのされながらも「世の中の悪事を黙って見ていられるか!」と頑張る主人公は、アホだけれどもちょっとカッコよかった。
それなのに最後には、単にヒットガールの復讐、即ち私怨に基づいた報復行為に加担するだけの人物になってしまっております。しかもその際にキックアスが使っている高価な兵器は、ヒットガール&ビッグダディ親子が、密売人から強奪した大量の麻薬を安く売りさばいて得た金で購入したものなわけで...。それでいいのかキックアス??

ヒットガールとビッグダディはもとから正義のことなんかこれっぽっちも考えていないからこれでいいとして、正義のヒーローを目指していたキックアスがあっさり彼らの活動に乗っかってバリバリ殺人してしまってはいけないと思うのですよ。
そういうことが気にならないほどの、根っからのおバカ映画だったらよかったのですけれど。
実際ワタクシとしてはそういうものを期待していたのでございますが、バカ映画に分類するにしては妙にシリアスな場面やメッセージ性があったりしたために、主人公サイドによる激しい暴力を単に「痛快アクション」として見ることには抵抗を感じざるを得ませんでした。徹頭徹尾、ヒットガール&ビッグダディという狂った親子の復讐潭であったら、いっそ割り切って楽しく観ることができたかもしれません。

また悪党ダミーコ親分(←マーク・ストロング)とその手下たちもそれなりに酷いことをしてはいるものの、ヒットガール&ビッグダディ親子の暴力がそれに輪をかけて過激・残虐かつ問答無用なので、かえって彼らに虐殺される悪党どもの方に哀れを感じてしまいましたですよ。やっと銃をもらえたと喜んでいたあの間抜けなドアマンなんて、何にも悪いことしてなかったのになあ。

まあヒットガールが過激なだけに、最後にダミーコ親分が意外な身体能力の高さを発揮して、それまで無敵だったヒットガールをボコボコにぶちのめすのは、ラスボスの面目躍如で実によろしうございました。それにビシッとスーツに身を包んだマーク・ストロングがあの長い長い足で回し蹴りをかます姿を見られたのは、何はともあれ幸せなことでございました。

のろが何と言おうとも世間的にはそれなりに好評を博しているようでございますので、「カルト的名作」という位置づけで語られる作品になるのでございましょう。しかしワタクシは同監督の前作『スターダスト』の方が、サラッとしたブラックユーモアといい、ツボを抑えた無駄のない展開といい、王道ファンタジーからは半歩ほどズレた、しかし魅力のあるキャラクターたちといい、よっぽどよくできた映画だと思いますよ。


『RED』

2011-02-12 | 映画
「もし彼を悲しませたら、あなたを殺して森に埋めるわ」

「あなたを殺すわ」じゃなく「殺して森に埋めるわ」ってとこが具体的でよろしうございますね。

というわけで
ファーストデー料金でRED/レッドを観てまいりました。

設定はたいへん面白く、俳優陣は端役も含めて素晴らしく、キャラクターはそれぞれ個性的で魅力があり、最後のひねりの唐突さを除けば脚本はそれなりに(つまり、お馬鹿映画なりに)しっかりしているのに、キャッホー最高!続編楽しみ!というほどの映画にならなかったのは何故なのだろうかと、エンドロールを見ながら考え込んでしまいました。

最後まで退屈はしない代わりに、アクションにも笑いどころにもこれといって突出した所はございませんで、全体としては可もなく不可もなしといった所。
おそらく本作はギャグやアクションやストーリー云々よりも、ブタのぬいぐるみをたずさえてぼーーーと突っ立っているマルコヴィッチや、純白のドレスに身を包んでマシンガンをぶっ放すヘレン・ミレンや、しれっとして「アフリカの小国の大統領のフリ」をするモーガン・フリーマンや、出演時間は短いながらもジュディ・デンチ的存在感でくせ者を演じるアーネスト・ボーグナインや、ブルース・ウイリスしているブルース・ウイリスを楽しむ作品なのでございましょう。メインディッシュである役者とその演じるキャラクターを愛でるついでに、せっかくだから一応つけあわせのギャグやアクションも賞味しておくというのが正しい鑑賞方法なのではないかと。

実際、体にダイナマイト巻き付けて奇声をあげながら猛然とこちらに走って来るジョン・マルコヴィッチという世にも恐ろしいものを拝めただけでも1000円分の価値は充分にございましたので、その他の全てはおまけと考えてもよろしうございます。そう考えるならばかなりお得感のある作品でございました。



『特攻野郎Aチーム』のクレイジーモンキーと『ポリス・アカデミー』のタックルベリーを足した上に危険度を三倍がけぐらいにしたマーヴィン(マルコヴィッチ)がのろごのみでないわけがございません。お友達には絶対なりたくないタイプでございますけれどね、魅力的なキャラクターというのはおおかたそんなもんでございます。
撃っても撃たれても、また屈強な警備員の首元にチョップをかましてもあくまで上品なヴィクトリア(ヘレン・ミレン)も素敵だったなあ。

というわけで、もし続編が作られればマルコビッチとヘレン・ミレン観たさにいそいそ劇場に足を運んでしまいそうなワタクシではあります。しかしもう一度このキャスト、特にブルース・ウイリスを召喚する資金を回収できるほどのヒットにはならないのではないかしらん。

『ウフィツィ美術館 自画像コレクション』展2

2011-02-06 | 展覧会
1/31の続きでございます。

レンブラントと同じ並びに展示されておりますのが、オランダの巨匠と同時代を生きたイタリアの彫刻家、ベルニーニの自画像。
そう、アポロンとダフネやら聖テレサの法悦のベルニーニでございます。



ある物語の中の最も劇的な瞬間を恐るべき技術と表現力で石に刻み付け、そこに至るまでの動きとその後に続く動きをも含む、まさに今にも動き出しそうな彫刻を生み出したベルニーニ。今にも動き出しそうな柱というのは正直どうかと思いますが、その腕前は絵画においても存分に発揮されたようでございます。
乱れぎみの髪に少し開いた口もとは、鏡に向かってポーズをとって描かれた自画像というよりも、呼びかけに応じてふと顔を上げた瞬間のスナップ写真のようでございます。作業の途中で何か呼びかけられたベルニーニ、この一瞬間ののち、こちらに向かって右手を振り出しながらひと言ふた言返答して、再び視線を手元に落として仕事にとりかかる、そんな姿が容易に想像できる、と申しますか、そうした前後の動きさえも描き込まれているような気がいたしますよ。

レンブラントもベルニーニも17世紀の人でございまして、暗い背景に重厚な写実という点で共通しております。時代を下ってまいりますと、だんだん描法や様式や場面設定も変化し、芸術家の個性がより強く打ち出された作品が多くなってまいります。
なめらかスーパーリアルなアングルや独特な色使いのドニといった巨匠がいならぶ中、ワタクシにとりわけ印象深かったのは1920年に描かれた、未来派の画家ルイージ・ルッソロ35歳の自画像でございました。



全体的にくすんだ暖色を用いつつも非常に引き締まった作品でございます。
背景の黄色い色面に対応して極端な角度で落ち込む肩のラインや、やや誇張された逆三角形の頭部に、未来派印のシャープな造形センスが伺われます。右側の空間の取りようも実に結構でございますね。
背景の黄色い三角形は向かって左側の辺が外側にゆるく湾曲して、画家の耳と後頭部をなぞったのちに上着の襟のラインへと自然に繋がっております。三角形という幾何学的な形と半ば融合した格好の画家は、眉間にぐぐっと皺のよった厳しい目つきで、鑑賞者と視線を合わせることなく斜め下方を見やっており、その点でも自画像としては異彩を放っておりました。
顔の描写がいたって写実的であるのに対して、顔の横にぶら下がるように描かれたシルエットは漫画的なほどに様式化されており、人を食ったような印象を受けます。そういえば暗く影になっている口元も、ニヤリと笑っているように見えなくもない。色々な点で何とも鋭角的な作品ではございませんか。
ワタクシ未来派がたいして好きでもなく、したがってルッソロにも興味がなかったのでございますが、このとんがった自画像を見て少々認識を改めました。

さて20世紀も下ってまいりますと、いっそうユニークで型破りな作品が多くなってまいります。
「イメージとは何か」という真剣な問いかけのようでもあり、単にふざけているだけのようでもあるフォンタナ(額縁のように四角く囲った線の中央に「私はフォンタナio sono Fontana」と書いてあるだけ、しかも版画なので文字がひっくり返っている)や、鏡のように光沢のある素材を使って、鑑賞者の姿をも作品にとりこんでしまうものなどなど。

最後に展示されているのは草間彌生、横尾忠則、杉本博司の三氏。ワタクシ草間氏も横尾氏もいささか苦手でございますので、静謐でノスタルジックな杉本氏の作品があることにホッといたしました。
時系列に作品が並んで最後は現代美術で締めくくられるという構成の展覧会での常のごとく、今回も、ああ美術はいろいろあってこんな所までやって来たけれど、これからどこへ向かうのだろう、という期待とも不安ともつかぬ思いを抱いて展示室を後にしたのでございました。

さてウフィツィ展ということで、ミュージアムショップでは例によって美術とは全く関係のないイタリア土産なども売られておりました。普段なら素通りするところでございますが、年末年始に『魔の山』を読んでからちょっぴりイタリアづいているのろは缶入りキャンディなんぞを買ってしまいました。
スイスが舞台のドイツ文学を読んで何故イタリアづくのかということについてはまた別の機会に。



左にあるのはヨーゼフ・ボイス『帽子を被った自画像』のペーパーウエイト。白黒写真にササッとサインの入った作品はどうぞグッズにしてくれと言わんばかりのカッコよさで、実際ノートやらマグネットやら、いろんな商品に使われておりましたよ。