のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『オルセー美術館』3

2006-11-29 | 展覧会
11/28の続きでございます。

前回、マネによるベルト・モリゾの肖像画について もにゃもにゃ 語らせていただきました。
ご承知の方も多かろうとは思いますが、描かれているモリゾもまた画家でございます。
彼女の作品は1階に展示されております。
そしてモリゾを描いたモネもまた、他の画家によって描かれております。
「バティニョールのアトリエ」 これがまた凄いんでございます。
描いたのはアンリ・ファンタン・ラトゥール。バラの品種名にもなったお人でございます。

新たな絵画表現の旗手として尊敬を集めるマネと、彼のもとに集う芸術家たちを描いた集団肖像画。
描かれているメンツの詳細については、上のリンク先(絵のタイトルをクリックのこと)をご覧下さい。

ガイドブックの言葉を借りるならば「落ち着いた色調と堅牢な画面構成」。
言葉にするとなんだか地味でございますが、その見事さたるや、もう



としか言いようのないものでございます。
衣擦れの音や、コツコツと静かな靴音までも聞こえてきそうな描写力。
マネ、モネ、ルノアール、バジール、エミール・ゾラ、(その他ややマイナーな人たち)
師であり弟子であり、友でありライバルでもある芸術家たちが醸し出す、
静かで熱い空気感が伝わってまいります。

ちなみに画面右寄りに描かれております長身の画家バジール
この作品が描かれた1870年11月28日、自ら志願して参戦した普仏戦争で亡くなりました。
享年29歳。
本展にはバジールの作品、そして無名時代のルノアールがバジールを描いた作品も出品されています。

温厚で思いやり深かったというバジールの人柄については ↓ こちらをご覧下さいませ。

名画 デスクトップ壁紙美術館  フレデリック・バジール:《 家族の集い 》


さて さて。
マネもモネもルノワールもそしてバジールも印象派さんでございます。
しかし彼らと並んで ひっそりこっそり いらっしたのがロートレック。「ポール・ルクレルク」

いやあ
一体この人の絵筆は、画布に下ろしたならばもう自動的に
モデルの性格や心理を塗り込められるように、できているんでございましょうかねえ??
もちろんそんなわきゃございませんけれども
ロートレックの他の作品同様、この絵の前に立ちますと、
実際に目の前に座っている人物からこちらを見据えられているような
居心地の悪ささえ感じるのでございますよ。

印象派の殿堂というイメージのオルセー展でロートレックに遭遇したのも意外でございましたが
もっと意外だったのは、
第5章 幻想の世界へ でお目にかかったレオン・スピリアールトでございます。
展示されているのは「月光と灯火」。上のリンク先で見られます。

月を中心にぐりぐりと渦巻く夜空
かすかに明るみながらも暗闇に消えてゆく脇道
灯火に照らされた建物も、通りから一歩離れるや、たちまち闇へと沈みます。
画面に充満するいい知れぬ不安感。

レオン・スピリアールト。
デルヴォー、アンソール、マグリット、クノップフにロップスを生んだベルギーという国の
これまた個性的にしてなにやら不穏な雰囲気を漂わせる画家のひとりでございます。
かくも人の心をざわざわさせる作品を描いた彼ですが、後年には(ムンク同様)
ずいぶん明るい絵を描くようになります。
しかしのろは、今回展示されているような、彼が結婚して幸せな家庭生活を始める以前の作品、即ち
精神をぐらつかせるような、深い闇をたたえた作品の方がだんぜん好きでございます。(ムンク同様)


この他、この最終セクションには
悪趣味スレスレの感のある作品も多々ありまして、大変面白うございました。
オルセーの懐の深さを感じさせるところでございましたよ。

『オルセー美術館展』2

2006-11-28 | 展覧会
11/26の続きでございます。

第3章 はるか彼方へ

「アルルのゴッホの寝室」「日傘を持つブルターニュの女たち」など
タイトルからして おもっきり近場じゃー とツッコミを入れたくなるところではございますが
ここでの「彼方」とは、地理的のみならず、心理的・精神的な遠方のことを指しているのだそうで。
よって、はるか東洋の美術である浮世絵からの影響や、文明に毒されていない生活へのあこがれという点で
どちらも「彼方」に目を向けた作品であると言える、というわけでございます。
ちょっ と 苦しいんですけど。

前セクション「親密な場所」では主に印象派の作品が展示されていたのに対し
こちらのセクションはポスト印象派の作品が占めております。
平面的、装飾的に処理されたモチーフや、くっきりとした輪郭、
正確な遠近法にとらわれない描き方など
印象派を脱して新たな絵画表現を模索する画家たちの型破り(当時)な作品は
ここまでの展示で写実的な表現に慣らされた目には、実に新鮮に感じられました。

絵画のほか、イスラム美術の影響を受けた工芸品や、
エジプトや中近東の風景を記録した写真もございます。
その中になぜかフローベールが写っていたりもします。

第4章 芸術家の生活 ーアトリエ・モデル・友人ー

さあ「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」、満を持しての登場でございます。
展示室の中では小さめの作品ながら、強い存在感を発しておいでなのですよ。

きらりと光る眼差しに ぐぐい ぐい ぐい と惹かれて近寄って行きますと
意外なことに、瞳にとりわけハイライトが施されているわけではないんでございます。
してみると、こころもちハスに構えたポーズや目元口元の表情、
やや逆光ぎみという難しい角度ながら的確に捉えられた微妙な陰影と光彩、
等々といったものが相まって絵姿のモリゾに生命吹き込み
のろをして彼女の瞳の輝きを想像せしめた、ということでございましょうか。

マネとほぼ同時代にあたるかのE.A.ポーの作品に、『楕円形の肖像』という小説がございます。
画家が美しい妻を、寝食を忘れ狂気のごとき熱中をもって描き
生き身そのものの素晴らしい肖像画が完成したまさにその時、彼女はこと切れた
というものでございます。
絵がモデルの魂を吸い取ってしまったということでございますね。

「すみれの~」には決してかようなおどろおどろしさはございませんけれども
この肖像を前にして、のろがかの小説を思い出したのは
魂が宿るかに見える、似姿のモリゾの生き生きした眼差しが
今まさに目の前に息づいている人間のような
きらきらしい生命感を発していたからでございましょう。

ちなみにこの肖像画を描いた3年後の1875年には、マラルメ訳・マネ挿絵による、ポーの『大鴉』が発売されました。
何と贅沢な。
売れ行きは良くなかったらしいのですが。

あと一回続きます。




ラム爺引退記念

2006-11-27 | Weblog
オルセーとは全然何の関わりもございませんが
こんな面白いものを、おお、ご紹介せずにはおられません。

米国防長官ドナルド・ラムズフェルドさよなら記念 おちょくり映像集です。
リスニングできなくても全然大丈夫です。ぜひともご覧下さいませ。

タイトルは「演壇上のキュートなラムズフェルド」

YouTube - Rumsfeld Gets Cute At The Podium (extended version)

笑いすぎてお腹痛くなりました。

『オルセー美術館展』

2006-11-26 | 展覧会
オルセー美術館展へ行って参りました。



オルセー美術館展 神戸市立博物館

のろがあんまり印象派好きではないということも手伝ってか
「這ってでも行け!」というほどのものでは、正直ございませんでしたが
それでも神戸まで足を伸ばしてよかったと思います。
意外と幅広い作品を見ることができましたし、本展で大きくフィーチャーされている
マネの「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」は、さすがにウムを言わせぬ名品でございました。

セクションは5つに分かれております。

第1章 親密な時間 は、画家が家族や近しい人々を描いた作品で構成されております。

妻に抱かれる赤ん坊(長女)を、包み込むような深い群青色で描いたドニも良い。
モノクロームに近い静謐な画面に、年老いた母の横顔を収めたホイッスラーも素晴らしい。
しかしのろが最も心魅かれたのは
8歳になるひとり息子を描いたルドンの小品、「セーラー襟のアリ・ルドン」でございました。
繊細そうな少年の横顔は
縦長の画面の中にかなり右寄りに描かれ、
こめかみのあたりで切れてしまっております。
それに対して大きく空いた左側の空間には、特に何か描かれているわけでもなく
ルドン独特の色彩が神秘的にきらめきながら空をただよっております。
肖像画としては妙な構図です。
枠の中にきっちり収める構図をルドンがあえてとらなかったのは、
ものごころつく年頃のひとり息子を、四角な空間に閉じ込めてしまうことを嫌ったからではないかと想像いたします。
左側に大きく空いた空間は、画家であり父であるルドンにはしかと見ることができない
少年自身のもの思いを含んでいるように、のろには思えるのです。

(ポストカードが(案の定)なかったので、当のろやでは画像をupできませんが
こちらのブログさん ↓ が載せておいでです。ぜひご覧くださいませ。)

Windflowers オルセー美術館展

第2章 特別な場所 

導線がもうひとつ良くない神戸市立博物館。
第2会場へは階段をちっとばかり長いこと上って行かねばなりません。
そして、とんとんとんとん上って行って最初に目に入る所に、いつもなかなかの目玉品を展示してあるのです。
「ナポレオンとヴェルサイユ」展 ↓ では、「アルコル橋のボナパルト将軍」が掲げられておりました。

のろや 2006年1月

今回は、陰影に無限の色彩を込めたかのようなモネの「ルーアン大聖堂」が迎えてくれます。
もっとも、のろはそのお向かいにあるマネの「ブーローニュ港の月光」の方が好みでございましたが。

こちら ↓ で見られます。ずーっと下までスクロールしてくださいまし。

ROSSさんの大阪ハクナマタタ オルセー美
術館展で展示された作品の作者1


月明かりに照らされた港で
畳まれた船の帆が黒々と夜空に突き刺さる下、
女たちの一団が船の帰りを待っています。
女たちの頭巾は月光をとらえて強く輝き
大きな風景の中で息づく、小さな、しかし力強い生命を代表しているようです。

軽快にして的確な筆致、みごとな白使い。
いよっ、さすがマネ御大! と声をかけたい所でございます。
御大ったって当時まだ36歳ですが。

などと申しておきながらも
当セクションで一番印象深かったのもやっぱりルドンの小品でございまして(はい、好きなのです)
「ペイルルバードの道」、上でご紹介したブログさんが、これもUPしてらっしゃいますね。

トルコ石の板ようなターコイズブルーの空に
黄金色に煙る樹木。
美しいけれども、何か心にひっかかる、奇妙なほどの静けさ。
遠い夢の中で見た風景のようです。
何の変哲もない田舎道を描きながらも、ルドンの筆は何かしら「あちら側」を感じさせずにはおきません。

そこがまたいいんだな。

次回に続きます。

怪優忌

2006-11-23 | 映画
キンスキーの命日ですって。
死ぬんですね、あんな人も。
ああ、のろがキンスキーって言ったらクラウス・キンスキーのことでございますよ、もちろん。

生涯で200本以上の映画に出演したとも言われるキンスキーですが
のろが観ましたのは、その内の9本だけでございます。

殺しが静かにやって来る (リンクできませんでしたが ↓ こちらも見てね)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/06/ae6e7f1b63dbd61bc49362e53c9fdf0f.jpg


クロールスペース
B級ホラー映画でござます。最初から最後までB級テイスト満載(笑
ひとりロシアンルーレットを繰り返すキンスキーがナイスでございます。
最低映画館~クロールスペース(CRAWLSPACE)
クロールスペース/きまぐれムービーシアター第144回


上海異人娼館 チャイナ・ドール 
寺山修司監督作品でございます。
ぼかしがいっぱい入ります。
猥雑で哀切な詩情はよろしいんでございますが、ご家族でのご鑑賞は決してお勧めいたしません。

メインはヘルツォークがらみの6作品。

アギーレ・神の怒り
フィツカラルド
ヴォイツェク
ノスフェラトゥ
コブラ・ヴェルデ
そして
キンスキー、我が最愛の敵






『キンスキー~』は、俳優の死後にヘルツォーク監督が製作したドキュメンタリーでございます。
本作のパンフには翻訳家の柳下毅一郎氏が、キンスキーのキンスキーたるエッセンスを
ぎうっと凝縮して見せたような名文を寄せておいでです。
ちと ご紹介いたしますと。

天上天下唯我独尊、かつて陽の下を歩いた映画俳優の中で、クラウス・キンスキーほど傲慢で、乱暴で、卑怯で、自己顕示欲が強く、人を人とも思わぬものはいない。男はぶちのめし、女は押し倒す。自分が画面の中央に映っていないカットは存在しないも同じ。当然監督の言うことなど聞きもしない。世界でいちばん偉いのはクラウス・キンスキーであり、その名は神に等しいものなのだから。金さえ積まれればどこへでも行くクラウス・キンスキーは世界中を放浪して大量に敵をこしらえ、作るのと同じ数だけ、映画を破壊し、破壊王キンスキーとして誰もが恐れるようになったのである。・・・(中略)・・・ヘルツォークとキンスキー。映画史上もっとも強烈なエゴを持つ二人は、最強コンビとして五本の映画でタッグを組むが、それは文字通り取っ組み合いの格闘でもあった。恐るべき戦いをヘルツォークの側から描いたのが『キンスキー、我が最愛の敵』である。・・・キンスキーは乱闘シーンでエキストラの頭に穴を開け、なんの理由もなくテントに向けて銃をぶっぱなす。あるいは舞台に立つと満場の観客を全て敵にまわし自分がキリストだと言い放つ。だが、その姿はどう見ても救世主ではなく悪魔のものだ。

ちなみに柳下氏は『解凍!ヘルツォーク』にも、力強くテンポのよい文体のキンスキー讃を寄せておいでです。

のろのお宝でありますこのパンフ、映画の中で監督自身が語るエピソードも載せられております。

監督談:
『アギーレ 神の怒り』の撮影作業が終わる頃、インディオの人たちが私のために、キンスキーを殺そうかと申し出て来たことがありました。その時、私は「とんでもない。私にはまだ撮影に彼が必要なんだ。彼を私に残してほしい」と、その申し出を断ったのですが、彼らは真剣でした。もし、私が望んだら、彼らはキンスキーを殺していたでしょう

私とキンスキーは一緒にいると危険でした。私はただ怒りっぽかっただけで正気だったと思いますが、彼を急襲し、家に放火することを本気で考えたことがあります。当時、彼の飼っていたシェパードがたいへん用心深かったお陰で、実現できませんでしたが。そう言いながら、私達はしかるべき瞬間には、いつもお互いを探し求めていたのです

私は白髪の1本、1本にキンスキーと名付けています


キンスキーとヘルツォークについてはこちらさま ↓ もご覧下さい。
写真も沢山。
━ヴェルナー・ヘルツォークの世界 - 『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど” - 楽天ブログ(Blog)


『キンスキー~』が公開された折、関西のミニシアターではヘルツォーク作品の特集上映が催されました。
題して「ヘルツォークに狂う」。
その時のチラシが ↓ これです。



実に素晴らしいチラシでございますね。
枕の下に入れたいくらいです。
マリオ髭をたくわえたの監督の首を、今まさに切り落とさんとしているのはキンスキーです、もちろん。


そんなわけで
殺しても死にそうにないキンスキーの、今日は命日です。

お近づきになりたいかと問われれば
ウ~ン と深く考え込まざるをえませんが
この人もういないのか、と思うと
なんとも寂しうございます。


赤壁

2006-11-20 | Weblog
本日は 赤壁の戦い の日です。

まあ旧暦で、ではございますが
吉川英治の『三国志』に影響されて東洋史を専攻したのろとしては
1800年前の長江河岸に遠く思いを馳せたい所なんでございます。

吹けよ東風!
燃えよ軍船!
逃げろ曹操!

ふうむ
とまあ こんなわけで
何故、戦争というものは
時を経るとロマンチシズムと結びついてしまうのでしょうか。


歴史は
泥にまみれて死んでいった一兵卒の視点で書かれることはありません。
◯◯村の1人の若者の死は、それがどんなに悲惨な死に方であろうと
史書に取り上げられる際にはただの数字になってしまいます。
その若者がどんなにいいやつだったとしても
彼の両親や恋人が、どんなに彼の死を悼もうとも
そんなことは大文字の「歴史」には絶対に表れません。

史家は 時の重要人物プラスその他大勢 という視点で記述せざるを得ないのですが
その際、戦争の個別的・具体的な悲惨さは
死んでいった数知れぬ一兵卒の名前と共に、切り捨てられてしまいます。
戦争を、史書を編むにあたって切り捨てられた無数の惨事に思いを致さずに見るならば
それは容易に 英雄譚 になり得てしまいます。
英雄寄りの視点で歴史を、戦争を、読むならば
泥にまみれた死体も
女たちの悲鳴も
叙事詩に添えられた色どりになってしまいます。
「名誉の戦死」などという馬鹿げた言葉も、こうした視点から出て来るのではないでしょうか。

実際の所
赤壁も、テルモピュライも、トラファルガー
大いにロマンチシズムをかき立てます。
白状すれば、冒頭に示しましたとおりのろ自身、戦乱をめぐる史話が大好きです。
しかし戦争を何かロマンチックな思いで眺める時、その視点は
ハリウッド産のパニック映画を見るときのそれと
大変似た位置にあるということを
自覚せねばなりません。
即ち、恐ろしい話だけれども自分とは現実的に関わりがないものである。
大勢の死もエンターテイメント効果のひとつであって
何が起ころうとも最重要人物は生き延びるはず、もしくは
皆(=映画の登場人物たち、あるいは見ている観客たち)に惜しまれながら、英雄的に死を迎えるはずである。
私達は安心してこの壮大な物語を受け取り、感慨にふければいい。
と いう視点です。

過去を物語として、楽しみとして眺める際には、これでもよかろうと思います。
しかし、歴史として見るにあたっては採用してはならない視点です。

この世にはいまだに、戦争をしたがる人間が存在しておりますが
彼らは「英雄」の視点から、あるいは「観客」の視点からしか歴史を見ていないということに
全く無自覚なのではないでしょうか。
さもなくば、歴史が何のためにあるのか、全く知らないかです。

これからも歴史/戦争は「重要人物プラスその他大勢」方式で書かれることでしょう。
しかし「一兵卒の戦争」に思いを致すことに
人類はもうそろそろ、軸足を置くべきではないか?
と のろは思うのですが
どう思います?
孔明さん。


爆笑三国志 1991 光栄 Illustration;唐沢なをき 

話 聞いてないっスね。




ノミ速報2

2006-11-19 | KLAUS NOMI
すみません。
おっしゃるとおりです。最近いやに ノミ話率 が高くなっております。
さは さりながら さりながら
やっぱり黙っていられないので
小声でご報告いたします。

Youtube に「Three Wishes」のライヴ映像が追加されました。

YouTube - Klaus Nomi - Three Wishes


おそらく「After The Fall」と同じ時の映像でございましょうね。

いやあCDでさんざん聴いている曲ではございますが
実際にあの人物からあの声が出て来るのを目の当たりにすると、アゼンといたします。
「Pose Will Decide・・・・」の長々とした発声の、何と美しいこと。

それにしても
ほかのライヴ映像を見てもつくづく思うことですが
この人、歌っていないときは何だってこうも所在無さげなんでございましょう。
すぐ、下を向いてしまうのですよ。
神経質にマイクを触ったりしてね。
所在無さげで、いかにもナーバスな感じがいたしますよ・・。


『王と鳥』

2006-11-18 | 映画
ご報告が遅くなりましたが『王と鳥』を見てまいりました。

あらすじは公式サイトを見ていただくとして。

映画「王と鳥」公式サイト

細やかな動き、セル画アニメーションならではの手作り感、そして音楽が大変、大変よろしうございましたねえ。
王 と 鳥、というよりも王 V.S 鳥でございまして
この対決がそのまま 圧政者の暴君 V.S 自由を求める者 を象徴しております。

そもそも悪役大好きののろは、暴君だろうと何だろうと
容姿にコンプレックスを抱えた孤独な王様がかあいそうでならず
彼を何らかのかたちで取り込んだハッピーエンドであってほしい、と願っておりました。

結局王様は、最後までワルモノとしての使命をまっとうして、ワルモノらしく立派に去って行かれたのでした。
ああ、かあいそうな王様。


王が 悪 なら、王に追われる恋人2人を全面的にサポートする鳥は 善 なのか、といいますと
これが単純にそうとは言い切れないんでございます。
鳥は自由で機知に富んだトリックスターであり、口のうまい扇動者でもあります。
鳥の、権力を向こうに回しての立ち回りは実に痛快なのですが
個々の行動には「それでいいのかな?」と、見る者にフと不安を抱かせる側面もあります。

では恋する若者たちはどうかというと、これはただただ恋しているだけであって
性格的な特徴はほとんど描かれません。
悪 ではないけれども、とりわけ 善 を担っているわけでもないんでございます。

これに対して明らかに 悪 である王様は、より目でちんちくりんの容貌にひどくコンプレックスを持っていたり
羊飼いの娘をいかにも愛おしげに眺めたり
子犬なんかをかわいがっていたりと
意外と人間的でございまして、
実は本作の中で最も深みのあるキャラクターとなっております。
ちなみに、あんな顔ですが動きはエレガントです。そこは王様ですから。

明らかに悪であるキャラクターは愛すべき側面を持っている一方
王に嫉妬され追われる若者たちにはこれといった性格付けがなく
明確に善を象徴する、いわば絶対善のキャラクターは、そもそも存在しない。

魅力的で善なる主人公が、無人格で非情な悪者をやっつける、という
いわゆる勧善懲悪型のお話とは逆のかたちとなっておりますね。
そう、本当は「悪役」ってものは、悩んだり、人を愛したりしちゃいけないんでございます。
そうしたらやっつけにくくなってしまいますからね。
やっつけたい相手は 悪 の 枢 軸 でなくっちゃ、都合が悪いってわけでございます。 

こんなわけでいわゆる「善玉」は存在しないのですが
のろが 美しいな と思った人物が1人おりまして
予告編にはチラッと姿を見せるだけの、盲目の手回しオルガン弾きでございます。
この人物は空も太陽も見えない最下層の街に暮らしながらも
いつか「鳥たち」がやって来て、人々に自由がもたらされるという言い伝えを信じております。
街に迷い込んだ若者2人が、この世には太陽や月や鳥が本当に存在することを街の住人たちに教えてやると
オルガン弾きは------彼自身は何も「見る」ことはできないにも関わらす------、
「いい伝えは本当だったんだ、何もかも見ることが出来るんだ!」と大喜びするのです。

象徴性に富む本作において、オルガン弾きは
希望と芸術の力を象徴するキャラクターであるように、のろには思われました。
もっとも見方によっては、何の根拠もない言い伝えを「盲目的に」信じたり
扇動者の導きに「盲目的に」従ってしまう人間の象徴と考えることもできるのですが。

最後に。
「こういう絵はちょっとな・・・」とお思いのアナタ。
お気持ちはわかります、のろも絵だけ見たときは、正直「引き」ました。
しかしどうぞ一度、予告編で動く画像をご覧くださいまし。
きっとお考えが変わりますとも。
「劇場用予告編」と「公式サイト限定予告編」がございますが
「公式サイト限定」のほうをお勧めいたします。
最後に出て来る王様の表情がね、とっ てもいいんでございます。

いじめ 自殺

2006-11-15 | Weblog
いじめと自殺をめぐって様々な言説が飛び交っております。
のろも ふたこと みこと 思う所をつぶやきたく。

いじめに苦しんだ少年や少女の自殺が伝えられるたびに
「全校集会を開き、子供たちに 命の大切さ を訴えた」だの
「子供たちに 命の大切さ を教えていかなければならない」などという文句がニュースに流れますが
私はこういう文句を耳にするたびに腹立たしくなります。
自殺した若者をバカにしているのではないかとさえ思います。
自死を選んだ少年や少女たちは、命を大切にしなかったから死んだのではありません。
リセットして次の人生を生きればいい、という軽い思いで死んだのでは断じてありません。
彼らが死へと向かったのは
いじめという地獄から抜け出す出口が、そこにしか見いだせなかったからです。

全校生徒に向かって「命を大切にしよう」と呼びかけることなど
いじめる側にとっても、いじめられる側にとっても、ほとんど何の意味もなさないのではないかと思います。

いじめる側にとって、彼らの行為は「命」とは全く何の関わりもありません。
なぜならいじめる側は、別に相手を殺したくていじめるのではないからです。
ある人をバイ菌扱いし、人々の前で堂々と罵倒し、笑い者にし、あるいは徹底的に無視しても
それが相手を死の淵へと追いやる行為、即ち相手の「命」を軽視する行為だとは
いじめる側は、おそらく露ほども自覚していません。
これらの行為は彼らにとってアミューズメントであり、日々の不満のはけ口であり、
より消極的には「自分はいじめられっ子ではない(=より大きなグループの方に所属して、存在が承認されている)」
ということを自他において確認するための踏み絵です。

いじめる側の彼らは全校集会で、校長先生の話を神妙な気持ちで聞くかもしれない。
「そうだ、命というのは大切なものなんだ」と思うかもしれない。
しかしその認識は、彼らの「いじめ」というアミューズメントを止める理由にはならないでしょう。
彼らにしてみれば ウザイやつをおちょくる という日々のちょっとした娯楽と
校長先生のおっしゃる「大切な命」との間には
何の関連性もないのですから。

他方、いじめられる側にとって
「命は大切」という甚だ概念的な言葉は
現実として目の前を覆っている絶望を払拭する手助けにはなりません。

「君がこの世に生まれるためには何万というご先祖様が云々」
「君の命はこの宇宙にたった1つしかない云々」
「君をここまで育ててくれたお父さんお母さん」
こういった文言を聞いて
「ようし、そうだ、たとえ皆からバイ菌扱いされて、親も先生も誰も助けてくれなくて、これからもずっとお金をまきあげられたり、ウザイとかキモイとか言われ続けるとしても、僕は頑張って生きていくぞ。だって僕の命はこの宇宙にたった1つしかない、大切なものなんだから」
などと考え、実際にそうできるるのは、神がかり的に強い精神の持ち主だけではないでしょうか。

むしろ学校や教育関係者、ひいては社会全体が訴えるべきことは
「いじめ」というものが、いかに卑劣で、醜い、人間として恥ずべき行為か、ということです。

人を屈辱的な言葉で罵倒すること。
弱者を標的にして、笑い者にしたり身体的/精神的暴力を振るうこと。
ある人の、大多数の他人とは異なる点をあげつらって
バカにすること。

全校集会で訴えられるべきは、「命の大切さ」というつかみ所のない話よりも
こうしたいじめ行為が
人間として 本 当 に 恥 ず べ き 行 為 だ、ということです。

TVの中で、人気者のタレントたちがどんなに面白おかしく演じてみせようとも
あるいは、先生を含めたクラスの有力者がどんなに熱心に、または当たり前のように
その行為に及んでいようとも。

自分のしていることがいかに卑劣で醜悪なことか気付かぬ限り
いじめる者はあくまでも無自覚に、弱者である他人の生存権を踏みにじり続けるでしょう。
いじめる者に対しては、その行為の醜悪さの自覚を促すメッセージが発せられるべきです。

そしていじめられる者に対して発せられるべきメッセージは、決して
「命は大事なものだから死なないで = いじめられても、つらくても頑張って」というものではなく
「あなたは不当な仕打ちを受けている。その状況は絶対に打開されるべきものであり、
社会はあなたに対して加えられる暴力を、断じて許さない」というものであるべきです。


残念ながら、公職にありながら臆面もなく 強者の論理 を振りかざす
現都知事のような人物(いったい何様のつもりなんでしょう)も存在しておりますが
弱者を弱者たらしめているものは、往々にして
強者の無自覚な横暴である、ということに
社会全体が意識を向けてしかるべきなのです。


『クリムト』?

2006-11-15 | 映画
映画「クリムト」公式サイト


マルコヴィッチ主演でクリムトの映画が作られるらしいと
聞き及んだのは随分以前のこと。
ハゲっぷりも似ているし適役だろう、関西でも公開されたら見に行こうか・・
ぐらいに思っておりました所
先日映画館にてチラシに遭遇いたしました。



ふうむ
残念ながら、ちよっ  と野暮ったいと申しますか、散漫なデザインのように思われるのですが・・・。
まあ、デザイナーさんに「これこれの写真を、全部、絶対に使うように」というお達しがあったのかもしれません。
それにしても、中世ゴシック体風のタイトルロゴはさっぱりクリムトらしくございませんし
せっかくクリムトなのに、もっと空間を生かしたデザインにできなかったものだろうか?
せめて背景色は黒にしてしかるべきではなかろうか?
などなど、受け取るだけの立場であるのをよいことに
色々つぶやきたくなってしまうのでございます。

さらにげんなりいたしますことには
チラシの裏面には「クリムトの作品が史上最高ウン億円でN.Yのギャラリーに売却!」などという
映画自体とは関係のないニュースが幅をきかせておりまして
作品の出来に甚だ不安を抱かしめるものになっております。

し か し。
し か し、でございますよ。
チラシ裏面に小さく並んだスチール写真に目を向けた時
のろの眼球はパグ犬もかくやとばかりに飛び出し かつ その一点に釘付けになったのでございます。



シーレ! シーレ! シーレ!

おお、この手、この目、この頭。
この姿はまぎれもなく、アート界におけるのろのヒーロー(の一人)エゴン・シーレではございませんか!!

し か も。
し か も、でございますよ。
シーレを演じているのは、かのクラウス・キンスキーの息子ニコライ・キンスキーだって話じゃございませんか!!

おお!のろよ、これを見ずして、何を見ると言うのか!!!

と いうわけでございまして
もはや作品の出来はどうでもいいモードに突入しつつも
公開を心待ちにしているのろでございます。
早く来ないかなあ、シーレ!じゃないや、『クリムト』!








豆本。

2006-11-12 | 展覧会
先日ちと触れましたオリジナル豆本『絵本西洋書物史』。
カメラ氏が入院中でございますので、スキャナで無理くり取り込みました。



実物大でございます。
豆本と申しましても、あんまり小さいと「書物」としての楽しみから遠ざかるように思いますので
この大きさに留めております。
テキストの無い、オブジェとしての豆本ならもっと小さいものも制作いたしますが。

背表紙と小口は革。
表紙に使った紙は、11/4にご紹介したものです。
緑形の色が欲しかったので、ちと手を加えました。

全小口彩色、手編み花切れ(と言っても短いですが)



中身はこんな感じで。



製造番号入り。



イラストは、黒い部分だけ倍ぐらいのサイズのゴム版で制作したのち、PCに取り込んで彩色しております。
真ん中にヴェネチアのニコラ・ジャンソンが"ROMAN”てな文字を示しているのがございますね。
ヴェネチアなのに何でローマンなのかと申しますと
ニコラ・ジャンソンはそれ以前のゴシック体活字に変えて、美しく読みやすいローマン活字を開発した人だからでございます。
彼以前にもローマン体活字は使われておりましたが、まだゴシックの趣を残しております。
詳しくは ↓ こちらを。

さまざまな活字 インキュナブラ~西洋印刷術の黎明~

サイズの割りにはちとお高めとなっておりますので
売れるのか売れないのか正直ドキドキでございます。

しおり。

2006-11-08 | 展覧会
ここしばらく
さんざん宣伝しております文庫本の改装展で販売するための
しおりを制作しておりました。

こんなかんじで。



素材は革です。模様部分は金(のようなもの)なので
反射してうまくスキャンできませんでしたが

こんなかんじで



のろ的にお気に入りなのはこちらの3点。



全28枚、ひとつひとつ違うデザインでございます。
販売用に制作したのであって、もちろん売れてほしいんではございますが
ひとたび見知らぬ人に買われて行ったなら、もう二度とのろと巡り会うことはあるまい と思うと
なかなかに寂しうございますね。
売れ残ったらそれはそれでガックリですが。

洋紙屋さん

2006-11-04 | Weblog
このところ展覧会の話題がなくて、申し訳ございません。
最近のろなりに忙しい日々が続いておりまして、美術館へ足を運ぶことができないのでございます。
長沢芦雪の大虎 ↓ にもとうとう会わずじまい。

天才と奇才の師弟 応挙と芦雪

展覧会自体は12/3まで開催中ですが、展示替えがございますので
虎氏にお目にかかれるのは今日まででございました。そしてのろは今日お仕事ときてる。嗚呼。

というわけで展覧会の話はないんでございますが
せめて先日伺った美しい洋紙屋さんをご紹介いたします。

THE WRITING SHOP


はや再来週に迫った文庫本改装展で、一昨年制作したオリジナル豆本『絵本西洋書物史』を売りに出そうと思いまして
表紙に使う装飾紙を求めて、先日初めて伺いました。
取り扱い商品についてはHPをご覧下さい。
素敵なステーショナリーやカード類もございましたが
のろが購入しましたのはこちらの紙三色。



いろいろある中から心魅かれるものを選びましたらば
「これはドイツの作家さんのもので」と御店主。 やっほう!



ナルホド。ハンブルクから来ました。

御店主は小柄で美しい女性でございまして
欧州の製本や紙の作家さんたちと直接連絡を取って買い付けをなさっているようです。
商品について、楽しそうにいろいろ説明してくださいました。


ところでくだんの豆本ですが
写真に撮ってお見せしたいのはやまやまやまなのでございますが
タイミングよくマイカメラ いくしー君 が壊れてしまいまして
現在電気屋さんに入院中なんでございます。
なんでもリコール対象品とかで。
こ こんな時に

ノミ話11

2006-11-01 | KLAUS NOMI
はや
11月でございます。
月も代わったことですし
晴れて ノミ話を。いそいそ。

いえ ね
我が親愛なる火星人 Klaus Nomi 氏、最近TVアニメに進出なさったらしのですよ。
ほらっ。

RobotSkirts Blog Archive Wiki singularity

隣にいる原人じみたひと(失敬)はイギー・ポップです。
失礼ながら、見るたびに笑ってしまいます。似てるし。いや、実物はもっと男前ですが。

The Venture Brothers というやや大人向けのアニメのようです。

上のお二人は、D.ボウイ(↓似てない)と共に、単発のキャラクターとして出演された模様。

David Bowie, Klaus Nomi, and Iggy Pop in Venture Brothers Ryan Block

Wikipediaなどにエピソードの概略が書いてありました。
即ちこのように。

悪役の「Dr. Girlfriend」 と 「The Monarch」が結婚する運びになる → 結婚の立会人をつとめるD.ボウイ(実はこの世界の統治者・・・らしい)、お供に「イギー」と「クラウス」を従えて登場 → そこへDr. Girlfriendに横恋慕するPhantom Limb(これも悪役)が現れ、結婚式を妨害。イギー&クラウスに命令すると、実はPhantom Limbの密偵だった2人はボウイを攻撃 → 控えろ裏切者め、と言うボウイに対してイギー反論「30年間お前の言うこと聞いて来たんだ、そろそろお前が俺の言うこと聞け!」具体的な数字がなんだか泣かせます。 → イギー、ボウイを1箱のタバコに変えてしまう → ノミはというと超高音ヴォイスと蝶ネクタイを武器にThe Monarchその他をやっつけて(ぐわぁ 見たい)、Dr. Girlfriendを拉致→→→中略→→→イギーが屋外でタバコを吸っていると(Phantom Limbから「外で吸え」と言われた笑)、タバコの中からボウイ出現、イギーを殴りたおす。イギー死亡 → ボウイ、イギーに姿を変えてノミに接近、ヤツの口を塞ぐ → ノミ、エネルギーを放出できなくなり、爆死。 以下略。
ふ~む。
声を出せなくなって死んじまう というのは、
なんともヤツにふさわしい死に様ではございますね・・・。

ほんの短い間、YouTubeに30秒ぐらいの動画がUPされておりましたが
著作権侵害ということで、すぐに削除されてしまいました。
しかし幸いなことに、合法的に見る方法はございます。
itunesでダウンロードできるらしいのです。

TV.com: The New Home of TV Tome

のろはipodはおろかケータイもクレジットカードも持っておりませんので
こういうサービスを利用した経験がないんでございますが
これを機会にカードを作ってしまおうと思っております次第。
いきなり海外への支払いで、うまいこといくのやら かなりドキドキでございますが
これを見ずしては死んでも死にきれませぬ故。

英語圏のブログや掲示板では、このエピソードのことでけっ こう盛り上がっているようでございます。
おかげでヤツの知名度も上がっているようでございますよ。
その盛り上がり、どうか日本にも飛び火してください。

さて、クラウス・ノミ普及委員の当方といたしましては
こうしてヤツで遊んでいただけるのは嬉しいかぎりなんでございますが
作画にひとつだけ、文句をつけたい点がございます。

眉毛が違うのです。眉毛が。
ヤツの眉毛は、 こ う です。



こ う 。






地毛ではございません。
もとの眉毛はすっかり抜きはらって、描いておいでです。



それにしても
Amazonのレヴュー ↓ にも書かれておりますが、なんとも きれいな目ではございませんか。

Amazoncojp: ノミ・ソング DVD

のろが書いたレヴューじゃございませんよ、念のため。
で、オリジナル眉毛はどんなものかと申しますと、こんなものでございます。



えー
星 飛雄馬 的 と申しましょうか、ケンシロウ的 と申しましょうか
ひと言で表すなら 濃いぃ ですね。
完全メイク時のロボット的でasexualなイメージとはうらはらな感じがいたします。
ノーメイク時の写真から察するにこのひと、実はわりと毛深いですよ。頭以外は。
失敬、しかしこの説には『完全演技者 Total Performer』の作者、山之口氏もきっと賛同してくださると思います。
小説中にそういう描写がございましたから。いえ、頭のことではなくてね。


さて。
現在、日本時間で11月1日。
即ち欧米ではまだ10月31日。
折しもハロウィンでございますね。
なんでも、死者の魂がこの世に帰って来る日なんだとか。

い~え、
そういうの信じちゃおりませんけどね。
信じちゃおりませんけど。